挙す、僧、雲門に問う、如何なるか是一代時教。雲門とは中国の偉大な禅師です。
雲門云く、対一説。
垂示に云く、一部SJISでは記載できない漢字があるのでご容赦ください。殺人刀 、活人剣 は、乃 ち上古の風規、是れ今時の枢要なり。
且 く道 え、如今那箇 か是れ殺人刀、活人剣。試看 に挙 さん。
〔本則〕 挙 す、僧、雲門に問う、是れ目前の機にあらず、亦 た目前の事 に非ざる時、如何 。〔ぼっ 跳 して什麼 をか作 ん。退倒 三千里。〕門云く、 倒一説 〔 平出 、款 は囚人の口より出づ。也た放過することを得ず、荒草裏 に身を横 う。〕〔頌〕 倒一説、 〔 放不下 。七花八裂。須弥南畔 巻尽す五千四十八。〕分一節。 〔なんじが辺に在り我が辺に在り。半ばは河南、半ばは河北。手を 杷 って共に行く。〕同死同生、君が為に 訣 す。〔 泥裏 に土塊 を洗う。甚 の来由 かを著 く。なんじを放 すことを得ず。〕八万四千 鳳毛 に非ず、〔羽毛相似たり、はなはだ人の威光を減ず。 漆桶 、麻の如く粟の如し。〕三十三人虎穴に入る。 〔唯だ我れ能く知る、一将は求め難し。 野狐精 の一隊。〕別、別。 〔 什麼 の別処か有らん。少売弄 。ぼっ跳 するに一任す。〕擾擾怱怱 たり水裏 の月。〔青天白日。頭に迷うて影を認め、 著忙 して什麼 をか作 ん。〕
師が弟子を導く時、断ち切って寸分も許さない殺人刀を振るうこともあれば、与えて生かす活人剣を使うこともある。この働きは、ずっと昔の仏祖から伝わる決まりごとであり、また今でも教えの枢要となっている。雪竇の格調高いテキストに対して圜悟のツッコミ(下語)は乱暴な言い方が目立ちます。これこそ「対一説」の働きの好例というもので、解りの悪い学僧たちに対して、テキストを丸呑みしても何も解ったことにならないぞと厳しく戒めています。
さて言ってみよ、今ここでどんなものが殺人刀、活人剣なのか。試みに次の問題を挙げよう。
〔本則〕 僧が雲門に尋ねた、「目の前にあらわれる働きでない、また目の前にあらわれる現象でないとき、どうなのですか。」 〔そんなに躍り上がってどうしようというのだ。こりゃ逃げるしかない。〕 雲門は答えた。「言葉にすると真理は逸れてしまう。」 〔雲門サラリと言ってのけたな。罪状は容疑者自身にに語らせるものだ。まだ雲門を許すことは出来んぞ。煩悩の世界に身を横たえている。〕 〔頌〕 言葉であらわすと真理は逸れてしまう、 〔ほら早速その言葉に囚われて捨てられなくなっている、真理は木っ端微塵だ。しかし須弥山の南、われわれが住むこの世界で、一大蔵経五千四十八巻を一言で言い尽くしてしまった。〕 しかし真理の半分だけを言い表している。 〔お前のところにもある、俺のところにもある、半分は河南、半分は河北、手を取って一緒に行く。〕 同じ心で歩む君のために雲門がズバリと決めてくれたぞ。 〔雲門、泥の中で泥を洗っている。それはどういう因縁があるというのか。雲門がズバリと決めてくれたなんて言うお前(雪竇)を許すわけにはいかん。〕 釈迦入滅の時に八万四千人の大衆が集まったが、迦葉尊者以外はちっとも冴えない解っていない弟子ばかりだった。 〔冴えないとはいえ釈迦の弟子、たいへん人を馬鹿にしている。まあ、漆桶の底ぐらい真っ暗闇の者が世の中非常に多いことは確かだ。〕 しかし迦葉尊者から禅の教えを引き継いだ三十三人の祖師は大変な苦労をして法を今に伝えた。 〔それはわし(圜悟)もよく知っている。優れた大将はなかなか見つからず、偽者ばかりが世間を跋扈している。〕 いやいや、格別なところがある。 〔どこが格別というのだ、ひけらかすなよ雪竇よ。勝手に跳ね回っているがよい。〕 ざわざわと揺れ動く水に映る月影のよう。 〔ようく解ったろう。曇った鏡を見て頭がなくなったと慌てた演若達多という美女のように、言葉について回ってどうするつもりだ。〕
「言句はすべて顛倒である。言句に述べると真理は逸れてしまうという意。」と解説しています。
さて説法すべき相手もなく、解決すべき問題も起らない時は如何でござるか。雲門云く倒一説。これは対一説が一向わけのわからぬ単語であったごとく、同じく不可解な単語であるが、対一説が応病与薬、自由自在に衆生済度をしてゆくことならば、これはその逆でその説法の矛先を自己の内面に向け、厳しく自己批判をし自己救済をしてゆくことであろう。という解説がされていて、質問が「目前の機、目前の事がないときどうするか」という解釈をされています。衆生済度が活人剣、自己批判が殺人刀というわけです。
これもこれまでの老師方の提唱ではまるでわからぬ。「秋月氏はそれでも何か説くべきものがあると言います。倒 に一説す」と、素直に読めばよいのだ。森本省念老師はあるとき子どもの相手をした。本を読んでやっても、しばらくはいいが、子どものことだからしまいにはあきてくる。そこで老師は「昔々ある所に」を逆にして「シカム、シカム、ニロコトルア」と読んでやったら、子どもたちはこれでもう大喜び。ここで老師はいう、「あんたはん、『正法眼蔵』をさかさに読んでみなはれ、斜めに読んでみなはれ」と。相手が子どもなら子どものように、奴僕なら奴僕になって、時には自分の方が逆立ちしてでも説かなければならぬ大事があると、雲門は教えている。