ひびきのさと便り



No.21 人間は「高等なサル」か  ('02.5.8.)

 スイスのジュネーブにあり、「欧州屈指のビジネススクール」と評される、「国際経営開発研究所(IMD)」は、例年4月末に「世界競争力ランキング」を発表します。今年も、その結果が4月30日の各紙に掲載されました。手元にある新聞の見出しは、たとえば次のようになっています。

 弱い日本・・・競争力49国中30位/スイス研究所、米国首位 (朝日新聞)
 日本の競争力30位に後退、マレーシア・韓国に抜かれる (日本経済新聞)

 日経新聞の見出しに「後退」とあるのは、昨年の日本の順位が49カ国中26位だったからです。ここ2年間の26位、30位という順位をどのように考えたらよいのかということですが、これを十年前までさかのぼりますと、次のようになっています。
 91〜93年…1位、94年…2位、95年と96年…4位、97年…9位、98年…18位、99年…16位、00年…17位。そして26位、30位と続くわけです(5月3日付朝日新聞より)。日本の競争力がどれほど急速に低下しているかが、如実に現れています。4月1日付の本欄「『衰弱死』と『創造』」でも、「ニューズウィーク」誌の記事をもとにして、日本の凋落ぶりとその原因を検討しましたが、今回のIMDの発表は、また1つ、データによる裏付けを積み上げることとなりました。
 また、ここまでの順位は、4分野314項目に及ぶ下位項目を総合したものです。個別の項目になりますと、そこでさらに日本の特徴があぶり出されてくるように思います。
 まず、日本が1位か2位にランクされた項目には、次のようなものがあります(4月30日付朝日新聞より)。
 「外貨・金保有高」「高校進学率」「1人あたり研究開発支出額」「寿命の長さ」「ハイテク製品の輸出額」「コンピューター使用台数」。
 近ごろ私は、日本はお金「だけ」はある「金満国家」だと考えています。「金満家」という言葉を辞書で引きますと、「財産家」「金持ち」などと出ていますが、言い方を換えれば、日本には「お金しかない」わけです。お金以外に失っているものはおびただしく、とくに、私が何度もくり返して申し上げてきていますように、世界の中で日本人ほど、人間の本性たる「こころ」を失ってしまった国民は、ほかに例がありません。しかも、長く続いている不景気で、唯一のこった「お金」すら、だんだん少なくなってきています。
 さて、反対に、日本が最下位となったのは、次のような項目だと新聞に書かれています。
 「外国人を雇う困難さ」「公共事業の発注が外国企業に開かれているか」「大学教育が競争経済のニーズに適合しているか」「起業家精神の広がり」「株主の権利、責任の明確さ」「文化の閉鎖性」。
 1位になった項目は、そのほとんどが言うなれば「物質(金銭)的」なものです。ところが、最下位になったのは、精神、文化、社会の規範などに関するものだと言えます。ここにもまた、日本人が「こころ」を失ったという証拠が現れていると考えられるのです。 単なる金満国家に成り下がり、精神性、文化性、創造性などを喪失した日本に、世界はパワーも、エネルギーも、魅力も感じていない、ということです。
 日本の現状は、こうした危機の中にあるわけですが、国内政治はこのところずっと、数人の議員の疑惑をめぐる混乱に振り回されています。そして、小泉首相や塩川財務相らが、海外に出かけていっては、「日本人は自分たちのことをダメだダメだと言い過ぎだ。もっと自信を持たなければ。日本をまねたいという国は世界にたくさんあるのだから」とか、「マスコミが日本のことを悪く言ったり書いたりするから、海外での評判が落ちるのだ」等と発言しています。いま、国内に悲観的な見方が強いのは事実としても、それらを無視して現状認識を甘くしてよいという理由はどこにもありません。
 IMDは、今回のランキングに基づき、日本の現状を「老化を自覚して気力を失った『中年の危機』」と診断したそうです(4月30日付日経新聞)。私に言わせますと、この診断はまだまだ日本に対して「好意的」に過ぎると思います。日本の老化はもはや自覚段階を通り越してきわめて進行し、「中年の危機」どころではなくて、もはやほとんど「終末の危機」にまで達していると見るべきではないでしょうか。
 その原因は、世界に先がけて日本に「民主主義=衆愚政治(オクロクラシー)」が蔓延していること、言葉をかえますと、個々人の利益(損得勘定)と選好(好き嫌い)がすべてを決定する社会となっていることにあります。そして、常にその裏腹として、信仰(絶対な規範、聖なるもの)の喪失があるのです。
 私は、もう十年以上もこのことを言い続けてきているのですが、いまだ、ほとんどの人から理解を得られませんし、同じような意見にも、まず出会いません。以前にも紹介しました「The Atlantic」や「ニューズウィーク」など、海外のマスコミは、ごくたまに、日本に対して的確でシビアな判断を示すことがあります。しかし、当の日本と日本人から、同じレベルの厳しい意見が出ることはなく、そればかりか、外国からの警鐘に耳を傾ける人すら、ほとんどいないのです。

 朝日新聞1面のコラム、「天声人語」は、毎月末、その月にコラムニストが印象的と感じた、内外の人の発言をまとめて紹介するのが通例となっています。その時々で、いろいろな人が何を考えているかがよくわかり、社会のあり方を映す鏡としては、けっこう便利であるとも言えます。
 4月29日分の冒頭は、次のようになっています。

 最近の言葉から。「緑の中にいれば落ち着く安らぐ。なぜでしょう。私たちは高等なサルだからです」とはサル学の河合雅雄さん。サル類は森の中で木の上にすんでいる。「その中で適応してきて、『みどりの中にいると安心だ』という感覚」が人間の本性にも組み込まれた、と。

 人間はサルから進化しました。そのため、動物学者に限らない、たいへん多くの科学者は、人間をサルの延長線上に位置づけようとしています。人間を人間として理解せず(あるいは理解できず)、「ヒト」はしょせん、「高等なサル」に過ぎないというわけです。
 心理学者、医学者、神経学者、脳科学者などは、サルを使って実験をします。人間を対象にしては絶対に行えない実験でも、サルになら可能です。たとえば、パズルのような課題をサルに解かせ、終了したとたんにそのサルを殺して、脳を冷凍し、それを薄くスライスします。そのスライスされた脳を分析すると、特定の課題を達成するために脳のどこがもっとも活発に働くのかがわかる、というわけです。このような実験には、熱心な(しばしば「熱心すぎる」)動物愛護団体が目を光らせていますから、こうした実験を行う研究所は、きわめて厳重な警備のもとにおかれているのが普通のようです。
 このようにしてサルの脳神経システムが解明されますと、そこには人間と共通した部分もあります。しかし、神経システムの構造が共通していることと、サルの「心理」について得られた研究結果が、人間の「精神」の解明に応用できることとは、まったく異なった問題です。
 当たり前のことですが、サルは、どこまでいってもサルなのです。言葉を覚え、手話を使い、コンピューターの操作をし、自動販売機でジュースを買えても、ではそのサルが人間になったか、と言いますと、決してそんなことはありません。「そのサルは人間になったのでしょうか」と聞けば、十人中十人が、「そんなはずはない。サルはあくまでもサルに決まっている」と答えるはずです。
 では、サルと人間とを隔てる決定的な違いは、どこにあるというのでしょう。普通は、サルより「高等」、つまり、ずっと「かしこい」のが人間である、と考えられているように思えます。逆に、人間より「足りない」のがサルだということです。すると、サルと人間との境目は、「程度」の違いで決められることになります。これはつまり、先ほども言いましたように、サルの延長線上に人間を考えるということです。そして、その境目をどこにおくかは人によって勝手ということになりますと、中には「人間よりサルの方がよっぽど人間らしい」と、完全にねじれた意見を言う人も出てくるのです。
 日本のサル学の最高権威である河合氏も、人間をサルとの連続で捉えているようです。「天声人語」で取り上げられた氏の発言からしますと、人間の本性は、サル時代からの「進化の記憶」の中にあることになります。この論法で言えば、われわれはしょせん、サルに過ぎないのです。
 われわれ人間はたかだかサルなのだから、と考えれば、損得や好き嫌いを行動原理にしても、当たり前ということになります。おいしい物をたらふく食べ、グータラと惰眠(だみん)をむさぼり、遊びにうつつをぬかし、異性と見れば誰かれかまわず「仲良し」になり、強い奴がのさばって弱い奴が淘汰されるのは、サルであればむしろ自然な振る舞いです。
 さらにわれわれはチンパンジーやゴリラよりも「かしこいサル」なのですから、できるだけ合理的な方法で、おいしい食物、快適な生活、魅力的な異性、高い社会的地位などを手に入れる、その手腕を身につけなければならないのです。人間をサルの延長線上に捉えるとは、このようなことです。つまりそれは、弱肉強食、優勝劣敗を是とする世の中においては、たいへん都合がいいのです。
 しかしながら、このような考え方が、どれほどいまの世界を堕落させ、危機に追いやっていることでしょうか。そのことを考えていただきたいと思うのです。
 河合氏の発言で、さらに注意しなければならないと思いますのは、そこに「適応」という言葉が使われていることです。これはつまり、環境に、より適応的な種が生き残って進化を遂げてきたという、ダーウィンの進化論(ダーウィニズム)の考え方です。人間が環境に適応してくる中で、自己保存のためには「みどりの中にいると安心」という習性が、サルから引き継がれてきたと考えられているのです。
 しかし、サルから人間への進化の過程には、「適応」ということだけでは捉えきれない、断絶があるのです。サルと人間との間には断絶と飛躍があり、「適応能力がより高まった、高等なサルが人間である」という、単純な論理は成り立ちません。
 その断絶と飛躍とは、私の「自己・他己双対理論」で言いますように、この世のあらゆる存在の中で、人間だけが「自己」と「他己」という、分化した、二重の心をもつようになった、ということなのです。遺伝子レベルできわめて人間に近いとされるチンパンジーを、生まれた時から愛情深く育て、訓練し、教育するということを徹底して行っても、人間と同じに、心が自己と他己に分化することは絶対に起こりません。サルはいつまでたってもサルのまま、と言いますのは、そういうことです。
 以前(No.18「自分の立脚点」)もふれましたが、人間はだいたい十万年ほど前から、仲間が死ぬと遺体を埋葬し、死者を悼む儀式を行いはじめた、とされています。それでは、動物園や実験施設で生まれ育ち、暮らしぶりが「人間並み」になっているサルを群れにしておいたら、仲間が死んだときに弔いの行為をとるようになるかと言いますと、そういうことはありません。たとえ「サルの方がよほど人間らしい」と考える人でも、サルが人間のように仲間の死を悲しんで葬式をするとは思わないでしょう。
 地球上の存在は、「物質」から「生命」へ、そして「精神」へと進化しました。古代の海の中にただよっていたアミノ酸などの物質から、生命が誕生したと考えられていますが、それでは、アミノ酸がたくさんあれば、そこから必ず生命が生まれるかといいますと、そんなことはありません。物質には物質の次元、生命には生命の次元があって、両者の間には断絶と飛躍があります。
 1つひとつのアミノ酸の構造や特徴がわかっても、そこからどうして生命が生まれるのかはわかりません。反対に、生命の仕組みがわかりますと、その中でそれぞれのアミノ酸がどのような意味をもち、どのように働いているかを明らかにすることができます。物質をながめ、操作しても、生命のことはわかりませんが、生命のことがわかれば、物質のことをより明らかにすることができるわけです。
 同じことは、生命と精神の次元にも当てはまります。精神をもつのは人間だけですから、精神がないサルをいくら調べても、わかるのはサルのことだけであり、決して人間のことは明らかにできません。反対に、精神のことが明らかになれば、それを担っているものとしての生命の仕組みと働きは、より明らかにされることが期待できます。
 先ほど問題提起をしました「適応」についての検討に話を戻しますと、適応が上手か下手か、適応能力が高い(または有る)か低い(または無い)か、こういったことが人間の価値を決めるようになると、いったいどうなってしまうのでしょうか。とは言いますものの、現代社会ではほぼ完全にそういう価値観が定着していますので、どうなるかは今の社会の有り様を正確に認識するなら、おのずと明らかになることです。
 そこでは、さまざまな理由で弱い立場におかれている人々が、ますます生きていくことが困難になっていきます。貧しい人、力のない人、差別されている人、身体的、精神的にハンディを負っている人、こうした人々に対する「セーフティネット」ということが、近ごろは盛んに言われていますが、実際のところ、そんなネットは無いも同然です。とりあえず形だけはあるように見えても、「網の目」が粗すぎて、そこからこぼれてしまう人がいくらでもいるのです。
 「セーフティネット」以上に喧伝(けんでん)されていますのが「自己責任」という言葉です。しばらく前、狂牛病の原因として問題になった肉骨粉入りの飼料について、農水省がきちんと把握していなかったことが批判されたとき、武部農水相は、「どんなエサを選ぶか、そのエサをやるかやらないかは、酪農家の自己責任にかかっている」という主旨の発言をして、さらに厳しい追求を受け、その後の進退問題の一因となりました。このようなところにも、現代における「自己責任」流行の一端があらわれています。
 結局のところ、自分でサバイバルできるだけの適応能力のない人間は、甘んじて淘汰されよ、というのが、いまの世の中において主流の意見になっているのです。とりあえず、目の粗いセーフティネットが張られていますが、そこにかかるかかからないかは、それこそ自己責任です。網が悪いのではなくて、「せっかく張ってやっている」のに「勝手にこぼれ落ちる方が悪い」のです。
 本当は、そういうつらい目に遭っている人、苦しい立場にある人の、痛みや悲しみを我がものととして、同じ痛みや悲しみを分かち合うことができるからこそ、私のことばで言う、「人の心を感じるこころ」をもっているからこそ、ヒトは人間なのです。学問的に言えば、自己から他己が分化し、精神が二重性を帯びていることが、人の人間たる所以(ゆえん)なのです。
 ですから、適応能力がどれほど高いか、とくに知能がどれほど発達しているかということは、本来の人間性にはまったく関係がありません。むしろ、「あたまの良さ」で汚されている分、こころに垢がついてしまって、本来の人間性は覆い隠されてしまうことがほとんどなのです。
 人間をサルの延長線上に捉える限り、適応とサバイバルがもっとも大切なことと見なされるのは当然です。その弊害が、すでにこの社会には満ち満ちているのに、いまだそれに目を向ける人が少ないというのは、本当に悲しいことです。

 河合雅雄氏の門下ではないかと思いますが、こちらも著名なサル学者である山極寿一氏のことばを、同じ日の「天声人語」は次のように紹介しています。

 ゴリラを研究する山極寿一さん。類人猿のけんかについて、「一見して力の弱そうなメスや子供が、屈強なオス同士のけんかに割って入ることがある」。弱者の方が共存の危機を察知する。弱者の仲裁には、張り合うオスも面子(メンツ)を失わずに引き下がる、と。

 「天声人語」のコラムニストは、山極氏がゴリラの観察に基づいて発言したことを、人間社会に応用し、何かの比喩として使いたかったのでしょう。「屈強なオス同士のけんか」というのは、今でしたらたとえばアメリカとテロ組織との戦闘、イスラエルとパレスチナとの衝突などを指すことになるのでしょうか。そして、それらの解決のためには、「共存の危機を察知」した「弱者」が、仲裁役として「割って入る」べきであると言いたいのでしょうか。さらに、いま国内は有事関連法案で揺れており、憲法第九条において、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と宣言している日本は、まさに「国際的弱者」の代表として、丸腰で仲介の労をとるべきであると、コラムニストが暗に主張していると解釈したら、深読みが過ぎるでしょうか。
 何度も申し上げますように、サルの行動を、人間精神の理解に応用しようとすること自体が、どだい間違っているのです。ゴリラの群れにおいて、弱い個体が強い個体同士の争いに割って入るというのは、「種の保存」を目的とした、純粋に本能的な行動です。けんかに胸を痛めたり、乱暴者にも思いやりの大切さを伝えたいと考えたりしているわけでは、決してないのです。その場の争いが収まり、安全にエサや休息がとれればいいのであって、将来的な平和の維持を願っているわけでもありません。
 サルの行動はあくまでもサルの行動であって、人間の行動に直接応用できるものではないのです。しかし、このコラムニストに限らず、たとえば子育てや社会の維持などに関しても、「チンパンジーを見習いましょう」「ゴリラから学ぶべきだ」「オランウータンこそすばらしい」などと言われることは、たいへん多いと思います。これはつまり、現代人が、人間を理解する視点を欠いているために、サルに手本を求めるしかないことをあらわしているのです。
 人間社会がサルの群れ並みになったら(すでになっていると言うべきかも知れませんが)、人間らしいやさしさとか思いやり、他者性はいらないわけですから、他人を蹴落としても自分が上にあがりたいと考えている人、腕力ですべてを決めたいと願っている人、ずるがしこく、悪がしこく立ち回って利益を得たいと思っている人、自分の好き勝手をどこまでも通したいと欲している人などは、その状態を歓迎することでしょう。
 しかし、現代人は、持ってはいけないものを持ってしまいました。その代表が核兵器です。自分たちの欲望を満たすためには手段を選ばない人たちが、たとえば原子力発電所の職員を仲間に取り込み、ひそかに持たせた小型原爆を原発内で爆発させるように命じたとしたらどうなるでしょう。あまり小説めいたことは控えたいと思いますが、たった一回の爆発で、被害が相当な広範囲に及ぶことは確実です。いまは、そういう世の中になっているのです。

 さらに同日の「天声人語」で、戦争について次のようなことばも紹介されています。

 数学者の森毅さんは「あらゆる戦争も正義の名の下で行われるけど、正義であると歯止めが利かなくなる。それより、『おれも間違っているかもわからんな』と思いながらやる方がいいんだよね」。

 この発言もやはり、最近の海外における危険な情勢を受けたものだと思います。たとえばイスラエルとパレスチナの衝突を考えますと、イスラエルの言い分は、自分たちの行動はテロ犯罪に対する正当な裁きであるということですし、パレスチナにしてみれば、イスラエルの不当な侵攻こそが、止むに止まれぬ抵抗を生んでいる、ということになります。森氏の意見は、どちらも「正義」を叫ぶから暴力の連鎖が途切れないのであって、そうではなく、「おれも間違っているかもわからんな」と思いながら行動すべきであるというものです。
 しかしこの考え方は、重大な危険を含んでいます。
 たしかに、「凡愚」である人間は、必ず間違いを犯します。正しく行動できることなど、万に一つあるかどうかというのが本当です。ですから、そこに、絶対な規範に従っていこうとする信仰心が必要なのです。聖徳太子が「十七条の憲法」で、だれも絶対に正しくなどないのだから、和を大切にして、しかも仏の教えを篤(あつ)く敬いなさい、と説いたとおりなのです。
 森氏は、「おれも間違っているかもわからんな」と思え、と言うだけで、だからこそ、絶対的な規範(聖なる教え)に従っていかなければならない、という、重要な根本の部分にふれていません。もっとも、そういう発想がなければふれられるはずもないので、当然と言えば当然なのですが。
 規範性がどこにもないままに、「間違っているかもわからんなあ」などと言いながら行動するならば、それは直ちに、「おれも間違っているけれど、お前だって同じだ。お前がやっていいことは、当然おれだってやるぞ。お前もおれと同じようにやりたい放題にすれば文句はないだろう。おれは好きにさせてもらう」という、傲慢な開き直りになります。それでは、暴力が止むはずがありません。堕落が止まることもありません。何が正しくて何が間違っているのか、誰もわからず、知ろうともせず、しかし根源的な不安は解消できないまま、その不安ゆえにますます間違いを重ねることになってしまいます。「あかり」を失って、「あかり」を求めようともせずに、「無明の闇」をさまよい続けることになってしまうのです。
 森氏の発言は、人々に「無明の闇をさまよい続けろ」と勧めているようなものです(もちろん、ご本人にその自覚はないと思いますが)。この考え方は、人間なんてしょせんサルと同じか、あるいはサル以下なのだと言う、多くの科学者たちや、それに共鳴する人々の発想に通じるものがあります。

 河合氏、山極氏、森氏と、3人の方の発言を取り上げさせていただきましたが、何も、この方々の言っていることが、現代の日本において突出しているわけではありません。多くの人が、漠然とではあっても胸に抱いていること、あるいは、民主主義思想の中では当たり前とされていることを言葉にしただけでもあります。
 しかし、このような考え方は、日本人がどれほど信仰を失っているか、どこまで規範性や原理・原則を欠いているか、ということを、如実に表すものでもあるのです。
 著名人の発言は、それだけですでに多くの人の心を捉える条件を備えています。それが、広く読まれている大新聞のコラムに取り上げられれば、なおさらです。その意味するところを的確に見抜く洞察力をもつためには、いくら知識を蓄えても不可能です。つまり、たかだか「あたま」がよくても、真実を理解することはできません。「あたま」と「からだ」と「こころ」を使った修行と、それを支える信仰こそが必要なのです。いまの日本ほど、多くの人にそのような生き方が求められている国はありません。



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