まず、津山地域の合併協議の歴史ですが、ごく当初の岡山県が提案した枠組みは、津山市、加茂町、阿波村の3つが合併するとまあいいかなという、簡単なものでした。いざ自治体の希望を募ってみると、津山地域は津山市、加茂町、阿波村、勝北町、中央町、久米町、鏡野町、奥津町といった市町村が集まって合併の可能性を探ることになりました。
この時点では勝北町は勝田郡・英田郡の協議会、中央町と久米町は久米郡の協議会、加茂町・奥津町・鏡野町は苫田郡の協議会に属していて、情勢は全く流動的でした。しかし、阿波村だけは飛び地になっても津山市と合併したいという意向を持っていたと聞きます。
この枠組みから先に抜けたのは鏡野町と奥津町で、上斎原村・富村とともに苫田郡西部合併協議会を結成(2003.4.1)しました。加茂町は苫田郡の枠組みに加わるかどうか、住民投票(2003.3.9)の結果をしばらく検討してから津山地域合併協議会の方を選びました。(2003.5.15)
この辺の決まり方は川の流れのとおり、自然なもののように思われます。ただし、富村だけは旭川水系で昔から地理的にも経済的にも真庭郡に近く、私は個人的には富村は真庭郡に合併していった方が自然だと思っていました。現代人の目から見ればそうです。
しかし、明治時代の地図(国土地理院が実費頒布しています)を見れば、苫田郡と真庭郡の境は現代とは別の必然によって決まっていたことがわかります。昔の運輸・通商は馬の背や徒歩によって峠をトコトコと上り下りして村々を結んでいました。これに対して川沿いは定期的に川が氾濫して道路を削り取ったり、埋めたりしますから安定した街道にはなり得ませんでした。
現代人はコンクリートで護岸を固めますから川の氾濫を恐れません。川沿いは標高が変わらず、道も比較的まっすぐに作れますから車の輸送に向いた道が作れます。これに対して峠を上り下りしたり、トンネルを掘ったりして地域をつなぐのはむしろヤボったいことと思うようになりました。富村が久世町とこんなに近くなり、鏡野町から遠くなったのはこの百年のうちに起こった変化なのです。富村と鏡野町・奥津町は昔からあった枠組みを選びました。
同じように加茂町と鏡野町はこの百年間にずいぶん遠くなってしまいました。こちらでは人々は現代的な枠組みの方を選んだわけです。
勝北町は津山地域に加わることにあまり迷いはなかったように見受けられます。住民アンケートが実施されて意見は分かれたものの、東に続く奈義町が早くから合併しない方針を明らかにしていた(2002.12.1住民投票)ので、津山地域の合併に参加するのは地理的・交通的には自然な流れでした。
この段階(2003.5.15)で、津山市と阿波村、勝北町、加茂町、久米町、中央町の1市4町1村で津山地域の合併協議はひとまずスタートを切りました。
周囲を見ると勝英地域(勝央町、勝田町、美作町、作東町、英田町、大原町、東粟倉村、西粟倉村)は勝北町と奈義町が抜けた後の枠組みを模索しています。また、久米郡(久米町、中央町、久米南町、旭町、柵原町)が津山地域と平行して合併を協議していました。
積極的な形で独立を宣言していたのが奈義町と新庄村で、他の自治体の成り行きによっては孤立が心配されていたのが旭町と柵原町でした。(勝手に危ぶんでいたのは私だけかもしれませんが)
柵原町はもともと津山地域、林野地域、周匝地域と、3つにエリアが分かれており、きっぱりとどれに属しているかが定めにくい町です。元をたどれば、昭和の大合併があった昭和30年前後にここには硫化鉄鉱を産する柵原鉱山が繁栄していて、広い地域を合併した経緯があります。柵原鉱山からの鉱石の産出が止まっている今、今度は広域であることが災いして方向性が定めにくいことになりました。
こうした状況の中で、久米町が久米郡5町の合併協議会への参加の是非を問う住民投票を実施(2004.1.25)し、久米郡の合併協議会設置を否決(=津山地域に参加が決定)しました。
これに応じる形で、久米郡地域合併協議会は中央町、久米南町、旭町、柵原町の4町でスタート(2004.2.23)し、中央町が津山地域合併協議会を離脱(2004.3.5)しました。
旭町と柵原町を受け入れてくれる枠組みができてやれやれと私は胸をなでおろしました。(そういう私は県知事か総務大臣か)
久米南町は当初は建部町と合併を協議していた経緯を持っています。しかし、建部町は南に隣接する市町村との合併を希望して残ることになりました。南に隣接する町とは御津町です。そして御津町は岡山市、灘崎町と「岡山県南政令市構想」が進んでおり、さらに南の玉野市との合併をも模索しています。そして、玉野市の南は海です!
ちょっと戯れに並べてみましょうか。
海−玉野市−灘崎町−岡山市−御津町−建部町−久米南町−中央町−津山市
この隣同士がそれなりに仲のよい市町村のつながりの、どこまでがひとつになり、どこが切れるのがいいのでしょう?
こんなことを急いで決めろというのが無理というものでしょうね。
これと並行して、津山市の東の地域でも集合離散が起こりました。
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このお話の時点の合併協議状況(岡山県のHPから転載) |
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これを引き金として「勝央、勝田、美作、英田、柵原」の5町協議会の方に異変が起きます。
美作町は熟考の末、5町協議会を脱退する意向を表明(2004.2.24)し、「勝田、勝央」の塊と「柵原、英田」の塊は道もない桃畑でわずかにつながるのみとなりました。
続いて柵原町が久米郡地域法定合併協議会に参加(2004.3.10)したため、5町協議会を脱退する意向を固めました。(2004.3.11)
結局、美作、柵原、勝田がそろって5町協議会を脱退(2004.3.29)し、「勝央、英田」という飛び地の合併協議会が現在存続しています。
勝田町は美作町の流れに合流し、勝英地域合併協議会(勝田、美作、作東、大原、東粟倉、西粟倉)を結成(2004.3.25)しました。
勝田郡は奈義町が独立、勝北町が津山地域、勝田町が勝英地域、勝央町が「勝央町・英田町地域」と、完全に分裂したことになります。
最後に真庭郡の情勢を見てみます。
真庭郡には30年も前から「真庭市をつくろう」と書いた看板が立っていたほど、地域的、経済的なつながりが強く、合併を模索する動きは古くからありました。
しかし、行政の中心は勝山、商工業の中心は久世、人口は落合と、三極鼎立をなし、市としての人口を確保できない中で、いまひとつ中心が絞りきれていませんでした。
そこに降ってわいた平成の大合併、真庭郡の人たちは真庭市を建設すべく立ち上がりました。
現在の枠組みは「北房町、落合町、久世町、勝山町、美甘村、湯原町、中和村、八束村、川上村」となっています。あ、おおむね国道313号線に沿って並んでいますね。
この中では北房町の中に高梁市との合併を求める動きがあり、今後も多少の変化はあるでしょうが、真庭市ができるのはもう目前です。
市町村合併について、立て続けに思うことを書いてみました。市町村合併の細かなところと大まかなところを見て思うのは、「歴史の大きな変わり目にあたって、皆さんふるさとを大切にしましょうね。」
ということでしょうか。
このお話は途中経過です。歴史的に正確な記述とも言いがたく、私見やけったいな分析も大幅に混ざっています。
私の古なじみのうちには、こういった市町村の出身であって、年に1度ほどもふるさとに帰ってこない友人がいくらかありますので、彼らの故里がどのようにしてその名前を消したか、その先どうなっていくのかをレポートする責任があろうと思ったので、つれづれなるままに記してみました。
また、同じ日、富村の住民団体が真庭地域との合併を求める陳情書に有権者の過半数を超える署名を添えて村長に提出しています。
さかのぼって検証してみれば苫田郡西部合併協議会設置(2003.4.1)が真庭地域(勝山、湯原、久世、美甘が当初メンバー)の合併協議の着手(2003.5月)より早かっただけで、あまり積極的な意思決定ではなかったのかもしれません。
私が以前から思っていたように、苫田郡にあった唯一の旭川水系の村は、旭川水系の仲間を求めて動き始めました。(04.05.29追記)
一方で平成16年8月5日、勝英地域合併協議会(勝田、大原、美作、作東、英田、東粟倉、西粟倉、の5町2村)は第8回会合を開き、合併後に誕生する新市の名称を「美作市」と決めました。
また、富村の住民団体が真庭地域との合併を求めた件については、その後目立った動きはありません。
富村は大きく分けて富西谷と富東谷の2つの谷からなっており、それぞれの川は久世町に入ってからひとつの川になります。富西谷は真庭郡との関係が深く、富東谷は苫田郡との関係が深いので、住民の意見も地理的に偏りがあるというのが実情のようです。これも昭和の大合併の枠組みが災いしているのでしょう。(04.08.07追記)
9月15日、勝英地域合併協議会から西粟倉村が正式に離脱しました。
この間に隣の東粟倉村では住民投票を実施し、「合併する」という意見が「合併しない」という意見をわずかに上回ったため、合併協議会に残ることになっています。
一方、苫田郡西部合併協議会では、まだ新町名が決まっていません。
地勢的には富村以外はまとまりを持った苫田郡西部ですが、住民の意識というのはやはり一律にはいかないようです。
「苫田」や「西苫田」も候補には上がっているようですが、ちょっと待て。それは津山市内の地名です。
津山市役所がある「山北」から北へ神楽尾山のある「総社」までの宮川西岸が「西苫田」で、これに宮川東岸の志戸部や沼、勝部、大田、紫保井など「東苫田」を加えた地域が「苫田」です。
ちょうど今は岡山市になっている「御野」と「津高」があったから「御津郡」、「御津郡」にある町だから「御津町」というのに似ています。この合併で御津町はようやく本来の所在地に溶け込むようですが。
新自治体名がが決まらないという一点だけで合併協議会が解散という事例も全国ではあるようですから、何とか丸く収まることを祈ります。(04.09.26追記)
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津山市合併時点の岡山県地図(岡山県HPより加工・転載) |
ふるさとがその名前を消しても、時代の流れなら致し方ありません。一抹の寂しさを感じながらも、同じ空の下、同じ山川の姿を持った、違う名前となったふるさとを人々は受け入れるのです。
しかしその名前やいきさつの中に、見栄や権勢争いや、一部の人たちの利益追求などが見えるとき、住民はきっぱりとそれを否定するのです。
この1年足らずの間に何が起こったのか、ふるさとの未来、地域の未来に誰がどんな役割を果たしたかをぜひ記憶にとどめて頂きたいと思います。
(05.2.28追記)
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本日の岡山県地図(岡山県HPから加工・転載) |
合併が3月に集中したのは(毎年延長されている)合併特例法の期限をにらんで駆け込んだためで、合併が月曜日に集中するのは土曜日と日曜日の窓口が閉まっている間が電算システム等の変更をしやすいためです。ちなみに2月28日も3月22日も友引ですが、合併集中日との関係は不明です。
地図で次第に増えていく緑のエリアが「平成の大合併」が済んだ市町村です。黄色のところが総務省告示を経て合併を控えているところです。ピンク色は合併協議が進捗中のところで、白いところが様々な理由から合併しないところです。
こうしてみると地図マニアの私としては、西粟倉村から笠岡市に至る合併しない市町村の白い連続が気になります。
これは何を意味しているのでしょう?(そんなことわっかたら神様やがな)
私の見立てでは、この白く残った市町村の多くが南側に山を抱えていること、水系の境界部にあること、南北の中心都市への距離が同じであることなどが見て取れます。ただしこれは結果論で、それぞれの町にそれぞれの悩みや議論があったことだろうと思います。しかし、生活圏と「郡」の枠組みの違いや、町村の両端で拠点となる都市が違っているなど、不利な条件がたしかにあったことでしょう。しっかりした収入源があるからまだ頑張れるというところもありますが。
さて、今日初めて地図上に姿を現した「美咲町」ですが、久米町と久米南町を除いた久米郡が大同団結して誕生した町です。
そのいきさつから、「久米」を名乗ることが出来ず、全く新しい名前を考えました。
聞くところによると、この町名が決まったときはまだ久米南町が合併協議に参加しており、4町の地図上の姿が桜の花を横から見た形に見えるというので提案された名前だということです。ところがその後、久米南町の脱退により、桜の花は花びらだけとなりました。
「美作市」登場を前に「美作」を意識しているようにも見えます。このへんは「瀬戸町」の隣に「瀬戸内市」が出現したのにも似ています。
すでに合併した津山市についていえば、合併しても景色が急に変わるわけではありません。町役場が急になくなるということもありません。
しかし、よく見ると道路標識がいち早く書き換えられていたりします。
津山市では町村だったところだけ市議会選挙が始まっています。町村だったところだけ、もとの町村ごとに定数を決めて行われる特例選挙です。
住所の町名などはいっきに変わってしまいますが、本当の変化はゆっくりと起こるんだなと実感しています。
(05.03.22追記)
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合併も一段落(岡山県HPから加工・転載) |