新世紀の第1日に

-侏儒の言葉(遺稿)より-

芥川龍之介の「侏儒の言葉」は、このページが目指すものの最上流に位置する文章です。
その中に昭和改元の第一日に記された文章があって、なぜか心を引かれるのです。
打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)

わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。(同上)

大きな時代が変わるとき、人は何を思ってその敷居を乗り越えていくのでしょう。
平成改元のその瞬間、私は畳からジャンプして、空中にいたのですが、あまり哲学的なことは考えていませんでした。

芥川龍之介は翌年の夏に自殺し、その前夜に知人に書き残した短冊の

「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」

が辞世とされています。「鼻」に始まって「鼻」に終わった芥川の辞世にはふさわしいのかも知れませんが、この水洟の歌は今のところ私には理解出来ていません。

むしろこの昭和改元の初日の文章が行き詰まった芥川と、そこに残された希望を端的にうたいあげているのではないかなあと、そう思われてならないのです。

「則天去私」を辞世と定めておきながら、「死んじゃ困るから注射をしてくれ。」が実際の最期の言葉となった夏目漱石にくらべて何だか潔い気がします。

新春から辞世の話で恐縮です。が、私は決して世紀末だの終末だのの話をしているつもりではないのです。終わりゆくものの中に何か変わらないものを見たいと思うのです。

話は旧約聖書の創世記に飛びます。ノアの方舟の洪水の話の最後の部分はこういう締めくくりとなっています。

(主は・・・言われた)わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。・・・わたしはこのたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。・・・これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる。・・・にじが雲の中に現れるとき、わたしはこれを見て、神が地上にあるすべて肉なるあらゆる生き物との間に立てた永遠の契約を思いおこすであろう。
世の中がどのように滅ぶのか詳細に語っている聖書の冒頭にはこんなに気持ちよく、はっきりと神は人を滅ぼさないと書いてあるんですね。虹がその契約の印だなんてすてきではないですか。
(私はキリスト教徒ではありません。むしろ仏教徒ですが)

冒頭の芥川龍之介の言葉と、いきなり飛躍した創世記の神様のセリフと、私の中では何か時代の変わるときの新鮮な希望を含んだ響きがあることが共通しているのです。
前世紀はすてきな時代だったでしょうか。新しい世紀はすてきな世紀でしょうか。
時代が変わっても、人間の根本的な愚かさは変わらないと私は感じます。
しだいにましになっていく部分もあれば、だんだん失われていく物事もあるでしょう。
でも、芥川の言う「芸術は永遠に滅びないであろう」ことと、神様の言う「すべての生きたものを滅ぼさない」ことは信じてよいことだと思うのです。

1999年ノストラダムスの大予言とか2000年世紀末とかをくぐり抜けて、21世紀を迎えてしまいました。
新世紀もますます独創・非主流・抵徊趣味で行こうと願っていますのでよろしくお願いします。


「なべのさかやき」目次に戻る