山よ、なぜそこにあるのか。(中編)

-津山地域の火成岩類-


前回は、津山盆地の堆積岩の形成、いわば「水の時代」のお話でした。
先のお話で津山地方の「水の時代」は古生代石炭紀〜二畳紀、中生代三畳紀、新生代第三紀中新世、それから新生代第四紀(現代)のことでした。ひとかたまりの「水の時代」があったわけではなく、津山地域の堆積岩(堆積物)はこの飛び飛びの4つの時代に形づくられました。

今回は津山盆地の火成岩の形成について、つまり「火の時代」のお話です。

6種の火成岩を探す


具体的なお話に入る前に、火成岩についての基礎知識を仕入れておきましょう。
まず火成岩とは、地下のマグマから出来た岩ということでひとまとめにすることが出来ます。
これをさらに大きく分けると、火山から噴き出して固まった火山岩、そしてマグマが地下でゆっくり冷えてできた深成岩に大別されます。
上記の二大別とは別に、火成岩は含まれる鉱物とそれによる色合いで分類することができ、白っぽい石、中ぐらいの石、黒っぽい石に三大別されます。
二大別、三大別にはさらに細分類がありますが、とりあえず教科書的なところでは2×3の6種類を押さえておけばいいでしょう。
種別白っぽい中ぐらい黒っぽい
かざんがん
火山岩
りゅうもんがん
流紋岩
あんざんがん
安山岩
げんぶがん
玄武岩
しんせいがん
深成岩
かこうがん
花崗岩
せんりょくがん
閃緑岩
はんれいがん
斑糲岩
それぞれの岩石について、火山岩から順に紹介していきます。

流紋岩は流れ模様(流理構造)が見られるということで、こういう名前がついていますが、私は今まで流理構造のある流紋岩にはなかなかお目にかかれませんでした。

今回採集に行った爪ヶ城中腹の渓流では、上の写真のような流理構造をもった流紋岩が見られたので、ああ、これが流紋岩の名前の由来なのだなあと納得しました。
なお、岩石の採集や観察をするときには、なるべく風化していない面を観察するのが重要なポイントです。河川を流れてきた岩石では正確な産出地が特定できませんし、風化した岩石は色合いが変わってしまっていて教材には不向きです。そういう意味では渓流で拾った風化した岩石というのは標本価値が小ですが、流理構造が見られたのでまあ流紋岩の代表としておきましょう。

この爪ヶ城・滝山の南斜面一帯に見られる流紋岩質の岩石は新生代第三紀中期始新世、5200万年前〜4000万年前という時代のものだそうです。先のお話の古津山海の形成よりいくらか前のことになります。
一方、もっと古い中生代白亜紀後期の流紋岩質の岩石は津山盆地の南部から和気町、備前市にかけての岡山県南東部に広く分布しています。
恐竜のいた時代ですが和気町一帯ではかつて富士山と同規模の火山があったと考えられています。

流紋岩質の岩としたのは、火山で出来た岩の仲間には、溶岩がそのまま固まった岩石ばかりでなく、火山灰として噴出したあとで積み重なって固まった凝灰岩も含まれるからです。凝灰岩は厳密に分類すれば堆積岩に含まれますが、成因から考えるとまぎれもなく火山性の石です。
流紋岩質の溶岩というのは粘りが少なく、ドロドロと流れることは少なく、火山灰として広く飛び散ったり、雲仙普賢岳のように周りの岩を巻き込んだ火砕流となって堆積することが多いことから、生粋の流紋岩が幅広く見られることよりは幅広く凝灰岩が堆積している場合が多いようです。
神南備山の岩石も、そこから切り出された鶴山城の石垣も流紋岩質凝灰岩です。お城の石垣に近づいてみれば、多くの石が砂っぽい粒で出来ていて、角ばった岩石のかけらを含んでいるのが観察できます。

次は安山岩です。

那岐山、滝山の大部分はこの安山岩でできています。
上の写真は那岐山登山口付近の渓流で取った写真ですが、粒々の鉱物の結晶である斑晶(はんしょう)が散らばった模様になっています。斑晶の間を埋める部分を石基(せっき)といいます。
先ほどの流紋岩に比べたら色が黒っぽいと言えるでしょう。

那岐山系の安山岩は先に説明した流紋岩と同時代の新生代第三紀始新世ですが、蒜山は第四紀中期更新世(70万年前〜15万年前)、大山は蒜山と同程度に古い古期大山と呼ばれる火山の跡に5万年前〜1万年前まで活動していた新期大山がそびえています。1万年前というと、地質的にはついこの間のことのようです。いえ、大山に限っては活動が休んでいるだけで過去のものではないと言えます。
安山岩の名前の由来は「アンデス山脈の石」、つまり南米アンデスで特徴的な火山岩だったのでアンデス石の意味のandesite、これを訳して安山岩が語源になっています。

ここまで調べて、私の頭に浮かんだのは、「じゃあ、『黒ぼこ』って何よ」という疑問でした。
私は那岐山のふもとに分布する水はけがよくて肥沃な土壌『黒ぼこ』は火山灰土だとばかり思っていましたが、那岐山が火山だったのは4000万年よりまだ前です。その後の古津山海の地層の上にも黒ぼこは存在します。
黒ぼこは那岐山が噴火した火山灰ではなく那岐山の安山岩が風化し洗い出されて出来た土壌、ブラジルのテラローシャと同じように、ゆっくりと溶け出すことによって育まれた土壌なんですね。

玄武岩は津山地方を代表するというほど多くはありませんが、あちこちに点在して分布します。

この写真は阿波と加茂町倉見の境にある大ヶ山の山頂付近の玄武岩です。
時代としては新生代第三紀鮮新世、500万年前から600万年前のものと考えられています。津山地方の石としてはかなり新しいものです。古津山海より3倍ぐらい新しく、蒜山・大山よりはだいぶ古いということになります。
かなり黒っぽい岩石で、ポツポツと黒い斑晶が見られます。ここの玄武岩は風化するとすぐ白っぽく変色しますから、割りたての面を観察するのがポイントです。
大ヶ山の頂上は標高がほぼ1000mで平坦なテーブル状になっています。谷を隔てて東の黒岩高原も、北側の五輪原高原も玄武岩質で標高1000mそこそこのテーブル上の高原になっています。
岩が黒いから黒岩高原、黒い岩を背景に白い布のように滝が流れ落ちているので「布滝(のんだき)」と名がつきました。
また、人形峠のウラン鉱床と密接に関係のある火山岩類も同時期の玄武岩・安山岩類(凝灰岩を含む)です。
布滝女山の玄武岩

上の写真右は鏡野町の女山(めんやま)の玄武岩ですが、亀の甲羅のように六角柱状に割れる傾向(柱状節理)があるのが玄武岩の特徴です。
また、玄武岩の溶岩は流動性が高く、激しい爆発や高い山を作ることが比較的少なくて、大きく横に広がる玄武岩台地を作ることが多くなっています。

玄武岩の「玄武」とは、中国神話の北方を司る神、黒い亀に蛇が絡まった姿をしています。亀の甲羅のように割れる黒い岩を玄武岩と名づけたのはなかなかセンスのある命名です。
一方、インドの世界観では亀と蛇が世界の全てを支える土台となっています。

インドではこれを玄武と名づけているわけではありませんが、地学をちょっと学ぶとここに不思議な偶然があることがわかります。
地面を掘って、掘って、どこまでも掘り下げると、地球上のどこでもマントルに達する前にたどり着くのが玄武岩なのです。海底を掘っても、大陸を掘っても、もちろん日本列島のどこを掘っても、地殻の最下層は黒くて六角に割れる玄武岩にたどり着くのです。(地下深くの玄武岩に節理があるかどうかはわかりません)


右の図はプレート理論の超概略図です。
マントルが対流で上昇してきているところは、地面の裂け目ができて玄武岩が噴出してきます。結果、そこは新しい地面となって地表に付け加わります。いわばベルトコンベアーのスタート地点です。
このスタート地点の多くは大洋底にあって見ることができませんが、海底山脈になっていて海嶺(かいれい)と呼ばれています。アフリカ東部では地上部でこの裂け目が進行しており、グレート・リフト・バレーと呼ばれています。
スタート地点で玄武岩の噴出により地表(海底)が作られるために、地殻全体はおおむね玄武岩でできているわけです。

一方、プレートのベルトコンベアーの終点はどうなっているかというと、多くは海溝になっています。海底を進んできたプレートの上にいろいろなものが堆積していますが、これが海溝を乗り越えて大陸に付け加わっていきます。数億年の時を経て日本海溝の周辺にたまった堆積物が日本列島を形成しました。
大陸は海洋底とは別の玄武岩のプレートに乗っていますが、ごくまれに分裂したり、集合したりします。

いよいよ地球の構造にまで大風呂敷を広げてしまいましたが、玄武岩はもともと地殻の底の方にある岩というところがこのお話のポイントです。
それがなぜか中国山地では、黒岩高原、大ヶ山、五輪原、人形峠といった、1000m級の山頂に分布している。そこが奇妙です。

謎解きは後回しにして、次は深成岩の紹介をしておきましょう。

花崗岩。中国山地で一番なじみが深い岩石が花崗岩です。
石材として使えばみかげ石(御影石)と呼ばれます。万成石、北木石は県南ですが、岡山県を代表する石材です。
津山地方での分布は加茂地区、鏡野北部地区、久米南部地区が主なところでしょうか。 白っぽい硬い岩石で、近づいてみれば粒がそろった鉱物でできていて、風化すると真砂土(まさつち)になるのが特徴です。 結晶の粒がそろっていて、わりと風化しやすいために、花崗岩が風化して出来た真砂土を選別すると砂鉄が取れます。古くから行われていた鉄穴流し(かんなながし)という方法が比重選別による砂鉄採取です。中国山地の花崗岩から出る砂鉄は、たたら製鉄で玉鋼となり、備前長船の名刀の産地をささえました。
花崗岩は自然に割れるときには、サイコロのような四角い形に割れる傾向(方状節理)があります。また川床が花崗岩の場合、水に洗われて滑らかな川床を形成します。これを「ナメラ」と言います。
花崗岩と真砂土川床の花崗岩

先ほど、地殻の最下層は玄武岩で出来ていると説明しましたが、陸地は、どんどん下に掘り進んでいくと、多くの場合花崗岩になっています。
花崗岩は地下深くでマグマが冷え固まった、いわば陸地の根っこのようなものだと言えます。大きく見れば堆積岩や火山岩はその上に薄っぺらくくっついているだけなのです。
例によって超概念図

中国山地では脊梁部の山が険しくなっているあたりがおおむね花崗岩、およびその他の深成岩ということで、やはりちょっと謎を残します。

閃緑岩は、深成岩のうち、花崗岩よりやや黒っぽい鉱物を多く含む岩石です。

花崗岩より黒っぽい鉱物が多く、次の斑れい岩よりは白っぽい、中間色の深成岩です。
この標本は加茂町下津川、津川ダムの上流にある岩体のものです。
産総研や国土庁の地質図では斑れい岩質の岩体とされているので、私の見立ては違っているかもしれませんが、色あいとしては閃緑岩としてもよいと思っています。
このお話の隠れた目的は、「津山市に産出する岩石だけで教科書的な岩石園が作れるか」の調査なので、ここはぜひ閃緑岩を確保しておきたいところです。

火成岩の紹介の最後は、斑れい岩です。

漢字で書くと「斑糲岩」と、難しい字になっています。
一般的な深成岩の中では最も黒っぽい岩石になります。
斑れい岩は産地がわりと限られていて、珍しい岩石という意識が私にはあったのですが、実は津山市最高峰の天狗岩は斑れい岩の岩体でした。
天狗岩の写真(2006年5月21日)
天狗岩に登ってハンマーを振るうのは憚られるので、加茂町倉見に行って天狗岩方面から流れてくる渓流で斑れい岩を拾いました。

那岐山の根っこを探す

さて、火成岩の概略を説明できたところで(くどい話なのでよく分かっていただけたとは思いませんが)、いつも見上げている那岐山の興味深い部分を見に行きましょう。
那岐山系断面図(私の想像)
火山岩・堆積岩・深成岩の関係で一般論として考えられることは、
  1. 火山岩(流紋岩・安山岩・玄武岩)は火山の石だから上のほうにある。
  2. 堆積岩(ここでは古生層・第三紀層)はおおむね水底に積もるのでやや低いところにある。
  3. 深成岩(花崗岩・閃緑岩・斑れい岩)は地下深くで出来る岩なので下のほうにある
という法則です。
ただ、地下の極めて深いところは例外的に玄武岩でできています。
私の知識を総動員して描いた那岐山系の断面図はまさにそうなっています。

ところで、地質図とにらめっこしていたら、那岐山の南側に花崗岩が顔をのぞかせているところが目にとまりました。上の断面図で「ここを見に行きたい」と矢印がさしているところです。
最近は地質図がネットで見られるようになっているので、ぜひ探してみてください。
産業技術総合研究所の「シームレス地質図」


地図で言えば右の図の「杉ヶ乢」と書いてある旧道の峠から北東方向へこの岩石は分布しています。
毎日この山々を仰いでは、「山よ、なぜそこにあるのか。」と問い続け、少しずつわかってきたことがあります。

那岐山は火山の石でできているとはいえ、ずいぶん古いもので、今ある山の形に噴火口があったわけではありません。これだけ大きくても、今はなくなった火山の痕跡に過ぎないものです。
黒ぼこも火山灰ではなく、安山岩が風化して洗い出された土壌であって、火山の痕跡と言えるものではありません。
しかも那岐山は結構な厚みの古生層の上に乗っかっています。

「那岐山はなぜそこにあるのか?」と問うた時、火山性の石で出来ていても「火山だから」というのは答えの半分に過ぎないようなのです。

那岐山の地質を古い順に読み解いていくと、
  1. 太平洋の海底で長い間に堆積物が降り積もった(2億5000万年前以前・古生代)
  2. 1.の堆積物が地下深くで高い圧力で変成を受けた(2億3000万年前〜1億6000万年前・中生代ジュラ紀前後)
  3. 2.の変成岩の下からマグマが入り込んで地下深くで固まった(6500万年前〜5200万年前・新生代古第三紀暁新世〜始新世)
  4. 火山が噴火して流紋岩や安山岩、凝灰岩からなる山を作った(5200万年前〜4000万年前・新生代古第三紀始新世)
  5. 西の方から海が侵入し、南側が暖かい浅い海になった。(2200万年前〜1500万年前・新生代新第三紀中新世前期〜中期)
  6. 再び陸になり、3.の安山岩類が洗い出されて黒ぼこの土壌を作った(170万年前〜現代・新生代第四期)
こうしてみると、3.で地下深くのマグマが固まった時は、この岩体は数千mの深さにあったはずです。それが4.になると地上に出て他の岩石とともに火山の溶岩に覆われてしまいます。
5.になると再び海面下に沈むわけですが、奈義町あたりでは標高400mぐらいから下しか5.時代の地層が見られません。古津山海の上には那岐山、いやそのもとになるもっと高い山がそびえていたと考えられます。
こんなに浮沈を繰り返した那岐山の南側に花崗岩が出ているということは、那岐山の北側の花崗岩と対応して那岐山の「底」を表しているのだろうと私は考えたわけです。

学術的には山に底や根っこがあるわけではありませんが、花崗岩の下はずっと(かなり)下まで花崗岩というのが地学の基本法則です。那岐山の裾にチラリとのぞくこれは、那岐山の根っこだと思うとぜひ見に行きたくなりました。
行ってみると花崗岩というにはやや黒い鉱物の多い、閃緑岩に近い岩でした。山の中なのでわかりにくいですが、比較的広範囲に分布しています。
この場所は現在標高350m、この岩ができた時は地下深く、数千mのところで出来たはずです。
それがこの上に火山が噴火するまでの間に地上に出て来てこの面まで削られていたわけです。多く見積もって2000万年ほどの期間のうちにです。
これは地質学的に特に珍しい現象ではありません。異常なほど速い隆起とも言えません。
那岐山の山は確かに火山の石で出来ていますが、山を山たらしめているのは火山活動ではなく、むしろその山を支える何か大きな力の役割のほうが大きいのです。

玄武岩台地の謎

那岐山系より北側に位置する津山市加茂地区や鏡野町北部は、中国山地の懐深くになりますが、地質の大半が花崗岩でできています。
これは先ほどの法則「深成岩は深いところでできる」に逆らっているようです。
そしてさらに面白いことには、標高1000m前後のところに玄武岩台地が広がっています。

黒岩高原から人形峠にかけての玄武岩・安山岩の分布
102番が玄武岩、98番が凝灰岩
157,128,129などは基盤岩
玄武岩台地は先に玄武岩の説明で触れたように黒岩高原、大ヶ山、五輪原と広がり、恩原高原の北、人形峠の北の高清水高原にも広がっています。そしていずれも標高が1000m前後なのです。
時代としては500万年前〜600万年前、新生代新第三紀鮮新世ですから、地質年代としては相当新しい部類に入ります。

男女山の玄武岩も同時代のものです。男女山の場合、噴火口に至る地下のマグマの通り道が棒状に残っているだけで、その古い火道を中心にして2つの山になっています。
私の想像では男女山が火山だった頃は、現在の男山の山頂ぐらいの高さにテーブル状に広がる玄武岩台地があったのではないかと思います。この辺の第三紀層は標高170mぐらいが上限です。そして玄武岩の溶岩は激しい爆発を伴わず広く横に流れる性質を持っているため、ハワイ島のキラウエア火山やアイスランドの火山のように、平らに広がった溶岩台地を形成します。
そこにそういう火山があったはずなのですが、下の地層が非常に柔らかかったために短期間のうちに削られて火道だけ残ったわけです。弥高山、荒戸山をはじめ岡山県内にはそういう山が他にも多数あります。

さて、またまた話が逸れてしまいましたが、中国山地の県境近く、標高1000mというテッペンは、地の底にあって全てを支えているはずの玄武岩が噴き出して広い台地を作っています。
私が注目したのは、なぜ広い範囲で玄武岩台地の標高がそろっているかという点でした。

これらの台地をなす玄武岩が噴出した時代がそろっているとして、その時点では玄武岩のベースになる地面の標高がそろっていたということです。 さしわたし20kmにも及ぶ範囲で標高が揃うということは、現在でも起こっている現象に当てはめれば、ある時期そこが海面近い標高だったということを示しています。
長い年月の間には、海面より高い土地は削られ、海岸近くの海は埋まります。岡山県北の中国山地の屋根の部分について言えば、玄武岩が噴出する時代までにいっときは海面近くまで削られた平野が広がっていたと想像されます。
海岸近くの平野に噴火が起こったのか、一旦隆起してから噴火が起こったのか、隆起しながら噴火が続いたのかは今のところ私の知識の中にありませんが、鳥取県側は同じ時代の玄武岩・安山岩のが次第に標高を下げながら海まで続いていますから、隆起と噴火は同時期に平行して起こったことではないかと思います。
地球の歴史45億年のうちで500万年はつい最近です。そして中国山地の脊梁部はこの間にほぼ1000mの隆起があったということです。

中国地方には3つの高さを持った面があると言われています。一番南が瀬戸内海に面した低くなだらかな瀬戸内面、中部は標高が400mから800mの吉備高原面、この面は石見高原も含みます。そしてその北の標高1200m前後の面が道後山面と呼ばれています。
この道後山面の隆起、約1000m分が、この500万年、長く見積もっても古津山海があった1600万年前以降の間に起こっているというわけです。
500万年で1000mなら、平均すると5年で1ミリです。理由あって大地が本気で隆起する場合は1年に1cmを超える隆起もありますから、それに比べればまだまだ穏やかな隆起です。

私が気にしたのは、古生代・中生代に海底で堆積し、新生代になっても海に削られてきた中国地方の大地が、ごく最近になってからモリモリ隆起して山を作っていることの不思議です。
「山よ、なぜそこにあるのか」その問いかけに対する答えは、「大地が思いもよらない大きな力で躍動し、その山を押し上げているからだ、しかもそれが起こったのはわりと最近だ。」となるのです。

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