「狐持ち」の人たちは、自分たちに宿っている霊が何であるか知っており、屋敷の中に場所を作ってその霊を祀っています。そうすることによってお狐様が家に富をもたらしてくれるのだそうです。しかし、そのお狐様が事情を知らない他人にとりついて「狐憑き」を作り出したり、富をもたらすものをうらやんだりする人がいたりするので、通常自分の家が「狐持ち」であることは秘密となっています。
何だか、ツキノワの話と共通するものがあります。こうした霊たちも、今では居場所を奪われつつあるのでしょうか?
さらにこの話は続きます。精神異常を象徴する狐とは別に、狸の霊が取り憑く場合があるというのです。
狸の場合は、大食いを特徴とし、「狸持ち」の人は大食のくせに裕福で、まるまると肥えているのですが、「狸憑き」になると、食べても食べても身に付かずやせ衰えてしまうというのです。
この話を聞いて、我が身を省みれば、自分は狸持ちなのではないかと思ってしまいます。もちろん、秘密で何かを祀っているというようなことはないのですが、私の大食癖は、伝染性があって、周りの人にひとかたならない迷惑をかけているのではないかなと思う時があります。いや、飽食の時代、現代の人には狸持ちや狸憑きがたくさんいるのかも知れません。
そういうことなら猫憑きや、犬憑き、熊憑きもあるのかな。と、話はふくらんできます。実際に、憑いている霊が狐とは限らないようですから、そういうこともあるかも知れません。伝承はその先を語っていません。
出雲地方の「狐持ち」のポイントはそれが「差別」であるということ。
余所からきた者や羽振りの良い者への妬みから「あれは狐を持っているから(人の財産をくすねて来させたりするから)だ」との勝手な理由付けをしてそしることから始まったものと言われます。
呪術的な力はそう強くなく、むしろ「あいつズルいよなー」という卑怯な陰口に近いニュアンスでしょうか。
そういう意味では四国の「犬神」のような恐ろしさはない気がします。
むしろ恐ろしいのはそんな理不尽な差別を仕掛けてくる隣人の陰湿さです。
始めは素朴と感じられた伝承も、無くなってしまった方が良かったものがあるようです。