開場の2時ちょうどに行ってみたら何と200mも列ができているではありませんか。うそ?全席指定じゃないの?並んだら何かくれるの?
おまけに並んでいる人は90%が20〜30代の女性。オヤジの私は浮いてしまいます。
おまけに「仮面ライダークウガ映画化を求める署名」?
そもそも、この人たちは何を期待して来ているのでしょうか?
女性の多くはいわゆる「ファン」で、オダギリジョーを好きで追っかけてきている方々でしょう。
わずかですが子供もいます。が、仮面ライダーのおにいさんを見たさに来ているのではなく、お母さんに連れられてきた様子です。同様に奥さんに連れてこられたとおぼしきお父さんもちらほらいます。
別のグループは特撮系のファンの方々でしょうか。私も人目にはこの仲間にまぎれそうです。
それから、故郷に錦を飾る初の地元公演ということで、なじみの小田切君をみようという奥様方もいます。
公演の内容がなんだか分からないのにこれほどの人が集まるのにはびっくりしました。
ライブの内容はあまりネタを書いてしまうと営業の妨害になるかも知れませんが、「仮面ライダー」色はほとんどなく、オダギリ氏が俳優になるにあたって練習してきた稽古の紹介を軸とするものでした。
途中、本邦初公開のオダギリ母がすぎ茶屋まんじゅうを手みやげに舞台に登場してやんやの喝采になったのは見に来てお得な一場面でした。
「おとなしい子だったのに、こんな大それたことをするなんて、」
「それじゃ犯罪者みたいじゃん。」
私の高校時代経験した演劇とは「あめんぼ赤いなアイウエオ」に始まるものでしたから、こうした売り込んで選ばれて役者になる俳優がどのように研鑽しているかを知ることは新鮮な体験でした。
あ、講演を聴きに行ったのではなくて公演・・・ライブは楽しいものでしたよ。
オヤジの私としては面白いものを見ても、どういう風に面白かったか語るのが下手なのですみません。
オダギリジョーは、「仮面ライダークウガ」の放映が終わってから、いよいよ芸能界のあちこちに出没し始めました。
今夜が「踊るさんま御殿」、23日が「筋肉番付」、深夜のレギュラードラマに「OLビジュアル系」など、テレビで見かける頻度はますます多くなってきました。
「仮面ライダークウガ」の頃ははっきりしていなかった、むしろ三枚目だと取られがちだったキャラクターも、ここに来て(本人、見る人ともに)模索の段階を迎えていると言えるでしょう。
私も現物を見るのは初めてだったわけですが、しっかり見ると人を引きつけるいい男ぶりを備えています。
しかし、テレビに出てきても何か物静かで、穏やかな印象ばかりが目立ちます。
昨今のバラエティタレントのように、ツッコミ、決まり文句でゴリゴリ番組を作っていく姿が見られません。私はそれを「芸風がない」と理解していたのですが、今日のライブを見て、彼はこれを芸風にしようとしているのだなあと思い当たりました。
それを世間がどう受け止めていくか、それはこれからのお楽しみですが、私としてはその「フツーの人」という芸風にも共感するものがありました。
これからもオダギリジョーを応援していきたいと思います。
早速、オダギリ情報を仕入れようと探してみたら、やはり好きな人はあるものですね。小手先の情報ではツウになれないことを一夜にして悟りました。
以下は、オダギリジョーにもっと詳しくなるためのリンク集です。
オダギリジョー公式サイト
マンスリーオダギリ(仮面ライダークウガHPに付設されているオダギリ作のページ)
JOE ODAGIRI PRIVATE FAN SITE オダギリジョー私設ファンサイト
オダジョー愛好普及委員会オダギリジョーファンサイト
オダギリジョーファン掲示板
まだまだ続々とありそうですが、私自身がはまって紹介どころでなくなってしまったので、新しい情報はその辺を参照してみて下さい。
確かに小道具の多さはスポンサーのおもちゃ屋さん(と、一部お菓子屋さん)の意向を取り入れた形跡がありますが、ストーリーの展開は原作者石ノ森章太郎が劇画で描いていたような、人の心の弱い部分に悪が取りいるというモチーフを色濃く反映しています。昔のような子供ばかりをいじめる絶対悪の怪人と、筋金入りの正義漢のドラマではなくなっていたのです。子供には2週間も戦闘シーンのないことがある仮面ライダーは理解し難かったかもしれません。しかし、石ノ森章太郎はむしろそういう人間模様を好んで描く作家だったのです。
私は成り行き上、1時間前に放映される「ニャンダー仮面」と続けて見ていたわけですが、こちらも同じやなせたかしの「アンパンマン」に比べると、仮面の下はフツーでめんどくさがりのヒーローがいて、絶対悪の悪人がいないというのがオーバーラップしてきます。
これは今の世の中の何を映しているのでしょうか。
ヒーローとして生まれついたのでもなく、ヒーローになる道を自ら望んだのでもない自分が、大きな力を持ってしまったためにそれを正しい方向に使おうと研鑽を積む、そういう姿が今の世の中に欠けていて、求められているものなのでしょうか。「クウガ」の語源が「空我」であったことは象徴的です。
私自身は消防団員としてそんな経験を積んでいるので、なんだか思いきり共感するものがあります。と、いうのは卑近過ぎるでしょうか。
今になってやっと、「フツーの人」を演じきろうとしたオダギリが、現代の仮面ライダーに選ばれた理由がわかるような気がします。