分校の四季(春の章)

-つとまるかどうかわからないけど、やってみます。-


3月末のある日、校長に呼ばれてこう言われました。
「分校に上がってくれんか。」
それは、私の願ってもかなうはずのなかった仕事へのオファーでした。
私は即答しました。
「つとまるかどうかわからないけど、やってみます。」
その一言は今でも私の人生を前へと進めてくれています。


滝沿いのつづら折れの坂を上った先にある、小さな分校は、下界よりやや春の訪れは遅く、校庭の桜はまだつぼみの時期でした。
私は3年生のサオリさん(仮名)、4年生のミキちゃん(仮名)の2人だけの複式学級の担任となりました。
教室は板張りなので正確にはわかりませんが16畳ぐらいでしょうか。小さな教卓と向かい合わせにわりと今風な子供用の机が2つ。部屋の隅には茶色いアップライト型の電子ピアノ、反対の隅には教卓と同じくらい古い先生用の机があります。また、入り口寄りにテーブルクロスを掛けたテーブルがあり、給食はこのテーブルに集まってみんなで食べることになっていました。
もうひとつの学級は、私の複式学級よりちょっと小さい部屋で、1年生のサトちゃん(仮名)がひとりにM木先生(仮名)という2人きりの学級でした。


女の子3人に先生が2人という、たった5人(男は私ひとり)の学校ですが、もう一人メンバーがいます。それは「しろ」という名のパンダうさぎです。
子供たちが家から野菜を持ってきて世話をしていました。そして休み時間には校庭に放して一緒に駆け回っていました。
「しろ」にしてみれば、毎日小屋で暮らして退屈している上に、外に出たら至るところにごちそう(雑草)が生えているものですから一度放してしまうとまた小屋に戻すのは大変です。あまり広くない校庭ばかりでなく、校舎の裏側にまで回って逃げ回ります。
でも子供たちはいつも世話をしているわけですから慣れたものです。えさでおびき寄せたり、みんなで挟み撃ちにしたりして無事小屋に戻します。そこらへんの腕前は先生より一枚上手でした。

分校へと通う道のりは、さほど遠距離ではありませんが、山肌に張り付くジグザグの細道で、何百メートルも車がすれ違いの出来ないところが続く場所もあります。大きな岩が落ちていたり、冬は雪で埋まってチェーンが必要なこともあります。
では悪夢のような通勤かというと、私の車はホンダのスポーツカーですから、まさにこんな道のために作られた(?)ような車。日々移り変わる絶景の中をスイスイと走り抜けて通勤するのは大きな楽しみでした。
道が滝の上の岩壁に張り付くような場所は絶景で、そこを通り抜けると、景色が急に開けて分校のある里に入ります。

新緑のサル(神庭の滝にて)

ある日、毎朝の細道をいつものように走り抜け、道路脇にひび割れて崩れそうな大岩がある場所にさしかかると、サルの大群が道を占領して通れなくなっていました。
いつもならサルがいても1匹か2匹で、車を見かけるとすばやく立ち去っていくものですが、今日ばかりは赤ちゃんを抱いた母ザルなどもいて、家族総出、いや群れが総出でちっともどいてくれる気配がありません。
しばらく見ていると、元気の良い若いサルが木に登ってさかんに枝を揺すぶっています。そうすると新芽と枝がこすれて新芽や若い葉っぱが路面に散らばります。下で待っているサルは路面に散らばっている新芽を拾って絶賛朝食中のようです。道路は落とした新芽が落ち葉や岩の隙間に隠れてしまわないので絶好の朝食テーブルなわけです。
こういうときはクラクションを鳴らしたり、車をグイグイ進めて朝食の邪魔をするのは無粋でしょうね。
分校では、毎朝子供が学校のカギを開けて、先生が本校から上がってくるまで読書タイムをしながら待っていますから、少々のことで慌てる必要はありません。サルの群れは悠々と食事をしてから道を空けてくれました。

分校は標高500メートルよりちょっと上にあるので、校庭の八重桜は本校の桜よりちょっと遅れて満開になります。
校庭の桜が満開になったある日、M木先生の発案で給食を食べるテーブルを桜の木の下に出し、花見給食としゃれ込みました。
暖かい春の陽射しの中で、風が吹くたびに食べている給食の器にも、テーブルにも花びらが降り注ぎ、最高に贅沢な給食でした。
給食を食べ終えると、満開の桜の下で記念撮影をしてみました。
そしてその後、悪のりして私が桜の幹をつかんで揺すると、子供たちにも、先生にも、テーブルにも、つつじの植え込みにも、牡丹雪のように花びらが舞い散って積もりました。それを子供たちが帽子で受けて、また宙に散らします。
このときのスナップは額に入れて分校の廊下に飾りました。写真では本当に美しい一幅の画に見えますが、当事者の5人だけは「桜の木をいたわりましょう」という教訓を破ってしまった苦笑の思い出でこの写真を見ていました。

給食の後は自由時間の後、そうじです。
教室2つ、廊下、土間とトイレ、外回りを5人で分担して掃除します。学校全体で5人ですからサボるとかダベるとかいうのとは無縁です。かなり一生懸命にやらないと時間内に終わらないし、出来なかった場合見かねて手を出してくれる人などいないのです。
こうした分校の話をすると、「子供が素朴で理想的な教育ができるのでは?」などと問い返されることが多いのですが、子供たちの家にはテレビもゲームも一通りありますから、家に帰ったらアニメを見たり、ファミコンをしたりして遊んでいます。一方、校長の家の隣の空家に住み着いて一人で暮らしている私は、テレビも新聞もない世界で自炊と読書の生活を送っていました。分校の5人の中で一番素朴で不便な生活を送っていたのは他ならぬ私でした。

私がこの分校で1年を過ごしたのは、数えてみれば20年前のことです。
分校は、私が教員でなくなってからほどなく閉校になり、今では地域の集会所になっています。
近年訪問した人が、「校庭に草が生えたりして、ちょっと荒れているようだったよ。」というのを聞いて久しぶりに訪問してみたら、確かに草は生えていたものの、きちんと補修されていて、私が過ごしていた頃よりもきれいでした。

「つとまるかどうかわからないけど、やってみる」なんて、今にして思えばプロ意識がない甘えた先生だったとしみじみ思いますが、その思いは今になっても、どこへ行っても私を前に進めてくれています。そしてそれを見守ってくれた周囲の人々に感謝しています。



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