ひびきのさと便り



No.22 「自助自立」思想の危うさ  ('02.5.21.)

 以前、本欄のNo.14と15で、「エゴイズムの光と闇」と題して、東大教授・姜尚中(カン・サンジュン)氏が、毎日新聞の文化面「グローバリズムの光と影」に寄せた評論をご紹介し、検討しました。
 その後もこのシリーズは続き、しばらく前のことですが、4月16日からは「第2部・変わる企業社会」が始まりました。その日の第1回目は、竹中平蔵・経済財政政策担当大臣へのインタビューが掲載され、見出しは次のようになっています。

自助自立の社会こそ弱者も守られる

 これまでにも、現代社会においては「自己責任」等のことばが一種の流行語のようになっていることを紹介したり、批判的に検討したりしてきましたが、竹中氏は小泉内閣の閣僚として、「自己責任」や「自助自立」などを先頭に立って強く主張してきたことは、広く認められているところだと思います。
 今回のインタビューにおける発言も、その延長線上にあるもので、実際の言葉としては、次のように書かれています。

 日本が貧富のない社会かどうかは、専門家の間でも議論が分かれ・・・ヨーロッパの一部より、所得格差が大きいという分析もあります。一般の議論はイメージに基づいている面があり、日本は特殊な国ではないと思っています。私が考えているのは「正直者が馬鹿をみない社会」です。自助自立が民主主義社会の基盤であり、自らを助ける人が多くいればいるほどハンディを負う人や病人など真の弱者に手厚い保護ができる。「弱肉強食」とすぐレッテルを貼られてしまうのですが、それは違っています。

 竹中氏の言う「正直者」とは、いったいどのような人々を指すのでしょうか。ふだんからの発言や、このインタビューの文脈から考えますと、「やる気と能力があり、積極的な姿勢で自由競争に参加する(できる)人」、と、たとえばこのように言い換えられるように思います。竹中氏はかつて、大臣に就任する少し前に、ある週刊誌で、「競争社会では、その競争に参加するもしないも個々人の自由であり、参加したくない場合はそれでもよい。その際、不参加者は、もちろん大きな利益を手にすることはできないが、セーフティネットが整備されていれば問題ない」といった趣旨のことを述べていました(記憶に基づいていますので、言葉どおりに再現はできませんが)。
 竹中氏の論法でいきますと、いまは、「自助自立」という「民主主義社会の基盤」が不徹底であるために、「馬鹿を見」ている人が大勢いることになります。それはつまり、能力も、やる気もある人々が、そうでない人々や、社会情勢によって足を引っぱられている、ということでしょう。そして、「自助自立」する人が増えるほど、しない人に対して「手厚い保護ができる」と言うのです。
 これはつまり、競争に参加できない人、参加する気のない人は、参加できる人、参加したい人の邪魔をするな、ということになるのではないでしょうか。その際、不参加者は、セーフティネットの保護に甘んじていろ、ということだと思うのです。もっと極端に言えば、能力の低い人、やる気のない人、貧しい人などは、ぜいたくを言わずにがまんしておけ、ということにすらなるように思えます。「一億総中流」などというのは現実ではなく、日本にも貧富の格差は存在し、つまり金持ちと貧乏人に分かれているのだから、それを認め、その上で、より多くの人が豊かになることを目指せばよいのだということでもあるようです。そうなればなるほど、貧者、弱者はもっとおこぼれにあずかれるではないか、とまで言ったら語弊があるでしょうか。
 竹中氏の主張は、もちろん、氏ひとりだけの特殊な考えではなく、政治家の意見や世論の大部分をさらに代表するものです。
 竹中氏は、自分の言っていることが「弱肉強食ではない」とことわっています。しかし、なぜ違うのか、弱肉強食でなければ何なのか、ということについての説明はありません。あえてその部分を読み取ろうとすれば、「自らを助ける人が多くいればいるほどハンディを負う人や病人など真の弱者に手厚い保護ができる」のであるから、「弱肉強食ではない」ということになるのでしょうが、それをデータなどで実証しているわけでもありません。

 さて、話が少々かわりますが、朝日新聞に、5月13、14の両日、「焦点! 環境開発サミット (上・下)」と題する記事が掲載されました。冒頭の説明によりますと、「ブラジルで開かれた地球サミット(国連環境開発会議)から10年を機に『持続可能な開発に関する世界首脳会議』(環境開発サミット)が、8月に南アフリカのヨハネスブルグで開かれる」とのことです。これは、10年前の地球サミットで採択された「地球再生の行動計画(『アジェンダ21』)」の進み具合を検証し、さらに必要なビジョンと行動計画を打ち出すために開かれる会議であり、それでは、「地球環境ブーム」と言われたこの10年間はいったいどうであったかを振り返って、来たる環境開発サミットの課題は何なのかを考えるのが、連載の目的だとされています。
 記事の中で、環境問題と同じか、それ以上のウェイトが置かれているのが、「途上国の貧困克服は進んでいない」という問題です。まず、13日(上)の本文には、次のようにあります。

 1日を1ドル以下で暮らす最貧困層は、・・・世界でまだ約12億人いる。東欧や中央アジアでは、経済的混乱の中で最貧困層が増えた。・・・貧困が解決しない一因は先進国の「約束違反」だ。「ODA0.7%」(注.10年前の「アジェンダ21」で、先進国が、政府の途上国援助(ODA)を国民総生産(GNP)比で0.7%に引き上げると表明したこと)は実現しなかったどころか、GNP比0.22%(00年)にまで下がった。・・・先進国は当初「ODA0.7%」に反対したが、決裂回避を優先して妥協した。もともと先進国の多くは本気で倍増するつもりはなく、景気後退や、援助が途上国内で有効に使われないという「援助疲れ」の気分が広がる中で、ODA比率はずるずると後退した。・・・
 アジェンダ21の冒頭にある「貿易を通じた持続可能な開発の促進」も期待はずれになっている。市場原理、競争原理に基づき、貿易と投資の自由化が90年代に急速に進んで世界経済は拡大したが、途上国の債務は10年間で34%増えた。
 国連開発計画(UNDP)によれば、最も富める10%の国の1人当たりの所得は最貧の10%の国の百数十倍にもなっている。各国内の貧富の差も縮まらない。

 続く14日(下)には、次のように書かれています。

 昨年来、世界5地域に分かれ(環境開発サミットに向けて)テーマを絞り込んできたが、「持続可能な開発の実現にグローバル化を活用」(欧州・北米)▽「貧困・食糧・感染症」(アフリカ)▽「途上国の債務返済」(中南米)▽「地域平和と治安確立」(中東)▽「環境と経済発展を両立させる域内協力」(アジア)とばらばら。・・・
 貧困撲滅、先進国中心の生産消費の変革、資源の適正な管理、途上国を置き去りにしないグローバル化−−−、目指すべきものはわかっているが、具体化となると国家利害がぶつかり合う。

 およそ10年間をかけて急激に進展してきたグローバリゼーションや、自由競争・市場主義経済至上主義は、まさに竹中氏の言葉にあります「自助自立」精神の徹底を目指すもの、とも言えます。そこでは、最富裕国も、最貧困国も、競争への参加資格においては同等、対等であり、自らの意志で、自由に競うことができるというのが大原則になっています。意欲がなければ、レースから降りるのもまた自由だということなのです。
 では、その風潮が続いてきた結果、竹中氏が主張するように、「真の弱者に手厚い保護ができる」社会が実現されたのでしょうか。朝日新聞の記事を読むだけでも、現実はまったくの正反対であることがわかります。結果的に、富める者、強い者はますますその富と力を拡大し、貧しい者、弱い者はますます悲惨な境遇へと追いやられているのです。毎日新聞における竹中氏の発言は、残念ながら、現実を的確に言い当てているものではありません。これはすなわち、現代社会のあり方と、目指している方向が、誤っていることに他ならない、ということです。仏教の言葉にすれば、あらゆる人、社会全体が「灯明」を失って、「無明(むみょう)の闇」の中をあてもなくさまよい続け、しかも、その闇の、濃い方へ、濃い方へと、どんどん進んでいるのだと言えます。

 グローバリゼーションに関しては、毎日新聞は別のところで、批判的な意見を掲載しています。「西川恵のグローバル・アイ」という、専門編集委員による連載コラムがあり、4月29日は「日本とグローバリズム/甘い期待、薄い警戒感」との見出しで、次のように書かれています。

 欧州では90年代初め、民主化した東欧、ソ連(ロシア)に市場経済が持ち込まれ、競争とカネがすべてに優先する弱肉強食の世界に一変した。社会主義時代に曲がりなりにもあったセーフティネットは崩壊し、中東を含め、大量の経済難民が敷居が下がった国境を越えて押し寄せ、失業や治安悪化に拍車をかけた。
 こうした現実に、欧州諸国ではグローバリズム警戒論が台頭。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が「グローバリズムは地域や家庭のきずなを断ち、人間を吹きさらしの荒野に立たせる」と批判したのは93年だ。・・・
 同じ先進国ながら、日本の様子は大分違う。日本にはグローバリズムに対する甘い期待が一貫してあった。グローバリズムによって日本社会は規制撤廃をし、世界標準に近づける。グローバリズムこそ閉鎖的で特殊な日本社会を変える好機、という認識だ。

 西川氏が述べる「グローバリズムに対する甘い期待」といいますのが、まさしく最初に紹介した竹中氏の主張に当たるのではないでしょうか。それにしましても、このように、一見して対立しているとわかる2つの意見を、ただポンと放り出すように掲載するだけでは、購読者の中に、毎日新聞の編集方針というのは一体どうなっているのかと、首をひねりたくなる人も出てくるのではないでしょうか。「さまざまな意見を、片寄り無く取り上げる」という言い方もありますが、それによって、報道機関としての基本的な姿勢や原理原則が欠けてしまうようなことがあったとしたら、まったく元も子もないと思います。
 もちろん、このような問題は、毎日新聞だけが抱えているものではなく、いま発行されているどの新聞にも言えることです。これはつまるところ、日本社会全体が原理原則を見失い、根無し草となってさまよっているために起こることだと思います。何を、どう載せたらいいのか、社会事象をどう分析したらいいのか、などについて、多かれ少なかれどのマスコミも混乱しています。日本と日本人が陥っている精神的な危機が、たとえば報道のあり方に、端的に現れているのです。

 いったいなぜ、グローバリゼーションは、ヨハネ・パウロ2世の言葉を借りるなら、「人間を吹きさらしの荒野に立たせ」てしまうのでしょうか。また、一国の大臣たる竹中氏が、「自助自立の社会こそ弱者も守られる」と主張し、日本は官民あげてグローバリゼーションや自由競争、市場主義経済の波に乗るのに必死になっていますが、それが進むほど、宣伝文句とは反対に、弱者がますます虐げられていくのは、どうしてなのでしょうか。
 これらのことは、私の「自己・他己双対理論」に基づいて考えますと、実によく理解できるのです。
 これまでにも何回か申し上げてきましたように、人間の精神は、「自己」という自分に閉じた心と、「他己」という他者に開かれた心との、二重性を帯びています。この2つの心は矛盾、つまり「あちらを立てればこちらが立たず」という関係にあり、哲学の用語で言えば、弁証法的な運動と統合を繰り返しています。かんたんに言い換えますと、人間は、自己に閉じた心と他者に開かれた心とのバランスをとりながら、日々の生活を送っているのです。なお、精神的ストレスなどによって、この自己と他己とのバランスが崩れ、それが病的な状態に至りますと、精神分裂病やうつ病など、精神病を発病してしまいます。
 動物には他己がありません。このことは、前号の「人間は『高等なサル』か」を参照していただいても、ご理解が得られることと思います。したがって、他己という、他者に開かれた心の有る無しが、物や動物と人間とを隔てる絶対的な条件になります。他己を失ったとき、ヒトは人間ではなくなるのです。
 しかしながら、ここで問題にしていますグローバリゼーションや、自由競争、市場原理至上主義といった考え方では、他己の原理はまったく無視されています。たとえば、先ほど引用しました、環境開発サミットに向けてのテーマを見ましても、強者たる先進国が第一の問題としているのは、「持続可能な開発の実現にグローバル化を活用」となっていて、ここには結局、自国の利益をいかに損なわず、かつ拡大できるかという考え方しかありません。ですから、テーマを具体化する段階になりますと、「国家利害がぶつかり合う」ことになってしまうのです。争いになったら、経済力でも、軍事力でも、先進国に圧倒的な差をつけられている途上国には、とうてい勝ち目はありません。地球温暖化防止や、核兵器削減など、他の国際交渉の場においても、常に同じことがくり返されています。
 自由な競争では、強者が勝ちます(竹中氏はそのことを「正直者が馬鹿を見ない社会」と表現していますが)。強者とは、現在では、自由競争、市場主義を建て前とし、自己だけを追求して、科学的な知識や技術・技能を多く蓄積している国や人間たちのことです。それはつまり、先進国や、そこの国民と言えます。
 そうした国や人々が、自国の利益に固執して、より高い経済成長や、それに貢献する開発などを目指せば、その行為は必然的に他者収奪的になります。他者とは、自分以外のあらゆる存在です。物質・生命(動植物)・精神(人間)の、この世に存在するすべてです。そうした存在を、自分の利益と選好(すなわち快適性、利便性、享楽性の実現とさらなる進展)のために利用するのです。
 その結果を享受できる人たちが説く原理、それがグローバリゼーションであり、自由主義、市場原理至上主義に他ならないのです。
 さらに、その基盤となっているのが、民主主義制度です。民主主義においては、個人の権利を主張することが中心に据えられています。だれであっても、自分の利益を追求し、好き嫌いに基づいて行動する権利があるというのです。そういう意味で、個々人は互いに「平等」であるとされるのです。ここでは、平等の概念が、エゴの主張と追求のために利用されています。「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を重視せよという議論も、ここに端を発していますが、これらはまったくの詭弁です。人間には、機会の平等などあり得ません。しかし、そのことを正しく指摘した意見に、私は出会ったことがないのです。

 竹中氏も、「自助自立が民主主義社会の基盤」と述べています。ここには、人間存在の根源である他己の原理が、完全に欠落しています。それなのに、竹中氏は、その結果として、弱者に手厚い保護ができると言います。これもまた、まったくの詭弁なのです。
 いま、日本からは、他己原理の具体的なあらわれである、倫理、道徳、規範性などがほぼ完全に失われ、世界を見ましても、それらの希薄化が急速に進んでいます。そして、「自助自立」とか「自己責任」、あるいは「権利の保障」などといった、一見しますと正当性がありそうな(つまり、民主主義においては正当化されている)言葉のもとに、自分の利益と選好だけに基づいて行動したり、自分の「こころ」に執らわれ、恨みや憎しみ、あるいは意地によって行動したりすることが広まっています。それが当たり前になっているばかりか、むしろ積極的に評価される風潮すらあるのです。そうなりますと、他者の「こころ」を無視して、他者から平気で収奪することもできますし、まして物質や生命を浪費することにためらいを覚えず、むしろ快感を覚えることにすらなります。そして最終的には、それらの存在を否定するということに至ってしまうのです。
 このような中で、どうして「弱者への手厚い保護」などが望めるのでしょうか。仮に保護があったとしても、それは、相手を、おなかを空かせた野良犬くらいに見なして、残飯を投げてやるような態度に過ぎないと思えます。自分たちはぜいたくな食事に飽き飽きするほどなのに、です。こうした状態がもう一段階すすみますと、革命や暴動が発生することになりかねません。すでに局地的な事件は多発しており、それらが世界的規模に発展する危険性は、日に日に高まっているのではないでしょうか。

 自己追求を徹底しますと、自己と他己のバランスがどんどん崩れ、他己が枯れていきます。そこからは、他者への優しさや思いやりなどは生まれてこないのです。多くの人がそうなってしまえば、大げさに聞こえてしまうのかも知れませんが、人類の滅亡はそれほど遠い先のことではないでしょう。
 この危機を乗り越えるためには、動物を超えた、人間存在の根源的原理である、他己の回復によるしかありません。しかし、いま、普通に考えられていますように、勉強して、本を読み、知識を蓄えればそうなれるのかと言いますと、そういうわけにはいかないのです。義務教育では、週1回、必ず道徳の授業をしなければならないことになっていますが、その効果がまったく上がっていないことは、ほとんど常識にすらなっています。
 いわゆる「あたまの良さ」と、他己の働きとは、まったく無関係です。他己の働きは、意識の根本としては、人の喜びをわが喜びとし、人の悲しみをわが悲しみとすることです。「人の心を感じるこころ」が豊かであることです。人間は、「人の心を感じるこころ」によって、喜びや悲しみといった「情動」(こころの動き)を、他者と共有できるのです。
 他者と情動を共有する「こころ」は、仲間同士の間で慣習や伝統を生み出します。それが、先ほども言いました倫理、道徳、規範性などになっていくのです。
 その、他者との情動の共有を突き詰めていきますと、絶対に安定した他者である「絶対他者(神仏)」と、一体感を体験することへと向かいます。それが、信仰であり、宗教です。その体験は知識や理屈ではなく、まさに「こころ」の問題です。もっと言いますと、無意識の問題なのです。実は、意識できるレベルの「こころ」で、他者との情動の共有をしようと思っても、「こころ」には自分へ執らわれた部分もあります。それは、欲望(食欲・性欲・優越欲)や、情緒(快苦喜怒哀楽)や、気分(明るい、暗い、うきうきする、ふさぎ込む等)への固執です。人間は、そうしたものによって「人の心を感じるこころ」を麻痺させてしまうのです。
 いま、多くの日本人や、世界中の「強者」は、まさしく「人のこころを感じるこころ」が麻痺しており、他者がどうなろうと、何を思っていようと、ほとんど(まったく)無関心になっています。そうすることが「合理的行動」として奨励される場合が多いのです。社会的場面で摩擦が起きないように、心理学用語で言う「ソーシャル・スキル」だけは発達しますが、そこにはこころが伴わず、慇懃無礼な振る舞いが見られるだけになっていきます。
 そうならないためには、人間はこころを磨いて(=修行して)不動なこころに至らなければなりません。また、「意識」でどれほど「不動なこころに至ろう」と思っても、だめなのです。時間をかけて、毎日まいにち、こころを磨いて、「無意識」のうちにそうできるようにならなければなりません。あるいは、その境地に至った人を信じ、その教えにのっとって、ひたすらに修行を重ねるときにだけ、そうなれるのです。
 こうした、他己の原理の根幹を磨いたとき、その上部構造である「人のこころを感じるこころ」(中国思想の言葉で言えば「仁」)も、私の理論で言う、自我−人格機能(たましい)に属する、倫理も道徳も、規範性も、伝統や慣習の尊重も、みな身につけることができるのです。

 いま、政治家、企業家、学者、NGOなどの市民団体等といった多くの人々が、大きく言えば人類の存亡を賭けて、さまざまな提言をし、行動を起こしています。しかし、そこで掲げられる目標や願いとは裏腹に、共存や協調より、むしろ敵対や対立の方があらわになっていることもまた事実です。
 ここに、民主主義の限界が現れているのです。民主主義は、言うなれば、1人ひとり、だれもが「偉い」という考え方です。また、本質的に、自己を追求し、必然的に自己の肥大をもたらす制度です。「自助自立」という短い言葉をとってみましても、この中ですら「自」の字が2つも含まれています。こういう風潮が蔓延している社会において、人々がいくら議論を重ねても、共存や協調に到達できないのは、当然の結果であるとも言えるのです。
 1人ひとりの人間は、決して偉くなく、反対に、愚かで間違いばかり犯してしまう「凡愚」に過ぎないのだと自覚し、だからこそゆずり合い、許し合って、お互いに仲良くしていくことが大事なのだと思うこと、そして、凡愚である人間は、聖なる境地、絶対な真理を信仰し、従っていかなければならないのだと思うことが、いまこそ求められているのです。民主主義思想からは、逆さにして振っても出てこない考え方です。



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