やがて手が出て足が出る

-おたまじゃくしの手の生え方-


田んぼに水が張られると、大喜びのカエルの大合唱の季節となり、しばらくすると子供がおたまじゃくしをたくさんすくって家に持ち帰ってきます。
自然の生き物とふれあって暮らすのは善いことだというのが私の信念ですから、早速水槽を用意して飼ってみることにします。

飼うのには全く手間がかかりません。水槽と、カエルになったときに溺れないための船(板) と、古くなった食パン1枚、それから3日に1度の水替えが必要です。
水替えのときにいたわったりはしません。井戸から汲み出したばかりの冷水をザブザブ流し込んでやると、おたまじゃくしは冷えきって目を回してしまいます。
我が家の目の前の田んぼの持ち主は、台風で大雨が来ることを当て込んで10日も田に水をあてなかったものですから、(私のジョロによるレスキューもむなしく)田んぼのおたまじゃくしは全滅して、皮肉にも子供に掬われてええ加減に育てられた我が家の水槽だけが生き残りのノアの方舟になってしまいました。

数十匹もおたまじゃくしを飼っていると、4−5日目にはカエルになってピョコピョコと飛び出してくるやつも出てきます。
ウチの奥様は自然の生き物とふれあう事は不快なことと心得ていますから、見苦しいノアの方舟をなんとか処分したがっていますが、子供たちはヒナ鳥を育てるような熱心さでおたまじゃくしを見守っています。

さて、私も近年まで知らなかったのですが、おたまじゃくしの手足の生え方には面白い手順があります。
歌に歌われている「やがて手が出て足が出る」は逆で、「足が出て手が出る」という順番であることはよく知られています。
それでは、足の生え始めとか、手の生え始めは、小さいヒレでも生えてきて、それが指に分かれて手足になるのでしょうか。

私もよく見ない間はそうだと思っていました。
右の写真は、足が生えたあと、脇の辺りがくびれてきて、ちょっとカエルらしいつらがまえになりかけたおたまじゃくしです。
よく見ると脇のあたりの皮膚の下に肘のようなものが突っ張っています。
実はこの段階で、皮膚の下には指もそろった完全な形の手が準備されていて、何かのきっかけで皮膚を破って瞬時に手が生えてくるのです。

足についても同じで、しっぽの付け根にぐりぐりした棒状のものが出来て、ある日皮膚を破ってピョコンと飛び出して足になるのです。その後よく観察してみたら、足はしっぽの付け根から極小の足が生えてきて、次第に丈夫になって足の形を成すというのが真相のようです。
こうして生えてきた手足はしばらくは細くて力がないので、おたまじゃくし自身も邪魔そうにぶらさげて泳いでいるだけですが、しばらくしたらそのキック力に目覚めて積極的に使い始めます。
写真のように手が生える段階になったらもう陸上生活に耐える力はほぼついていますから、手が生えた次の日ぐらいにはしっぽをつけたまま壁を這い登って草むら目指して飛び出していきます。

私がこのおたまじゃくしの手の生え方に感動を覚えたのは、何やら人間的な常識に反しているからです。
人間的な常識とは、「単純なものから複雑なものへ」ものごとは進歩すべきだということです。
しかし、実際の自然は卵からおたまじゃくし、おたまじゃくしからカエルと、一見複雑なものへ進歩しているように見せかけていながら、卵の中におたまじゃくしが含まれ、おたまじゃくしの中にカエルが埋まっているという風に、完全な形が何かということを最初から知っているのです。
ええ、それはアタリマエのことです。自然はいつもそうです。

セミはあの歩き回る幼虫の中に数時間で展開できて空を飛べるようになる羽を収納しています。
もみじの葉っぱは小さなとげのような形で生えてきた段階ですでに7枚の完全なギザギザが巻き込まれたしくみになっています。
人間だってちょっと大きめのケガをしたときは、過不足なく肉や皮膚が再生して、ちょうどケガをする前の高さまで肉が盛ったときにピタリと再生が止まるなんてことが起こります。

卵のときから全ての設計図を完全に備えているのが自然の妙なら、自然が備えたものに努力して自分の望むものを付け加えることが出来るのが人間の妙なんですね。
おたまじゃくし一匹に、人生を感じてしまうのは大げさでしょうか。


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