大谷川を歩く

-大谷川の歴史と地質-


大谷川は津山駅の裏、石山寺の奥に源を発し、南小学校の横で吉井川にそそぐ、どこにでもありそうなささやかな渓流です。
津山城築城400年にちなんで、大谷川で発見された築城残石が400年ぶりに引き上げられ、城下町の大通りで当時の方法で石を引っぱるイベントが行われて、大谷川はにわかに脚光を浴びました。
今日はこの、何の変哲もない川、大谷川を堪能していただきましょう。

私が大谷川にひきつけられたのは、地形図を見ていて、市街地に程近いところに地形が険しい、奥が深い谷が刻まれており、道が通っているのが見て取れたので、単に行ってみたくなったのが発端です。
言うなれば「何か面白いものが見られる」という勘が働いたということです。
それは2年ばかり前のことで、何の予備知識もないまま、ちょっと見つけた余暇に谷に分け入って、私としては十分に好奇心を満足させることができました。

まず、谷の入り口には今回築城残石の「忘れられた石」が引き上げられた広場があります。
広場の右側の小高いところの道を通って、薄暗い峡谷に足を踏み入れます。

谷の入り口の道の脇には、気をつけてみれば今回石曳きイベントに使われたのとは別の残石もありました。くさび(矢穴)のあとがくっきりと並んでいます。
築城用の石は、もっと運び出しやすい場所から切り出したのかと思っていましたが、川底ではなく、こんな奥の、高いところから見つかるということは、想像を絶する困難な道を運び出されたもののようです。

なぜ、このあたりの石が好まれたかというとちゃんと理由があります。
このあたりの地質は中生代白亜紀の流紋岩質岩類とされています。年代的には那岐山を形作っている岩石と同年代です。那岐山系の大部分はやや色の濃い安山岩質岩類であるのに対して、津山市南部の流紋岩質岩類はやや色が薄いものです。
「岩類」とややこしく書くのはマグマがそのまま固まった「溶岩」と、一旦地上や空中に噴出した火山灰が固まった「凝灰岩」があるからです。大谷川の川底はさまざまな色の破片が混じった凝灰岩でした。

溶岩は色が薄くなるほど粘りが強くなり、色が濃いものは粘りが少なくなります。流紋岩質の溶岩は色が薄い種類で、高い盛り上がりの火山を形成し、激しく爆発します。記憶に新しいのは雲仙普賢岳の火砕流ですが、ああいった激しい火山活動のあとに流紋岩質凝灰岩ができます。
火山灰が固まった岩ですから、天然のレンガと言いますか、適当な硬さともろさがあり、加工に向いていますがやや風化に弱いと予想されます。
石材として有名なのは関東北部で産する「大谷石」です。こちらは「おおやいし」と読みます。今日紹介している川は「おおたにがわ」です。念のため。
大谷石も流紋岩質凝灰岩ですが、津山のものより新しい新生代第三紀のものです。やわらかくて加工がしやすいため、石材として広く使われています、ご当地の石垣は大谷石でできているのでしょうか?

津山の凝灰岩はもう少し強度があり、耐久性も大谷石よりは期待できます。

津山市周辺の地質はきわめて大まかに言うと3つに分かれています。中央部にはごく新しい第三紀の砂岩や泥岩があり、これは新しすぎて固まっていないため石垣には使えません。
北部には古生代の泥質岩がありますが、今度は古すぎて広域変成作用を受けており、千枚岩になっています。場所によっても性質は違いますが、これはいわゆるスレートで、硬い割にいきなり薄く割れるため、屋根材には使えても石垣には向きません。やむを得ない場合はこれを石垣に使うでしょうが、切り出しや加工には非常な手間がかかりそうです。
津山市の南部は流紋岩質岩類で、すでに説明したとおり加工しやすく、適度な耐久性もある石です。現代の人は見落としがちですが、恒久的で頑丈な橋がない時代に、わざわざ対岸の石を切り出すことを決断したのは、相当な目利きと言えるでしょう。

なお、岩の種類に深入りしたついでに言えば、北の方、加茂町や奥津町あたりには広く花崗岩が分布しています。石材としては申し分なく、大阪城などはわざわざ小豆島から花崗岩を運び出しているほどですが、これを選択しなかったのは地理的政治的に運輸が不便だったためでしょうか、それとも非常に硬い岩だったため加工技術が追いつかなかったのでしょうか。

さて、入り口で考え込むのはやめて、もう少し奥へ歩を進めてみましょう。

私が大谷川を散策して、まず受けた印象は、県北のどの渓流でも見たことがない奇妙な感じでした。
よく見ればわかりますが、川原が全くないのです。川原を形作る石ころとか砂とか泥がほとんどなく、川底はのっぺりした一枚板でできています。
しばらく進むと、いきなり一枚板がぱっくり割れてトーフの角から落ちるような直角の滝が出現したりします。その上はまた何もなかったようにのっぺりした一枚板の上を川が流れていきます。

普通こうした一枚板の上を川が流れていたら、一番深いところに水や砂が集まってそこが削られ、部分的に深くなって、あとの部分が川原を形成するはずです。ところが、この川は下流のコンクリートで固めたところにそっくりのまっ平らで、水は偏ることなく薄く流れています。

私は台風10号で何もかも流されてしまった後の、特殊な状態を見ているのでしょうか?
どうもそうではないようです。

凝灰岩は加工しやすい反面、風化に弱いことがここで表れているようです。津山市南部でもここの谷の険しさがきわだっているのもこのためのようです。
阿蘇山の近くの高千穂峡といえば、六角柱状の玄武岩が川の両側にそそりたつ奇勝ですが、実はあの周辺の川は無名な川も含めてずっとあんな奇勝になっています。火山性の石は節理といって結晶の成長方向がそろっているために一定の方向に割れやすい性質があります。これに水の作用が加わったら、時には思いもかけない奇妙な景色を作り出します。

ここの石は凝灰岩で、結晶の方向がそろっているどころか、無関係なそのときたまたま地上にあった石まで巻き込んで岩になっていますから、基本的には節理はないはずですが、谷の入り口では菱形に割れやすい癖を持っているように見えました。また、火山灰の堆積によってできた石ですから、生成時の堆積面(この場合は「層理」といいます)に沿って割れやすい可能性も少しはあります。

しばらく川のそばを歩いていると、私がこのページでぜひ紹介したい物件が目に止まります。
何の変哲もない石垣のようです。その上は何の変哲もないガレ場、つまり岩が崩れ放題に崩れた斜面です。

私の思考はこの物件を見たとたん停止してしまいました。
これは路上観察学でいう「トマソン」です。
「不動産に固着したもので使いようがなくて無用になっているけれども何かたたずまいが変な物」のことを「トマソン」といいます。

石垣というのはその上部に何か支えるべきものがあるから築かれるものです。
一方、ガレ場は岩が崩れたり壊れたり捨てられたりしたときに、無秩序に岩が積み重なってできるものです。

これが、上に石垣、下にガレ場なら、単に崩れた石垣ですが、丁寧に組まれた石垣が無秩序な岩の堆積を支えているということは、石垣の築造とガレ場の形成が同時に起こったということです。
誰が何のためにこんな無駄なことをしたのでしょう?

私は考え込みながら、倒木を乗り越え、くもの巣を払いながらなおも山道を歩きました。
この道は古くは山を越えて種地区と城下町を結ぶ主要な道路でした。

種地区は神南備山の南に東西に伸びる集落で、後醍醐天皇は隠岐に流される時、美作路をまっすぐ通らず、こちらの種地区へ迂回しています。

「ききおきし 久米のさら山 越えゆかむ 道とはかねて 思いやはせじ」
後醍醐天皇が種で休憩したときに詠まれた歌が残っています。
枕詞の久米のさら山がどこであるかは、嵯峨山、神南備山、荒神山と諸説ありますが、種地区を貫く脇街道が当時も主要な道路であったことをうかがわせます。

今なら車で山すそをグイーッと迂回するわけですが、昔は直線的に近い道のほうが道幅が細くても山が険しくても街道としては重要でした。

牛馬や徒歩で峠を越えるとき、険しい地形よりも邪魔になったのは川の氾濫でしょう。
大谷川は今風に言えば土石流警戒地域でしょうか、1000年以上前からこの川のふだんはおだやかな渓流を氾濫させないために、古人は知恵と労力を絞ったに違いありません。
私が見つけたガレ場を支える石垣は、ひとつにはこうした古人の努力の跡、この道がかつては今思う以上に重要な道だったしるしとなるものでしょう。
また、川底が滑らかで石ころが落ちていないのもこうした配慮の結果なのかも知れません。

「ひとつには」としたのは、その後有名になった築城残石のことを考え合わせると、このガレ場は築城用の石を切り出した現場であったかも知れないという考えからです。私には調べるすべはありませんが、400年前に石垣の石を切り出した時に、切り出し現場で石を整形し、屑をここに捨てていったのではないでしょうか。
不要な石を捨てながら、捨てた石が川を埋めてしまわないように石垣を築いていったと考えたら、無意味な石垣の意味もわかります。
単に川が埋まるのを防ぎたいだけだったら、石を運び去るのが根本的な解決でしょう。

谷を相当奥まで登ると、谷はいくつかに枝分かれして、渓流の本流は東へ曲がり、道は西へ曲がりながら山の斜面を登り始めます。
鋭く切れ込んだ谷を手作りっぽい石橋で越えているところがあり、この辺から道は道とはいえない状況になってきます。石橋はやはり凝灰岩の石材でできており、どうみても明治以降のものではないようです。
無理やりいにしえの街道を突き進むと、次の石橋はみごとに崩落しており、ここで奇妙な谷の奇妙な散策は終わりになりました。

この文章を読んで、「大谷川ってすごいんだ!」と、ご自分も散策に行きたいと思われましたか?
散策といっても全部で1時間ほどで往復できます。ただし、道は相当荒れているので、サンダル履きや幼児同伴は無理です。あと、マムシにも気をつけましょう。
行ってみれば涼しくて、緑がきれいです、けれども、何の変哲もないささやかな渓流です。
ちょっと歩けば、中生代白亜紀の夢を見、後醍醐天皇の歌を聞き、400年前の築城残石に触れてしまうなんて、津山ってすごいなあと思いました。


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