再び宇佐神について
本シリーズの竿頭を飾ることとなった『宇佐八幡神について考える』で,わたしは「小椋山」をつい見過ごしてしまった。現在の宇佐八幡社殿が鎮座する丘陵の名である。まず神の鎮座する山として御座山(オグラヤマ)と呼ばれ,次いで表記が小椋山へ変わって行った可能性もなしとしない。しかし,N氏推奨の宇佐八幡関係の本を読んでみても,やはり強い引っ掛かりを感じるので,少しここで考えてみることにしたい。
木地師の「貴種流離譚」伝承から
もう数年も前のころだったろうか,切り抜きに日付をメモっていないためはっきりしない。朝日新聞の文化欄の記事が手元に残っている。タイトルは「漂白の民-山の神と生きた木の職人」で,少し長くなるが引用したい。
「山の七合目から上の木は,自由に切ってよかった。ろくろ師の特権で『惟喬親王』の木札を持っていれば,日本中で通用したわけです」。木地師の末裔小椋鉄之助さん(80)は, 懐かしそうに, 誇らしそうに話した。 ここ滋賀県神崎郡永源寺町の蛭谷(ひるだに)と君ケ畑の二つの集落は, かっては東小椋村と呼ばれ, 木地師の里として知られる。木地師は, 主として集団で森に入り, トチ, ケヤキ, ブナなどから「ろくろ」を使って椀, 盆, こけしなどを作り, 良材が乏しくなると,新たな森を探して山中を移動した。 ‥‥云々。 (後に永源寺町は、町村合併によって東近江市となった。)
湖東の近江八幡市から電車,バスを乗り継ぎ約一時間半。鈴鹿山脈の山深い谷にあった。惟喬親王を始祖として,蛭谷には筒井八幡神社,君ケ畑には大皇器地祖(おおきみきじそ)神社があり, ライバルのように伝承を競っていた。 蛭谷は現在, 小椋姓ばかり六戸の小さな集落。 すでに木地師はいなくなって‥‥云々 (以下略)」
(コケシ作りを椀や盆などの木器製作と同列に,木地師の仕事と記者がとらえているとすれば誤りだろう。コケシはもともと木地師の手慰みで, 仕事の息抜き・余技に過ぎないものだった。)
小椋君との遠い少年時代の思い出
惟喬(これたか)親王は9世紀後半の人で,文徳天皇の第一皇子であったが故あって皇位に就けず,臣下を伴って近江国小椋村に隠棲,この時轆轤(ろくろ)技術を村人に伝授したとされる。典型的な貴種流離譚の一つである。わたしの少年時代からの友に小椋君がいる。彼は中国山地の真っ只中にある谷間に生まれが,彼も実は惟喬親王を始祖とする木地師の末裔の一人である。遠い少年のころわたしは彼から,直接にこの種の伝承を幾分聞いたことがあった。
中国山地の尾根伝いに木地師が利用する古道があって,昔は平地の街道を行くよりもはるかに早く京都を往復できたらしい。倉から伯耆や出雲の地名が墨書された古い長櫃が出て来たという話。木地師の由緒書や免許状などの書き物が本家に残っていたとか。惟喬親王の血流だとも,明治維新のときに太政官に届出ていれば華族だったという話は,さすがに「まゆつばモノ」と彼も笑っていた。
しかし,中国山地の深い山襞の中に閉ざされ,周囲から隔絶しているように見える木地師の人々の方が,わたしたち下界の農民たちよりも距離・時間ともに京都に近く,社会の動向にも敏感だったことが想像される。他国との通婚が珍しくなかったように,封建時代にあっても相当に広い交流圏-同姓・同職としてのネットワークを独自に持っていたことがわかる。本当に意外だった。
この時の驚きはいまでも鮮明に覚えている。木地師の人々は同じ始祖伝承を持つカンパニーとして,その独自のネットワークを明治初年まで維持してきたことは確かであろう。
椋・倉-クラの隠された意味
明治維新で華族にも皇族にもならなかったが,彼ら木地師の人々は申し合わせたように-実際に彼らのネットワークを通じて指示があったものか,共同歩調をとったものと推定する。彼らは木地師の本源地である近江の地「小椋」の姓を、挙って称したのである。ただ,なぜか九州地方はクラ音を椋ではなく「倉」字を用いたと,相当以前に何かで読んだ記憶がある。その時は,「そういえば訓みはコクラだが,北九州に小倉ってとこがあるな」と思った。
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岡山市北区建部町小倉( 旧ベンガラ工場) |
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別のシリーズ「新羅浦」で、旭川下流域の金川の対岸-新庄地区に触れるが,この金川から2~3キロ上流の旭川左岸に小倉(オグラ)の集落がある。 『岡山地名事典』には「往時小倉(または小椋)姓の木地師が住んでいて, その姓が村名になったものだろう」とする。 どうも椋と倉について聞いた話と違う。 事典は続けて「ここには特殊産業としてベンガラ工場がある」と記している。ここのベンガラ工場は最近操業を止めたようだが,ベンガラは磁硫鉄鉱を原料とし,これを焼いて水を加えて抽出・精製した酸化第二鉄を言う。この近辺で磁硫鉄鉱を採掘していたもののようで,金山・新庄地区に広がる各種金属複合鉱床の一部が,古代からここに顔をのぞかせていた蓋然性は大変高いと思われる。
クラ地名は金属-とりわけ鉱石採掘に関連の強い音韻で,美作でもクラミ(倉見・闇見など)が特に鉄産との関連から数多く指摘・確認されている。わたしは本シリーズのなかで,山口の金属関連地名として「ニ・タカ・フク」などに加え,確か大蔵岳・蔵目喜などの地名をいくつか挙げた。黒・蔵・倉・闇などで表記されるクロ・クラ音韻も,金属地名として周囲の関連音韻と併せて注意して検証する必要がある。なかにはストレートに「金蔵」というものもあり,またクラはクロへ容易に転化したことも推定される。
また,クラとは谷を意味するとも言われ,朝鮮語(kol-満州語(kolo と同系の語とある。(岩波文庫「日本書紀」解説) また,洞-山の穴を意味するともされているようだ。さしずめ銅を産出した武蔵の黒谷は,クロ・タニという谷の意味重複に加え,古代金属音韻がさらにかぶさったものと言えるのではないか。実際「倉・蔵」の漢字の原意からしても,もともと「大切なもの・貴重なもの」を内に蓄えていることを意味してもいる。
金属関連音韻としての椋(ムク)
ムクについては,最近のN氏資料に考察が見える。それは「武蔵の開拓と国造」のなかの一節。ウル・シュメール語からナガレ・スミスに次いで,西岡秀雄氏こう述べている。
『イムクの(i)の字が落ちるとムク(muku)となる。金属を見て「これは無垢か,無垢ではないか」という言葉を使うでしょう。これは鋳造のことを言っているからです。しかも,さっきの和同開珎が出てきたすぐ近くには「椋神社」というのがあって,ここではムクを木偏に京の字を使って,植物にしてしまったからわからなくなってしまう。秩父には銅の神さまを祀っている椋神社というのが六つもある』
考えてみれば,特に近世において木地師の活動圏と,盛んにタタラ製鉄が行われた地域は重複している。小椋君の故郷をはじめ中国山地にはずばり「木地山」の名を持つ山もいくつか残り,小椋姓の現存する地域の周囲から,例外なくタタラ遺跡が発見されていると言って過言ではないだろう。木地師は里山ではなく、通常の人が入らない深山や谷川を跋渉し,移動しつつ木器製作に適した良材を探す。一定期間適所に止まって仕事をし,良材が尽きればさらに移動を繰り返すなかでは,彼らが木材以外の有用な素材-例えば薬草・鉱物・鳥獣などについても知見を深め,リサーチ・採集・採掘もあわせて行っていたのではなかろうか。 また,木地師が木器製作に必要なナタ・ノコ・カンナなどの金属器具を,自前で冶金・鍛造していたことも十分考えられる。問題は製鉄だが,これについては「活動領域の重なるタタラ製鉄集団と必要な情報や資材の相互交流していた可能性は高い」-という程度に今回は止めておく。とりあえず,木地師小椋姓の「椋(ムク)」は木種の意にあるのではなく, 西岡氏の「金属関連音韻が複合している」との指摘は,十分に納得できると言いたいのである。
クラ ・タイオ ・ ホコ ・ アレ
宇佐八幡の鎮座する小椋山は「里山」であって,いかに古代とは言え木地師が分け入るべき深山とも,また後代に木地師が定住するほどの山とも考えられない。第一ここの小椋山を木地師由縁の名辞だとすれば,九州では「小倉」山とならなければおかしい。とすれば,ここの「椋」は木地師の小椋姓でも椋(ムク)という木種を指すものではなく, 前述の金属関連の「クラ」である可能性が濃い。 貴重なもの-鉱物資源を内蔵する山として,「クラ」が使われたのではないか。
また, 小椋山に遷座する前に八幡神は「大尾山」に祀られていたようだが,タイオもしくはダイオの音韻についても,豊前・肥後境に現在も残る鯛生(タイオ)金山との音韻の一致から, 本シリーズの初回に「金属関連の地名である可能性を高い」ことを提起したところである。これらは,八幡神の示現にかかわる「鍛治翁伝説」ともぴったり一致してくる。
聖地とされる大尾山の西麓にある鉾立宮は,文字どおり金属そのものである。阿良礼宮についてであるが,アラレ音韻の原型は「アレ」とされる。アレとは鴨神社の「阿礼」と同じ「生(ア)れ」とすれば, 原意は「生きてあれ!」とか「生まれ出でよ!」という呪術的言辞である。古代人の「ことばには霊力がこもる」と考えた-ことばとして発すればそれが実現する-「ことあげ」そのものと言えるのではないか。
この場合のことあげとしての「アレ」を,鉱物資源の内蔵・鉱石の採掘への祈願,掘り出した鉱石の熔解による金属生産への祈願と見ることができる。和気氏の本姓をイワナス(シ)といい,石成・石生・磐梨などとも表記されたことは、別のところですでに述べた。このイワナスのネーミングには,明らかに「アレ」に通底する呪術的祈願がこめられているように思われる。『石よ(金属に)成れ!』『石よ(金属を)生み出せ!』という「ことあげ」が,和気氏の本姓イワナスのもともとの意味であったと思われる。
ヤハタ神なのかハチマン神なのか
ところで本稿は,もともとはこの問題について私見を述べるために起こしたはずだった。小椋君への思い入れから,話の筋を大きくそらしてしまった。N氏推奨の中野幡能「八幡信仰」(塙新書)を苦労しながら精読中であるが, ここにも諸説載せてはあるが最有力説・定説のないことがわかった。八幡神はその訓みさえも曖昧な不思議な神である。
八幡神はご指摘の通り神仏混淆の神であるが,私の感覚的な捉え方から言えば,もともとは「ヤハタ」であったろうと思われる。N氏は迷いがないと見えて,土地名「矢幡」語源説に立っているように見受けられる。わたしとしては諸説あるなかで,「八」は数を表し,布のハタを意味する「幡」がくっついたものと,とりあえず考えている。
八幡の八については,単純に八という数量のことか,それとも古代よく使われた「数多くの」という意味か。わたしは案外に「八つ」という数量そのもの,「八本の幡」そのものではないかと感じている。金達寿氏は,「列島の神社の原型は古代朝鮮の人々の始祖廟にある」と言っている。例えば,古代朝鮮半島南部は伽耶と呼ばれたが,六つの部落国家が並立して「六伽耶」と称され,結局地域統一国家の形成は見られなかった。また,高句麗は五族から成ると言われる。古代百済については,建国王の出自を高句麗王の始祖に求めたこと以外,構成部族については明らかな資料がない。
八系統の始祖を持つ新羅と秦氏
古代の新羅地域については, 谷あいや小盆地ごとにそれぞれ天から降臨した始祖を持つ六つの部落国家が生まれている。 六つの部族が別に天から降臨した血統を統一国家の王に共立したため, 新羅の人々は七系統の始祖を持つことになる。 この統一王の系統に, 王后の系統を加えれば(というのも,伝承上では六部族系から王后が出ていない),新羅の人々はつごう八系統で構成されていたとも言えるのではないか。
ところで,少し時代が下がるが大宝二年の戸籍残片によっても,豊の国居住者の大半が秦氏系の人々によって占められている。このことは,以前N氏の記述したなかにも載る。秦氏は新羅系の人々の集団であって, 秦氏を称さなくても辛島氏や赤染氏・長光氏など秦氏派生の氏も,あまた存在していたと推定されている。幡(ハタ)が秦(ハタ)に通じることは, これまでにも繰り返し多くの指摘がある。
八幡神とは,新羅系の人々が自分たちの先祖を,豊の国に共同して斎祀したところの始祖廟だったと考える。その廟の祭礼には八本の幡が立てられ,これが八系統それぞれの始祖霊の依り代となったのではないか。全く論証抜きではある,わたしはそんなふうに感じているのである。
余 話
「もののけ」は時代を特定できそうな過去にとったため,歴史的事実としては明らかな間違いや,いくつかの荒唐無稽な背景設定がみられたことを以前指摘した。厳密な時代考証は「漫画だから」まあいいか-ということで止めたのだか・・。最近地方紙の投書欄に目が止まって,その文意に大変驚いた。心配したとおり,視聴者のなかには歴史的事実とまじめに受け止めてしまって,フィクションとの境界もあいまいなまま,思考を組み立ての素材として使っている人がいると分かった。危惧したとおりである。こうなってくると宮崎漫画は、大変に「やっかいな代物」になるのではないか。
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