太平洋戦争と津山の宰相

-知新館にて思うこと-


長いことこのホームページの更新が滞ってしまいました。 仕事が忙しいことを言い訳にしていましたが、実際にはとあるオンラインゲームにはまってしまい、多くの時間を吸い取られていました。
そのゲームは、自分が提督となって、太平洋戦争で活躍した艦の名前を持つ艦たちを操って戦いを進めていくのですが、そこは現代のネットゲーム、戦争とはかけ離れたファンタジーの世界です。
私が最初に持った艦は駆逐艦「五月雨」で、その縁あって駆逐艦五月雨の戦記を読み、改めて海軍、いや大日本帝国海軍のあり方をひどいと感じ、戦争の理不尽さを感じました。

あわせて「永遠の0」も読み、映画も見に行きました。
「永遠の0」は、生々しい当時の記録ではなく、現代の目線から史実や証言を再構成したものですが、そこでも家族があり、国を守るために訓練を積んだ兵に特攻を求める理不尽、いざというときに決断が下せない司令官、後手後手に回っても責任を取らず真実を伝えない組織、そういった真実が見えてきて、改めて太平洋戦争とは何だったのか考えさせられました。
さて、ここまでは更新が遅れた言い訳、前置きです。

さて、津山出身の総理大臣、平沼騏一郎は、日本が戦争に向かって突き進んでいく過程で第35代内閣総理大臣に就任しました。

津山の南新座にある「知新館」は、平沼騏一郎の生家をその場所に復元したもので、文化財に指定されています。
先日、知新館を見学させてもらう機会があったので、これを機に平沼騏一郎の見つめていたものが何だったのか、わりと謎が多い騏一郎の行跡、そして太平洋戦争との関係について、知新館の座敷に座って思ったことを書いてみます。

平沼騏一郎が内閣総理大臣に就任したのは、1939年1月、第1次近衛内閣の次で、すでに盧溝橋事件が拡大して日中戦争に突入していた時期でしたが、日独伊三国同盟や対米開戦には至っておらず、太平洋戦争による悲惨な戦禍を回避できる可能性もあった、非常に舵取りの難しい時局でした。

そうした状況下で平沼総理は、日独伊防共協定の強化にあたって、日本が対ソ戦争に自動参戦することに反対の立場を取っていましたが、日独伊防共協定を裏切る独ソ相互不可侵条約の締結により、「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を残して総辞職しました。

平沼騏一郎の立場と行動は、内政的には、結果として戦争に向かう体制を整備したように受け止められていますが、大政翼賛会の活動を骨抜きにし、外交的にはドイツと距離を置き、中国との講和を図り、英米との開戦を望まない姿勢に終始しており、太平洋戦争の開戦後も和平を模索し続けています。
その意味では、まっすぐ過ぎた平沼内閣の総辞職が、太平洋戦争突入への一つの転機だったと言ってもいいかもしれません。

ところが、例えばポツダム宣言の受け入れに際して、「天皇統治の大権を変更しろと言ってないのなら」という条件を示し、結果として終戦を数日遅らせる(ポツダム宣言受諾は条約の批准と同等の行為なので、枢密院議長だった平沼騏一郎の承認は必須だった)など、一貫して和平を求めていたとは解されないところが謎とされています。

騏一郎が日本の難局に際して何を見つめて進んでいたか、「知新館」の座敷に座って考えれば、案外明快なのだと思いました。
平沼騏一郎は、幕末の志士が目指していた明治維新の天皇親政を、法治の枠組みの中で忠実に維持し実践することを最後まで貫いたのです。
言うなれば、最後まで尊王の志士であったのです。
例えば、坂本龍馬の「船中八策」と平沼騏一郎の政策を比較すれば、議会は大切(だが政党が大切とは言っていない)、海軍は拡張すべき(だが領土を拡張すべきとは言っていない)など、騏一郎の言動が明治維新の理念とよく一致しており、大正デモクラシーや列強の版図拡張競争といった当時の状況の中でも、その初心を護持しようとしていたことがわかります。
(ちょうど今、政党の再編とか、集団的自衛権とか、盛んに論じられていますが、平沼翁に言わせれば「そんなところに日本の良さや国民の幸せはないのだよ」と一喝されることでしょう。)

これは、津山が児島高徳伝説の地であったことと深く関係しています。
児島高徳は、鎌倉末期の武将で、後醍醐天皇が隠岐に流される際に奪還を企て、奪還叶わないまでも、美作国院庄で桜の幹を削って天皇を励ます漢詩を記した忠臣です。
騏一郎は児島高徳を深く尊敬しており、当時すでに古いといわれるほどに尊王の思いは強かったのです。

騏一郎の中では、「日本>>>英米>>独伊>ソ連」であり、(立憲君主国家を否定する)ソビエト連邦の跋扈を許すぐらいなら、ナチスドイツの全体主義はそれとあまりあり方に隔たりがないと意識しつつも、ナチスと協調することやむなしという考えでした。
また、英米との関係においては、対米戦争に入ってしまえば、物量的な面でまず勝てないことはよく理解していました。
第1次大戦に参加したドイツが、戦勝終結を待たずして帝政崩壊に至った姿を目の当たりにしてからそう年月を経ていませんから、国体護持が第一と考える騏一郎が、アメリカに勝てないのであれば、対米戦争は絶対に避けるべきと考えて行動したのは当然です。

日本が世界戦争の入り口に立っていた時期に、「世界で起こっていることをしっかり見守りながらも、無理せず争わず日本の良さを守っていこう。」そう考えた宰相があった。
児島高徳伝説の地としての津山、幕末期の津山における洋学の系譜、そして教育熱心だった平沼家。
津山においてその3つの要素が交わったところに平沼騏一郎の信念と業績、そしてその人となりがあったのではないでしょうか。

そしてまた、それを貫くことができれば太平洋戦争で起こった理不尽な出来事の数々は避けられたのではないかと思うのです。
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