フシノ(椹野)と俘囚について
このほど地元山口のT氏から,「フシノ」の訓みは俘囚(フシュウ)の音韻が転化したものとの説が,地方史家の間で有力視されているとの話が伝えられた。わたしたちの疑問の過半が,これによって一挙に解決されるかに思われた。なるほど, 俘虜となった陸奥蝦夷の人々の強制移住か。椹野川がそういう歴史的出来事につながる可能性があるとは,全く思いも及ばなかった。ただし,注意して読むと「一説に‥‥いへり」とある。「俘囚」という郷名が記録に残っているとすれば,「フシュウゴウ」と呼ばれた一定の場所,しかも郷と名のつく以上「地点」ではなく,ある程度の「面」として広がりを持った地域が,この川の流域のどこかに存在していた-その訓みが長い間にフシノに訛って,この川の名前へと転化していった可能性も出てくる。それにしても,古代蝦夷の俘囚とは‥‥。
征夷思想と古代の「俘囚」
たび重なる陸奥への征服戦争と,繰り返される蝦夷の反乱-現代風に言えば民族独立闘争か。「征夷将軍」の坂上田村麻呂や阿部比羅夫について,教科書はわたしたちに十分知らせてきた。その系譜を受け継ぐ近世の「征夷将軍」徳川氏は,新たな「洋夷」撃滅の実力がないことを露呈した段階で,臨時大権-将軍府による軍政統治権の放棄を余儀なくさせられた。これも,元をただせば極めて論理的な帰結とも言えようか。とにかく,ヤマト中心史観による列島の「歴史」を,わたしたちは繰り返し学んできたが,この古代の征服戦争の過程で俘虜となった蝦夷の人々の運命は教えない。公認史家たちも,この問題を今日まであえて詳らかにしない。
ただ, 「征夷」戦争の過程でヤマト側に抑留された人々を,各地の荒蕪地などに分散して強制移住させたことが, 当時の記録に幾分残ったにすぎない。古代のこの事件について,わたしの持つ知識はこの程度のものであった。慣れ親しんだ北の大地や民族-血族からも切り離され,気候や風土-言葉や生活習慣の異なる土地に追い立てられた人々。「俘囚」として常にヤマトの地方権力や,周囲の倭人集団からも監視された人々,その後の彼ら及び彼らに続く子孫たちの苛酷な運命を想像する。以前,俘囚の強制移住先が九州にあったと聞いたことがあり,「南夷(隼人)に対するに北夷(蝦夷)をもってす」-ヤマトの辺境統治政策の一環と言われた。
この一例から私は,古代蝦夷の人々の強制移住先を,漠然と九州や中四国などの列島西部だったろうと感じていた。この点では周防に「俘囚郷があった」との指摘には, 具体的な位置がわかったことに驚きはしたが, さもありなんと納得はできた。ただ上野国の「俘囚郷」については,古代蝦夷のホーム・ランドに極めて近い場所だけに,たいへんに意外な感じを持った。ただ考えてみると,捕囚という苛酷な境遇の集団を想像するとき,自分たちの命運を握るヤマト権力に馴化するグループが生まれても当然で,一方では, 頑強にもヤマトに「まつろわぬ人々」-現代風に言えば民族主義・原理主義グループもできたろう。蝦夷のホーム・ランドを起点にした,抑留された蝦夷の人々に強制された移住先の遠近は,このあたりにその背景を求められるかもしれない。
民族の差異と差別の問題
最近,古代蝦夷の人々(俘囚)の強制移住のことが,部落問題の発生や起源にからんで取り上げられたものを見た。近代の部落差別の問題については,近世の徳川幕藩体制による身分制度が淵源となっていて,封建身分支配を補強するため「身分外の身分」が, 為政者によって政策的に制度化されたことを原因としてきた。河原者と呼ばれた世阿弥もそうだったが, 早雲・秀吉・蜂須賀氏に代表されるような下層民は,自身や一族の社会身分の上昇を個人の力量と才覚によって切り開く。そういった激しく流動した中世社会が幕を閉じるとき,たまたま最下層の卑しい(とされる)生業に携わっていた人々が,徳川幕藩体制によって身分として固定された。それがエタ・ヒニンという身分外身分の人々であった。 いささか我流で粗雑な言い回しだが,戦後長い間これが定説だったように思う。戦前一部には「朝鮮俘虜」起源説が主張されていたが,学際的には部落問題についての異民族起源説は,戦後完全に否定されていた。確かにお隣の朝鮮民族との関係については,朝鮮や大和といった地域国家名-もちろん日本という民族名も存在しないころから,神話上では列島から半島へ二度・三度と軍事遠征を行ったことになっている。しかし,神話のなかにも「人間を狩った」という記事は見あたらない。
古代東アジア世界のグローバル・スタンダードは大陸であって,半島地域は列島から言えば科学技術・文化の先進地域だった。その定住先いかんにかかわらず,半島からの渡来集団(氏族)は中央-地方を通じて, 社会の中核勢力を形成していた。半島からの自発的な植民者(集団)への優遇措置や,文化や科学技術の導入-人の招聘は積極的に行われた形跡は濃厚だが,人々を大量にかどわかしてきたとは考えられない。
文物破壊・略奪と大量虐殺
歴史上の事実としては,まず「倭寇」という半島へのゲリラ的侵攻が,私貿易を隠れみのに繰り返された時代があった。しかし,倭寇によって組織的に人々が列島に連行されたという話は,半島側の記録にも見えないようだ。次いで16世紀末葉には,秀吉によって半島侵略戦争が,文禄・慶長と二度にわたり起こされた。朝鮮側ではこの戦争を壬辰倭乱と言う。このときは,「文化財狩り」とともに「人狩り」が行われたことは,半島・列島双方の記録に残されている。もちろん,収奪して列島に持ち帰った文物や財貨は,全体のほんの一部にすぎなかったろう。その多くのものは根こそぎ破壊されたと考えてもよいだろう。「作陽誌-美作の地方史」を読んでいて,真庭郡にある某寺の什物「銅抜・銅磐」の由来が,次のように記録されている。
『○○七右衛門という者,かって高麗より携て帰り‥云々。』『牧 某墓-××にあり,宇喜多秀家の士なり。戦功頗る多し。‥‥朝鮮の役に戦死す。婿の○○七右衛門-○○玄蕃の子,骸骨を収めて還りここに葬る。』 『□□與左衛門-入道某に属し朝鮮の役に赴く。軍功あり。繍畫金襴地の十六善神の幅を分捕り來る。上に賛あり。書畫とも凡ならず絶品といへり。後△△寺に納む。‥云々。』
遠い美作から半島へ侵略戦争に参加した彼らが, 個人的に分捕ってきたものは微々たるものだったろう。しかし,もっと多くの価値あるものが組織的に奪われ,奪われきれないものは破却されたろう。同時に,人々の耳・鼻が大量に塩漬けにされて,玄界灘を渡り列島に持ち帰られている。「耳塚・鼻塚」として今日京都に残ると聞くが,残虐にもいかに多くの人々が犠牲となったかが推測できる。しかも,男・女・子供の区別なく殺傷されたと言われている。歴史は繰り返す。東アジアでこの国が今世紀中葉に行った侵略戦争, 時代が異なるとはいえその様相のあまりの酷似に,実に暗澹たる気持ちにさせられる。侵略戦争の動機や使用される兵器・軍事技術といった時代相を越えて,人そのものは少しも変わっていない。
捕囚となった人々の苛酷な運命
確かに,この時「人狩り」が行われた。しかし,決して手当たり次第に捕えたというわけではなかった。渡海した武将(大名)たちに狙われたのは技術者であって,当時最新の-といっても特殊な列島限定モードだった焼き物,そのための人的資源である陶工(匠)が計画的・組織的に狩られた。司馬遼太郎流の「歴史小説」はわたしの好みではないが,氏のエッセー「故郷忘じがたく候」はいい。このとき薩摩の島津義弘によって, 二十二姓四十余の各種工芸に通じる人達が, この列島に連行されてきた。そして十七姓の人々が生き残り, 現代に生きる薩摩焼の陶匠・沈寿官氏は,その十四代目の彼らの直系子孫である。
不条理にも故郷から遠く離れた地に連行された,生業として再び陶器づくりを始めて列島の一角に定住し,自らの民族の血と自ら力量をたのみに運命を切り開いていく囚われの人々。司馬氏は沈寿官氏との語らい,沈寿官氏のいかにも薩摩隼人然とした人品・骨柄を通して,子孫たちの誇り高い生き方の堆積を,淡々とそれでいて情感のこもった筆で書く。司馬氏の「故郷忘じがたく候」は実に名品である。同様に毛利藩の萩焼にしても,また佐賀の鍋島焼もこのようにしてスタートしている。秀吉の半島侵略戦争が,後に「焼き物戦争」の別名でも呼ばれるのは, このためである。
こういった陶(匠)工に代表される技能者・技術者は,その後の近世の社会・支配体制のなかでハイ・レベルな専門家として,場合によっては薩摩の沈氏ほか十七姓などのように,「士分」として組み込まれていく。当時の朝鮮半島は基本的に農業社会で,特別な知識技能を持たない農民を大量に捕虜とし,兵站補給に窮していた侵攻軍が,少ない食料を彼らに分けあてがったとする根拠もない。ましてや,すでに半島側水軍によって制海権を失い追撃を受けての撤退に,数千人・数万人規模で列島に人々を連行するなど不可能だったろう。
近世の身分差別とその起源
徳川幕藩体制下でエタ・ヒニンと呼ばれた人々が,このとき朝鮮から強制連行された人々に求める起源説は,明らかに虚妄・妄言の類いであろう。しかしこの「民族起源説」が,各地に強制移住させられた「蝦夷の俘囚」という,列島の古代「民族」とした場合どうであろうか。論証は極めて難しい。第一に,彼らの強制移住先が一体どこだったかも,その後の蝦夷の人々についても, 記録は全く残されていない。山口の俘囚郷が厳密に検証されていけば,これは大変に重要な問題提起になると思われるのだが。
近世被差別部落が濃密に分布していた関西-特に大和・河内・摂津・兵庫や中・四国などは,蝦夷の俘囚のコロニーがたくさん作られたのであろうか。野史や民間伝承も含め, 今日全く伝わらない。なぜなのだろう。『岡山県史』や『作陽誌』のなかにも,この問題に触れるところが一切ない。少なくとも征夷戦争が繰り返し一世紀間継続されたとして, 強制移住は全体としてどれほどの規模だったのか, 一単位の人数はどれくらいだったのか。蝦夷の人々は農耕-畑作・水田稲作-を生活基盤としないが,一体どういう定住の仕方となったのか。地域の倭人-半島から逐次渡来して農耕や各種技能を正業とする人々の社会(集落)と, 移住先でどのような関係を持ったのか,疑問は尽きない。 従来から言われてきたことだが,東北地方以北には被差別部落の問題が存在しない-この定説が今も維持されているのかどうか知らない。また,もちろん異民族差別を正当と考えるものではないが, 近世の部落問題という歴史事象を考えるとき,古代蝦夷の俘囚の存在は見逃せにできないと感じる。近世の差別問題の構造は, 歴史的なもっと多様なファクターがあるとは思う。しかし, 関東以西の山野を漂白していたサンカ(山家・山窩等)などと呼ばれた人々も含め,明治初年まで人別(戸籍)にも登録されなかった人々, 本当の全くの社会-身分制度の外に存在した人々を思う。漠然とではあるが,俘囚となった古代蝦夷の人々の足跡が全く不明なだけに,こういった人々との間に,幾分なりと歴史的な接点があったのではないかと想像してしまうのである。
「野」の字を持つ地名の集合
T氏の資料によれば,俘囚の集団移住によって形成されたコロニーがあり,それが「俘囚郷」と郷名が記録されていること。東大寺の荘園として初めて「椹野庄」が登場すること。椹野庄の基本生産力(田)が九十一町余りであったこと。歴史的に確実といえる素材はこれだけである。位置の比定はいろいろと書かれているが, いずれの説も推定の域を出ていないことが解った。フシノ川をフシノ地名が転化したとして,フシノをどのあたりと考えたらよいのか。
『近世村別地図』で現在の山口市周辺を見ると,やたらと「野」を持つ村が多いことに気づく。平野村,長野村,深野村,宮野○○村,○宇野令村。これに着目すると,フシノはこれら後代の「○野」村と,密接な関連性をもって存在したのかもしれない。この内のいずれかの村が-あるいは相互に隣接する複数の村を含むエリアが,フシノではなかったろうか。庄や郷と名がつく以上は,後代の一村程度の広さとは思われないので,複数以上の「○野」村の領域を想定してみてはどうだろうか。
言い換えればフシノの地域が,一斉にか逐次かは置くとして,後代に集落や地域単位に分割されるとき, その母体となった名称から「ノ」の一字を取って,新しい土地名とすることは大いにありうるように思われる。反対に複数の土地が統合される場合の命名は,これら地域を包括する「古地名」が復活するか,統合する名称を複合して作られる場合が多い。いずれせよ,こういった場合,全く関係のない新地名をつけるというのは,この国においてはマレな事例に属するのではないか。これら「ノ」を持つ村が単独でか,あるいは隣接した複数の村を含む地域かが,古代にフシノと呼ばれていたと想定してみてもよいのではないか。
椹野川の河道をたどると
このことからは,後代に四分割されたと推定される宮野村地区,あるいは隣接する深野・長野村地区を考えてみる。T氏の椹野川記述の感触でも,宮野がその源流と意識されているようだ。しかし宮野からの流れについては,仁保川との合流点の手前を「天神川」とし,この合流点から下流を椹野川としている。
天神川の呼称については,その由来を「東山に今天神-天満宮が請されて以降のもの」と,わたしは考える。『山口古図』には「天神川原」と表現されており,天神の河原(岸辺の名)と解するのが妥当と思われる。この当時には, まだ「天神川」の名称が定着していないと見てよいのではないか。同じく天神川原の対岸は, 「宇野川原」と表現されている。このことから,天神川と呼ばれる以前は,仁保川との合流点から上流には,また別の名称があったと考えるのが妥当ではないか。
『山口古図』は天神川原の上流を「古熊川」と記し,天神(宇野)川原を過ぎて仁保川との合流点まで, 川名を何ら記載していない。古図作者があえて省略しとも考えられない。わたしは,仁保川との合流点までが古熊川だったと解釈する。『山口古図』はさらに,古熊川の上流を「宮野川」と記す。整理するとこうなる。この川の源流は宮野に発し,まず宮野川と呼ばれ。次いで古熊川と変わり,仁保川と合流して椹野川となって河口に至ると。
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古熊神社 |
ところで宮野の「宮」は,何を意味するのであろうか。天満-天神宮の宮と推定することもできるが, そう仮定すると. 川の名前との間に整合性が失われる。天満宮勧請後に「宮野」となったと仮定すると,源流から仁保川合流点までの流れ全てが宮野川か,もしくは流れ全てが天神川とならなければおかしい。実は『山口古図』には載らないが-中世その存在感が希薄だったか,現在「古熊神社」という社のあることがわかった。宮野川下流に古熊川が見えるのは,この神社の名前が反映したとすべきで,宮野の「宮」はこの古熊神社を指したものと推定する。
賀宝と俘囚の関係について
「椹野」が初めて登場するのが東大寺文書らしいが,その椹野庄という荘園の位置からして,「‥‥と思われる」と表現が極めてアイマイである。俘囚郷に関する諸説は,いずれもこの椹野庄が「俘囚郷と賀宝郷を含む」とされたことから,この賀宝-カガホ郷を比較的音韻の似る最南部の嘉川-カガワだとし,これを起点にした俘囚郷の位置さがしをしているようである。しかし,古代賀宝郷の位置比定そのものについても,「現代の嘉川」であるとの確証はないのではないか。
実は両地名に共通する「カガ」の音だが,古代の製鉄・金属精錬・鋳造にかかわるもの,その蓋然性が高い地名として研究者の間では認識されている。嘉川の周辺を現代地図で確めると,高根や少し離れて鷹子山・赤坂など,古代の金属採掘を想起させる地名が残る。このことからは,古代金属関連の側面からも嘉川地区の歴史が古く,「カガホの候補地の一つだ」とは言えよう。 しかし,『山口古図』を見て気付いたのだが,古熊川に注ぐ「古川」が上・下に二分する形で金古曽町の地名があり,大内御殿裏手-町割りを貫く流れを辿ると「金山道」の記載が見える。『山口古図』には訓みがないが,金古曽は「カネコソ」であろうと推定する。 比売許曾・大許曽などとも表記されるコソは,論証ぬきながら神の座-社-ヤシロの意味であって,金古曽が古代の金属神-祭祀の場と押さえたい。この地も「カガホ」の候補地の一つに比定できなくもない。また,別の地域への比定も可能とではないか。例えば小郡の北「黒川・加治畑」エリアであってもよい。さらには,仁保が往古の吉敷郡(手元の資料では不明)に含まれたとして,「高野・高畠・黒石」の仁保地区の中心エリアとしても結構である。いずれの地域ともに,古代の金属採掘や精錬を意味する音韻地名を複合していて,候補地として問題がないと思われる。古代「賀宝」郡を「カガ」の音韻の一致だけで,現在の「嘉川」とするのは早計と考える。
「俘囚+野」説には疑問
「俘囚」が「椹野」に転化したとの説もある。しかし,フシュウがフシへと音韻が変化したとしても,「フシ」がさらに「フシノ」となったとするには,大きな飛躍があるように感じる。確かに形の上では「ノ」が一音くっついただけだが,必然性のない「ノ」が慣用されるはずはないのである。このために,T氏が言及したように「俘囚郷にある野」の意と,多分にウルトラな解釈が生まれたのであろう。しかし,俘囚の慣用された訓みは「フシュウ」せいぜい「フシ」であったはずで,フシュウノ・フシノと呼ばれていたとの確証はない。フシュウを原音とするための,希望的推測の域を出るもではない。
ただ,俘囚郷の訓みとしては,俘囚ノ郷(フシュウ・ノ・ゴウもしくはフシ・ノ・ゴウ)と「ノ」を挟んで呼ばれた可能性は濃い。岡山県の温泉に「湯郷」があるが,訓みとしてはユゴウではなくユノゴウである。歴史的には湯ノ郷とも書かれた時期もある。また,人名にしても源頼朝は慣習的に,ミナモト・ノ・ヨリトモと訓まれる。しかし,この接合剤としての「ノ」が,意味を持つ漢字に置き換えられることはまず考えられない。古代の俘囚ノ郷が俘囚野郷となり,郷が消滅していくなかで「俘囚野」が,地域名として自立したと考えることにも難がある。
さらに言えば, 東大寺の立荘時に庄名がすでに「椹野」であったということは,音韻の「フシノ」へ既に「椹野」が充てられているわけで,数ある漢字のなかからあえて「椹」選ぶことには,それ相当の意味があったと考えるべきではないか。フシュウ-フシの音に「椹」で間に合わせたというのでは,論理を越える。
サワラを指してフシは苦しい
いま一つの「サワラ」起源説については,この川の流域がかってヤマトへの良材供給地だったという,地元ならではの新事実を提供いただいたのだが,どうもしっくり来ない。サワラ材の産地だった-野にサワラの木がたくさんあったので「椹野」と表記した。そうだったとしよう。ではなぜ「サワラノ」または「ジンノ」とならないのか。これに川がつけば当然に「サワラノガワ」とか,語感が悪ければ「ジンノガワ」とならなければおかしい。ジン以外でも,仮にチン・チム・ジム・シン・シムでもよい。サワラの意味とすれば,どうしてもフ-特徴的なFの音が入る余地がないと見られるが,いかがなものだろうか。
ただし,わたしが参考にしている広辞苑や大漢和字典・古語辞典などが,もちろん完全無欠・正確無比とも言えないわけで,古代ににおいては「椹」という漢字に,フシという-フサ・フス・フセでもよいが-訓みが,絶対になかったと言い切れないものがある。あのとき車の中で,大量にある木偏・魚偏の漢字のなかには, 宗家中国の字源・意味とは異なるものが多いと,蘊蓄を傾けたのはわたしでもあった。なにかないかと考えていた。昨今「美作-ミマサカ」の国名の由来を考えていて,実のところなかなか進まないのだが,郵便番号簿で他県の住居地名に当たってみたことがあった。同じ「フシノ」もしくは「椹野」がどこかにないか, このやり方で探してみることにした。
「フシハラ」が平群町にあった
郵便番号簿-最近では「ぽすたるガイド」という-で, フの項をかたっぱなしから捜す。山口県以外にも同じ「椹」を持ったり,フシという音韻を持つ地名が,どこかにはあるのではないか。まず山口県に近い福岡・大分から始めた。次に東へとんで奈良県-なんといってもやはりヤマトだろう。その次ぎは河内・山城・近江か。なんとそのヤマト・奈良県生駒郡で「椹」が見つかった。難字地名は町村ごとのリストの最後に,ルビを付けて再掲してある。平群町のフの項に「椹原」があり,難字地名再掲で「フシハラ」のルビあり。大収穫である。野と原の異いはあるものの,語幹の「椹」と「フシ」は完全に一致している。さすが全国ネットの郵政省,見くびってはいけない。さらに大きなオマケまで付いていた。平群町に同じ木偏の難字「櫟原」がある。クヌギハラと思いきや,これが「イチハラ」であった。
早速に漢和字典の「櫟」の訓みを当たる。リャク・レキ・ロウとし,意味としてはクヌギを上げるが,古訓としてイチヒ・クヌキ・シイが載っている。なるほど古くは櫟をイチヒと訓むことが解る。併せて広辞苑でも確認する。古訓どころではない, イチイには「櫟」しか載せていない。クヌギを引くと「櫟・櫪・橡」など幾つかの漢字が列挙されている。ちなみに,念のために山口県を当たっていて,宇部市になんと「櫟原イチハラ」を発見したのである。また,平群町には「シデハラ」という地名もある。シデをワープロで出そうとしたが, どうしても画面に上がってこない。木偏に典と書く。この漢字はわたしが常用する漢和辞典にない。北京で買った「四軆大辞典」で, 木偏の漢字リストを捜したが見えない。どうも漢字の宗家にもないようだ。
広辞苑でシデを引いてみると,『(植)カバノキ科の落葉潅木,イヌシデ・アカシデ・クマシデ‥などの総称』云々と説明はあるものの,あいにく表記漢字が欠けている。期待せずに開いた旺文社の小型漢和辞典でやっと発見した。なるほど,樫・榊・栃などと同じ列島オリジナルの国字であったのか。とにかく平群町である。近くに榛原町があったりで,木偏難字地名の揃い踏みの感がある。
地名漢字は古代人の知恵の産物
周防の椹野(フシノ)と大和の椹原(フシハラ)と, 今のところ二例ではあるが, どうも椹がフシと訓まれたことは間違いないようである。前回わたしが提起した「フシ説」は,ヌルデの木の変容-フシがつくことからイメージしたものだった。古代人もこの木の「はなはだしい状態になる木」の特徴から,「椹」を会意文字風に解釈をして充てフシと訓んだ-その可能性は少なくない。
広辞苑の「ふしのき」の説明も,五倍子の木として『ヌルデの別称』と載せてもいる。そして,他に同じフシ音韻を持つ木種がないという前提に立つ限り,椹野川の椹はまずはヌルデの木のことと考えるほかない。たしかに「椹」にはサワラの訓みがある。事実この地がサワラ材の産地であったかもしれない。しかし,サワラの木の意味で「椹」が使われながら,なぜか訓みの方がヌルデの木の「フシ」になった-というのでは論理以前の問題になろう。
周防の椹野・櫟原と,ヤマトの椹原・櫟原をどう考えるか。周防の場合は椹(フシ)は「野」であって「原」ではない。しかし,平群町の木偏地名ラッシュを考えるとき,それぞれの土地にそういった木種の大木か叢林があって, そういう木のある場所(原)を言えば地域の人々が認知できる場所と,わたしたちは素直に感じてしまうのではないか。平群町の椹原に近くに,周防と同様に古代「俘囚郷」があったのだろうか。仮にあったとした場合でも,考証家が椹原の地名の由来を「俘囚郷」と結び付けて,交々に論じるものかどうかは疑問と言わなければならない。
たった二例でしかないが,椹野の「椹」の訓みは「フシ」で正解なのであって,わたしたちの認識不足がその訓みを奇異に感じさせたにすぎない。椹はやはり一つの木種を指したものではあるが,特異なのはそれが「ヌルデ」の木を意味すると言うよりも,この木に付着する「異物」を併せて指すところにある。椹野(原)とは, そういった椹(フシが付くヌルデの木)の林があって, この景観を特徴とする野(原)のことと考えるのが, やはりオーソドックスな解釈というものではないだろうか。
ヌルデの林はどこであってもよい
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ヌルデの林 |
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今回の疑問は「椹野川」の訓みがメインであって,(古)椹野はどこにあったかという位置比定は問題ではなかった。ただ,俘囚郷というかなり魅力的な素材と,その似かよったフシュウという音韻がからんで,予想外に複雑な展開になったきらいがある。当地の歴史学の先生を含めた地方史家の方々は, いまもなお俘囚説にこだわっておられるかもしれない。しかし,わたしの達した結論は,古代の一時期流域のどこかにヌルデの林があればよいわけで,現在のいくつかある俘囚郷の比定位置とも,今後場所が明らかにされる場合の俘囚郷の位置とも一致する必要がない。俘囚郷と椹野には何の関連性もないのである。
また,東大寺の荘園の「椹野庄」については,立荘時すでに椹野川の呼び名が定着していたものと考えられる。この荘園が立てられた場所が, たぶんこの流域のどこかであったのだろう。ほとりを流れる椹野川の名前が, 荘園名へと再転化したものと解する。
古代の椹野の位置については,T氏資料の『近世村別地図』や『山口古図』,現在の山口市地図や現在地名などから,わたしなりに「一定の領域を持った椹野」として推定を試みた。まず,「野」を村名とするエリアを考え,仁保川との合流点と思われるところを重ねてみた。ただし,求めるポイントは二川の氾濫原であって,古代は相当蛇行を繰り返したとしなければならない。それぞれの地図の時代と表現が異なり,そう簡単にはいかない。
机上仮説としての[古]椹野
『山口古図』で古熊川と仁保川の合流点を見て,わたしはある違和感を持った。仁保川の方がはるかに川幅もあり,また合流点から源流までの長さも仁保川が勝る。なぜ仁保川の名前が残らないのか不思議だった。なぜ,いずれの川名も出会ったとたんに消えて,椹野川という全く新たな名前となるのか。主流が仁保川であるならば,なぜ合流後に仁保川の名が残らないのか。どう見ても天神川-古熊川は,仁保川の支流ではないか。
この疑問は, 仁保川との合流地点に(古)椹野があったとすれば解消できる。(古)椹野が仁保谷の山口盆地への出口一帯を押さえる位置にあり, 仁保川が(古)椹野を通過した後に-もしくは(古)椹野地域内で二川が合流する場合, ここからの流れを人々が「椹野川」と意識しても不自然ではない。 『近世村別地図』で椹野川の河道と二川の合流点を推定すると,ちょうど宮野恋路村南端あたり、深野・長野一帯からの流れが御掘村を通過し終えた地点であろう。 このエリアは地勢的にも仁保谷の南西にあって,仁保川の山口盆地に向かう出口を「扼する地域」となるように読み取れた。
また, 合流点付近は金古曽地域にも近く, 金属の精錬・加工(鍛治)のために早くから伐採が繰り返された可能性が高い。近世のたたら製鉄においては,木炭は砂鉄の三倍必要とされ,原材料の運搬可能範囲を「砂鉄七里に木炭三里」と表現された。いかに大量の木材が必要だったかが解る。ちなみに松林もそうであるが,ヌルデの叢林もまた,自然林を繰り返し伐採した後にできる「二次林」であると言われる。このことからも,御掘・深野・長野村エリアは,古代金属工房の存在が地名等からも推定できる「金古曽」など,古代地名の複合した地域と隣接してもいる。
余 話
①志手原(シデハラ) が徳地町伊賀地の小字名にあった。これで平群町のイチ・フシ・シデ三点セットが周防でも揃った。
②深野(フカノ) は仁保下郷の小字名にあり, これが「深野村」と重複する可能性も考えられる。
③平野(ヒラノ) が宮野下の小字名に見える。旧宮野恋路村の南 端部が「宇野」川原とあった。平野の小字地名も古いとすれば,宮-深-長以外にも仁保川合流点付近に多数の「野」を持つ地名が集中していことになる。(古)椹野について, これら宇-平の「野」も含めた地域として, 仁保川合流点一帯としておきたい。
④俘囚郷について,フシュウの音韻に近いと感じられる現存地名は,厚狭郡楠町西万倉の伏付(フシツク)ではないか。隣接する船木にも伏付下田(フシツクシモダ)が見える。付を音訓みにすれば「フシフ」となりフシュウの音に限りなく近い。ただ,俘囚郷があったとされる吉敷一帯からは,谷も異なりいささか離れてはいる。周防の国は古代から近世まで郡界が固定していたのかどうか,また,俘囚郷の位置がまぎれもなく吉敷郡と確定しているのかどうか。少しく調査いただければ大変ありがたい。
⑤古熊神社について,『山口古図』には古熊川があって古熊神社がない。ところが,現在の地図には天神川があって,今天神が消えている。古熊神社の位置は,『山口古図』で「今天神」と記された位置に合致しているようだ。その後, なんらかの事情で古熊神と天神が合祀(古熊神が天神社へ遷座)されたのか。あるいは, 古熊神社の地に天神が勧請されて, 最初から二つ名前の神社だったのか、よくわからない。 また、古熊神社の中心軸はぴったりと鴻ノ峰(高ノ峰・鷹ノ峰)に正対している。
⑥多賀神社も大内御殿近くから鴻ノ峰の山裾へ動き, 高嶺大神宮-鴻ノ嶺(及び天ノ岩戸)を奥宮とする下宮-は,山口大神宮と名が変わっている。かっては鴻(タカ)高(タカ)多賀(タカ)が、東西ライン上に揃っていた可能性が高い。しかも, このラインの延長上に大内御殿・金古曽町も入る。古曽が本仮説どおり「神座」とすれば, 捜せばどこかに元の小社(祠)の痕跡がこのライン上に残っているかもしれない。この神はもちろん鍛冶神であったが, その後に変身した可能性もなしとしない。
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