中山神社の本業タイル

-美作の礎と近代タイルの祖-


「なべのさかやき」のネタに向いたものがあると伺ったので、一宮の中山神社を訪ねてみました。
正面の大鳥居中山造と呼ばれる本殿
中山神社は美作国一宮であり、慶雲4年(西暦707年)に4月3日に創建されたと伝えられています。
美作国が備前国から分立したのが和銅6年(西暦713年)4月3日であり、中山神社は美作国創立の礎として重要な位置を占めていたことが伺えます。
中山神社の名の由来は、吉備の中山から祭神を勧請したことによっています。吉備の中山とは、北に吉備津神社、東に吉備津彦神社、南には黒住教本部のある神々の宿る山です。

古来日本では神様を勧請する(神社を設置する)時に、その土地を先に支配していた神を捨て去らずに、新しい神社の一角に祠を建てて祀ることになっています。こうして先住民の恨みを鎮め、平穏な政権交代を実現する知恵だったのでしょう。
中山神社でこれにあたるのが國司神社で、本殿の西にあります。かつては112もの攝末社が存在したそうですが、尼子晴久の美作攻略のときに消失して國司神社、猿神社など数社しか残っていません。

ここからは私の推測を含みますが、歴史をひも解いてみれば、美作は吉備の国の一角として地域としては日本の一角に数えられていたものの、その支配者は地元の産鉄・鉱山を握っている豪族であり、大和朝廷の支配が及ばない時期があったと考えられます。
一方、吉備の国は古来から神武東征のルートであり、8年間首都であった(!)ぐらい大和朝廷の支配が強い地域でした。
文武天皇の時代になって、戦いの結果か、国譲りだったのかはわかりませんが、美作地方が大和朝廷の支配に降ることになり、真っ先に行われたのが豪族の祭っていた祭神の廃止と大和朝廷の神(この場合は吉備津神社)の勧請だったというわけです。
中山神社の創始と美作国の創始がともに4月3日というところから、これは同時だったとする説もありますが、祭神(=支配のシンボル)の交替がなくて支配者が交替することはあり得ませんから、まず支配のシンボルとしての中山神社があって、それから具体的な行政府としての美作国が成立したということが出来るでしょう。

ついでに、8年間首都があったという吉備高島宮の所在場所については、諸説紛々の謎となっていますが、私はそれは吉備中山そのものであったと思います(根拠はありません)。あそこは2000年前は島だったのです。そしてそこを島でなくしたのは美作地方で行われた鉄穴流しによる砂鉄採取(で流出した砂)でした。岡山平野を埋め尽くすほどの砂を流し、そこから採れた鉄は軍事力の要として注目の的でした。大和朝廷にとっては美作国は是非とも支配したい要衝だったのです。
尼子晴久が勢力拡大を企図したとき真っ先に美作を攻略したのも鉄の産地としての美作を意識したものだったに違いありません。
美作国から流れ出した砂が高島宮を島でなくして歴史上の謎を作り、美作国に勧請した吉備中山の神様が、日本で一番有名な「中山神社」となる、美作国は古来すごい力を持った国だったのです。痛快ではありませんか。

さて、中山神社にある珍しいモノとは、社務所の入口の足元にあります。
中山神社に相当詳しい人でも、あまり気に止めたことはなさそうです。聞いてみても実際知る人もなかったものです。
社務所入口のタイル百年を経てなお美しさを保つ
社務所入口の足元にタイルが使われていますが、これは「本業タイル」といって、明治から昭和の初期に生産されていた国産タイルの元祖となるものです。

このタイル、一見白くて磁器質の現代のタイルと同じように見えますが、瓦のような陶器質の土の表面に磁器質の土を薄く肉付けし、そこに模様を印刷して焼き上げてあります。
模様は銅版の転写印刷によるものですが、銅版に染料をつけて一旦和紙に模様を転写し(凹版印刷のように)、その和紙をタイルに貼り付けて再度模様を転写していたそうです。このアイデアによって微妙にカーブしたタイルの表面にくっきりとした模様を印刷することができたのです。

瀬戸物といえば今は白くて硬質な磁器を指し示す言葉となっていますが、瀬戸は江戸時代から陶器の産地としての伝統を持っていました。江戸後期に有田焼の技法を導入して、瀬戸でも磁器質の焼き物を作るようになると、瀬戸ではそれまで作っていた伝統の陶器を「本業」と呼び、磁器を「新製」と呼んで区別するようになりました。
明治になって西洋文化が流入すると、洋風建築の装飾に洋風のタイルが必要となってきましたが、輸入されるタイルは高価でとても需要に間に合いません。一方、瀬戸の本業窯では、伝統的に敷瓦というタイル状の平たい瓦を生産していました。これをベースにして本業窯の人たちが考案したのが本業タイルです。
本業タイルは、最初は手書きで描いていた模様を銅版による転写印刷にすることで、工業的な大量生産が可能となり、「本業」と「新製」が競い合っていた瀬戸の焼き物の中で「本業」の復権を支える役割を果たしました。 この本業タイルは瀬戸の焼き物の歴史も反映しているのです。
清らかで美しいこの本業タイルは、明治・大正期の洋風建築の繁栄とともに全国でモダンな建物に数多く使われました。
その後、芯まで磁器質のタイルが国産化され、本業タイルは昭和の初期に建材としての歴史を終えます。今では茶道具としてわずかに焼かれているだけです。

さて、中山神社の本業タイルはいつ貼られたのか定かではありませんが、境内に日露戦争戦勝記念の記念物が数多く残されている所を見れば、ちょうど百年ほど前に大改装があったものと推察されます。出雲大社宮司の千家男爵が来訪した際にこの玄関と風呂と便所に貼ったものだそうです。

表面の薄い磁器質の下は、瓦に似た陶土が見える
私が訪問した時は8月の真っ盛りの暑さの中でした。
足元に敷かれているタイルですから、土に汚れていることを予想して、バケツと雑巾とペットボトルの水を持参しての参拝です。
社務所を訪問してわけを話すと、快く箒も貸していただき、水道の水も使わせて頂けました。
広い境内に堂々とした社殿、そしてその歴史の重みに思いを馳せながら、ひざまずいて汗を垂らしてのタイル磨きです。
上の写真のように一部は傷んでいるものもありますが、全体としては人に踏まれながら百年を経たものとは思えない美しさを保っています。何より驚いたのは、目地にひび割れがあるものの、1枚もタイルが失われていないということです。これは現代の薄っぺらい磁器タイルでは考えられない耐久性です。
硬質で美しい表面と、しなやかで丈夫な基盤を持つ二層構造が、百年たっても1枚も失われずにここにある理由でしょう。

中山神社は今年で創建1300年を迎えました。
美作国創立の礎としての歴史、鉄の神、軍事の神、そして農耕の神として崇拝されてきた歴史の中に、こうした別種の歴史が織り込まれているというのは面白いことだと思います。
創建1300年行事として社務所の改修も計画されているとのことですが、この本業タイルもまた歴史の一部として大切にしていって欲しいと思います。
(参考文献:藤森照信「インテリアタイルの源流」TILING No.13 1993 所収)
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