分校の四季(夏の章)

-おかわり禁止令事件-


6月に入ると、分校の庭のあじさいには小さなアマガエルがたくさんやってきて、いろどりを添えます。
カエルと聞けばイメージだけで毛嫌いするのは分校の女の子たちも同じですが、おたまじゃくしからカエルになれたばかりの極小のアマガエルは、透き通ったような緑色をしていて生きた宝石のようです。
ミキちゃん(仮名)とサオリさん(仮名)に、あじさいのスケッチをするように命じた私は、スケッチが出来上がる間、カメラ片手にアマガエルとたわむれています。
生真面目なサオリさんは、カエルと戯れている先生をあまり快く思っていないようです。時々「めっ。」という感じで注意のまなざしを送ります。
この学級は以前絵の達者な先生に学んでいるので、スケッチの腕前はかなり上手でした。

3年生と4年生の複式学級は、国語や理科、社会、図工などを同じ題材で学習し、算数は別々の勉強をします。
別々の勉強をするときは、一方が演習問題をしている間に、一方にやり方を教えるように組み立てをしておいて、家庭教師のようなゆっくりした時間の流れの中で学習が進んでいきます。

困るのは国語や社会や道徳で、「主人公はどう思ったでしょう?」「これはなぜだかわかりますか?」「どうしたらよかったのだろう?」といった問いかけをしても、「………。」「………。」2人がポカーンとしてわからなければ授業が成り立ちません。
こういうのはだいたい30人ぐらいの学級で、競ってよい意見を出そうとしたり、少数の頭のめぐりの速い子がそつなくリードしてくれるから授業が成り立つものです。2人でズバズバ正解が出るものなら苦労はありません。
私もそこらへんをカバーする技術は持ち合わせていませんから、ひとしきり子供と一緒にポカーンとしてから、何とかおさまりをつけます。
こういう問いかけは、切れ味がよくなくてもいいから自分なりの答えを持つことが大切なんだよ。

隣の学級のサトちゃん(仮名)は、国語の時間に1時間に1つか2つのひらがなを習っていて、習ったひらがなでかるたを作っています。
かるたの枚数がずいぶん多くなった頃、教室を隔てる壁と床板の間にある、紙しか通らない隙間から、習いたてのひらがなを使った手紙が届きました。
習っていないひらがなは○で表してあるので、ちょっとした謎ときが必要ですが、私たち上級生は謎解きを楽しんだ後、同じ隙間から返事の手紙を送ったものでした。

給食感謝式というのがありました
さて、分校を含めて当時の勝山町の給食は絶品のおいしさでした。
おいしい給食はもちろん栄養士さんや調理員さんの研鑽や努力のおかげですが、これにはちょっとした工夫があって、栄養士さんと調理員さんは交代で学校まで給食を届けた後、学校に残って一緒に給食を食べるのです。
そしてどんなメニューが喜ばれているか、どんなメニューが残りがちなのか、子供たちの笑顔とともにしっかりと見て帰られます。
その姿からは子供たちがより笑顔になるような給食を、という願いが伝わってきますし、子供たちもおいしい給食への感謝をいっぱいに伝えてくれています。これで給食がおいしくないわけはありません。

分校はそのおいしい給食のメニューが、5人にしてはかなり多めの量で届きます。栄養士さんこそついて来られませんが、町役場の委託を受けたおじさんが軽トラックで毎日運んでくれます。
私は給食のメニューが大好きですから、この天下一品の給食がアルミのバケツで届いておかわりを2回しても食べきれないなんて幸せの極地でした。

実は分校に勤める前、本校にいた私にはなぜか給食のおかわりが禁止されていました。
担任がなかったので、職員室で給食をいただいていた私が、ある日突然それまでのように「おかわりお願いします!」とお皿を差し出したところ、 いつも大盛りのおかわりをよそってくださっていた用務員さん(やや年配の女性です)が、その日に限って
「おかわりはされんことになったんよ。」と顔を曇らせておっしゃいました。
「…………?」

一緒に給食を食べていた栄養士さん、調理員さん、事務の先生、そして教頭先生の表情を見るに、これは用務員さんの一存ではなく何か「職務上の秘密」があるなと察した私は、何も言わずにお皿を引っ込めました。
それから本校を離れるまで約1年、私の給食は(子供なら目を見張るような)大盛りを1杯、そしておかわりは禁止となったのでした。
謎の「おかわり禁止令」事件から1年、分校で再びおかわり自由の生活を満喫していた頃になって、私はおかわり禁止令事件の真相を知ることになりました。

繰り返しますが、勝山町の給食はどのメニューも絶品のおいしさです。
カレーライス、焼きそば、シチュー、チャーハン、中華麺、コッペパン、…子供たちも大好きなメニューです。
当時(分校勤務の前年)の私は、給食を大盛りで平らげて、おかわりをし、しばしば2度目のおかわりをすることもありました。
一緒に給食を食べている栄養士さんや調理員さんも私の健啖ぶりに目を細めています。
給食、いつもおいしいですね。どのメニューも大好きです。校長先生も教頭先生もおかわりいかがですか!
…どうやらこれがいけなかったようです。
校長先生と教頭先生は、同じく目を細めていつも私の健啖ぶりを見ていました。
しかし、校長先生の年代の方々は戦後の物のない時期に少年時代を過ごしてきた人たちです。
生きていくために選択の余地なく支給された食べ物を食べるしかなかったのです。
そのメニューがカレーライス、焼きそば、シチュー、チャーハン、中華麺、コッペパン、…。
悲しい少年時代を思い出すそのメニューをがつがつと食べ、おせっかいにも毎度おかわりを勧めてくる若造を目を細めて見ている、そのまなざしが決して笑ってはいなかったことに私は気づかなかったのでした。

ある日、私を含めほとんどの先生が帰った後、夕暮れ時の職員室で、校長先生は私が帰った後も散らかり放題の机に目を止めました。
「いっつもこの机は散らかっとるなぁ。………おお。そう言やあkumapooh先生(仮名)のアレをやめさせんといけん。」
校長先生はすぐさま電話機をつかみ、関係者に私へのおかわり禁止を通達したのでした。

校長先生、それは………大変申し訳ないことをいたしました。 っつーか、いささか度量が狭もうございませんか。

私にとって、分校での暮らしとは、天下一品の給食をおかわりできる、無上の幸せへの回帰でもあったのです。

分校が夏休みになると、本校に通っている5・6年生や本校の関係する先生方も招いて、分校キャンプがあります。
しみじみと心のこもったキャンプファイヤー、参加者それぞれに趣向をこらした出し物。
私たちの出し物は、うさぎの「しろ」の生態すごろくでした。
段ボール箱の6つの面に
「ごきげんで頭を振りながらはねる」「おこって後ろ足をけりながら走る」「石垣でへびが出たので逃げる」「おいしいニンジンを食べる」など(昔のことにつき詳細はうろ覚え)うさぎの生態が書いてあって、さいころを振って出た目の生態を真似するというゲームでした。
これは毎日「しろ」と暮らしている私たちにとっては造作もない楽しいゲームですが、本校から来たお客さんにとっては何のことやらわからなかったことでしょう。
キャンプファイヤーが終わったら、炭火になったファイヤーを囲んで語らいの時間を過ごし、そしていつも勉強している教室で毛布にくるまってみんなで眠りました。
ひんやりとした床板に寝転がって、いつものみんなといつもと違う時間を過ごすのは、華やかで心づくしのキャンプファイヤーともまた違って、心に残るひと時でした。


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