人権教育資料
 
明治6年美作騒擾(血税一揆)
 
血税一揆のおこり
 血税一揆は西日本を中心に起こった新政反対の一揆である。美作地方の一揆は1873年5月26日北条県で起きた。一揆の首謀者とされた筆安卯太カは「人びとの生血を絞り取るための使者が白衣を着てやって来る。」といった噂を流し,白衣を着て村内を徘徊した。人びとはこれに反応し,西西条郡貞永寺村で一揆が起こった。
 
一揆の広がり
 一揆は,苫田郡,久米郡,英田郡,勝田郡,真庭郡へと広がった。5月27日には一揆勢は県庁(津山)への強訴を企て,5月30日東部から津山城下への突入を図った。しかしこれは,県の役人側に負けて大敗に終った。その後,各地に分散して一揆への参加を強制しつつ暴動を拡大した。参加者は「徴兵令反対,学校入費反対,穢多非人の称廃止反対」などを叫び,焼討ち,打壊しなどを行った。その対象は戸長宅,被差別部落,小学校などで,被害は432件にものぼった。さらに被差別部落から詫び状を強要し,拒否をした村を襲撃した。勝北郡津川原村では,住民29名が殺傷される事態となった。
 
津川原村での虐殺
 津川原村虐殺は5月28日から29日に起こっている。「津川原が抵抗しているので集結せよ」という天狗状が四方に発せられ,28日の朝から津川原部落の前の河原には次々と竹槍を持った農民が集まった。
 津川原村に入る坂道には一揆を防ぐ柵が立てられ,村の長の屋敷には大砲のようなものが備えられていた。隣の妙原村に住んでいる美作相撲の小林佐助が談判に出かけ,解放令以前の状態にもどすこと,一揆の先頭に立つことを約束させようとしたが,2度,拒否されている。午後4時ごろになって,小中原村で私塾を営む遠藤半平の偵察により,大砲に見えていたものは黒くぬった肥えたごであることがわかり,一斉に襲撃が始まった。
 村に進入した農民は次々と人家に放火し,村民はほとんど抵抗しないまま裏山に逃げ出した。しかし,一揆勢もこれを追って裏山に入り,逃げまどう人びとを探し出して襲った。字細谷に逃げた男女十数名は,尾根づたいに進んだ一揆勢に発見され,竹槍で襲われた。走るのが容易でない老女はよってたかって竹槍を刺され死亡した。字斎の谷や湯谷に逃げた人びとは上から石を落とされた。また,翌日には潜伏する津川原村の人びとを追い出すために,山に火が放たれた。津川原村での虐殺による死者は18人になった。
 
 
ハンセン病
 
ハンセン病とは
 ハンセン病は,ノルウェーのハンセン医師が発見した「らい菌」という細菌による感染症である。以前は「らい病」とも呼ばれていたが,現在ではこの名称は差別的であるとして用いられない。ハンセン病にかかると点体の末梢神経がまひしたり,皮膚がただれたような状態になるのが特徴で,病気が進むと容姿や手足が変形することから,患者は差別の対象になりやすかった 。
 ハンセン病の感染力や発病力は非常に弱く,日常生活で感染する可能性はほとんどない。国立ハンセン病療養所で働く職員で,ハンセン病に感染した人は90年間で1人も確認されていない。しかし,家庭内感染が多かったために遺伝的な病気と誤解され,差別を受け,国によって強制隔離施策がとられた。
 1931年(昭和6年)には「らい予防法」が制定され,強制隔離によるハンセン病絶滅政策という考えのもと,在宅の患者も療養所へ強制的に入所させるようになった。
 
長島愛生園と邑久光明園
 岡山県の長島には愛生園,光明園と二つの国立ハンセン病療養所がある。長島愛生園は,我が国最初の「国立らい療養所」として1930年に開所された。邑久光明園は,もともと大阪府にあった外島保養院が台風で壊滅的被害を受けたために,長島の西端に光明園として再建されたものである。本土と長島を隔てる瀬溝の海峡は,わずか三十メートルしかないが不治の病として忌み嫌われ,国の誤った強制隔離政策により収容された患者にとってこの海峡は,家族や社会との隔絶を意味する深くて暗い,遠い淵だった。
 
特効薬プロミンの発見で治る病気となるが・・・
 ハンセン病には長い間有効な治療薬はなく,自然治癒する例を除いて,病気の進行をくい止めることはできなかったが,1943年にアメリカで合成された新薬のプロミンは,ハンセン病に絶大な効果があると報告された。しかし,当時は戦争中だったため日本では入手できず,日本では1947年に長島愛生園で初めて試された。戦後も国や行政の施策の怠慢により病気が治っても帰宅できず,相変わらず島は外部と遮断され続け,感染者は断種を前提とした所内結婚が許され,わずかな慰労金での患者作業をさせられたり,監房への収監などが行われ続けとても療養所とは呼べない状況におかれていた。
 
らい病予防法の廃止
 1988年(昭和63年),全国のハンセン病療養者らの架橋促進運動が実り,「人間回復の橋」といわれる邑久長島大橋が架かった。平成8年には衆議院本会議において「らい病予防法廃止に関する法律案」が可決され,平成13年には熊本地裁で「昭和35年以降,隔離の必要は無かった」として隔離は違憲,国に18億円の賠償命令が下された。


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