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木地師 小椋芳之(日本木地師学会の報告)

日本木地師学会について

木地師は長い期間にわたって生きてきたが、明治を迎え、近代工業の発展と共にその波に呑み込まれたかに見えた。しかし、今でも生き残っているのである。 そして、その存在を主張し続ける木地師と、研究者の集まりが「日本木地師学会」なのです。 木地師を長年、調査・研究してきた学会から、木地師学会理事の小椋芳之氏について皆様に報告する。

日本木地師学会 
■事務所 〒399-0733 長野県塩尻市大門三番町14-11 楯 英雄
■TEL/FAX (0263)53-7620

小椋芳之氏の木取りの技法と古い型(デザイン)の保持

1)木取りの技法

木取りは逸物。たとえば、お盆などの器を栃などの自然の丸太から板材にし、その板をさらに細かく切断して器の形にする方法である。 丸太から板材にする場合、美しい杢目(もくめ)を取り出す技術が必要です。美しい杢目にすることは、その木の持っている自然を生かしてやることであり、これが木地師が先祖から語り伝えられた技術であり、感性なのです。 小椋芳之氏はこのことを強く意識し、美しい杢目を板材にする名人です。

2)中国山地で挽かれた古い時代の逸物の型(デザイン)の保持

逸物製品はその時代に合った、そして、売れる製品のデザインのものが作られます。それは、木地師が生きてゆくための手段です。当然のことです。そのデザインもデザイナーなどによって斬新なものが作られています。 反面、古い時代のデザインの製品はだんだんと忘れられ、捨てられていきます。しかし、岡山県の中国山地の風土の中で作られてきた古い時代の逸物製品の型(デザイン)は、小椋六助、芳之という二代にわたって伝承されています。 これらのデザインを小椋芳之氏は保持している貴重な存在です。

奥津千軒刻研出本漆塗(おくつせんげんぼりとぎだしほんうるしぬり)の技法について

木地師は轆轤で器を挽き出すだけでなく、挽き出した器の杢目が毎日使っていて汚れることのないよう、器面に漆を塗って、幾年もその美しさを残そうとしてきました。それが木地師の人々の共通の理念です。

例えば、杢目が漆の下から透けて見える「飛騨の黄春慶」、「木曽の赤春慶」、「茨城の栗野の黄春慶」です。そして、「拭き漆」、「木地呂漆」などもその一つです。このほか、木曽地方の木地師は、挽いた杢目がガラスのような透明に見える「漆塗」の手法で杢目の美しさを見せる塗りがありました。その名も、その手法もまったくわかりません。手法や名称が途絶えてしまっているのです。 ところが、私は平成元年ごろ、小椋芳之氏が製作している「奥津千軒刻研出本漆塗」を始めて見ました。それは私が長年探し求めていた木曽地方の木地師が行っていた「幻の漆塗」ではないかと思うようになりました。

この「奥津千軒刻研出本漆塗」は、日本の漆芸技法では「春慶塗」や「木地呂塗」とよく似ていますが手法は異なっており、中国山地の木地師が考案し、それが秘伝・家伝のような形で小椋芳之家に残されてきたものと思います。 特色は、時が経過すればするほど漆が透けて、挽いた杢目が鮮やかに浮き出てくる漆塗です。これは日本の漆器産地にはまったく見られない、中国山地で木地師によって生み出され、実用化されてきた漆塗だと確かな言葉で申し上げることが出来ます。

鶴山漆器は千軒刻研出本漆塗(せんげんぼりとぎだしほんうるしぬり)で塗られています。また奥津千軒とは、小椋芳之の父の出身地である岡山県旧奥津町千軒のことです。

奥津千軒刻研出本漆塗の手法について

千軒刻研出本漆塗の最大の特徴は下地と仕上げの手法である。

1)下地の方法

薄い漆を塗り、赤との粉を水でどろどろに薄めたものに、漆を少量入れ、よく練り合わせ、それを布(木綿)で木の目にそって塗りこんでいく。それをよく乾燥させ、次に水を使って耐水ペーパーで磨いていく。この作業を二回繰り返す。
この作業で、木の目が埋まり、表面をつるつるにさせることが出来る。

2)中研ぎの方法

下地が出来上がった木地に、漆を塗っては磨くの繰り返しを数回行う。

3)仕上げの方法

つの粉と菜種油を混ぜたもので木地を磨き上げ、油とつの粉を拭き取る。その後、漆を塗り、さっと拭き取る。この工程を二回繰り返す。
この作業を行うことにより、本当の光沢が出てくる。

小椋芳之氏の使用する轆轤鉋の特徴と伝統技術

挽く器(木の材料)を細長い鉄の棒状の先にJ状の刃物を作り、その刃物で円形の器を挽き出す道具を「轆轤鉋(ろくろがんな)」、あるいは「バイト」と呼んでいる。 この轆轤鉋は日本の木地師特有の道具である。現在、この「轆轤鉋」は、「ハイス」と呼ばれる非常に硬質なものが使われている。国の伝統的工芸品に指定されている富山県の庄川逸物、長野県の南木曽ろくろ細工の業界でも戦後はほとんどこのハイスを原材料とした轆轤鉋を用いている。 ハイスは材質が硬いので、挽き出す素材を短時間に仕上げることが出来る。また、木地師の技術が未熟でも、刃物が切れるため(ハイスという硬い刃物ゆえ)お椀などの器が簡単に挽き出すことが出来る。

小椋芳之氏が、この「ハイス四種」を轆轤鉋として用いるようになったのは、平成十二年からである。「ハイス四種」という材料も、「安来ハガネ」の「刃先」に自分で鍛冶屋をして接着し、使用している。それは、ハイスに比べて軟質な「安来ハガネ青」は、轆轤鉋としては挽く高度な技術が要求されることである。また、茶托、菓子器などの器の表面がつるつるした光沢を持っており、刃物と木の持つ特質を小椋芳之という木地師の技術が見事にとらえ、挽き出すのである。

ハイスの場合、木の材質を刃物でガリガリと挽き出すため、茶托、菓子器の表面をサンドペーパーをあて、木の表面のザラザラを消し、かつ光沢を出している。 小椋芳之氏の場合、轆轤鉋のみでハイス以上の美しい光沢を挽き出している。

私は木地師の研究をもう三十年も続けているが、木地師の作品、製品の仕上げ、技術の良し悪しを目で見るのでなく、手の指先で判定している。小椋芳之氏の作品は、数百人いる日本の木地師の中でも超一流の木地師であることを、私は確かな言葉で語ることが出来る。 これは、小椋芳之氏の人柄が岡山県人特有の時流に流されない、どっしりとしていることと、かたくなに昔の技法を残そうとする岡山の風土の中で生きてきたことが、小椋芳之氏の今日の技術にあるからである。

大変うれしいことに、小椋芳之氏の手元に、父・六助(明治36年~昭和58年)が使ってきた「安来ハガネ」の轆轤鉋が何本も残されている。もうこのように古い原材料は残されていないだけに貴重である。 そして、小椋芳之氏のよれば、中国山地に木地師の轆轤鉋の刃物作りの技法と刃物の形は、小椋六助によって伝えられてきたのである。その小椋六助の刃物と小椋芳之の刃物は寸分たがわぬものだと、小椋芳之氏は言う。

このことから、小椋芳之氏の木地師の技法は中国山地で江戸時代から明治にかけて製作を続けてきた伝統的技法が木地師の一子相伝という形で、今日まで残されてきたのである。 さらに付け加えておきたいことは、小椋六助よりさらに古い時代の岡山県をはじめとする中国山地の木地師は、この地方で産出していた砂鉄から作った「玉鋼(たまはがね)」を素材とした原材料で、轆轤鉋を作り、かつ使っていたことである。

小椋芳之家の祖先に、「玉鋼」を作った工人「たたら」の家から嫁に来ていたことは、轆轤鉋をめぐる、たたら衆と木地師の深い関係を物語っている。この「玉鋼」は現在、島根県下で文化庁の助成を受けて、日本刀の原材料の玉鋼を砂鉄から製作している。 私ども日本木地師学会は、この玉鋼を譲り受け、「安来ハガネ青」の刃先に、この玉鋼を鍛冶の技術でつけ接着させて、江戸、明治の轆轤鉋の復元を試みようと計画している。 その技術は、玉鋼というまことに扱いにくい素材には並みの技術の木地師の鍛冶の技術では出来るものではない。 その試みをお願いできるのは、小椋芳之氏など数人のみである。玉鋼の入手が極めて困難であるが、何とか実現させたいと考えている。[2002年現在]

当店について

鶴山漆器おぐら
岡山県津山市鉄砲町
TEL/FAX (0868)22-6029