加茂分町の歴史

-昭和の大合併で何が起こったか-


昨年、このサイトで岡山県北で起こった市町村合併についてその経緯をレポートしました。
その時不思議に思い、謎のままで残っていたのが加茂町の分町と再合併の歴史です。

今年2月28日に津山市に合併した加茂町は、昭和29年4月1日に加茂町・新加茂町・上加茂村が合併してできた町です。
そのうち、加茂町と新加茂町は昭和17年5月28日に一旦合併して加茂町となっていたのに、昭和26年1月1日に分離して、別々の町となっています。
しかも、昭和17年まで加茂町を名乗っていた地域が新加茂町となり、昭和17年まで東加茂村・西加茂村だった地域が加茂町となっています。
その3年3ヶ月の間に何が起こったのでしょう、理由は何で、人々はどうそれを受け止め、どのようにして事態は収拾したのでしょう。
このたび、その経緯についての資料を見つけたのであらましをここに記しておきます。

加茂の中心部には加茂川と倉見川の合流点があり、Y型に中心部を3分しています。
合流点の北側に位置するのが新加茂で、町役場(現津山市加茂支所)、消防署、郵便局、農協、銀行などが集まっています。
合流点の東側が東加茂で、JR因美線加茂駅、加茂中学校があり、県道バイパスの完成を機に商業的にもますます繁栄を見せています。
合流点の西側が西加茂で、ここにはわりと大きな病院があり、その向かいには食料品・日用品のお店があるため、お年寄りがちょっと街へ言って来るよといえばこのあたりを指しています。
上加茂は因美線知和駅、美作河井駅を拠点とした加茂川上流の山間部です。
こうして概観すると、平成の大合併で誕生した真庭市の成り立ちに似ています。行政の中心、流通の中心、生活の中心の3つの場所が手を取り合って山間部の農林業を取り込み、一つの町を形成していくのは自然の成り行きでしょう。

さて、分町の原因となったのは昭和22年の学制改革でした。
それまで旧町村に1つずつあった小学校のうち、1校を廃校にして中学校にする必要が生じたのです。
廃止が決まったのが旧加茂町にあった加茂小学校だったわけですが、この決定に猛烈な反対運動が巻き起こりました。
議論は紛糾してどうにも解決しないので、昭和24年2月26日に住民投票を行い、多数決により加茂小学校は廃校になりました。
しかし、おさまりのつかない加茂小学区内に分町運動が起こり、昭和24年3月18日に分離の住民投票が行われ、分離賛成が多数となりました。
しかし、ハイ決まりましたと簡単に分町は成立するものではありません。町内も紛糾し、県議会もまた容易に結論は出せず、分町が可決されたのは翌昭和25年の8月30日でした。

こうして昭和26年1月1日に新加茂町は成立しました。
年表概略
昭和17.5.27加茂町・東加茂村・西加茂村
が合併して加茂町発足
昭和22年学制改革
昭和24.2.26住民投票により
加茂小学校廃校を決定
昭和24.3.18分離の住民投票
昭和26.1.1加茂町・新加茂町が分離
昭和28.2第1回合併研究委員会
昭和29.2.10町村議会で合併を決議
昭和29.4.1合併して加茂町発足

しかし、地理的にも経済的にも密接な関係があり、10年も1つの町としてやってきたものが分離してしまったことには非常に無理があり、新加茂町の住民の中にも再合併を強く望む人がありました。
また、分離に努力した有力者の中には合併により体力のある町を作るのが時代の趨勢である中で、それに逆行してしまったことへの反省がありました。

一方、残った加茂町としては、加茂郷の発展は両町の融和提携にあるとして、庁舎の新設をせず、新加茂町の庁舎と共用することとしました。小中学校も両町の組合立としての経営を望み、小学校3校設置へと基本方針を改めました。
加茂郷の真の発展を望む熱烈なラブコールです。

こうして分町の原因となった小学校廃校問題が解消したので、再合併の動きが早速具体化しました。
今度は加茂町・新加茂町に上加茂村、阿波村を加えた合併が目標です。
昭和28年の1月には4ヶ町村の議長会で合併問題を研究する申し合わせがなされました。
2月になって合併研究会が開催されましたが、阿波村は研究会に参加せず、結局3町村による自治研究会が発足することになりました。

阿波村が合併に消極的だったのは、地形的な独立性が高かったことと、当時は林業が盛んで阿波村は経済的に潤沢であり、合併にメリットが見出せなかったからではないかと思います。(ここは筆者私見です)
上加茂村は阿波村と地形的・経済的に密接なつながりがあるため、阿波村が消極的な中では合併に困難があり、住民の説得や阿波村に対する合併参加の交渉に相当の苦労があったようです。
結局、研究・交渉・住民説得に1年を費やしましたが、昭和28年12月の最終交渉で阿波村は(「将来合併の機あるも」)今回の合併には参加しないという態度を表明したので合併懇談会はついに3ヶ町村での合併に舵を切りました。

昭和29年1月、上加茂村としては阿波村抜きの合併にやはり困難を感じ、合併見送りの意見も強かったようですが、2月になってようやく合併の方針を決定し、2月10日に関係町村議会で町村の合併を決議し、4月1日に加茂町として発足しました。
合併の決議から新町発足まで約50日って、今から思えばものすごくスピード合併だと思います。

私がこの歴史をほじくり返してみたかったのは、平成の大合併が現在進行形である今、昭和の大合併の齟齬であったと思われる加茂郷分町の歴史と、現在起こっている平成の大合併を比較してみて、歴史に学ぶことが何かなかっただろうかという思いからでした。

調べてみた感想は、分町も、再合併も熱烈な郷土愛に根ざして起こった事件だったんだなあと思いました。

平成の大合併と比較して見ると、まずモチーフは同じといえます。
昭和の大合併までは住民の大半が農林業で、村があれば必ず産業の場としての田畑山林がそこにあるわけですから、どんな区切りで町村を区切っても全く問題のない時代が過去にはありました。
産業のうち商工業が盛んになると、商業・工業・運輸・行政・金融という分担が微妙に偏ってきて、人々は橋を渡って互いに通勤するようになりました。
人々は町に行って経済活動をし財貨を生み出しながら、田舎に帰って地元の役場の各種サービスを受けることになります。
産業と生活の範囲にずれがあると、田舎の役場では、税収よりも負担の方が大きくなるのは当然です。
こうして通勤圏を単位とした自治体の再編成が起こるのが昭和と平成の大合併の共通したモチーフです。

昭和の大合併は自転車で30分の範囲、平成の大合併は車で30分の通勤圏が職・住の一本化には手ごろな範囲でした。
実際に起こった平成の大合併を見ると、様々な経緯をたどりながらもこの法則におおむね合致した組み合わせで合併が成立しているようです。

昭和の合併と平成の合併とを比較して、違っているなあと思うのは、地域を思う住民の熱意でしょうか。
今回は合併に関して熱烈な賛同もなければ、強硬な反対もあまり見られなかったように思います。
昭和17年の合併から10年を経た加茂町が地域を思う熱意のあまり分町し、地域の真の発展を願って再合併に至った歴史は、自分たちの力で歴史を作り、町の将来を考えていこうという住民のパワーを感じさせます。
加茂の名は津山市加茂町として永久に残ることとなりました。これも加茂の住民の願いだったのでしょう。

そして、昭和の大合併と平成の大合併の背景の大きな違いは、自治体の台所事情ではないかと私はにらんでいます。
昨年から平成の大合併のいきさつを見守って来ましたが、住民の方に全く盛り上がりがないのにこんなに急速に自治体が姿を消してしまうことに私は驚きを感じました。
昭和の大合併が起こった当時は、戦後の混乱期とは言いながら町村の財政状況は安定しており、健全な財政状況のもとだからこそ、地域の未来について活発で建設的な議論が巻き起こったのでしょう。
平成の大合併では、最大の問題は市町村の抱える負債の大きさでした。財政状況さえ健全なら、住民パワーの高まりもないのにこんなに急激に地図が塗り替えられることもなく、自分たちがどんな町を作っていこうかという議論の熟成を待って地域の帰属を決めていくことができたでしょう。
地域や住民は分割できますが、負債は分割できないため、市町村は分割することができません。別々の拠点都市を志向するエリアが町村内に併存した富村や柵原町の帰属についてみんな困ったことでしょう。
そして、加茂でかつて起こったような分町というのも、同じ理由からもはや起こりえない事象といえます。

平成の合併を眺めてきて、昭和に起こった加茂町分町の理由と背景がどうしても気になったのは、時代を超えて何かそこに強い住民パワーがあったことを感じさせたからでした。
住民パワーが盛り上がらないのは、財政が不健全なせいなのか。ひょっとして財政が不健全なのは住民パワーが足りないせいなのか。
こういう時代だからこそ、地域の歴史を重んじ、地域の将来を思うこころを歴史から学びたいと思います。
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