GongoToudan                              Touhakuzin TENGUUJI

天狗寺陶白人の 言語

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


・言語談・

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

 

・頁1 知花・・・出会い・・・

・頁2 知花へ

・頁3 知花南蛮窯

・頁4 咲キテ燃ユ

・頁5 野の花をいける

・頁6 再生

・頁7 南蛮知花窯での 

初めての仕事

・頁8 初めての夜

     美人?と共に

・頁9 道はどこ?

・頁10 天水

 

 

 
            

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

頁1  知花・・・出会い・・・

            

 

京都,寺町通りは画廊,骨董,本屋さんが多い通、

寺町二条を上がってすぐの所に画廊「鬼」がある。

向かいが有名な茶舗一保堂、隣も有名な古梅園です。

1980年から1987年まで毎年,画廊「鬼」で

7回、個展をさせて頂いた。

 

特に、初めての個展初日1980年12月8日、

ジョンレノンの死亡を、画廊「鬼」で聞いたのを,

衝撃と共に思い出します。

 

1980年当時,窯を開いてから6年目の都会での初めての個展でしたが、出身の学校が京都で、女房の出身が京都で所縁の有る京都で個展という事に成りました。

12月8日〜13日、「美作の土のやきもの」

をサブタイトルに・寺元進個展・を開催、

半地上式と半地下式の窖窯を築いたばかりで,美作土焼締めを発表し、御蔭様で,好評でアンコール展の依頼も戴きました。

1980年12月11日付けの毎日新聞のスクラップによると葉書大の紙面に写真と記事を載せていただき,「三年間の花器など約60点を展示,備前焼や

師の長倉氏,小糸焼の影響を受けつつもワクを越えて飛び出そうとする若々しさに満ちあふれている。」との記事で天狗寺焼を紹介して戴いています。

 

お客様の中に美術関係の仕事をされている上長者町のS氏が居られて,「沖縄に中川伊作という、陶芸の大先生が居られて,後継者を探しておられるのだけれど,君、ドウダ。」などのお話も有りましたが、・・・窖窯を築いたばかりで窯も焼きたいし,女房子供の事も有るし、・・・・ということで直ぐに色よい返事は出来ませんでした。

 

そして個展も無事終えお正月を迎え,2月の終わりごろ,京都,岡崎の国立近代美術館で八木一夫の没後初回顧展が開催され見に行ったところ受付に一人の先客がいて,受付嬢となにやら話しているので順番を待ちながらそれとなく話を聞いているとどうやらその先客は中川伊作らしい老人、思わず「中川伊作先生ですか?」と声を掛けてしまいました。

ヤッパリ、S氏から話しが有った中川伊作その人でした。   なんと奇遇,なんという偶然、

 

「S君から君の事を聞いているよ,沖縄に来ないか」

 

勿論,その場で沖縄行きを勧められ,情熱的に沖縄

の良さや焼き物に対する情熱を語られ、

私は,出会いを信じて,沖縄に行こうと思いましたが、窖窯を築いたばかりで,窯を焼きたくてたまりませんでしたし,女房にも相談しなければ・・・

 

大阪南港からの船旅は沖縄がいかに遠いかを感じさせ、まるで外国行きの船みたいで沖縄の人らしい

小母さん達の話を聞くと、まるで解からない。

高校卒業して就職した時,出雲弁に苦戦したの思い出し,沖縄への思いは複雑なものがありました。

でも,中学生の頃、海洋少年団で手旗や、カッター漕ぎの訓練を受け,海には親しみがあり船旅は苦にならず楽しい船旅を続け奄美大島では,京都の学校で一緒だった染織科の後藤君は,確か大島の染め物屋の息子だったけど・・・などと思い出す時間も充分に有り、水平線にたまにある島影に田舎を思い出し,未だ見ぬ沖縄に思いをはせながら・・・・

 

3日目の朝、沖縄の島を左手に見た時はエキゾチィック感と南国特有の開放感が、期待に夢を膨らませるばかりで初めての沖縄に胸躍らせた船はやがて安謝港にゆっくり着岸、いよいよ未知の国、沖縄上陸、

南蛮雅陶への旅は幕を開けた。

琉球南蛮焼との付き合いはこれから7年に及ぶ。

 

安謝港から58号線にでる為にすこし歩くと沖縄の日差しは冬でもきつい、リュツクを背負って歩くと汗がでてくる。

美作の冬は仕事場の隙間風で、水引きした土が凍てつく寒さなのに大変な違い。

 

知花へ・・・・・北へ向かうバス停を探す

 
                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八木一夫展1981 図録

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言語談          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

頁2  知花へ・・・・   

 

安謝港から安謝橋の58号線バスストップへ、

北へ向かうバスに乗る。バスから眺める沖縄の風景は、まるで外国で、明るい日差しの中にコンクリートの建物の白い色、アメリカナイズされた店の看板や、海や空の青い色など色とりどりに続く道、途中、バスは右へ進路を

変えて山手へ入っていくと、南国らしい街路樹が続き、米軍普天間飛行場のキャンプ近くでは黒人の兵士らしい乗客で、初めての私は驚いたが、外国らしさが増す。

胡屋からコザ十字路は独特の雰囲気ある町並みで、

古い沖縄の町並みを感じさせる。バスはいよいよ知花。

観光で沖縄を訪れたことの有るひとには東南植物楽園

の近くと言った方が、知花が解かり易いかもしれない。

 

知花のバスストップで降りると、金城精肉店があった。

お店の人に焼物屋を聞くと、知花城の所で焼き物をしている金城さんは知っているけど他は知らないと言う返事で、知花城跡を訪ねることにする。肉屋から少し下って、

知花十字路を右に曲がると嘉手納基地だが、真っ直ぐ進むと知花モータースがあり反対側には郵便局が見える。

 

道の下には沖縄の伝統的な建物で屋根瓦が独特の雰囲気の建て物があるが、ほとんどがコンクリ−トの建物の中目を引く存在と成っている。開放的でシンプルな建物は美しさを感じさせるし、台風に耐えるべく整然とした

屋根は上から見ても綺麗だ。道の下にあるぐらいの方が

台風の被害に遭いにくいので建て物としては良いのかも知れない。縁側の有る独特な建物はシンプルで美しい。

直ぐ隣りのさとうきび畑の中の道を左へ曲がる、

病院らしい建物を過ぎると、とてつもなく大きな藁()ぶきの家が道下のジャングルの木々の合間に見える。

 

左は知花城跡への道、小高い山への登道となっている。

道辺の草が異様に大きく感じられる。美作と比べると随分と大きい、草木が何もかもおおきい。南国のジャング

ルだ。珊瑚の岩と草木の覆う道らしきところを、上へ上

へと登ると見晴らしの良い頂上へ出た。他には高いところが無いので此処に昔のお城が出来た訳が理解できそうな所で、すこぶる気分は良い。少しの間知花周辺を見下

ろして殿様気分、「珊瑚の岩の間からハブなど何時でも出て来そうなのは考えすぎかもしれないけれど、初めての沖縄なので少し臆病になっているかも知れないナ。」などと一人旅の心細さを思いつつ、無事下山する。

 

道下の大きな草葺屋根の家を訪ねる。とても立派なお宅で沖縄の伝統を引き継いでいるのだろう。ジャングルの中に隠れるようにたたずむ。縁側には洗濯物が干してあり小さな子供用の自転車が二台縁側に立てかけてある。

 

玄関で声を掛けても返事が無いのでさらに道を下ると

猫がいた。猫はハブよけになるらしい。窯がある、

窖窯だ。上からきたので煙突が先に見える。柱は珊瑚を積み重ねてある、このような柱は沖縄ならではだ。

屋根も瓦を漆喰で固めてある。沖縄独特の屋根で窯の

周りはホウセンカの花が咲き乱れている。

窖窯の土の焼けた色、屋根瓦の色、白い漆喰の色、草木の緑、赤い土の色、ホウセンカの紫の花、ジャングルの木陰になんと素敵な窯場だろう。

 

窯の下に仕事場がある。でも、戸が閉まっていて誰も居ないようだ、窯と同じ屋根のつくりで、壁は珊瑚と赤土を混ぜたものを塗るというより積み上げて出来ている。仕事場の前には庭がありジャングのなかに川があり橋も無いのでこれ以上進めない。で、元来た道を戻ることにする。それにしても素晴らしい仕事場だが残念ながら中川伊作先生の仕事場ではないようだ。帰り道にはもう猫は居なかった。

バスを降りた、知花十字路まで戻る。

 
                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道下の大きな草葺屋根の家

 

 

 

 

 

 

 

ホウセンカの紫の花

 

 

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咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

頁3  南蛮知花窯

 

知花十字路を嘉手納基地の方へ曲がると少し下り坂に

なって、お店が2、3軒あって川がある。この川は先ほ

どの知花城下の窯場前の川に、つながっているようだ。

水質はあまり綺麗ではないが川の中に魚の姿も見える。

 

橋を渡ると、また少し上り坂、食堂を過ぎると,右手に

入る沿い道が有る。また右手に曲がると、豚小屋、

沖縄の豚料理は美味しい,ミミガ−,アシビチ,テビチ

本当に美味しいものばかり。さとうきび畑の中の豚小

屋はとてもにぎやかだ。少し下って先ほどの川に出る。

 

川幅が2〜3メートルの手ごろな川,岸には見たこと

の無い南国の草も有る。ゆったりと流れている方に

側道を進む右手はさとうきび畑で正面の曲がり道に

川をはさんで,左右に小高い山が見える。左が先ほど

登った知花城跡,右手が知花城より幅広いジャングル

,さとうきび畑の向こうに岩,珊瑚の露出した部分が,近づいてくる。

 

岩肌をコンクリートで塞いである,洞窟をそのまま

お墓にしてある沖縄ならではの特徴有るお墓だ。

大昔は住居であっただろう洞窟がそのままお墓と成り、納骨してあるようだ。道縁が大きな羊歯や草で覆われ

た川端の道を進むと左右がジャングルとなる,

川向こうのジヤングルが知花城跡だ。

道が幾分暗く感じられるジヤングルの深さに,右手に

門が見える。門の向こうはアスファルト舗装してある

急な上り坂,坂の途中右手に木製の看板に南蛮知花窯,

中川と書かれてあるのが門の外からでも読める。

 

此処が,伊作先生の窯場だ,間違いない。

門は鉄製で道いっぱいの大きな門が開かれている。

急な坂道をジャングルの中、登ってゆく。左に登り窯が

見える,とても大きな窯だ。4、5連のかまぼこ状の

登り窯に,木の柱,屋根は沖縄独特の瓦屋根,道と

ともに登っている。左は大きな珊瑚の岩がごろごろ

剥き出しになっている。登り道の向こうには青空,

沖縄の空はまぶしく輝き,ジャングルの暗さと対照

的に青い。

 

窯を見ながら登ると、石厳当と書いてある石塔があり、

建物も見える,頂上らしい。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


木製の看板に南蛮知花窯(1986年頃)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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頁4  咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

 

今から24年ほど前の沖縄のおはなしです。

1981年当時の、南蛮知花窯へやっと到着しましたが、

残念ながらこれから先は皆様を、お連れすることは出来ません。企業秘密というやつですか?思い出話は、またの機会にでもお話することにしましょう。

 

沖縄の知花で、ジャングルのなか大きな鉄製の門を

くぐった当時30歳の私は、伊作先生の助手として、1987年頃までこの美作の地で自分の窯をやりながら

美作と沖縄を、幾度となく往復することになる。

時には船で三日間をかけて、時にはいきなり送られてきた飛行機のチケットで、戸惑いながらも数時間で沖縄への旅へ旅立ち。

 

沖縄への旅は南蛮焼きへの旅、そのものでした。

沖縄のクチャと呼ばれる黒い土や、珊瑚の混ざった赤い土など、さわやかな風や音、緑の深いジャングル、窯、炎など、そして遠くに聞こえるエイサーの太鼓の音、毎晩聞こえる三味線の音と宴の声、轆轤する窓から見えるシィークワーサーの実、ジャングルを目安に窯場の上で方向転換する米軍機、嘉手納基地をスクランブルする戦闘機の向かう方向、川から顔出す黄と黒のまだらの亀、さとうきび畑、身近に居るハブ、ヤモリ、大きなゴキブリや蝉、青い海や透き通る青い空、暖かい季候、南の島のすべてが、焼き物の作品に反映してひとつの器が出来上がる。

一つ、ひとつの焼きものは、履歴書そのものです。

 

南蛮知花窯での伊作先生は、沖縄での評価の低かった「アラヤチ」と呼ばれる焼き物を、芸術の領域までたかめることに百歳で他界されるまで情熱的に努められ、南蛮焼きを沖縄の地で作られ、「アラヤチ」が魅力的であることを世に問われ、芸術の領域までたかめられました。

伊作先生の琉球南蛮焼作品も、時代と共に評価されていくでしょうから、自然におまかせ致します。

 

今の時代、何処に居ても何処の土でも手に入ります。

だからこそ焼き物は、その土地、すなわち土で製作し、その土地の窯で焼き、その土地で創られなければならないと思います。そのことこそが、芸術の意味がピカソの仕事のように、人間の意識を革命することであり改革し前衛であり、そして岡本太郎のめでた縄文土器であり正に伝統ではないでしょうか。そのような風土風水が作り出す焼き物は自然そのものです。

 

自然と人間の関係を考える時、21世紀これからの焼き物を考える時、純粋に風土風水が作り出す焼き物は自然同様、大切にされるべき焼き物のひとつだと思われます。

 

 

 

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

 

青い空青い海に囲まれた沖縄ジャングルの緑の中、

 

一輪の真っ赤なハイビスカスは咲いていた

 

 

 

 
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頁5 野の花をいける

 

 

一輪の真っ赤なハイビスカスを活けるとき、庭に出て大地に、スコップで10センチ丸の深さ15cmぐらいの穴を掘る。その穴にきれいな水をたっぷりと入れて一輪の真っ赤なハイビスカスを活ける。大地が赤土だととてもいい。

 

そして、真っ赤なハイビスカスに、目が当たるぐらい

近づいて見てから少しずつ離れて見てみる。そう、縁側

から、そして家の中から、近所から、駅から、という風にどんどん離れてみてみる。そうして、地球の外からみてみる。

実際、地球儀のような地球しか見えないかもしれない。

でも、庭にいけた一輪の真っ赤なハイビスカスはある。

その時、地球は一輪の真っ赤なハイビスカスを活ける

花器となる。

 

「うつわ」とはその様なものである。

 

一輪の花を活けるとき、土に近いやきもの、南蛮、備前、信楽等の焼き締め花器がよい。水が腐りにくいから、一輪の花も活きる。赤土の大地が一番いいのだが、地球に活けれない時は、焼き締め花器がよい。お勧めする。

 

ねこのめそう・のげし・だいこん・とらのお・りんどう・

つつじ・すみれ・おどりこそう・いかりそう・ほとけのざ・ほたるかずら・あけび・はこべ・がまずみ・いちご

・もくれん・むらさきけまん・やまえんごさく・さくら

・やまぶきうめ・わさび・らしょうもんかずら・れんげ

・いぬがらし・うつぎ・うらしまそう・おうぎかずら・

おおばこ・おかたつなみそう・かいじんどう・おぐるま・あざみ・ゆり・くさいちご・くさのおう・ごうそ・しそ

ばたつなみ・しらいとそう・やまぶき・すずらん・おだまき・すぐり・ちがや・てっせん・とうばな・ななかまど・

にがな・ねじき・ねじはな・はくさんはたざお・はなうど

・はるたで・ふじふたばあおい・まゆみ・みずたびらこ

 

野の花を活けよう。

玄関に活けよう。下駄箱の上に活けよう。食卓のテーブルに活けよう。床の間に活けよう。壁に活けよう。

野の花を活けよう。

 

野の花は地球を花器としていけよう。あなたのそばに

地球があり、自然がある。

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

真っ赤なハイビスカスは、南国の赤土やジャングルの緑

雑多な世界でこの世のものとは思えない美しさで

咲いていた。

 
                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                

 

 

 

 

 

 

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咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

頁6 再生

 

もう止め様としたこの『咲テ燃ュ』の話を再び進める。

 

四月の銀座のギャラリーで『野の花を生ける』をテーマ

で個展を開催。思えば東京での初めての個展から始まり、20余年お世話に成りましたギャラリーオーナーが亡くなられたあと、意志を継がれた今のギャラリーでの個展期間中に、矢張り20余年ぐらい前に沖縄で出会ったH氏に

出会えた。

沖縄の伊作先生のコレクターで当時、伊作先生の助手であった影の存在の私は、H氏と仕事場で、一言二言しか言葉は交わしていないし、お名前も知らずに那覇の料亭で、H氏のご家族とともにすごした時間が、昨日のように感じられた再会であった。

 

インターネットで中川伊作先生の検索での伊作先生のページ製作者の、H氏のホームページを知り、あの時の人では

と思いE−mailで問い合わせたところ、矢張り懐かしいその人でありました。

 

住所や名前を知らなくても、時間と人の出会いは不思議なもので、20余年の時は、一瞬で消え去り、伊作先生の作品を拝見にH氏のお宅に伺った。伊作先生の南蛮作品90余点のコレクションの一部と、写真での全貌を拝見して、2000年に他界された先生に出会えた。そして20年前の

懐かしい自分にも出会えた。

 

H氏は素晴らしいコレクターで、近代美術全般のコレクターであった。4〜5センチも在ろうかという分厚い図録2冊にもなるH氏のコレクションは美術館に収められ、H氏の名前の美術館コレクションとなっていた。絵画、彫刻、版画など多分野にわたるコレクションで、中川伊作先生の版画作品はすでに美術館に収められ、分厚い図録のページの一部を飾っていた。一点だけ残されお宅に飾られた版画と、シーサー、砧花入、芋頭水指などを拝見して貴重な時間を過ごせた。

 

伊作先生の南蛮作品90余点のコレクションはまだ、

美術館に収められて、いないと言う事ではあったのだが、

素晴らしいコレクションで驚いた。そして、素晴らしいコレクターにコレクションされて居る、恵まれた伊作先生の作品に少しの嫉妬心もおぼえたが、美術品の生命力にも嫉妬心を感じずには居られないほどの立派なコレクションであり、コレクターに出会えたことがこの一期一会の個展の意味であったのかもしれないとさえ思えた出来事だった。

 

ART作品は日常の生活にこそ生かされるべきであり、

美術館に収まった場合は、もうすでに役目を終えていると考えられる。

日々の生活にこそ、身の回りにART作品が在るべきであろうし、ART作品がARTとなるには身近に在ることが

意味ある大切なことである。

デュシャンの作品『泉』が美術館に持ち込まれたことは、そのことをもう随分昔に伝えている。

 

このことを期に、南蛮知花窯の思い出を少し続けて記し

ていこうと思います。

 

 

 

 

 
                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中川伊作 版画

 

中川伊作 南蛮砧花入・珊瑚窯変芋頭水指

中川伊作 南蛮獅子阿吽香炉組

 

 

 

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

                

 

 

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

頁7 南蛮知花窯での 初めての仕事

 

1981年に再び帰ってきました。頁3の南蛮知花窯

から続きの頁と成りますので、読んでいただくとわか

りやすいかも、当時30歳の私の沖縄上陸後、知花の

ジャングルの中にある伊作先生の窯に助手として、

南蛮知花窯の門を訪ねた。そして登り道を窯を見なが

ら登ると、石厳当と書いてある石塔があり頂上にでた。

 

頂上は砂利が敷き詰めてある。

一段上にはさとうきび畑があり、砂利の奥には二棟の

プレハブの建物が並んでいる。プレハブの後ろには

青空が何処までも広がっている。右手に目を移すと

ジャングルのままで其の中に建物が一つある。

ブロックを積み上げてある上に、トタンが掛けてあり

屋根と成っているくらいの建物だ。私の部屋となる

小屋でした。

 

あまり大きくないジャングルの天辺を削って、さとう

きび畑と窯場になっているそんな感じで、プレハブの

外には大きな甕がデェーンと鎮座し、水が蓄えられて

いる。粘土も甕の横に置いてある。どうやら水簸用の

甕らしい。戸が開いているので、中に居る伊作先生に

挨拶をする。プレハブの仕事場の中に入る。

 

右手には制作途中の作品棚がいく重にもある、棚板の

数も多い、突き当たりの一番奥には轆轤が数台並んで

いる、窓から外を見ながら轆轤が回るようだが他に人

は居ない。部屋の真中に作業台があり製作途中の生乾

き作品がある、伊作先生の作業中の作品だろう。其の

横の床には囲炉裏らしきものがあり焚き火の跡がある。

沖縄で焚き火が必要なほどに寒いのだろうか?

2月といえとても暖かく工房へ尋ね歩いてきたので

汗ばんでいる。しばらくは休憩だ。

 

いきなりトタン屋根が音をたてる.びっくりするほど

うるさい音だ。スコールの来襲、沖縄の名物のひとつ

らしい。しばらくすると雨が天井を伝って落ちてきた。

 

雨漏りだ! 製作途中の生乾きの作品や、作業台、棚

板の上に、雨漏りだ! ビニールシートを探したり、

作業台を動かしたり、ビニールシートを棚板上の作品

の上に掛けたり。人騒がせなスコールだ。

囲炉裏の周りがビチャ、ビチャになってきたので床に

穴を掘る。砂利をどかして赤土を壺ぐらい掘り、そして其の穴に雨漏りの水を導く作戦だ。

 

沖縄最初の仕事が、スコール対策、これだった。

 

伊作先生 81歳。私が30歳。早春の日の沖縄での

出会い・・・・・。

 

伊作先生は、何事も無いかのように、

そして、仙人のようにたたずんでいた。

 

雨水は、砂利のあいだを通り

赤い土の穴ボコに、溜まった・・・。

 

 

 
言語

 

石厳当 南蛮知花窯仕事場(1981頃)

 

 

                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天狗寺陶白人

 

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咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

頁8 初めての夜、美人?と共に

 

雨水は、私の掘った赤土の穴ぼこに、砂利のあいだを通りすぐに溜り、穴ぼこは、雨水で満ちた・・・・・・。

 

必然に行った作業だけれど、この行為は極めて原始的で

根源的な器、うつわ、そのものではないだろうか? 

焼くという行為は無いけれども、赤土の穴ぼこを作る行為は、焼き物の根源的なの行為には、違いないと思う。

が、その時の私は器とは何か・・・、そんなことも考えないで、私はひたすら柄杓で雨水をすくって、くりかえし仕事場の外にほかした。

 

・・・・・80歳を過ぎ、ここ沖縄のジャングル中で雨漏りのするプレハブの仕事場で、情熱的に仕事をされるエネルギーは何処から生まれ来るのか?

 

同じ時代を生き、早くに他界された奄美の田中一村の

ことは当時、伊作先生から聞いたことが無かったので、

田中一村を意識しているかどうかは判らないままで、

意識していたとは思えない。けれど田中一村とイメージが重なる。

 

・・・・・焼き物、南蛮に賭ける情熱は、窖窯を作ったばかりの当時30歳の私を、はるかに超えるものを感じていた。

この情熱の正体は未だに解からぬままであるのだが・・。

 

石厳当と書いてある石塔のすぐ側の建物が、私の部屋になっていた。ベニヤの戸を開けると靴脱ぎがあって、四畳半ぐらいな板張りに病院で見かける鉄製のベットが置いてある。壁はコンクリートブロックの積み上げで荒仕上げである。

登り窯の方の窓、右下のほうにブロックの欠けてあるところがあって、何気なく覗くと、

黄色と黒のまだら模様になった蛇が、ブロックの中で

とぐろを巻いている。    どうしょう・・・・。

私は急いで先生に告げた。

 

「それは姫ハブだから大丈夫。」

 

事も無げに、返事が返ってきて、見にも来てくれないので、私は「何が大丈夫なものか。」と心の中で言った。

数時間後、泡盛の1升ビンがたくさん入ったプラスチックのケースが私の部屋に届けられた。

御酒で、恐怖心を和らげろという、姫ハブ対策らしい。

 

当時、私は煙草をすっていたので、両切り煙草をほぐして、姫ハブのいるブロックとベットのあいだの床に煙草の境界線を引いた。こんなもので蛇の侵入を防げるのか疑問に思いつつも思い切って太目の煙草線を引いた。

 

蚊取り線香を、冬だというのに一晩中焚いてみた。

ラジオを一日中つけて、姫ハブに私がいることを伝え、

部屋の中に寝ている時や仕事場にいっている留守の時に出て来ないように、祈った。 そして夜はやってくる。

 

珍しい泡盛を味わうこともなく、例の泡盛も呑み。

ひたすら呑み恐怖心を和らげ、ラジオに耳を傾け床に着いた。沖縄のラジオ放送局はにぎやかで珍しく、そして楽しい番組が多くてなかなか寝付けない・・・・、

またジャングル側の方から変な声?音?がする・・。

 

正体は、

カーテンの無い窓ガラス、ジャングルの鬱蒼とした暗闇にへばり付いた、ヤモリだった。

珍しい生き物たちが次々と歓迎してくれて、

指先が太く丸く、おなかを惜しげもなく見せてくれる

ヤモリも私は初めてだった・・・・・。

 

美人?の姫ハブとヤモリに囲まれて、初めての沖縄、

未知の南国でジャングルの中、夜を迎えるしかなかった。

 

不安とともにジャングルの夜はふけていった。

 

 

                     

 
                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天狗寺陶白人

 

言語

 

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

頁9  道はどこ?

 

不安な夜も、カーテンの無い窓に朝日が昇るのは早い。

自分を確認するのにも時間はかからない。

・・・なにごともない。身体を・・・   あらためて

 

黄色と黒のまだらのハブを今、図鑑でみてみると姫ハブでなくて金ハブと呼ばれる正真正銘のハブのようだ。

冬期だつたので冬眠していたのか、幸いにも食べられることも無く、泡盛の味だけは不安と共に覚えて、初めての沖縄での仕事を無事終えて美作の地に帰ることが出来た。

沖縄のこのときの癖で、今も、寝室にカーテンは付けていない。美作の朝は自然に迎える事にしている。

 

幾度かの沖縄往復も重ね、知花のジャングルの仕事場で

昼休みにスコールの時が有った。スコールが終わって

買い物に出かけようと、歩いて窯の横の坂道を下っていくと道が無い。スコールで道が川になり赤茶けた泥水が満々と流れていたのである。    『道はどこ?』

 

道が川になったと言うよりは、川の側を道として使用していたという事なのだろう。自然は偉大だ。地図を見れば、その川は比謝川という川で、嘉手納基地の側を通り東シナ海に流れている。

 

知花南蛮窯の鉄製の門をそのまま左手に川の側を海の方に進むと、堰がある。鯉つりに熱中した場所だけれど、

この堰が、スコールのときに川の流れを邪魔して、窯の下の道を川にしているようだ。とても歩ける様子ではない。

まるで大川のようにゴウゴウと流れている。

 

しばらくすれば、すぐに道が現れて出て買い物にも行けるのである。海が近いので川水もすぐに流れ出てしまうのだろう。現れた、洗われた道を歩いていると普段と変らない、赤茶けた赤土と珊瑚で出来た、さとうきび畑の横の道。

 

川に居る亀も、顔は黄と黒のまだら模様だ。自己主張の為なのだろうか? 内地だと工事現場の標しみたいだ。

兎に角もハッキリしているのが南国の特徴なのだろうか?

 

左の写真は比謝川を上流へ少し行った所にあった橋です。

知花バスストップを下った所の橋を上流へ少し行くと、

知花焼の、古窯跡があり、もうすこし行くとこの石橋が

ありました。

 

素敵な石橋も、もう少し川が綺麗だともっと良いのだとも思うのですが?沖縄らしい美しさを持った石橋を1986年頃に写真に収めました。その次に沖縄に行った時、再びその石橋を見に行きました。

 

残念!コンクリートの橋になっていました。

 

私の歩きたい『道はどこ?』・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 
                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

咲キテ燃ユ 花ハエネルギー 天界デ

頁10  天水

 

石橋から窯のあるところまでの川は生活廃水が流れ込んであまり綺麗ではない。どうやって水道水がつくられているのかは知らないのだけれど、登り窯の横の坂道を上がり煙突のまだ上の辺りにクリーム色をした水道用タンクが鉄骨のやぐらの上にのっていた。ポンプの電気モーターが、

登り窯の横に鎮座していた。いずれもジャングルの中には似合わないものであつたが、以外に気にならなかった。

 

水道のおかげで洗濯は良くした。南の国は流石に、洗濯物が良く乾く。仕事を終えて、シャワーや風呂に入るときに

洗濯機で洗濯をして小屋の縁外のロープにかけていると、

夜の間に乾いているという具合。

お風呂が大好きなので、この水道水には重宝しました。

 

朝の食事は、グレープフルーツをいただいた。伊作先生と

一個を半分づつ、毎日いただいた。先生のアメリカ時代の

習慣で私もご相伴だった。グレープフルーツとパンと珈琲

は、お決まりの朝飯のスタイル。

アメリカ時代にグレープフルーツの沢山取れる所で過ごされたなごりらしい習慣で、100歳まで生きられた先生の長寿の秘密はこの辺りにもあるのかな?

 

雨水が雨どいを伝って先生の住居に前に置いてある大きな甕にたまっていた。水道水で入れているとばかり思っていた珈琲は、この水甕からの天水で入れられていた。

 

甕の縁を掌でコォオーンと叩くと水面に波紋がおきて、

ボウフラ達があわてた様子で下に沈んでゆく。其処をすかさず持ってきた片手鍋ですくう、というのが一つの技で、コンロに掛けて煮沸して珈琲をいただくのである。味噌汁の時もそうである。そうです、天水は美味しいのです。

沖縄のぬけたような青空から落ちてくる天水は、たとえ

さびさびのトタン屋根を通過したとしても不思議と美味しいのです。

 

ボウフラの駆除の為に、下の川から釣ってきた魚を甕に放したりもしてみた。

小学6年まで育った天狗寺山の麓のなつかしの我家では、水道は無く、小川の水を長い水路で引いて木で作った四角い桶に掛け流しにされた水を、全部の生活用水に使用していた。それに比べるとこの甕の天水の方が安全な気がする。

 

仕事場に置いてある大きな水がめにも天水がたまっているが此方は粘土が入った水簸用である。大きなヘラでかき混ぜてドロドロの状態になったところで篩いをとうして粘土を作ることが水簸という水の力を利用した作業です。

 

台風は時に大きな被害をもたらすが、海水を真水に変えてくれるシステムであることも忘れてはいけないと思う。

 

 

天水で入れられた珈琲の味がなつかしい・・・。

 

 

 
                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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天狗寺陶白人