あこがれの地へ

-五輪原細池湿原-


私の地質調査のテキストとなっている「岡山の地学」(山陽新聞社)には、岡山の特徴的な地質、岩石、鉱物が網羅されています。その中に私の住所より20kmばかり北の加茂町にある五輪原細池湿原というあまり知られていない湿原が載っています。
観光地としては全く未開発のそこは、この15年ほど私のあこがれの地でした。

9年ばかり前にジープを購入したときに、五輪原細池湿原を目指したのですが、湿原に通ずるそれまで林間の細道だった道が妙に拡幅されて、何やら大工事が始まっているみたいでした。
県営農地開発事業により、この台地は広大な大根畑になるもののようです。

標高1000m近いこの台地は、冷涼な気候のため、大根の害虫や病気が少なく、良好な大根ができることが予想されます。その割に出荷の便がよいことから、この地を大根の大産地にしようというものです。
その後、工事の進展に伴い、大きなゲートができて「関係者以外立入禁止」になってしまったため、私のあこがれの五輪原細池湿原に足を向けることはなくなってしまいました。

今日は、何となく雑事で1日の8割を潰してしまい、さび止め改修工事のなったジープに乗ってあてどなく山道に踏み込んだのはもう夕方のことでした。
通りがかった五輪原への入り口に、「関係者以外立入禁止」の看板がまだありました。しかし、よく見ると「期間:平成5年4月1日〜平成12年3月31日」となっているではありませんか。どうやら去年から立ち入り禁止が解除になったもののようです。
台地の上の方に上がっていくと、4月の中旬というのに道に雪が残っています。
道がたくさんに分かれているところから、広大な畑が見え始めました。
まだ、車が通った跡もあまりなく、畑にも作物は全くありません。つい最近までここは雪に閉ざされたままだったに違いありません。

以前とは様子が違ってしまった台地を、記憶の中の湿原を探して走りました。
とてつもなく大きな農地が、あちこちに造成されています。
ひょっとして湿原そのものも農地に造成されてしまったのでしょうか?
まさか岡山県もそんな無粋なことはしないでしょう。

何度も小高いところに上がっては、車を降りて新しくできた農地を見渡しました。
足下は、あまり見たことのないレンガ色の軟らかい土に覆われています。
石ころはかなり大きめの玄武岩が転がっています。

この台地は、おおむね花崗岩の岩盤の上に新生代のごく新しい玄武岩が平たく広がってできたものです。
ここが玄武岩台地であるということは、こんな標高の高いところに解析の進んでいない比較的平らな土地が続いている理由です。古いものだったら浸食により刻まれて、よくある山あり谷ありの地形になってしまっているはずです。
それがまた、出口の狭い小盆地を作り、湿原を作りました。冷涼でなければ、すぐに乾燥してしまうか、元気のよい植物が繁茂して湿原でなくなってしまいます。
それらの条件は、ここが大根の大産地に選ばれる理由とも全く一致しているわけです。
なお、蛇足ながらこの玄武岩台地は、人形峠のウラン鉱床と密接に関連があるものです。これについてはまた別にお話が書けることでしょう。

津山市近辺が暖かい海で、カバの先祖やクジラが泳いでいる時代に、そう離れていないここでは、キラウエア火山のように溶岩が湧き出して噴火していたなんて、この上なくファンタジックな情景だったと思います。五輪原細池湿原は姿こそ全く違いますがその証となるものなのです。

次々と山を越えてくる霧とも雲ともつかないガスの中、何度目かに高いところに登ったとき、探していたものが見えました。
開かれた農地と農地の間の林の中に、緑の混じる枯れた草地のようなものが見えました。
五輪原細池湿原です。

湿原から流れ出す川を頼りに、何の表示もない道ばたから登っていくことにしました。
周囲がほとんど桧の植林の中、ここだけが落葉松の林になっています。道はなく、運動靴がすっぽり埋まってしまうぐらいの雪が積もっています。
深く冷たそうな川を左に見ながら林の中をやみくもに進むと、程なく視界が開けて、数年ぶりに五輪原細池湿原の傍らに立つことができました。

足下は湿原をめぐる小川が流れています。緑に見えていたのは小さいツゲの木のようです。
中央の方は枯草の色ばかりが目立ち、上の方はほとんどただの草地になっているように見えます。(踏み込めないので、そう思っただけかも知れません。)
手前は真っ黒い土の間に複雑に小川や水面が入り組み、湿原らしい姿をしています。と、その中に紫色の手のひらをつぼめたような形をした花がのぞいています。ザゼンソウです。少し歩いて探すとあちこちに同じものがのぞいています。あるものは2−3本の束になり、あるものはヒヤシンスの芽のようなとんがりをのぞかせています。
泥だらけのズボンに、雪まみれの靴で、私はなくした恋人に巡り会ったような至福の時間を過ごしたのでした。

こんなに貴重な、こんなに美しい湿原ですが、農地開発により周辺の山林がなくなって、乾燥化してしまいはしないのでしょうか?
周辺は私の知る限り10年以上こんな状態ですが、こうしていくらかでも湿原が残っているなら大丈夫なのかも知れません。

観光地となっている県内の他の湿原は、遊歩道が整備され、売店があり、車でブーッと行けるようになっています。また湿原の植生を守るために、手厚く保護されています。
湿原を守るために、誰か、いやみんながこの五輪原細池湿原のことをもっと知って欲しいと思うとともに、看板もなく、道もなく、もちろん駐車場も売店もないここに、記憶を頼りにたどりついてこの景色を自分だけのものにするのもおつだなあと、ちょっと複雑な心境でした。

(なお、写真は後日仕事をさぼって撮りに行ったものです。)


「なべのさかやき」目次に戻る