紙老虎の歴史漫歩   
  列島古代雑記(6)  
 

俘囚問題と鋳銭司について




  今回の埼玉・N氏の指摘と資料とで,たいへんに勉強させていただいた。 フシノ川探求の過程で「周防国吉敷郡に俘囚郷ありき」との山口・T氏の提起に,N氏の関心もなみなみでないことは感じたが,予想に違わず「中教審答申の分析」作業に並行して,「俘囚」問題を深く掘り下げて追跡されていることがわかった。それで,まず今回の俘囚問題に関する新知見と,送っていただいた石渡信一郎氏の著作の部分-『古代蝦夷と天皇家』『日本古代国家と部落の起源』を読んで,わたしが感じたことから話しを進めたい。

三十五国で一万人を超える規模

  俘囚と一口に言っても,その中にはニュアンスの異なる夷俘と俘囚というカテゴリーがあったが,時代が下がるにつれて混同されて使われ,「俘囚」として定着したらしいこと。俘囚のなかにも,対ヤマト・対同族関係をめぐる階層分化があること。ヤマトの蝦夷征服戦争の過程で,陸奥北部の蝦夷への和平・懐柔,正面の蝦夷集団には徹底的な武力鎮圧と強制移住という,巧妙な政略・政策が執られたことなどをご教示いただき,なるほどと納得させられた。遠交近攻-いつの時代でも,ヒトのやることに大した違いはない。
  前回わたしは強制移住の規模について,全体として一体どれだけの人々だったのか,移住の単位としては一カ所にどれぐらいだったのか気になった。周防や上野などのように,俘囚「郷」が設けられるほどに集中的(五百人程度と想定)配置だったのかどうか。 これについても明確にではないが, 当時の郷がほぼわたしの想定の十分の一程度に考えられていることもわかった。
 強制移住が行われた期間は,予想したとおり八世紀の初頭からほぼ百年間というところか。全体の規模ははっきりしないが,トータルとしては記録に残るもので二千名,延喜式の推計からは四千六百名, 実際には一万名を上回る人々が三十五ケ国に分散して,強制的に移住させられたと見られているようだ。 (高橋嵩氏『蝦夷』の推定とこれを敷延した石渡氏の推計による。)

俘囚となった人々のその後

  また,その著作のタイトルからも石渡氏が,古代「俘囚」と部落問題の起源-前回わたしが力弱くふれた点を,深く追求されていることがわかって,大変にうれしかった。正直いって部落問題の史的解明作業については,最近の動向を全く知らない。沖浦氏や網野善彦氏の本に出会い「中世の賤民」を考えるなかで,そのつながりがストレートではないものの,その前後-古代と近世の賤民制度との連続面を強く感じてきたところだった。こういった蝦夷の俘囚が,石渡氏は畿内や地方の国衙や神社・寺院(これも国家機関), さらには中央-地方を氏族関係で結ばれた有力クランの直接支配の元で,隷属的に使役されたと指摘している。
 中世の非人・河原者・清目・犬神人・供御人・傀儡師などの多様な人々は,古代の生産-社会システムが崩壊するなかで湧出したものものだが,その供給源はこういった古代の隷属民であった。例えば,侵入する木曽義仲勢に対抗するために,後白河法皇側が動員した兵力の中核は,「向へ礫,印地,云甲斐なき辻冠者原,乞食法師ども(平家物語)」と書かれる。ほぼ,検非違使が使役していた賤民-非人・河原者と重なる。
  『一遍聖絵』には,こういった中世に賤視された人々が多数登場するが,いずれの人々の風体も異形である。この聖絵に備前福岡の市(黒田如水の本貫地)や, 美作一宮のショットもあると知る。一宮はわたしの住居のすぐ近くで,この意味からも興味の尽きないものがある。時宗の踊り念仏にしろ, さらに悪人正機の親鸞・日蓮など鎌倉仏教の創唱者は,これら賤民層の救済を例外なく標榜していたとも書かれている。

関東の開発と将門と俘囚

 また,時代は少し溯る。関東地域を舞台にした平将門の乱が発生したのは,上野や上・下総で俘囚の叛乱が立て続けに起こった直後といってよい。直接の発端は, 将門の父の遺領回復という氏族内部の闘争が,地域覇権の戦争へと雪だるま式に拡がったようだ。
 大岡昇平氏は『将門記』のなかで,父良将・将門の所領(古代の利根川や中小河川の乱流地帯)開拓と拡大が, 判類とよばれる私有民によってなされたもので, 戦闘時には彼らこそが将門の基盤兵力になったとする。 そしてこの判類のなかに,少なからず「俘囚」がいたものと推測している。原本の『将門記』に登場する「丈部(ハセベ)子春丸」を大岡氏は,「丈部は越の俘囚の姓-馬丘使部で,奈良時代に馴化された熟夷」と考えている。
 将門の父-平良将は鎮守府将軍であったし,実際にも陸奥に幾度か出向いたと想定される。彼ら関東から陸奥に派遣された開発領主層が,官の記録統計に上がらない多数の俘囚を連れ帰って,私領の開拓・拡大に投入・使役したのではないか。また,しばしば繰り返されたであろう領主間の地域紛争には,こういった人々が実力部隊となった可能性は高い。
 特に関東地域においては,上野の三郷のように国衙が所管しない-従って統計に上がらない俘囚・夷俘が,たくさん存在していたのではないか。小山付近を根城とする下野の押領使(この官位は乱鎮圧後のものであろう)藤原秀郷は,将門を倒すことで突然歴史にデビューしてくるが,彼の軍事力の基盤もまた丈部に代表される俘囚を含む人々ではなかったか。

吉備三国の俘囚について

  当時の郷がせいぜい十戸程度のもので,一戸5人としても五十名規模ぐらいという。N氏作成の俘囚関係年表からも,配置はおおむね「六十名前後」だったことがわかる。また,三百とか五百とかの場合は,分割配置したらしいことも伺える。
 俘囚については, わたしも次のような記事を見つけた。これが高橋氏の俘囚数算定の基礎となったもののようだ。

『延喜式主税上』
   美作国税 公廨各三十万束。国分寺料四万束。文殊会料二千束。修理池溝料三万
         束。道橋料一千束。救急料八万束。施薬院料一千束。俘囚料一万束。
   備前国税 公廨料各三十八万束。()俘囚料四千三百四十束。
   備中国税  公廨料各三十万束‥()俘囚料三千束。‥

  高橋氏によれば,畿内を除く俘囚料総計が百九万五千束ということであり,その三割分を俘囚の食料費として計算したものが, 四千五百名ということらしい。 一名あたり七十二束ぐらいである。この計算を単純にあてはめると, 美作国は百四十名分, 備前国六十名分,備中国四十二名分程度になろうか。 トータル的には一万名規模ということから,倍すれば-美作国では三百名分ぐらいになるかと思われる。 その後の「弘仁式・主税」では俘囚料はなくなるが, これは吉備三国に限ったことでもないのだろう。
  長門の「伏付」についてフシツク→フシフの音韻から,郷ではなくて俘囚「邑」としての可能性を指摘したのだが,それと同じ観点から美作国の「藤生-フジュウ」を挙げておきたい。東部の播磨国境に位置する英田(アイダ)郡-古代の英多(アガタ)郡にある。古代郡衙が置かれたといわれ,付近からは巨大な堂塔伽藍遺跡も発掘されてもいる。美作の場合,郷ではなく邑-規模ではなかったか。

「蝦夷」命名のプロセスを推理する

  アイヌとカイと蝦夷についての石渡氏の見解は,一部は了解しつつも結論部には納得できなかった。まず,渡来系の人々が蝦夷に接触した際に,蝦夷の人々の民族自称音韻を聞き取ったとの考えには賛成したい。ただし,聞き取った音韻を「カイ」とするのは間違いではないか。「蝦」の漢字音韻は「花-hua」で同じである。咽喉の奥から発する破裂音「カ」とは, 相当に異なる響きではないか。末尾(nu)音が低く,人々の自称する音韻を「hua-yii」と聞き取り,それを「蝦夷」に充てたとするのがよい。
 大陸・半島・列島の音韻と意味を自在に操り,漢字に乗せて編まれたものが『万葉集』であると,李寧熙女史の指摘に従えば,当時の史官に限らず王豪族・官僚たちは,トリプリンガル(?)能力の持ち主だったと思われる。「hua- yii」の音韻は必ずや,漢字の「花=華」とその反対語としての「夷」を想起させたことであろう。華-文明の中心としての中国(漢族)と,四方の未開の民族,夷・狄・蛮・戎と呼ぶ「中華」思想の基本構図である。 中華からは山東半島・韓半島・列島は全て東夷だが,彼らはヤマト権力を文明とする「列島版ミニ中華」を構想したはずである。yii の音が「夷」となるのは必然であろう。そして,hua にできるだけ-大陸の本家に負けない野蛮な漢字を充てようとした。選ばれたのが「蝦」であった。
 
「蝦」の漢字は大陸でも「エビ」である。しかし,当時の倭訓・意味に「ガマ」があったのではないか。ガマを現在「蝦蟇」と表記することから,わたしは古代には「蝦」一字でガマだったとみる。音韻は漢語で正確にとりながら,倭訓を巧妙に重ねたのが「蝦」である。蝦がガマの意を差し置いて「海老」そのものとなり,この流れのなかでエビイ・エビシ・エミシと慣用され,「蝦夷」の音韻として定着してきたものではないのか。

蝦夷とアイヌの問題について

  ただ.古代ヤマトが「蝦夷」と呼び俘囚とされた人々が, 近世の蝦夷島・クリル島(千島)・サハリン島に居住するアイヌの人々と, 同種だったとすることを疑問視する主張もある。 わたしは, ヤマト覇権の東方伸長以前の関東・東北・北陸については, 列島西部からの波状的な入植者(集団)が続くなかで,相互の交流-もちろん紛争もあったと考えるが-蝦夷の人達とのモザイック棲み分け, 相互の友好的な交流を想定している。場合によっては,後代に相模の大磯へ高麗王若光の一団が渡来したような,半島からダイレクトに入植する人々も,日本海側を中心にかなりあったのではないかとも考えている。
 ヤマト権力が樹立されて覇権主義が拡大するにつれて,蝦夷を含むこういった人々は選択を余儀なくされることになる。三つに一つである。徹底抗戦してその土地を守るか,ヤマトの権力に服して彼らの人民となるか,それとも未だヤマトの権力の及ばない陸奥最深部や蝦夷島へと移動するか。その意味では,わたしは人類学的な種を問題にしないし,またこの列島ではできもしないと考えている。これは, 古代蝦夷と近世アイヌの問題に限らない。
  N氏からの資料のなかで, 陸奥国新田郡の農民が蝦夷の人達に同情して,-ヤマト侵略以前から蝦夷は彼のよき隣人だったことがわかる,蝦夷に味方したとして日向の国に流されたとある。その農民の妻の名前が「丈部小広刀自女」で,大岡昇平氏の前述「丈部」の指摘とも重なる。彼らの罪状は,「久しく賊地に住み,よく夷語を習い,しばしば言曼語を以って夷俘を騒動した」-と記録に残るとのこと。ヤマトによる征服以前の陸奥は,蝦夷を含む古くからの列島人や半島からの入植者など,多様な人々の平和的な共存と棲み分け,文化交流が行われていたとわたしは推測する。

列島の人種・民族の問題

 一体ぜんたい,弥生人と倭人はどうなのか,弥生人自体が北東アジアの環日本海-さらには沖縄列島を挟んだ大陸江南との関係性のなかで,人種としても複合・重層して形成されたと考えられる。ヤマト政権を構成した人々が古来-先祖が来たその子孫か,今来-最近来たかの差はあっても,主として半島から渡り来った人々であったことに相違ない。言語・宗教・生活様式など文化的には異なるとしても,この列島で(広くは半島も含めて)形質人類学としての人種の差異は存在しないと思っている。
 そもそも純粋な倭人なんてものが存在しなかったし,みんな寒冷地適用型の北方系モンゴロイドの,多様なバージョンのうちの一つなのである。地域によっては,南方ミクロネシア系が比較的顕著といった程度でもあろうか。 
 司馬遷の『史記』に呉の太伯という人物が出てくる。最近までは神話と考えられていた。金正日が檀君の墓を発見するぐらいだから,もしかすると近々には実在したという話もあるかもしれない。黄河流域の文明国の王族にうまれたが,王国を継ぐのがいやで弟に譲って揚子江の流域,蕃夷の地と言われた南方に移住したという。ところが,英明で有徳の人物が文明圏から来たというので,蛮人たちに慕われ共立されてその地(呉国)の王になった。
  彼は呉の習俗に従って文身(いれずみ)をしたという。 そこは呉越の地-沖縄の弧状列島からは, 目と鼻の先の話である。 大陸の王朝にあっては魏志倭人伝のころから,「断髪文身の風俗」などから呉と倭が通底するものとして,王朝が交替しても史官の基礎知識として継承されたものらしい。

半島と列島の人々は本来同祖

  北畠親房が『神皇正統記』のなかで,「異朝の一書に日本は呉の太伯の後(ノチ)也と云えり」と書くのは,このことである。続けて北畠氏は言う。

  「返々(カエスガエス)あたらぬことなり。昔,日本は三韓と同種也と云事(イウコト)のありし,かの書おば桓武の御代にやきすてられしなり。

  北畠氏の言う三韓が統一新羅前の馬韓・弁韓・辰韓の, 三韓であろうことはご推察のとおりである。そのことに関する文書があったが,その書物は平安遷都をおこなった桓武の時に焼却されたと,このような証言を残しているのである。  以前「フルクマ」の項で,わたしが江戸期の「まじめな考証家」と折り紙をつけた人物-藤貞幹氏であるが,彼は『衡口発・国史』のなかで次のように述べている由。

  「日本紀を読ば,先(マズ)此国の事は馬辰の二韓よりひらけ, 傍(カタワラ)弁韓のことも相まじれると心得, それを中心に忘れず読ざれば解しがたし, 古来,韓より起りたることを,掩(オオ)いたることをしらず,此国きりにて,何事も出来たると思う故,韓の言語を和訓とす,様々に説を立,終(ツイ)に其意(ソノイ)を得ることなし。」

  日本紀とは日本書紀のことである。氏は列島(此国)の国家形成は,まず半島の馬韓と辰韓をベースとして,これに弁韓が複合するなかからスタートとしたと言う。 このことを基本に読まないと, 日本書紀は理解できない。 この島のなかだけで全てが始まり,全てが完結するような説は全て虚妄であって, 大間違いのコンコンチキだと, 後代のわたしたちに注意を喚起しているのである。

大内氏と宇喜多氏の始祖伝承

  この点では, 山口に本拠を置いた大内氏はきまじめなもので, 出自を百済(旧馬韓の地である)の王族と主張している。 以前にT氏とした話では,半島との貿易の利をねらって李氏朝鮮王朝の歓心を買うために,系図を捏造したのだろう-の線でまとめたのだが,大内氏にとってはまじめな主張だったのかもしれない。大内氏側の始祖伝承は,百済聖明王の第三王子の「琳聖太子」らしい。この第三王子が推古四年(611)に周防国・多々良浜に上陸し, その子孫が大内邑に住んだことから, 姓を多々良,氏を大内と称したという。二十四世の弘世のときに山口盆地に進出し,西国屈指の守護大名となったものである。
 まさか琳聖太子が単独で渡ってきたはずはない。太子かどうかは知らないが大内氏の先祖たちが, 一定の集団を形成して列島に上陸したものであろう。 上陸地点が多々良浜だったというのではなく, 真実は彼らが上陸・定住して多々良(製鉄)を行った,そのためにそこが「多々良浜」と呼ばれるようになったものであろう。大内氏の山口進出直前の定住地「御掘」から、山口進出後の大内館を取り巻く金属地名複合については,すでに繰り返し指摘した通りである。  ちなみに,聖明王の第二子は阿佐太子という。最近見かけないが旧一万・五千円札肖像の「聖徳」の顔は,阿佐太子筆の「聖徳太子御影」が原画という。また,異説ではこの肖像が阿佐太子そのもの-わたしたちが認識する聖徳の顔は実は阿佐太子の顔という。うそのようなう本当の「説」である。
 斎藤道三はたしか大山崎の油売り(この出自はなかなかのものだ)で, 美濃一国を切り取り戦国の梟雄といわれるが, 備前の宇喜多能家も同じく梟雄と呼ばれる。 大内氏のついでに, ここで彼を紹介をしておきたい。大永四年に描かれた宇喜多能家氏の画像が残っていて,その「賛」に次の記載があるという。

  「知勇兼備,功名遂全,本貫為百済王兄弟,曾来兒嶋, 中古立三宅姓,雲イ洞酌和泉,‥云々‥。」

  宇喜多氏もまた, 始祖を百済王(の兄弟)と主張している。 大内氏と違って半島貿易の利とも無縁なだけに, 宇喜多氏は大内氏以上に本気だったかもしれない。

鋳銭司の問題その後

  ところで,「鋳銭司」についてであるが,前回に述べた当地の銅産出にこだわらない見解は,一定程度はあたっていることがわかった。『延喜式(主税上)』に次の記事が載る。

  「凡鋳銭年料銅鉛者,備中国銅八百斤。長門国銅二千五百十六斤十両二分四銖,鉛一千五百十六斤十両二分四銖。豊前国銅二千五百十六斤十両二分四銖,鉛一千四百斤。毎年採送,即以鋳銭司収文進官・・・云々。」

  鋳銭司は列島内に幾つか設置されたようで,N氏の前回の資料には周防の鋳銭司が別の場所から,現在の「鋳銭司村」に移動してきたことが書かれていた。とにかく,採掘・精錬された純銅や鉛のインゴッドが,各地から計画的に鋳銭工房に送られていたということがわかた。それにしても,豊前・長門の銅鉛の割り当て-その産出高は大きい。
  また,播磨国を通過する関係官人の宿泊と酒食の記録からは,鋳銭司の史生,鋳銭司主典・民領・判官など,関係官員往来の記事がかなり載る。ここからは,周防以外に京・長門に鋳銭司が置かれたことがわかる。他にも幾つかあったものであろうか。また,産銅国には「採銅使」という職もあったようだ。備中国の採銅使の公印が摩耗したので,銅印を新鋳したとの記事が『三代実録』に見える。

「和銅」以前の銅に関する疑問

  教科書的には「武蔵の国での銅の発掘-ヤマトへの献上」を産銅の最初とし,和銅改元と和同開珎鋳造となるのだが。いかがなものであろうか。現在の埼玉県秩父市の黒谷(クロヤ)で, 慶雲五-708年に金上元という名前の新羅系と見られる人物が銅を発見している。   想像するに純度の高い「自然銅」の塊だったのではないか,たぶんこれに芋づる状態で塊がつづく鉱脈ではなかったか。そういう「芋」という形態があると聞いた。
 ちなみに,この黒谷から山一つ向こうが群馬県吉井町。金上元はこの吉井町の新羅系集団とは金達寿氏の指摘である。日本三古碑の一つとして有名な「多胡碑」が吉井町にあるということから,T・N両氏ご指摘の俘囚郷が置かれた上野国三郡の一つが,この「多胡」であったろうと推測している。
  しかし,和銅以前はどうだったろう。列島内で産銅が行われていなかったとした場合,古墳時代以前からの銅製品を繰り返し鋳直して再利用していたか,銅のインゴッドを半島・大陸から移入したか,二つに一つということになる。果たしてそうだろうか。わたしは,秩父の黒谷における銅の初見は,あくまでもヤマト権力に限っての公式レコードにすぎないと感じている。
 それぞれの地方では独自に-言い換えれば,各地域政権は「ヤマト地域政権」とは関係なく,和銅改元のはるか以前から鉱石を採掘して金属精錬を行っていた。銅についてだけは行われていなかったとは考えられない。多くの場合,銅鉱は金・銀・鉛鉱などと複合して同じ鉱床から出ている。古代から利用された金属のなかでは,銅は鉄に次いで融点が高いと思われる。高温加熱の必要-そのためには列島の熔融炉に何か技術的問題があったのだろうか。このあたりについての見解を,またの機会に両氏にもお願いできればと考えている。

 

        余   話 

  N氏には伏付(フシツク)説をあっさり蹴られてしまった。わたしとしては, 吉敷の俘囚郷そのものに充てるというのではなく, あちこちに移住させたとすれば, その一つの可能性を言ったのですが。やはり普通の感覚というものはいい線を出すもので, T氏の「俘囚郷」の指摘で驚いたのは,郷という予想を越える規模にもありました。古代の郷と近世の郷-規模としてどうなのか全く知識を欠きますが,近世で言えば少なくとも数カ村(集落)はあります。
 それだけの規模のコロニーとは。やはり,N氏の資料のなかにこの点を指摘しているものがありました。普通にはもっと少数,例えば二・三十人,多くても五十人ぐらいまでを想像する。そういうレベルで考えれば,なお「伏付」は十分検証に値すると考えられるのだが。