倒一説

-命の杖ことばを持とう-


座右の銘、と言いますか、心の支えになる言葉、行動の規範にする言葉というのは誰でも持っていると思います。
その言葉に助けられて生きていく、「命の杖ことば」を持つことは大切なことです。

私は「命の杖ことば」として、「倒一説(とういっせつ)」という一句を選びました。
この言葉を座右の銘にせよと万人に勧めることは出来ませんが、この不可解な一句と私のつきあいについてちょっとお話してみようと思います。

「倒一説」というのは禅語です。
禅宗のテキスト「碧巌録」の第15則、「雲門倒一説」の公案(参禅の問題になるもの)に出てくる言葉で、この公案は同じく「碧巌録」の第14則、「雲門対一説」の公案と対をなすものです。
出来るだけ難しいものを選んで取り組みたがる性分のせいで私は、禅問答の世界を垣間見るにあたって、とりわけ難解そうなこの言葉を選んで、一生かかってもこの言葉について考えようと、そう思ったのです。

普通は禅問答の道に入るには「隻手音声(せきしゅおんじょう)」とか「趙州無字(じょうしゅうむじ)」の公案から入っていくものですが、私に言わせれば「入門編といえどもどうせ一生わからない」のです。
禅というのは悟りに達してこそホンモノです。市井の凡夫が入門編をかじってわかったつもりになるのは悟りとは程遠いところであり、「趙州無字」の門から一歩も入れないまま生涯を過ごすならいっそ、もっと難しそうな問題を一生頭にこびりつかせて生きていこうと、そういう風に考えたのです。

さて、「倒一説」の紹介に入る前に、その前則となる「対一説」の方をご紹介しておいた方がいいでしょう。
「雲門対一説」の公案とはこんなお話です。

挙す、僧、雲門に問う、如何なるか是一代時教。
雲門云く、対一説。
雲門とは中国の偉大な禅師です。
そこへひとりの僧がやってきて雲門を試します。
「お釈迦様が一代の間に説いた説法はお経にまとめると五千四十余巻になりますが、いったいどういうものですか。」
雲門はこれに答えて言いました。
「相手と機会に応じて説くのだ。」

「相手を見て言い方を変える」「方便」というのは、現代ではむしろ良くない意味で受けとられがちですが、釈尊の救いの教えを何とかして悩み苦しむ人々に伝えたい、そういう願いがこの言葉ににじんでいます。
あなたの目の前の私、私の目の前のあなた、伝えたい教えがある。今ここに伝える。
説き手と聞き手の組み合わせの数だけの「対一説」があって、それを書き記したお経は五千四十余巻にもなっているけれども、伝えたい教えはたった一つなんだよということです。

そこから先は読者の皆様それぞれに探求してください。
私はお坊さんではないので人に説く資格はないのです。

さて、ここから今日の本題の「倒一説」の説明に入ります。
「碧巌録」は、古来の禅師の言葉や行跡を雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)和尚がとりまとめたテキストを、圜悟克勤(えんごこくごん)和尚が門下生に講義したものを収録したもので、百則あります。「本則」と「頌(じゅ)」は雪竇による言葉で、「垂示」と「下語(あぎょ)」は圜悟によるものです。
(以下では余計に難解になることを覚悟で垂示と下語も載せています。下語は青字で示しました。圜悟和尚には申し訳ないが、青字は飛ばして読んだほうが意味が通じます。)

垂示に云く、殺人刀(せつにんとう)活人剣(かつにんけん)は、(すなわ)ち上古の風規、是れ今時の枢要なり。
(しばら)()え、如今那箇(によこんなこ)か是れ殺人刀、活人剣。試看(こころみ)()さん。

〔本則〕
()す、僧、雲門に問う、是れ目前の機にあらず、()た目前の()に非ざる時、如何(いかん)
〔ぼっ(ちょう)して什麼(なに)をか()ん。退倒(たいとう)三千里。〕
門云く、倒一説(とういっせつ)
平出(びょうしゅつ)(かん)は囚人の口より出づ。也た放過することを得ず、荒草裏(こうそうり)に身を(よこた)う。〕


〔頌〕
倒一説、
放不下(ほうふげ)。七花八裂。須弥南畔(しゅみなんぱん)巻尽す五千四十八。〕
分一節。
〔なんじが辺に在り我が辺に在り。半ばは河南、半ばは河北。手を()って共に行く。〕
同死同生、君が為に(けっ)す。
泥裏(でいり)土塊(どかい)を洗う。(なん)来由(らいゆう)かを()く。なんじを(ゆる)すことを得ず。〕
八万四千鳳毛(ほうもう)に非ず、
〔羽毛相似たり、はなはだ人の威光を減ず。漆桶(しっつう)、麻の如く粟の如し。〕
三十三人虎穴に入る。
〔唯だ我れ能く知る、一将は求め難し。野狐精(やこぜい)の一隊。〕
別、別。
什麼(なん)の別処か有らん。少売弄(しょうまいろう)。ぼっ(ちょう)するに一任す。〕
擾擾怱怱(じょうじょうそうそう)たり水裏(すいり)の月。
〔青天白日。頭に迷うて影を認め、著忙(ぢゃくぼう)して什麼(なに)をか()ん。〕
一部SJISでは記載できない漢字があるのでご容赦ください。
何とも解読困難な問答ですが、私なりの訳をつけてみます。
(私なりの解釈の部分もあるので、あくまでも雰囲気をお伝えするためのものとご理解ください。)
師が弟子を導く時、断ち切って寸分も許さない殺人刀を振るうこともあれば、与えて生かす活人剣を使うこともある。この働きは、ずっと昔の仏祖から伝わる決まりごとであり、また今でも教えの枢要となっている。
さて言ってみよ、今ここでどんなものが殺人刀、活人剣なのか。試みに次の問題を挙げよう。

〔本則〕
僧が雲門に尋ねた、「目の前にあらわれる働きでない、また目の前にあらわれる現象でないとき、どうなのですか。」
〔そんなに躍り上がってどうしようというのだ。こりゃ逃げるしかない。〕
雲門は答えた。「言葉にすると真理は逸れてしまう。」
〔雲門サラリと言ってのけたな。罪状は容疑者自身にに語らせるものだ。まだ雲門を許すことは出来んぞ。煩悩の世界に身を横たえている。〕

〔頌〕
言葉であらわすと真理は逸れてしまう、
〔ほら早速その言葉に囚われて捨てられなくなっている、真理は木っ端微塵だ。しかし須弥山の南、われわれが住むこの世界で、一大蔵経五千四十八巻を一言で言い尽くしてしまった。〕
しかし真理の半分だけを言い表している。
〔お前のところにもある、俺のところにもある、半分は河南、半分は河北、手を取って一緒に行く。〕
同じ心で歩む君のために雲門がズバリと決めてくれたぞ。
〔雲門、泥の中で泥を洗っている。それはどういう因縁があるというのか。雲門がズバリと決めてくれたなんて言うお前(雪竇)を許すわけにはいかん。〕
釈迦入滅の時に八万四千人の大衆が集まったが、迦葉尊者以外はちっとも冴えない解っていない弟子ばかりだった。
〔冴えないとはいえ釈迦の弟子、たいへん人を馬鹿にしている。まあ、漆桶の底ぐらい真っ暗闇の者が世の中非常に多いことは確かだ。〕
しかし迦葉尊者から禅の教えを引き継いだ三十三人の祖師は大変な苦労をして法を今に伝えた。
〔それはわし(圜悟)もよく知っている。優れた大将はなかなか見つからず、偽者ばかりが世間を跋扈している。〕
いやいや、格別なところがある。
〔どこが格別というのだ、ひけらかすなよ雪竇よ。勝手に跳ね回っているがよい。〕
ざわざわと揺れ動く水に映る月影のよう。
〔ようく解ったろう。曇った鏡を見て頭がなくなったと慌てた演若達多という美女のように、言葉について回ってどうするつもりだ。〕
雪竇の格調高いテキストに対して圜悟のツッコミ(下語)は乱暴な言い方が目立ちます。これこそ「対一説」の働きの好例というもので、解りの悪い学僧たちに対して、テキストを丸呑みしても何も解ったことにならないぞと厳しく戒めています。
さらには雪竇のテキスト「雪竇頌古」自体にも激しくかみつく始末ですが、これも雪竇がけしからんからではなくて、テキストが美しいばかりに「指を見て月を見ない」学僧たちへの叱咤の言葉です。
もとのテキストである「雪竇頌古」ではなく、その講義録である「碧巌録」の方がこうして大切に伝えられ、読まれているというのは、圜悟の乱暴にして、しかし親切な語り口がひときわ優れていたということの証でしょう。

さて、この「倒一説」とは何のことでしょう?

上の現代語訳は平田精耕老師の「現代語訳碧巌集」を参考にしながら自分の言葉に置き換えたものですが、平田精耕老師は同書で「倒一説」を
「言句はすべて顛倒である。言句に述べると真理は逸れてしまうという意。」
と解説しています。
こう訳すと、前則である「対一説」の「相手に応じて説く、対機説法」という内容とピタリと対句になります。
じゃあ、何を言っても顛倒、言った途端に真理から逸れるなら、どうしろと雲門は言っているのでしょう。

山田無文老師の「碧巌物語」では、
さて説法すべき相手もなく、解決すべき問題も起らない時は如何でござるか。雲門云く倒一説。これは対一説が一向わけのわからぬ単語であったごとく、同じく不可解な単語であるが、対一説が応病与薬、自由自在に衆生済度をしてゆくことならば、これはその逆でその説法の矛先を自己の内面に向け、厳しく自己批判をし自己救済をしてゆくことであろう。
という解説がされていて、質問が「目前の機、目前の事ないときどうするか」という解釈をされています。衆生済度が活人剣、自己批判が殺人刀というわけです。
多くの師家がこの解釈を取り入れておられますが、「目前の機、目前の事ない」ことと「目前の機、目前の事ない」こととは根本的に設問が違います。

秋月龍a氏の「一日一禅」で紹介されている逸話では
これもこれまでの老師方の提唱ではまるでわからぬ。「(さかしま)に一説す」と、素直に読めばよいのだ。森本省念老師はあるとき子どもの相手をした。本を読んでやっても、しばらくはいいが、子どものことだからしまいにはあきてくる。そこで老師は「昔々ある所に」を逆にして「シカム、シカム、ニロコトルア」と読んでやったら、子どもたちはこれでもう大喜び。ここで老師はいう、「あんたはん、『正法眼蔵』をさかさに読んでみなはれ、斜めに読んでみなはれ」と。相手が子どもなら子どものように、奴僕なら奴僕になって、時には自分の方が逆立ちしてでも説かなければならぬ大事があると、雲門は教えている。
秋月氏はそれでも何か説くべきものがあると言います。

このように「倒一説」の公案は問いも答えも人により解釈がまちまちで、調べるほどにわからなくなります。
私としては「倒」のにんべんがとれて「(いた)って一説す」だったらずいぶん意味が通るのだがなぁ。と思ってもみました。目前の機でないなら目前に行けばいいのではないかと。

そもそも雲門に問いかけたこの僧は、荘子の「目撃道存」の話(田子方篇の中で孔子が楚の賢人、温伯雪子に会見したときの逸話)「一見すれば道を体得した人はわかるものだ」という言葉を背景に雲門にこの語を問うています。「じゃあ、会ってもない人、見たこともない事にはどう対一説するのですか」と。いわば異種格闘技に持ち込もうとしたわけです。
「会ってもない人にはどうすりゃいいのですか」と問われて、「会ってみよう」はありかもしれませんが、会ったことのない全ての人に会いに行くわけにもいかないので無理な話でしょう。

禅とは感得するものであって、調べて考えて理解するものではないわけですが、この「倒一説」に関しては調べれば調べるほどに設問さえ何のことかわからないという非常に難儀な公案なのです。(ま、禅語にはありがちなことです。)

さて、私がこれを座右の銘として20年、わかったことはここまでです。
しかし最近になって不思議なことに、この言葉が私の人生を助けてくれていることに気がつきました。

この言葉と出会ったときは20代だった私も年を経て、体力は衰える代わりに仕事と体重はずいぶん重くなりました。
もとよりお人よしの器用貧乏、人がグズグズしている仕事は、「こういう風にやればうまくいくんだよ」と口を挟まずにはいられません。
帰ってくる賞賛の言葉は、「すごいね。僕はそんなにうまく出来ないからこれからはあなたにお願いするわ。」ときます。
そうして同じ仕事を長く続けているうちに、滓のように溜まった仕事と責任がまとわりついてずいぶん重くなってしまいました。日暮れて道遠しの心境です。

そこで気がついたのが、ずっと携えてきた意味不明の「命の杖ことば」の効用です。
「これは『対一説』の場面なのか?『倒一説』の場面なのか?」
「これは目前の機なのか?目前の事なのか?」
「ひょっとして自分は目前の機、目前の事でないのに『対一説』しようとしていないか?」

こう自分に問いかけることにより、滓のように溜まりがちな仕事と責任、時間と気力を奪うあらゆるものに対して、出会った時にこの杖でコツコツ叩いて点検する習慣がつきました。
背負い込んでしまってからでは手遅れのことが多いです。そのためいつでも取り出せるようにこの杖言葉を常に携えている必要があります。

ここ数年でしょうか、その心がけが功を奏して、衰えた体力なりの穏やかな心を取り戻す事ができたような気がします。
要するに「無用の時に『対一説』するな」ということだったんですね。
そして『対一説』すべきことに出会ったら全力でそれに取り組むのです。
それは本業・本務のことばかりとは限りません。得てして「わが子の宿題を監督する」とか「末っ子を幸せな気分で寝かせつける」とかいった、世間では軽んじられがちな仕事である事も多々あります。
「目前の機、目前の事」とは、自分を最も必要としている、そして自分に最も身近な案件なのではないでしょうか。
そしてそういった案件が自分自身を幸せに導くにはわりと有効だったりします。

さて『倒一説』がどうすることなのか、意味はまだわかりません。
そのため私はとりあえず「『倒一説』をせざるを得なくなる場面を避ける」というのが習慣になりました。

先日、東日本大震災が起こったばかりで、ニュースでは被災地の悲惨な状況が流れてきます。また、ニュースには決して出てこない悲痛な出来事が現場にはまだまだあるはずです。
ちょうどそんな時に、「目の前の出来事でないなら関係ない、関わらない」という意味にも取れるこのお話をするのはやや抵抗がありました。
テレビに映る被災地の現実は目前の事なんでしょうか。ネットで流れてくるニュースや噂にはどう応じたらいいのでしょうか。
これは目前の機なのでしょうか、目前の事なのでしょうか。

テレビやネットや新聞から流れてくるこれらの出来事に、私は『倒一説』の杖をコツコツと当てて問いかけます。
それで、『倒一説』を行わなければならない「目前の機でない、目前の事でない」ことに出会ってしまったら、そおっとそれを避けることにしています。
「あ、こりゃ『倒一説』だわ。」と思ったらコソコソ逃げだすのが私の(今の)『倒一説』との付き合い方なのです。

例えば、知人からメールが来て、「関東で電力が不足して被災地が停電になるから全国で節電してください。それとこのメールを出来るだけ多くの人に回してください。」などと書いてあったならば、「関東で電力が不足して被災地が停電になる」は申し訳ないが目前の機ではなく、「これはチェーンメールというデマを流布する手段だから、惑わされずに正しい情報に基づいて行動してね。」と周囲の人に言い聞かせるのが目前の機なのです。

また、ニュースなどで津波の映像をを延々と見ても、申し訳ないがこれは目前の事ではなく、自分が街頭に出かけていってちょっと多めに募金をするというのが、自分にとってはまさに目前の事なのです。

今の世の中、テレビ画面の向こう側にあることが多すぎて、こうしてみればテレビの前で目前の機に出会うことはあまりないようです。映っていることはたぶん真実です。しかし目前の機、すなわち私の出番ではないのです。
情報過多の今の世の中だからこそ、そこのところをわきまえて、例えばネットサーフィンにうつつを抜かして次の日の仕事ぶりが冴えないとかそういった愚はいましめたいところです。

雲門和尚のたたきつけた『倒一説』の語の意味は、私には一生わからないままでしょう。
それでも私にとってこの言葉は、折れることもない、捨てることも出来ない、命の杖に違いないのです。


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