GongoToudan                              Touhakuzin TENGUUJI

天狗寺陶白人の 言語

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・言語談・

 

・序にかえて

・頁1 南蛮雅陶

・頁2 南蛮雅陶

・頁3 飛騨のやきもの

・頁4 雪上一會楼 

・頁5 篠原有司男登場

・頁6 ぎゅうちゃんと

 

 

    

  

  

 

 
 

 


序にかえて

 

言語道断・言語陶断・言語陶談・言語談の

順序でタイトルが決まった訳で、ふとした思い

付きから、物事は始まるのが常である。

 

何を書くか決まらないままはじめていくスタイル

混沌とした状態のなかから、物事は始まり、物事は生まれていく。万物の始まりはみなそうであって欲しい。言語道断・言語陶断・言語陶談・言語談なにがどうなのか、これから、決まっていく。

 

それが楽しみなのに・・・・・、

 

世の中には作られたものが多すぎる。それらは皆、人為の範疇の為、たいしたことは無い。が、しかし

世の中にはそれらがあふれハバをきかしている。

 

言語道断。

 

言語道断・言語陶断・言語陶談・言語談、何が

出てくるか、とにかく始めてみたい。

 

焼き物についても話してみたい。

昔お世話になった方々の思いでも話してみたい。

もちろんこれからの事についても話してみたい。

 

言語談の「談」と成るか、「断」となるかは

乞う、ご期待というところである。

 

漢語林によると、「言語道断」は

1、ことばで説明できない奥深い道理。

2、ことばでのべられないほどひどいこと。

もってのほか。

 

どちらが多くなるか、自分自身で戒めていきたい

言語談のはじまりとなりました。

 

平成17年初秋改       

天狗寺陶白人

 

                       

頁1          

 

南蛮雅陶 中川伊作蒐集品 鈴木尚美社 昭13

 

今日、この本を手に入れようと売約にしてもらう

古書、骨董が好きで、少しずつでは有るけれど

集めている。月末には読めると思うとわくわくする

このことを書き出しの頁にする。

 

南蛮雅陶」「なんばんがとう」なんて響きの良い

ことばだろう。「雅陶」という言葉は20歳のとき

やきものをはじめた時から、あこがれの

言葉だった。「南蛮」の文字が加わるのは30歳

沖縄で中川伊作の助手をし始めてからだ。

それ以後「南蛮雅陶」の言葉にあこがれている。

37歳まで中川伊作の助手をつとめた。出会いから

中川伊作87歳までの間、楽しい思い出が

あふれてくる。このことはあとで書く。

 

この美作の天狗寺窯近くに浅本鶴山という先輩が

おられる。明治18年津山生まれで、昭和31年

他界されるまで、南蛮をよくされ、各地で作陶されている。残念ながらお会いしたことはありませんが、

 

2002年に京都の骨董屋で浅本鶴山の

宝瓶を手に入れたので大切にしている。

箱表書きは、南蛮雅陶、宝賓礼□、と有り、一字

読めないので解読中。

裏書きに壬辰元旦68歳鶴山孜乍と墨書、鶴山人の

丸朱印あり、

宝瓶口下に68歳鶴山と線彫りしている。

口のところは灰が解けていて、高台はベタ底で

ヘラで高台周りとともに削ってある。

焼き成りは還元ぎみで青灰色になっている。

櫛目、見込みの炭のあとが美しい。

蓋裏の削り取りのヘラあとがみごとだ。

 

土も津山の土らしく、津山市綾部の私の使って

いる土と良く似ている。たのしめる南蛮雅陶だ。

 

 

 

 
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      浅本鶴山作 南蛮雅陶 宝瓶

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

頁2           

 

南蛮雅陶 

中川伊作蒐集品 鈴木尚美社 昭13

この本は、恩賜京都博物館に於いて琉球所産の

南蛮陶器約壱百点を陳列、その内六拾余点を選んで

収録、中川伊作氏が琉球地方に於いて蒐集せれた

ものである。と凡例に書かれてある。

3頁のみがカラーで、他は白黒写真

1・芋頭水指 

2・広口甕

3・擲弾壺となっている。

1・芋頭水指は焼成りが美しく、作為の強い造形、

蓋があり摘みも歪んでいる。

2・広口甕は高7寸8分で縁のある広口、轆轤で

作られているが、やきぶくが有り、腰部が大きく

歪んで今にも倒れそう。

3・擲弾壺は写真から俗に言う鬼の腕と呼ばれている酒壺で、花入れにピッタリの様で足部に窯変があり

美しい。

 

中川伊作が38歳頃(今から66年前)のお好みが

表現されていると思う。

焼き物のひずみ・ゆがみは造形上、焼成上、出来てくるので有史上あるのだろうけれど、やはり美として形づくり好みとして表現されたのは、古田織部と

なるのだろう。

古田織部このみの作為のある造形は無作為の造形物を焼成することで出来たひずみ・ゆがみのなかに美を

発見することから始まったに違いない。

アンバランスのバランス、自然に出来た歪みゆがみの中には美つくしさを感じるものも多い。が、

作為が目立つと嫌味になり美は失われていく。

そのこともバランスという美の中にあるのかもしれ

ない。

中川伊作の好みも古田織部このみに近いものがある

ように思える。

人為で無く自然を大切に思う気持ちの表現である。

 

写真の2・広口甕は高7寸8分で水指として使える。

見所は何といっても焼成で、俗に言う窯変だが

焼きぶくがあるので手に持つとすごく軽いだろう。

見方によると、このような焼きそこないとも思えるものを美として取り上げることの勇気や必要性はまさにこれからの時代に重要なこととなるに違いない。

人為で無く自然を大切に思う気持ちの表現である。

以上が

 南蛮雅陶 中川伊作蒐集品 鈴木尚美社 昭13の本を手にしての感想だ。

前にも書いたように1980年から1987年にかけて沖縄知花にて助手を務め、87歳頃の中川伊作は

鉄斎の描く「福禄寿図・大正9年」の福禄寿にそっくりだった。

 

中川伊作 略歴

1921年 京都市立絵画専門学校卒

1938年 南蛮焼コレクシヨンを京都国立博物館

      陳列

1964年 ルドルフセーファー美術学校招待教授

      となり、州立各大学にて東洋画の講義

1972年 沖縄知花にて作陶をはじめる。

1977年 以後各地にて個展。日本橋高島屋個展

      京都大丸、沖縄都ホテルなどで個展。

2000年1月2日 沖縄にて他界享年100歳

 

64歳から西洋で東洋の美を教えた中川伊作が

72歳から沖縄知花で南蛮雅陶・やきものを通じて

表現シヨウトシタモノハなにか。

紙面がいくらあっても足りそうにないので出会いからの思い出は別に書く。

 

次頁は私が22歳23歳とお世話になった   

[飛騨のやきもの] 

長倉三朗著 アポロン社 昭和44年 について

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2・広口甕(高7寸8分)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               

 

 

 

 

 

 

 

言語              

頁3           

[飛騨のやきもの] 

長倉三朗著 アポロン社 昭和44年

この本は

タイトルどおり飛騨のやきものについて、歴史から

現代の陶工まで、書かれている労作である。

40年にかけて資料を集められ、一冊の本にされる

大変な労力に頭が下がります。この言語談を書き

はじめてから大変さを痛感している。

 

[飛騨のやきもの]の著者、長倉三朗略歴

明治44年高山に生まれる。飛騨中学中退。尾張瀬戸に行き、始め上絵付けを習う。後加藤春二氏について

修業。戦後高山に帰り小糸焼の窯を復興。昭和34年

飛騨民族館の設立、主事、館長、名誉館長を歴任。

平成11年他界。

他に著書、「飛騨祭りの屋台」、「濃尾古窯図絵」、

[高山と飛騨路]などあり。

小糸泰山の号は、盆栽の豆鉢で泰山鉢と言えばあまりにも有名ですが、長倉三朗の号だと知らない人も多い。

 

現在、小糸焼は、長男の長倉靖邦氏

(加藤瞬陶氏に師事、第16世金森宗和流家元)

孫の長倉大氏(鈴木五郎氏に師事)・長倉研氏(九谷青窯

で修業)に受け継がれている。

著書[飛騨のやきもの]も飛騨の里のHP中にある

ギャラリーで[飛騨のやきもの〜その歴史]長倉大

に引き継がれている。

33年前・・・

京、川原町で石を投げると陶芸家に当ると言われていた頃、グラフィックデザインを学んでいた私が陶芸の修業をしたいが為、まず、2年前に住んでいた山陰の船木研児さんをお尋ねした所、すでに2、3名の弟子がいて

いっぱいだと断られ、京都の河井武一さんもお訪ねしたが断られして、素人考えに民芸だと数を作るので早く

上手になるだろうという思いを改め、

京、五条の藤平陶芸を訪ね、「先生は弟子はとらん。」とお店の人に言われ直ぐ引き下がり、 嵯峨に居られた勝尾青龍洞さんをも訪ねた記憶があるが、奥様とご一緒だった青龍洞さんに良くして頂き幾度かお訪ねし、「どれでも好きなものもって行きなさい。」といわれ、

お茶碗が欲しかったのだけれど遠慮してお湯のみを

頂き、今も大切にしています。

最近、

畠山記念館で青龍洞作のお茶碗でお茶を頂き、あの時

遠慮せずにお茶碗をもらっておけばよかった、などと

思い出したのです。

 

飛騨高山の小糸焼をなぜお訪ねしたかは思い出せないでいる。多分、偶然だったのだろう。小京都といわれる高山と田舎の津山も小京都といわれる点は似ていた。

私が京都の学校卒業と同時に、小糸焼にお世話になることが出来たのは幸いであった。

 

小糸焼も今とは随分違うように思う、民俗村に向かって坂をあがると右手に坂があり展示場、またあがると

轆轤場がありその奥に窯場、窯場を出て

また坂を上がり松林の中にある広場で休み時間に休憩したのをおもいだすが、さだかではない。

長倉大氏が小学生、研氏が幼稚園のころで、

プリシラと言うアメリカ人女性が先輩でいて、彼女と少しの間ともに働き、彼女がやめるので代わりに入れていただいたのでわないかと思う。

 

Priscillaはその後も日本にいて、宇治炭山の

森里陶楽さんや、今度備前焼の人間国宝になられた

伊勢崎淳氏に師事している。その間にも禅に興味を

もち、京都、花園、妙心寺で山田無文老師に師事。

 

私もプリシラと一緒に当時、神戸の多聞寺に居られた

無文老師をお訪ねしたことが有ります。おりもおり

ちょうど水墨の龍に目を入れられる所でした、運良く

龍の目の入れ方を学んだ私に「頑張りなさい」と一言、

あの場面は忘れられません。

 

プリシラは無文老師が海外で禅の普及される手伝い、

翻訳、通訳、解説をして日本人より日本的な禅尼となったのでした。

現在もプリシラは、岡山、曹源寺にて原田老師に師事Chisanと呼ばれて外国人の禅の修業者たちからも親しまれ、金重愫さんの窯に行く途中に見える一滴窯で茶碗を作り、ついに得度、曹源寺にての得度式には私も

参席し、「いよいよ仏陀に嫁入りしたナァ」などと思いましたが、得度式は壮大厳粛で素敵なものでした。合掌

 

禅号を大智といい、外国人の禅修業者たちの指導者として禅文化の普及、禅修業に励んでおられます。

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ぶりぶり香合     長倉三朗作

(結婚の御祝いに戴いた香合)

 

 

 

 

 

陶板 長倉三朗作(2004豊田にて)

 

 

 

 

 

 

 

初代、勝尾青龍洞さんに戴いた湯呑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

茶碗   大智禅尼作(曹源寺・一滴窯)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言語

 

 

 

 

 

 

         

            

頁4  雪上一會楼  

 

天狗寺山の南側を下りてゆくと横野の滝にでる

これからの季節、紅葉がとてもきれいです。

横野の滝は,箔合紙やお札に使われる横野和紙

を育てる横野川となり津山市街へ流れ,宮川

となり吉井川に合流し備前岡山を通り瀬戸内海

へと流れて行きます。

 

何年か前、宮川近くの骨董屋を覗いた時,一番

奥に置いてある須恵器の長頚壺が目にとまって

売約の手付金を置いて帰ったことがあるが,

思い直し、店の人に悪いと思い店の入り口付近

の壁に何点か掛けてあった中からひとつ選んで手付金で戴いて貰い受け、足早に店をでた。

 

しばらくは仕事場にそのまま置いていたのだがよくよく見てみるとなかなか良い。

しかし、一字読めないので、上海に一緒に行ったことのある友人の桃山艸介氏に電話とFaxで問い合わせたのですが、作者について意外なほど

羨ましがられましたというのも桃山艸介氏は

その道の専門家だからだった。

ちなみに桃山艸介氏を手持ちの本から紹介すると、書聖名品選集3「王義之 集字聖教序」

マール社 1985年 等多数解説のほかに

多数著書があります。

同じマール社から出ている本で、著者の王さんに戴いた 王超鷹(Wang Chaoying)著 

「篆刻文字()()は便利なので紹介します。

 

羨ましがられた作者の名前はケ散木(トウ・サンボク1898〜1963)は中国,上海の篆刻家で著書に「篆刻学」 人民美術出版社1979年があり日本では「篆刻の歴史と技法」 木耳社 高畑常信訳で1981年がある。

その本によるとケ散木は1960年左脚の動脈硬化のために切断してからは号を「一足」としている。まさにその時代のケ一足(トウ・イッソク)作品が手元に転がり込んで来たのです。

 

その窯場に掛けてある作品は、今は雪上一會楼と読んでいるが、最初,一番上の字を「雪」でなく「雲」と読んでいた。

「雲上一會楼」の方がイメージに合っていて

雲の上に出た高い塔のような楼、その様な現実には在り得ないとてつもなく高い塔のイメージが先行していたのだが、

やはり「雪」なのだろうか。上海では雪が降らないだろうし,北の国の人に頼まれて製作したのだろうかなど,勝手な想いはふくらむ。

 

この一番上の字が読めなくて桃山艸介氏に電話したのだが未だに返事を頂いてないので,

「雪」と読まないのかもしれない。

「段」という字かもしれない。

「段上一會楼」となると意味が全然違ってくるのですが,勉強不足でわからない。専門家の方や

読める方のご指導を仰ぎたい。

 

天狗寺陶白人の窯場で轆轤をしたり絵付けしたりの部屋に掛かっている、ケ一足の作品です。

もちろん「楼」というような2階建ての建物でもなく,れっきとした荒壁の平屋作りの掘建て小屋だけれども、ケ一足の作品に因み「雪上一會楼」と呼んで楽しんでいる。

 

一番上の字が読めると窯場のこの部屋の呼び名も変わるかもしれないのだけどそれまでは

「雪上一會楼」で楽しもうと思う。

 

今でも,一番上の字を「雲」と読みたい気持ちは残っていて「雲上一會楼」と呼びたいのだけれど、チョツト無理かもしれない。

この美作の地は備前より雪が多い。多いときで

50cmぐらい降る。新雪の朝起きると一面真っ白な銀世界で感動する。そこに朝日などさしてくると素晴らしいの壱語に尽きる。

そこで生まれたのが

茶垸「東陽新雪」です。茶垸の写真は「窯より

生まれしもの達の頁」にあります。

 

 

次頁は、私の大先生、篠原有司男氏、登場

 

 

 

 

 

 

 

 

 
                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書聖名品選集       マール社

王超鷹(Wang Chaoying)著「篆刻文字」マール社

窯場に掛かる ケ一足作品

 

読み方のわからない字                               

 


 

 

ケ一足作品のそれぞれ部分

 

 

 

 

 

 

言語

 

 

 

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

頁5 大先生 篠原有司男 登場

       

吉井川が津山から備前岡山に流れていく途中に

柵原周佐という所が有る。吉井川に架かる大きな

天神橋を渡るとすぐに母方の祖母の生まれた所が

ある。この地に窯を開いて、焼き物を始めてから

祖母の実家が瓦焼き屋だったことを教えられ,

祖母の兄に粘土を取った場所を案内してもらった

こともある。私が焼き物をやる血筋かもしれない

と思う由縁である。  「我以外皆我師」

 

血筋以外で、焼き物屋になろうと決めた出来事が

21歳の頃、京都で学んでいた頃に有る。当時,

デザインを学んでいた頃で,京都、百万辺交差点のラーメン屋でラーメンをすすっている背中で火炎瓶がなごりおしそうに飛んでいた。 「キィッチュ」

というタイトルの展示会だったと思うのだけれど

定かでない。テーマが「キィッチュ」に関係した事

だったのは間違いない。図録は、赤レンガの壁を

人間が通り抜けている写真の表紙だったけどすぐには図録がみつからない。

大阪万博の地に出来た美術館での催しだった。

国立国際美術館

ひろ〜い会場のなかで、1点,私の足と目を釘ズヶにする作品があった。それは,ダンボールで出来たオートバイそれもハーレーのようなバイクに

ダンボール製のアメリカンガールが乗っている

とてつもなく迫力のある実物のバイクより大きな

作品だった。

 

それは 「モーターサイクルママ」 篠原有司男の

作品だった。1時間ぐらいだろうか私はその作品の前から立ち去ることが出来なかった。近くに私と同じように動かないでじっと鑑賞するグループがあった長いこと動かないでいたので近ずくと,それは

七彩工芸社のマネキン達であった,・・・どうりで

動かないわけだ。

 

この「モーターサイクルママ」 篠原有司男の作品

が悩める私の進路を決めてくれた。現代美術にも

興味があり,いろいろと悩んでいたのだけれど

感動させてくれた現代美術作品を作る事よりも

素材そのものに興味があった。

 

「モーターサイクルママ」 篠原有司男の作品は

ニューヨークの街角に捨ててあったダンボールから出来ていた。タイヤもハンドルもマフラーもエンジンもダンボール、女性のも髪の毛も手も足ももちろんダンボール製。世の中の副産物のいわばごみのようなものを使って出来ている巨大なバイクが迫り来て私を釘ズヶにした,私の心を釘ズヶにした。

ホンダ,ヤマハ,スズキ,ハーレーで速く走れても釘ズヶには出来まいと思う。ヤッパリ・・バイクは篠原有司男ダ。篠原有司男に限る。

 

人を感動させるの物が出来る、このことは素晴らしいことだ。イヤなんと素晴らしいこと。 そして

人を感動させるの事が出来るのは、素材そのものでなく,素材ではない何かであることを教えてもらい,実際、自分が感動し,自分にとっての素材は何か、ニューヨークの街角に捨ててあったダンボールに代わるものは何か,紙,絵の具,土,

・・・土ならその辺に無尽蔵にある・・・。

 

焼き物をやろうと決めた,決めさせてくれた,そして感動をくれた、オブジェ「モーターサイクルママ」 

そしてその時から,篠原有司男のフアンとなり、

篠原有司男は私の大先生となった。

 

その感動から18年後

1989年1月1日私はニューヨークの篠原有司男のスタジオを訪ねることになる。

もちろん焼き物で人を感動させることの出来る作品を作るべく焼き物の道を歩みつつ、18年かかってやっと会いにいけたのです。

 

 

あのような感動を与えてくれた物は,後にも先にもない。 

 

 

モーターサイクルママ」に教えられたこと

感動を与える根源は素材ではない。情熱である。

 

作陶に生かして焼き物造りに励みたい。

『ありがとう』・ギュウチヤン・篠原有司男           

   

 

 

 

 

1989年に戴いた 篠原有司男 目玉のオブジェ

 

 

 

1989年  ニューヨーク・篠原アトリエにて

 
                        

 

 

 

 

 

 

 

 

2003年 新宿BEAMSにて

 

1993年に戴いた篠原有司男サイン入り

篠原シューズ用中敷(使用直前にサイン済)

 

 

 

 

 

                      

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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