紙老虎の歴史漫歩   
  ナカヤマの神(3)   
 

示現神を神宿(楢原)に検証す



  四月のある土曜日, 英田郡美作町楢原上の「神宿」の集落を探訪した。その日は快晴であった。 現在では集落のすぐ南側を中国高速道路が通過するものの,あたり一帯はいまなお「純農村」といった風情であった。農家の庭先では田植機用の早苗を作るための籾の植え付けや,耕運機による荒起こしの作業が,田圃のあちらこちらで始められるころであった。地元の三・四人の方から話をお聞きしたが,いずれの方も手を休めて快く応じていただいた。今回の探訪で,現地ならではの新知見もいくつか得た。ただ,集落の背後にあって,この一帯でその姿が最も秀麗に感じられた小山について,地元で呼び習わされた名は「特にない」と言われ,確認できなかったことは残念であった。

「中山太神宮」の札を掲げる建物

 
民家の敷地内にある社殿   

  神宿集落のなかを歩いていて,一見して通常の住居とは大いに異なった,奇妙なたたずまいの小さな「別棟」のある家を見かけた。
 近付いて観察すると,母屋に接した別棟の建物は,幾分そり上がった茶色の屋根に千木が乗っている。さらに近寄って観察すると,西向きに建てられた殿舎の扉の上に木札が付けられていて,そこに「中山太神宮」と墨書されているのが確認できた。母屋に回って玄関に立つと,そこには「東内」の表札が掛かる。おのずと,この家が神の示現にかかわる藤内-今に続く子孫の方の家であろうことを確信する。お邪魔させていただき,この家の奥さんから神の示現に関するお話しを,直接お伺いすることができたのである。
  この地がその昔中山の神が示現した所であるとの言い伝えは, 神宿の人々の間にはいまもなお生きていた。 以前は背後の山(の斜面か)に祠があったといい, 神の示現がここであったとの話も聞いたことがあるとのこと。 この祠は強引に進められた明治期の「一村一社」運動のなかで,楢原中の八幡神社に他の神社・祠と一緒に合祀されたと云う。ほどなく示現した神はこの地を去り,西方の津山に移って行ったので,今この地に中山神の社は一つもないとのことであった。また,近所にもこういった殿舎を持つ家がいくつかあり, 神宿集落の外ので家に殿舎を建てて祭る人もあると聞く。この東内家の殿舎-その姿と「中山太神宮」の札から,一見「中山神社の元宮」ではないかと思ってしまうのだが, 実は神そのものではなく矛を祭るための特別施設なのである。

矛殿に関する『作陽誌』の記述

 
  矛殿の中山太神宮札 

  夏秋二度初穂取六家
        藤内日向   (受領の家)  
     藤内源太郎

        藤内長大夫            
     藤内勘大夫
  (受領の家)
        藤内主計            
      藤内三大夫
  藤内家書記如左  是は當(当)国一の宮, 中山大神宮の初穂取に御座候。 年少之 内當 村に御鎭座成らせられ候よし, 申し傳(伝)え候。則ち「初穂取の者共神宿に居る」と申し傳え候藤内と申す  先年(神の)御宿を申し候につき, その規模(ほまれ・てがら)として子々孫々まで當国の内, 東六郡の夏秋両度の御初穂取に候。 六郡の内‥‥云々‥。  
矛 殿    藤内家にある神殿を云う。 棟を別にして方二間半ばかり。 藤内家は古は五家、今は分かれて六家となる。一宮社家説に云う。 昔 中山の社に神鉾あり。 その祭祀最も奥秘の神事とす。 世に叛臣ある時は則ち必ず此の祭を修す。 その法は石基を四方と中央に安して, 各神鉾をその上に建て,これを五座の鉾石と云う。嘉承二年丁亥十二月,対馬守源義親が出雲の国に在て謀叛の時,これを行うと云う。 そ の中央の石今苫南郡小原に遺る。この村の藤内家,五家有りて各矛殿を斎き祭るは, (いわゆる)五座の鉾にして,そのことに預かる務 めあるゆえ,すなわち己の宅に矛殿を勸請したるなるべし。 ‥云々‥。

  藤内が祭祀する五本の鉾

  後に藤内氏は「藤」を「東」につくり, 「東内」と称するようになる。『作陽誌』の言うこの矛殿が,今回わたしが確認した「千木を乗せた殿舎」であることは,まず疑いないところであろう。往古は矛を祭る家は五家であったが,今(江戸末期ごろ)は別れて六家が祭っているとあり, このような矛殿が六ケ所あったということにもなろう。昭和3年に発行された『英田郡史考』では,「現今五戸が神殿を保存し居れり。現在の矛殿は宝暦年間のものにして,」と記述されることから,その後何らかの理由で今日の五家に復したものらしい。また,殿舎の一つ実地にその状態を観察し,これが宝暦年間の建築とは思われないことから,今日まで幾度となく建て替えられてきたものであろう。

 
 郡史考登載の東内家鉾殿蔵物画像  

 『英田郡史考』の記述する中山神と楢原邑についての伝承は,全て『作陽誌』からの引き写しである。神宿(藤内氏)ならではの別伝や異伝・外伝があってよいと思われるが,残念ながら何ら採録されていない。ただ,『郡史考』の口絵写真のなかに,「中山神社鉾殿遺物東内家蔵」のタイトルで載せる一葉の写真は,今となっては貴重と言えるかもしれない。なにせ別々に祭られているはずの鉾を,五本を一堂に集めて写真に収められているのだから。
  鉾の持ち手(木部)との繋ぎは「中子」式で,鉾刃の元の金属部を筒状に加工し,その中に木部の持ち手を押し込む形式ではない。この点では,写真で見る限り五本の鉾の「作り」は一致しているようである。しかしながら,鉾刃の長さ及び中子を含めた鉾全体の長さはばらつきが目立ち,鉾の幅や剣先の角度などの形状もまちまちであって,写真で判断する限り「持ち手繋ぎ」以外には,五本の鉾に共通性・統一性をほとんど感じられない。
  この写真の不思議はいま一つある。番号が振られた紙の横に立て掛けられた札状のものに「中山大神云々‥」と書かれるが,どうも文字の左右が反転しているように見られることである。ネガを誤って裏焼きしたものかと考えたが,紙に書かれた文字・数字・背後の大札の文字は,左右が正しく写っている。反転文字の原因がどうもわからない。

  津山に遺る二つの「鉾立石」

 
   鉾立石①津山市小原

 ともあれ, 往古中山神社に五鉾を立てる祭事があり,基壇となる石を四方及び中央に配し,その上におのおの鉾を立てて行われたようなのである。 この祭は,中山神社の最も奥秘の神事と言われ,この祭祀に使用される祭具の鉾を斎き祭ったのが,楢原村神宿の藤内-東内であると言われ, 藤内五家の矛殿はこの祭具ための特別の施設だということになる。 一宮(中山)社家説と藤内家伝とは, この点で完全に主張が一致している。 形状はまちまちながら, 確かに五本の矛も五家に伝世しているようなのである。
  矛を立てるための台座石というものについて,『作陽誌』は「その中央の石今苫南郡小原に遺る」と注す。小原はわたしの居住する所であり,早速に出掛けて確認する。それがこの石である。写真のように石の形は不整形で岩質不明ながら,概ね 縦110㎝×横75㎝で厚さ30㎝程度(と推定)の表面は偏平で,そのほぼ中央に直径20㎝,深さ13㎝程度の穴が穿たれている。

 
鉾立石②中山神社境内   

  いま一つの鉾立石が残る。これは中山神社本殿の西-境内(末)社の国司神社の傍らにある。大きさは小原雫の森のものより一回り小ぶりで, 平板な76㎝×54㎝の厚さは20㎝程度の方形石で,その中央に径18㎝・深さ6㎝ぐらいの穴が穿たれている。深さは異なるものの,穴の大きさは小原のものとほぼ同じである。背後には「鉾立石記」の小碑が設置されていて,この石を中山神社は次のように説明している。(原文のまま)
  「社伝に曰く。世に叛臣あれば本社その誅伏を祈る。これを御鉾祭という。その式は御鉾を祭場の中央に立てる。天慶中の平将門の関東に叛くや,これを社前に祈り,嘉承中の源義親の出雲を乱すや,小原雫の森の離宮にこれを行う。弘安中の元人の西海に寇するや,北条時宗は城太郎左衛門尉を使として神佑を仰うしむ。みな神異あり。嘉承の鉾石は小原雫の森に存す。弘安の鉾立石は則ちこれなり。年所の舊(旧)さ往々にして訛伝の憾があり, いま石に録して事実の湮滅を塞ぐと爾云。」

鉾立石と藤内五家の矛殿

  「奥秘の祭事」という表現からは, 社殿の奥深く極く少数の関係者で行われる-他見・他言をはばかる祭祀を想像してしまうが,それを「社前」や,本殿を離れて国府近くの離宮で実演したようで,少し意外の感なしとしない。また,『作陽誌』は祭事を「常に五鉾を一セット」として-五座の鉾石と呼ぶものの,「鉾立石記」は鉾の数について何の言及していない。五本セットではなく「その都度一座であった」とも読める。

 
鉾立石①の説明板   

  一方,小原町内会名で立てられた「雫の森鉾立石」の説明板によると,「その祭時の方法は独特の秘事で,大鉾を祭壇の中央に立て,また四方に小鉾を立てたので鉾立祭と称する」とする。かなり具体的である。まさか中山神社の古代祭事について,町内会(現代の氏子たち)が勝手に講釈を垂れているとも思われない。鉾は単数ではなく「五本セット」で,東・西・南・北・中央の五方に穴を穿った石を置き,それぞれの石に鉾を立て行われた-ということなのであろう。 これは中山神社側の一貫した主張であったことは,「旧事が誤って伝えられるので石文を残して真実の忘却を防ぐ」と,『鉾立石記』が末尾で語ることからも伺える。
  一般的に鉾・弓・矢などは, 神社祭事にまつわる比較的ポピュラーな材料(呪物)と言える。藤内五家にそれぞれ矛殿が設けられ,五本の鉾が伝世してきた事実は,中山神社の奥秘の祭事-五座の鉾石との密接な関係性を示していることは明白である。ただ,「東西南北の四方は小鉾・中央は大鉾」と言われるが,『郡史考』掲載の写真で見るかぎり,これら鉾の大小を判別することは難しい。五鉾の大きさはほとんど変わらないように見える。その中の一本が特別に長大であったことが事実とすれば, 現存する鉾の一部ないし全部は後代の作となり,古代から伝世したものではないことになる。 矛殿と同様に五本の鉾も,別々にその後に鋳(鍛)造し直された結果が,五鉾の形状に統一性が欠ける原因と言えるかもしれない。

藤内の祖と鉾との関係性

 ともあれ,中山神社の奥秘の祭事に不可欠な呪物とされる「五本の鉾」を,鎮座地のはるか東方-直線距離で20㎞も離れた英田郡楢原邑の藤内家が,なぜ宅地内にわざわざ殿舎を造営して祭祀したか,その理由が解き明かされなければならない。中山神の神宿示現に際して,藤内が宿舎の提供や饗応に務めたことから,この時の功績を認められた代々の子孫が, 中山神の美作東六郡初穂取りの役となったという。これは解る。しかし,このことが重要な祭具とされる五鉾が藤内家が特別に保管し,子孫がこれを今日まで斎き祭ることとの間には, 直接的な因果関係を感じることができない。
  藤内-神-鉾との間に, 一体どのような特別な繋がりがあったのか。 神の示現にあたって接待これ努めたこと以外に, 藤内と神との間に解明されていない何か特別な関係-しかも「鉾」を介した濃密な繋がりが想定されてよいのではないか。
 神が楢原邑に現れてから去るまで, 藤内との関係は次のようにシンプルな記述に終始している。

  作陽誌()   昔,神始めて英田(多)郡楢原村に現わる。 藤内の祖菰(コモ)を採り?(チマキ)を作りて之を奉る。 既にして神苫田郡霧山に入る。

  作陽誌()    山陽道美作記に云う人皇四十二代  文武天皇慶雲三年丙午五月上旬(二の午の日と云う)英田郡楢原邑東内の宅に中山大神化し来り二十日許御逗留  同年九月二十一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ 云々‥。
   
一 宮社記   昔  神始現于英多郡楢原邑 藤内祖採菰作?奉之 既而神入苫田郡霧山‥云々‥。  
 
津山市史(  中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。この神を斎き祭ったの楢原の東内氏であり,東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。それより以後東内氏は東作州の初穂を集め,十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り,云々‥‥。

  空白の四ケ月は何を意味するか

  『作陽誌』は「藤内家は古書・由緒書等を紛失して不伝」と言い,これらを「藤内家の書き記すところ」という表現にしている。その他,藤内家に「一の宮の井」と称する深い井戸があり,古来神に供える水を汲んでいて,みだりに汲めば必ず凶事が起きること。井戸の南に乙田という場所があり,藤内の祖が菰を採った所と言い伝えることなどの, 藤内に関する伝承を載せる。『津山市史』の記述は,中山神社側の記録『一宮社記』によるものと思われる。
  これが全てのようである。 中山神の鉾にまつわる事跡,さらには鉾を介した神と藤内との関係を, これら所伝のなかに見ることはできない。 藤内は始めて示現した神の逗留の世話役を務め, その神は二十日後に西へ移動していくが, その間の饗応を「ちまき」を供えたとしか伝えていない。楢原村を去ったのは五月上旬の示現から二十日後となると,五月下旬(六月初旬)のはずであるが,神が苫田郡霧山へ到着した日を明確に九月二十一日と言い切っており, 楢原村苫田郡間の20㎞程度の-しかも馬に乗っての移動に, 実に四ケ月も要したことになっている。
  神(この神を祭祀する人々の集団)の移動が, 行く先々で居住集団-先住の神を祭祀する人々に対する示威行動や,一定の武力抗争にが伴ったものと仮定する。楢原村を発って苫田郡霧山への到着が,そのために四ケ月を要したとする。藤内がまず最初に神に服属した在地勢力として, 楢原から西進する武装力の先兵的役割を果たしたとすればどうであろう。中山神の美作進出にあたって,藤内にこのような功績があれば,神威(武力)の象徴としての鉾-鉾と藤内の特別な役割を,整合的にリンクして考えられるのではないか。
  しかし, 神とのサイコロ賭博に敗れ土地を奪われた物部肩野乙麻呂のほかは, 中山神(新勢力)の進出に対する在地勢力の抗争を伺わせる伝承は確認されていない。 四ケ月の空白はやはり謎,藤内と鉾の関係もまた謎,この謎を「謎としてこれまで解明された様子がない」ことも,さらに謎ではある。

藤内が神に奉った「チマキ」とは

  祭器としての五本の鉾(矛)の由緒は,いくつか当たってみたがどうもはっきりしない。素材は青銅かそれとも鉄だったか。わたしは鉄鉾ではなかったかと睨むのだか。また,だれが鋳造(鉄鉾ならば鍛造)したものだったかなど,鉾の由緒は全く不明である。
 『一宮社記』に云う「藤内祖採菰作?奉之」の「?」はチマキと訓まれている。関係書物は例外なく『藤内の祖が,コモを採ってチマキを作り,これを神に奉った』と解する。わたしは,藤内と鉾との強い関係性を考えるなかで,「?」はもともと矛を意味していたのではなかったかと考えるに至った。 藤内の祖が菰を採って作ったものが「食べるチマキ」ではなく,「チマキと形容される矛」だったとすればどうであろうか。
  天岩戸隠れという列島神話の場面に,ある矛が登場している。日本書紀はこの矛を「茅纏矛肖」と書く。

  ‥‥又,猿女君の遠祖天鈿女(アメノウズメ)命,則ち手に茅纏  (チキマ)の矛肖(ホコ)を持ち,天石窟戸(アメノイハヤト)の前に立  たして, 巧みに作俳優(ワザヲギ)す。 ‥‥云々。

  岩波文庫は「補注」のなかで,茅纏の矛肖を「茅-チガヤをまいた矛の意」とする。さらに続けて「古語拾遺には着鐸之矛とある。 矛肖は音サク,周尺で一丈八尺あって馬上で持つ矛。ここではそれほど大きな矛ではないのであろう。矛は男子性器の象徴。記には矛のことは見えず,代わり「裳緒を番登(ホト)に忍し垂れ‥云々‥。」古語拾遺の「着鐸」とは,鐸(サナギ)-鉄製の大きな鈴を着けた矛という意味であろうか。
  このように「作?奉之」を,一説には白馬に乗って示現したとも云われる神に,藤内の祖がチマキの矛(茅纏の矛肖・馬上で持つ矛)を作って神に奉ったと解する。この方が,「食材(米の粉か)を菰葉で巻いてチマキを作り供えた」とするよりも,よほど文意がはっきりしてくるのではなかろうか。菰や蒲などの葉・穂が鉾・剣の形状に似ることは,古代の人々に意識されていたことでもある。

 「採菰」には隠れた意味がある

  では矛を作ることと菰を採ることとは,一体どのように結びつくのであろうか。それが疑問であった。最近になって,真弓常忠氏の著作「古代の鉄と神々」を読んで,「採菰」の謎を解き明かすことができた。真弓氏は,菰に限らず茅やヨシ・アシなどの水性禾科植物一般は,その根に鉄分を吸引・吸着させる力を持つこと。この作用によって形成された褐鉄鉱団塊が,金属原料として古代に広く活用された時期のあったことを論証されている。その大意は次のとおりである。

 
  水辺の葦原

  鳴石とか鈴石壷石と呼ばれるものがある。愛知県高師原で発見されたことから「高師小僧」と名付けられたものもあるが, これらは鉱物学上はいずれも褐鉄鉱団塊である。 褐鉄鉱は水酸化鉄の集合体で, 鉄分を多く含む水が酸化作用を受けて,沼沢・湖沼・湿原に沈殿したもの。 これが, さらにバクテリアの作用によって,水辺の植物-葦・茅・薦(菰)の根などに水酸化鉄が幾層にも付着する。この結果,球・楕円・管・土偶状等形状の固い外皮となって,根が枯死した後も固まりとして残される。
  これを集めれば, 自然風を利用する野タタラ(最古式)でも容易に鉄が生産できたとされる。 砂鉄-磁鉄鉱に比較すれば鉄の品位は落ちるものの, 鉄鍛造温度の七~八百度(銅の溶解温度以下・土器焼成温度程度)は野タタラでも十分得られたと考えられている。また,後の砂鉄精錬に際しても,水酸化鉄の固まりを破砕して夾雑物を除き,砂鉄のなかに水酸化鉄を混入することが行われている。触媒として作用するものかどうか-門外漢のわたしには不明なるも,そういうことが後代まで行われていたようである。
  真弓氏の言うように枕詞-みすずかる(水薦刈・三薦刈)が, 薦を刈りその根元に生成した「水酸化鉄団塊(鈴)」を集めることを意味したとすれば,「採菰」を菰の根に成った水酸化鉄-褐鉄鉱団塊を採集することと考えてもよいのではないか。そして,藤内の祖は「採菰」により得られた原料から,鉾を鋳(鍛)造して示現した神に奉ったのではなかったか。その意味するところは,神への服属・帰順を表現したものと思われるが,藤内と鉾(殿)の密接な結び付きは『茅纏(チマキ)の矛肖』から始まったと, わたしは考えている。

 神宿に見る古代産鉄の要素

  鉾を作り神に奉ったとして,元々藤内の集団が持っていた技術で作られた鉾か,示現した神(集団)がもたらした新技術だったか-の問題は後に譲る。 ここでは, 楢原邑における採菰と水酸化鉄団塊生成の可能性と, 金属精錬・加工が行われた痕跡をさぐってみよう。  地図で見ると,一帯は吉井川の二つの支流(梶並川・吉野川)によって東西を,また南北を山地によって挟まれたゆるやかな傾斜地となっている。楢原駅とため池のある辺りが小分水界を形成し,南北-とりわけ深い奥行きを持つ北の山合いからは,幾筋もの細流が傾斜地を潤して東西に流れている。黎明期の水田稲作にとって絶好の条件を備えていたように思われる。この地に出雲往来の古道が通っており,鎌倉幕府打倒に失敗した後醍醐が捕えられ,佐々木道誉などに警護されて隠岐に向かったのも,この道であったという。また,歴史の偶然でもあろうか-現代の幹線道路「中国高速」も,実はこの古道ルートをなぞったかのように走る。
  『作陽誌』によれば,藤内の祖が菰を採った場所が「乙田」の名で残るとあり,傾斜地のあちらこちらに湿地が点在していたと考えられる。また,梶並川に沿った「火の神」の杜の辺りは河岸段丘の下で,対岸の豊国原低地と合わせて,一帯は広大な葦原であったと考えられる。楢原中の対岸集落には「吉-ヨシ」村が,また,楢原下には「沢」の小字名も見え,アシ・ヨシ・コモなどの水性禾科植物が一帯に自生していたものと考えて間違いない。
 また,小分水界近くの土木工事現場で確認したが,切り取られた山の斜面は赤く発色していた。一帯の土質はかなりの鉄分を含んでいるように見受けられた。俗に-金気が多いと言われるが,こういった鉄分を多く含む湖沼や淀みには,泥土分とともに鉄分が水底に沈殿し,密生した水性植物の根の回りに吸着していったことであろう。さらに,現物は未確認ながらも,「楢原下に出す」と『作陽誌』が云う小方石は,「ます石」と呼ばれる土中の褐鉄鉱であった可能性が高い。このことからも,楢原邑一帯が古代の採菰・産鉄の必要条件を,十分に備えていたと見て間違いないだろう。

 古代の金属精錬の痕跡をたどる

  かねてから,わたしは楢原一帯が「中山的景観」を持つと睨んでいたのだが,今回『英田郡史考』のなかに「中山」地名を発見,早速にフィールド・ワークというほどではないが,その場所を土地の方から確認することができた。また,白金池という「ため池」があって,かって銀銅を掘り出した鉱山があったものらしい。楢原村周辺には明治以降鉱区が設定され,一定量の銀・銅・亜鉛などを産出した鉱山が幾つかあったことも,今回の資料ワークのなかで分かってきた。

 
  楢原一帯の中山地形

  中山周辺にあった多くの古墳は,鋤かれて畑となってしまっている。『英田郡史考』は,ここから刀剣・土器等を出したと記すが,それら遺物は行方不明となったものが多い。楢原寺山古墳・経塚古墳(群)・金焼山古墳・緑青塚古墳などは,銅鏡・銅剣・ヤリガンナや鉄斧などの工農具・馬具・鉄鏃などが発掘されたことが,『岡山県史』や近藤義郎氏編集の『岡山県の考古学』などに見える。吉野川河畔に平福があり,近世の集落名「平野」と「下福原」の合成地名のようであるが,フクの音韻を持つ。平福と寺山古墳のある土居(楢原下の小字)は谷が通っていて, 古図をみると道が繋がっていたことが確認できた。 楢原・神宿一帯を大中山と呼ぶとすれば, ここは小中山と呼んで差し支えないかもしれない。
  平福の下流には「金屋」があり, 金屋の南には地図には出ていないが「猪臥-イブシ」がある。また,梶並川の対岸には丹蔵-タンゾウ・福谷(池)・金屎-カネクソなども見える。製鉄関連の遺物を探す資料ワークのなかで,最近やっと見つけることができた。『神社と鉄についての調査報告』(編集・山陽放送学術文化財団/1983年刊行)のなかで、鉄滓(鉄の精錬に伴うカス)の散布地として「楢原上ノ奥」が指摘され,時期は五~七世紀のものと推定されている。とにもかくにも,神が示現した楢原及び周辺地域が, 「中山的景観」を持つ土地の例にもれず, 古代から銅鉄などの採掘(集)・精錬・加工が行われていたことは確かであろう。

 楢原地域と古代馬について

  平福の「野寺山古墳」-ただし現在は消滅している-から,かって陶棺を出した。この棺は家形をしていて,その側面に人物や動物が形象化されていたという。明治期に盛んに行われた開墾時に発見されたものと思われるが,その経過を詳しく書いたものを見る機会がない。『英田郡史考』はこう記す。「先年発掘され天下に其類を観ざる居形の妻に人物の模様ある陶棺を出だす」と。

 
 天下にその類を見ざる・・・  

  この陶棺は「天下にその類を見ざる」ということから,帝室博物館-現在の上野国立歴史博物館に収蔵された。実物を見たことはないが,「岡山県英田郡美作町出土」と紹介されているようで,写真を見ると家形の屋根部分が棺の蓋になっており,二つの円が確認できる。日・月であるとの説も聞くが不明。棺側壁の中心に人物がいる。まげを結い,女性のようである。服を身につけているが貫頭衣ではなく,幅広い布を身に纏っているようである。背後には山並みを示すかのような太い線。人物は正面を向いて手を広げ,左右に配した二頭の馬の手綱を持つ。一番手前に大きな「マッチ棒」状のものが,人物と馬との間に突き出ている。これが何であるか解明されていないようだが,わたしは馬の柵ではないかと感じる。この女性は柵越しに手綱を持つように見える。
  古墳自体が完全消滅して,学術的データーも一切残されなかったためか,天下に類なき遺物を出していながら,現在では考古学的に言及されることもないようだ。何かで「築造時期が七世紀末と推定される」らしいことを,いつか目にした記憶が残っている。この陶棺の牧歌的レリーフから,当時楢原近辺では馬が飼われていたことが伺えるのではないか。神が楢原村に示現したのは慶雲三( 706)年と言われる。この陶棺の作成年代が 600年代の終わり頃とすれば, ほとんど同時期と言っても過言ではないだろう。
  「午つながり」など後代の粉飾ではなくて,実際に神(及び集団)が馬に乗って現れた可能性は否定できないようである。しかも伝承に見えるように,神は白馬に跨がって示現したかもしれない。

 慶雲三年と五座の鉾石から

  藤内の祖に神が示現したのが慶雲三年,丙午の年の五月上旬(二の午の日)とある。二の午の日がわたしには解らない。当時は月を上・中・下旬とせず,上・下旬に二分していたものなら「二番目の午日」はおさまる。しかし,旬を原則どおり十日単位とした場合には,十二支を一巡とする午日が二度現れるはずがないのだが。 この点については,是非どなたかにご教示をお願いしたい。
  とにかく,この年の干支(カンシ)は丙午であって, 日時ははっきりしないが,日の方は干支の干が不明なるも支は明確に「第二の午日」と言う。 ちなみに,旧暦の五月は夏の盛りの「午」月でもある。すると, この神は午の年・午の月・午の日に,白馬(午)に乗って現われたことになる。ここまで午が揃うと, 出現時間も当然「午の刻」の可能性も高いのではないか。午の刻は真昼-正午である。こういった干支にぴったり合わせた示現伝承や,五座の鉾石伝承からも,「陰陽五行思想」の濃密な土壌のなかから,この神が誕生したことは間違いない。
  鉾石は五個あったと考えられ,鉾の大小は置くとして中央と東西南北の四方に,鉾が立てられたものであろう。吉野裕子氏著の『陰陽五行と日本の民俗(人文書院)』で目下にわか勉強中であって,ここで詳らかな関係性の論証はできない。ただ,混沌・陰陽・日月と天地,木火土金水の五元素の作用と循環,五元素間の相生と相剋など,森羅万象を説明できる古代の総合哲学で,近代化以前の列島の人々の意識を強く規定してきたことは明らかでる。近代以降においても,運勢や易・丙午現象・風水の流行などを,古代中国で大成された「五行思想」は,依然として列島現代人の意識の深層にも,強い結びつきが感じられるように思われる。

 
 火ノ神の小祠  

 中山神社の「五座の鉾石」も,こういった陰陽五行思想から発想されたことは明らかで,「チウサン」訓みの問題で触れた『五蔵山経』もまたしかりであろう。ちなみに,神示現に深くかかわる「午」は,五元素の火に当てられている。色は赤,方位は南を意味する。四季(土用を加えると五季)で言えば夏, 以下別図を参照していただきたい。
 楢原(中)の梶並川河岸ちかく,かっての古道沿いに「火の神」と呼ばれる小祠がある。明治期の強引な「一村一社への合祀」の試練にも耐え,「火の神」は楢原中の小字名としても,今日なお生き続けていることは頼もしい。藤内の前に示現した神が,陰陽五行思想の「午」でドレス・アップしていることから,この神が「火の神」であると広く認識されたこと,この地が「神の術」に関係した場所であった可能性を考えたい。
 ここ楢原邑で,「火の神」とし後代まで祭祀されるにふさわしい神格は,まずこの神の外には考えられないのではないか。

 東方から示現した原初の神とは

 吉野裕子氏は『陰陽五行と日本の民俗』からのなかで,『鉄山秘書要約』を次のように解析している。

  「七月は申(サル)月であるから, 金屋子神は申月申刻に天降りされた。 申は金気の始め, また七日の七も七赤金気で, 金気の象徴。 次ぎに西方に向かって白鷺に乗って行かれたというが, 西・白・鳥はいずれも金気である。このように時間・空間・色彩・十二支において,金気ずくめの金屋子神は,「土生金」の理で,土が二つも重なっている桂の木に止まり,最上の呪物土気である死体,それも生類の霊長としての人間の死骸を最も好まれる。それらすべて一部の隙もない五行の理の応用であり,反映であって,昔の日本人が如何に五行の呪術に凝っていたか,歴然たるものがある。同時に裏を返せば,そこに見られるのは自らの仕事に対するあふれるばかりの忠誠心であって,後代の私どもは深く感動させられるのである。」

 このことからも, ①楢原邑に始めて「中山大神」として示現した神は,午(ウマ)の最盛期を選んで出現したことから,この神が「火」を中心とした神格と認識されたとして間違いないであろう。②一体どのような火であるか,火の種類については今のところ明確ではない。 しかし, この神が藤内の矛殿・五座の鉾石など鉾を属性としていることからも,鉾などの武器製造に不可欠な金属溶鉱・鍛治の火(炉)を象徴していた可能性は高いと考えられる。
  ③この神の示現の時期については,一貫したストーリーに纏め上げる際に,五行思想を踏まえ人為的に干支が割り振られた可能性が濃厚である。また,一般的に言ってこの種の伝承には,「古さ」を強調するために時代を溯る傾向がある。慶雲三年を固定的に考えるのではなく,もっと広い視野からの時代検証を専門家の方に期待したいところだ。わたしは神の示現を,伝わるところの慶雲三年ではなくて,それより後と考えた方が至当と思っている。
  ④この神がどこから出現したかについて,「中山大神化し来り」とあるのみで言及がない。しかし,天から降臨したとは書かれていない。陰陽五行思想でアレンジされたと考えた場合,この神が「東方から」示現した蓋然性は高い。なぜならば,東は五行の「木気」に当たり,青・春・甲乙・寅卯辰・一二三月に当たるが,九星と複合して三碧木星となり,東方は「顕現」を象意として持つとされている。前々回,今昔物語で中山(中参-チウサン)に現れた猟師を紹介したが,「東の方より事の縁ありて」当国に来た人とあり,陰陽五行思想の「顕現」の方位は今昔にも踏まえられている。

 「十二ケ村」についての疑問

  先に触れた藤内家伝承の続き。
   「‥‥當()国之内 東六郡夏秋両度の御初穂取之候 六郡の内吉村  英田郡楢原三ケ村 山外野村 山口村 平野村 下福原村 豊野村以上十二ケ村 御滞留の時分 御用相達候由 参不申候 ‥云々‥。」

  村名が列挙されている。なぜか,吉村から数えても合計が十二ケ村にならない。いくら数えても九村ではないのか,どうも見ても三ケ村足りないようだ。『作陽誌』がうっかり書き漏らしたため,数が合わなくなったと考えるべきか。あるいは,わたしなどには思いもつかない,専門的で特別な数え方があるかどうか。 不明。
 「参不申候」の箇所をどう訓んだものか。『(神の)御用を(務めるよう)伝達したが,参り申さず=非協力だった』と言っているようにも見える。『作陽誌』の掲載のスタイルも奇妙である。「御用相達候由」の後に,その行にはまだ十分余裕があるにもかかわらず,「参不申」以下を敢えて改行する。このことからは,改行によって新たな文が始まっているとも取れる。わたしとしては,文意がここで区切られていると一応解釈しておく。
 十二ケ村の数の不一致問題は取り敢えず置いて,藤内を中心に吉村以下十二ケ村の人々が,神の示現に際し御用を務めたと素直に受け止めたい。五行思想による方位の「はめ込み」に止まらず,「東方」から神が来った可能性をこれらの村名から考えてみたい