私が見た原爆資料館

-大人の視点で見る原爆資料-


この季節になると、戦争のこと、そして原爆のことを思い出すのは、もはや日本人の習慣となった感があります。
今日は2年前の夏に訪れた、広島の平和記念資料館で私が感じたことを書いてみます。
例によってkumapooh的切り口ですから、全ての人が同じように体感できるものではありません。念のため。

真夏の平和記念公園は、原爆投下の当日もこうだったのかと思わせる陽射しでした。
平和記念資料館の展示は、25年ほど前、中学生の頃に見た時と同じ強烈な印象を与えました。
30万人が住む都市に、あんな破壊的で不健康な爆弾を投下するなんて、それが生じさせる悲惨さについての想像力が全く欠如していなければ出来るものではありません。
正直言って私は、その展示の悲惨さに言葉もなく、何かのどの奥に詰まったような重苦しい感じを受けながら、たった一人で見学したのでした。

平和記念資料館のサイト

しかし、25年を経て改めて原爆資料を大人の視点で見た私は、2つの点で強烈な違和感を受けました。

まず感じたのは、展示内容に青少年が被爆したことを示す資料が圧倒的に多いことです。(西館の展示
確かに、多くの青少年や子供がが被爆したことは悲惨です。悲惨さを強調し、多くの人の共感を呼ぶためにはこういう資料が確かに効果的でしょう。しかし、展示の質が偏っているために、かえって何かが隠蔽されているような感じを受けました。
それはおそらく意図的な隠蔽ではないでしょう。印象的な展示、共感を呼ぶ展示を厳選し、洗練していく中でこのように展示が偏ってしまったのでしょう。
また、この資料館が多くの小中学校の修学旅行や平和学習のコースに組み込まれており、子供の見学者が非常に多いことも関連があると思われます。

何が隠蔽されていると感じるのかというと、被爆した大人の姿、そこで行われていて、突然切断された日常の姿がいまひとつ見えてこないのです。
こども向けにアレンジされた展示の向こうに、軍事都市としての広島の活動、繁華街の町並みと賑わい、そのとき大人は何を見、どう活動していたかという日常がかすんでしまっているのです。
それは米軍が広島を原爆投下地点に選んだ理由とも関係しているのではないでしょうか。

もう一つの違和感は、被爆直前の広島の町を再現したジオラマを見たときに感じました。(東館の展示、順路としては東館を先に見るようになっています)
さっき歩いてきた平和大通り、今見学している平和公園、そして広島駅周辺の山陽本線の複線化とおぼしき拡張、それらの工事が原爆投下のその朝に進捗中であったことです。
原爆で焼け野原になったから平和公園や平和大通りが出来たのではありません。

それは建物疎開という作業でした。空襲による火災から街(実際は軍事施設)を守るためにあらかじめ建物(庶民の家)を取り壊していたのです。
そしてこの作業に学徒を動員していたことが少年の被爆者を増やした原因になりました。
戦争で必要だからと市民の家を思うように取り壊せる政府。文句も言えずに立ち退きに従う市民。勉強する代わりに方々から駆り集められて他人の家の解体作業に働く児童・生徒。
それは、30万人の上に新型爆弾を投下するアメリカの傲慢にも劣らない、非人間的な戦争絵巻です。
アメリカだって、せめて自国民や自軍のの兵隊は大切にしたものを、日本では自国の都市の地図上に定規で線を引いて、「この線の上の家は全部取り壊し。」と指図する誰かがいたのです。

戦争を引き起こした原因は、戦争によって得をする誰かの利権が膨れ上がって暴走したものだと私は考えています。
まさか平和記念資料館でその利権の暴走するさま(ジオラマ)を見るとは思いませんでしたし、平和記念資料館そのものが利権の焼け跡に建っていたとは想像もしていませんでした。

平和を願い、平和について考えるとき、戦争の予兆に何が起こるのか、背後に何があるのかを学ぶ必要もあると思います。
決して悪魔の心を持った大悪人が戦争を引き起こすのではありません。指導者たる者の度を過ぎた欲の心と、指導者の暴走から目をそらしてしまった市民が日本を戦争に導きました。
悲惨な歴史を繰り返さないため、歴史に学ぶには、原爆投下のそのときに軍事都市広島がどんな活動をしていたのか、そのとき大人は何を見、どう活動していたかを私は知りたかったのです。

この記事は「平和記念資料館の展示に不満があった」という趣旨ではありません。「利権をむさぼって欲の皮がはちきれそうな指導者を見たら、彼らが戦争を引き起こさないうちに何とかしましょう。」という趣旨ですから、そこのところ誤解なきよう願います。

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