生かされている私たち
私たち人間は、いつのまにか生かされていることを忘れているのではないでしょうか。
私たちは、生あるものを犠牲にしてそれを食していることを忘れ、またの生き物に対して悲しむこと
を忘れているのではないでしょうか。生きるということは、生かされているということを考えましょう。
生あるものとは、動物、魚、野菜、果物、水、等、自然にあるすべてをいいます。私たちは、その
犠牲にした生き物に対してあまりにも勝手ではないでしょうか。そのことに対して、悲しみの心を
持つべきだと思います。最近は、その心の持ちようが少なくなったように思います。物がなければ、
私たちは生きられません。物に頼った考え方に反省を求めている結果であり、心の回復を願って
いるのが現在の大きな特徴です。では、心とは何か、心とは、形の無いものであり、いつもころこ
ろと変化をします。だから「こころ」という言葉ができたともうします。心とは、ころころ変わりばらば
らでつかみようも無いもの。かわらない心とはあるのでしょうか。
仏教では、これを四無量心といいます。わたしたちの心の奥底にあるものこれが本当の心であります。仏様の世界より私たちの胸の中に無量
無限に与えられ続けている心でありますから、これを四つの無量なる心というのです。一つは、慈の心、二は、悲の心、三は喜の心、四は捨の
心であります。慈の心とは、すべてのものに慈しみを持つ心であります。悲の心とは世の中の不幸に悲しみを持つ心でありあわれみのの心です。
慈の心と、悲の心、ある人を仏教では仏といい菩薩というのです。喜の心とは、他人の幸せを喜び、自分の喜びを他人に施す心であります。捨の
心とは自分を捨てて人の喜び、幸せを守ろうとする心あり、まさに菩薩の心と言うべきと思います。仏様はその心で私たちをお救いくださいます。
弘法大師様も「仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し」といっておられます。仏様は遥か彼方におられるのではなく、あなた自身の心の中にお
られるのですよという意味です。ですから、四つの心(四無量心)をもって犠牲になっている生き物あるもののことを考えて下さい。
(平成14年2月26日)