食事を終えて廊下から泉水に目をやると、鯉が一匹死にそうになって沈んでいます。
床が一部ガラス張りになった談話室から見ると、もう2−3匹の鯉が死にかけています。
他の鯉も薄汚れて活気がありません。
このありさまを見て、かけだし庭師の父が辛抱できずに女将に尋ねました。
奥さん、鯉が風邪をひいて死にかけたのもおりますが、消毒の仕方は知っておられますか?
ちょうどそのときコーヒーを運んできた女将は、意外なことにこんな話を聞かせてくれました。
「これは風邪ひきではありません。酸性雨のせいなんです。
酸性雨が銅葺きの屋根を溶かして硫酸銅の毒になり、それが池に流れ込んで鯉が病気になるんです。」
「この池は大正時代に掘られた池で、百二十歳になる鯉もいたのですが、平成七年にそばの建物の屋根を葺き替えたら急にこんなになってしまいまして、鯉屋さんに頼んでいろいろ調べてもらいましたら、屋根の銅が酸性雨に溶けて毒になっていたのです。
日本家屋の銅葺き屋根の家は次々に鯉が病気になっているという話でした。」
この話を聞いて弟が、「イオンを沈殿させる薬品ってないかなあ。」と私に聞くので、
「硫酸イオンならバリウムとかカルシウムで沈殿するよ。」と答えたら
「違うよ、硫酸イオンじゃなくて、毒になるのは銅イオンだろう。」
全くその通りです。銅イオンの致死量はかなり多いはずですが、鯉の死因は重金属中毒なわけです。
「銅イオンを取り去るならEDTAかな?」
「EDTAって何?」
「キレートといって、金属イオンを抱え込んで無毒化させる効果があるよ。」
EDTAというのは、金属イオンの定量分析には欠かせない試薬ですが、重金属中毒の処方にEDTAを使う場合があり、人間に処方する薬なら鯉にも使えるだろうと思ったわけです。
そこまで黙って聞いていた浄化槽技術者(兼庭師)の父は「キレートというのは確かに水処理に使うなあ。」といいながら、キレートの入手方法と、それが下水処理場等で汚水処理に使われていることを教えてくれました。
女将は、突然飛び出した化学談義にびっくりしていましたが、キレートの名前と入手方法をメモしながら聞いていました。
「何度池を干してきれいに掃除をしても、鯉を四人がかりでそっと持ち上げて布団の上で薬を塗ってやっても、ドンドン鯉が死んでしまうので、今いる鯉が死んでしまったらもう鯉を飼うまいと思っていました。死んだ鯉は庭の片隅に深い穴を掘って埋めるのですが、穴のふちに咲く椿が、鯉の命をもらってか、一層赤く美しく咲くのです・・・・。」
「いえいえ、鯉が生きているうちに手を尽くしてやりなさいよ。鯉を水からあげたら鱗がはがれて傷むので、消毒は水を少なくして池に直接マーキュロクロムと食塩を入れるのです。」
女将は丁寧な感謝の言葉と、お土産のおせんべいをくれましたが、果たして池の鯉はキレートで救われるのでしょうか?
庭石の配置を変えるか何かして、雨水が池に入らないようにするのが先決なのは言うまでもありませんが、全国の悩める鯉のためにキレートの効力を是非とも試して欲しいものです。
当所でも同様なことが起こっています。 図書館の池の鯉が7月から死に始め、現在までに100匹位死んだとのことです。 図書館の屋根は銅板葺きです。屋根の雨水は池に入ります。 池には、他には井戸水を入れているだけですから、原因は雨水だと思います。 当所で調べたところ、雨垂れ水の銅濃度は0.01mg/L、 池水の銅濃度は0.006mg/Lでした。 いずれも、水産用水基準(0.001)よりは高い濃度ですが、 これくらいの濃度で鯉は死ぬのでしょうか。 |
上の一件はひと晩泊まった旅先の宿での出来事で、データやその後の経緯も判りません。
正直言って、問題点が明らかになっている以上、鯉の生死は飼い主の熱意にかかっているのですから、鯉狂いの先代に不満のあったらしい女将が鯉を救うために得体の知れないクスリを求めに走ったとは思えません。
しかし、これで銅葺き屋根問題が全国的なものであるらしいことがわかりました。
さて、素人の私は2年近く前に流したデマを裏付けるためにネットでお勉強です。
まず、屋根工事を業とする会社のホームページには、銅葺き屋根の危険性を警告するQ&Aが見られます。
大銅工業株式会社Q&A
株式会社藤田兼三工業Q&A
淡水魚に銅葺き屋根の雨水が有害であることを十分認識されているようです。
魚類に有害な濃度という点では、熱帯魚の白点病を治療するために硫酸銅を使用する例があり、愛好家によって有効な濃度や危険な濃度が議論されています。
ものの本にある1ppmはすでに致死量で、一時的にも0.5ppmが限界のようです。
これは海水魚の例であり、淡水魚はもっと銅イオンに弱いようです。
淡水魚については
こちらに「コイの48時間LD50は 0、18ppm である。」とされており
見受けられる数値の中ではこれが最も低い濃度になっています。
これでもメールにあった銅イオン濃度とはまだ桁が違うので、図書館の池が致死量の銅イオン濃度という証拠にはなりません。
銅イオンの慢性毒性も疑う必要があるかもしれません。
銅の慢性毒性ついてははっきり数値で示した文献はネット上にはみあたりませんでした。蓄積性はないとのことです。
ただ、銅イオンは生体内での呼吸活動を支えるSH酵素を阻害する作用がありエネルギー代謝を阻害することで徐々に鯉の命を奪うということもあるのかも知れません。
書籍では
水生生物と重金属[1]銅
山本和義 著
発行:サイエンティスト社
という本があり、タイトルを見るだけでいかにも有用そうな本であると思わせます。
これは弟が大学の図書館で見つけて内容を抜粋してくれました。
鯉のLC50(半数致死濃度)の資料 CuSO4濃度で24hrで0.42-0.50ppm(CuSO4) Cu(NO3)2 24hr 1.9-2.1ppm 48hr 1.0-1.2 96hr 0.81 CuSO4 24hr 0.081 水の硬度に依存する
鯉は硫酸銅濃度で0.008ppmでは影響ないが、0.024ppmで強い成長の抑制が現れる。
水産用基準では0.01ppmとあるが、これは48hrLC50に0.1を乗じた値を根拠としているが、実際にはさらに1/10の銅濃度でも成長が阻害されることが確認されている。
ダルタチオンやシステインのような低分子SH化合物でも効果が期待できる。
環境水の浄化についてはEDTA、クエン酸ソーダ、チオ硫酸ソーダ、シュウ酸ソーダ、サリチル酸ソーダ、フィチン酸ソーダ、NTA(nitrilotriacetic acid)などが錯体を形成し毒性を減じると知られている。
尾崎ら(1973)は鯉の皮膚の再生速度が0.1ppmCuSO4液中で促進されることを認めている。
硫酸銅で0.002から0.004ppmで非致死濃度での2週間飼育によって0.15ppmでの半数死亡時間が対照例の75時間から100時間に伸びた。 |
この本さえあれば、銅イオンと鯉の関係はおおむね解き明かせたようです。
メールの人の「水産用水基準(0.001)」と、この本の「水産用基準では0.01ppmとあるが」では、数字が1桁違うのが謎ですが、本の記述に従い硫酸銅の分子量(160,五水和物で250)、銅の原子量(63.5)を考え合わせると
硫酸銅濃度 | 銅イオン濃度 | 症状/基準 |
0.1ppm | 0.025ppm | 48時間で半分死ぬ |
0.01ppm | 0.0025ppm | 水産用基準 |
0.001ppm | 0.00025ppm | 成長が阻害される |
これなら数値的に鯉に有害な銅イオン濃度であったと見ることが出来ます。
肝心なのは、この文献にEDTAなどのキレート化合物が銅イオンの無毒化に有効と書いてあることです。
これで、昨年の正月に見た鯉を救う夢が正夢であったことがわかりました。
キレート化合物を池に投入すること自体が有害かも知れないので調べると
独立行政法人製品評価技術基盤機構化学物質管理センターの資料
化学物質評価研究機構の資料
鳥取県衛星環境研究所の論文概要
これらを見る限りEDTAは人体にも環境にも無害と言えそうです。
一番下の論文には面白い研究が書いてあって、湖水中に通常存在する銅イオンがアオコの繁殖を抑制しているが、生活廃水や化学肥料の中に含まれるEDTA様物質が銅イオンを無毒化するためにアオコの発生がみられると指摘しています。
生活廃水にEDTA?
思い当たるのは風呂釜洗いの洗剤にはキレートが含まれると書いてありましたっけ。その他にも染み抜き剤や洗剤にもさりげなくキレート剤が含まれているのではないでしょうか。
赤潮の発生原因は排水の富栄養化ばかりが注目されていますが、特殊とも思われる化学薬品が日常製品に含まれていることにも注意する必要があるようです。
話が逸れました。
ひと晩かかったメールの返信には、キレート剤の調達先にまで及んで報告しておきました。
BASFジャパン社キレート製品ラインアップ
うおー、荷姿790kgフレコンバッグなんて、鯉を救うにはちょっとすごすぎます。
しばらくして来た返信には、お礼の言葉とともに
銅板屋根からの雨水を池に入れないことが最善の策と思いますので、 そのように話をして行きたいと思っています。 |