紙老虎の歴史漫歩   
  鉄の来た道(1)  
   

タタラに関する出雲の伝承から



 『鉄山秘書』なるものがあるらしい。江戸中期-元文から文政にかけて存命した下原重仲という人が残したもので,そのなかの「金屋子神祭文」には,おおよそ次のような伝承が載るという。

金屋子(カナヤゴ)神の示現

 
  旧広瀬町パンフに掲載の金屋子神 

  大昔のこと, 播磨国宍相(粟)郡岩鍋という山間の村では大旱(ヒデリ)が続き, 村人は困って山に集まり雨乞いをしたところ, 天から神が示現して大粒の雨を降らせた。村人がその神の名を聞いたところ, 「わたしは金山彦(カナヤマヒコ)天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)ともいう金屋子神である」と明かす。そして,村人にタタラによって鉄を作ることを教え,様々な道具を作る技術を人々に授けた。そして,「これから西の方へ行き,鉄を吹き道具を作ることをさらに多くの人々に教えねばならない」と,白鷺に乗って天空高く飛び立った。

        出雲国比田・黒田への飛来

  その後, 金屋子神は出雲国に飛来し,能義郡比田の森に降り立ったと言う。西比田の黒田というところの桂の巨木に羽を休めていたところ,安倍の祖-正重という者が犬をあまた引き連れて猟に来ており,白鷺の発する光明を見て正重の犬たちが驚き吠えた。そして,安倍正重はおそるおそる問うた。「あなたは誰か,この地に何をしに来たのか」。すると神は「われは金屋子の神なり,ここに住いして『タタラ』を仕立て,鉄(カネ)を吹く技を始むべし」と告げたという。

出雲タタラのはじまり

  金屋子神のお告げを受けた正重は, 長田兵部朝日長者にことの次第を話し, まず桂の木の脇に金屋子神の宮を立てた。以後正重はこの宮の祭祀を司り, 朝日長者は以後「タタラの村下(ムラゲ)-総指揮」に任ずることとなった。タタラの高殿の建設には,金屋子神の多数の眷属神が手助けする。最初に現れて七十五種もの必要な道具を作ったのは,七十五人の子供の神であったという。
 異伝によると,播磨の岩鍋に示現した金屋子神は, ここで「鍋を鋳た」ものの安住すべき山がなく,白鷺とともに西方に飛び去ったとも言われている。とにかくである。その後ここ出雲国の比田では,朝日長者が砂鉄と炭を集めて吹けば,金屋子神の神通力の致すところ「鉄の涌くこと限りなし」ということになった。これが金屋子神によるタタラ製鉄が, 出雲国一帯へ拡大していく端緒となったものである。

金屋子-東方から飛来した神

  この『鉄山秘書』の成立を19世紀の初頭として,播磨国への金屋子神示現の時代や,出雲国への飛来は一体いつごろのことと考えればよいものであろうか。安倍正重といい, 長田なにがしの朝日長者といい,そのネーネングに「太古」的な響きはあまり感じられない。一方の播磨示現の話はかなり古色を帯びていそうで,どうも播磨と出雲の話の間に相当のロス・タイムがあったと考えた方がよさそうである。
 ま,とにかく,タタラの神の示現はまず播磨であって,近世を通じて和鉄の生産量・品質ともに定評があり,明治初年までその技術力を保持してきた出雲国ではなかったこと。近世タタラ製鉄のテクノロジーは出雲生まれではなく,金屋子神によって播磨から-北方や西方ではなく東方からもたらされていることは,大変重要なポイントを示唆していると思われる。では,出雲への飛来以前に-初めて金屋子神が示現した播磨国岩鍋とは,一体どのようなところだったのであろうか。

濃密な西播磨の金属地名分布

  古代吉備国は三つの大川があるが,播磨国には四川あって西から千種川・揖保川・市川・加古川と並び,すべて南流して瀬戸内海-播磨灘に注いでいる。
 金屋子神が示現した岩鍋は, 千種川最上流部の一支流のほとりにあり,東の揖保川水系にも接近しており,中国山地の脊梁部の深い山襞のなかにある。現在は千種町(チクサ)岩野辺となっているが,この「種」は鉄の意であるととも説かれる。山陰では砂鉄を「種」と言うようだ。近辺にはト-クサ(徳久)の地名があり,祭神が天目一箇神と推定される天一神社もある。また,千種の古名-宍粟郡敷草村を播磨国風土記は,『此村有山南方去十里許,有沢二町許,此沢生菅‥‥云々‥‥生鉄‥』と書く。岩野辺は明治初年まで砂鉄を採取していたこと,近辺地名-三室・中島・鍋カ谷・天児屋・荒尾などには,かって鉄山や銅山のあったことが記録に残っている。
 そのほかにも,鷹巣・黒土・倉谷・日名倉(山)など, 金属関連が推測される地名もあまた散見され, 同じく宍粟郡内には金山彦命を祀る金山神社・金口・流田など(波賀町)もある。播磨風土記に「まがね(鉄)を生す」と記された金内川・金銀鉄坑のあった倉床・金屋・福地・黒尾(山)などが一宮町に見える。播磨国はかって良質の和鉄を産出し「宍粟鉄・千草鉄」の名で珍重されたが,こういった金属関連地名の濃密な複合・重層は,歴史的産鉄地としてチクサの面目躍如の感がある。

製鉄の新旧技術を暗示する佐比岡

  播磨西部二川-揖保川・千種川の,中・下流域及び二川の中間地帯における金属地名複合濃度も極めて高い。播磨国風土記に次の記事が載る。
 「佐比(サビ)岡,佐比と名つくる所以は出雲の大神,神尾山に在しき此の時,出雲の国人の此処を経過る者は十人の中五人を留め,五人の中三人を留めき。故に出雲の国人等,佐比を作りて此の岡に祀るに,遂に和ひ受けまさざりき。然る所以は‥‥云々‥‥。然る後に,河内(カワチ)の茨田(マムタ)の郡の枚方の里の漢人来到りて,此の山の辺に居りて,僅に和し鎮むることを得たりき。此神の在しに因りて名を神尾山といふ。又佐比を作りて祭りし処を即ち佐比丘と号く。」
  佐比とは鉄のことである。ここを通るとき, 出雲の国人が鉄を吹いてこの神に供えたがその意に叶わず, 河内の韓鍛治(カラカヌチ)を招来して鉄を吹いたところ, 神意が和み鎮まったと言うことのようである。 このことからは,当時すでに鉄を吹く技術は一様なものではなく,少なくとも出雲系と河内系と呼び得る二系統があり,どうやら河内系の方が技術も新しく,また品質も優れていたことを暗示しているようだ。
 佐比丘については揖保川の下流-現在の揖保郡太子町が比定されている。太子町には(旧)斑鳩村があり,大和明日香と同じ斑鳩寺が現存しているが,ここでは「イカルガ」と訓まず「ハンキュウ」と音読みする。話は横道に外れるが,「十人の中五人を留め五人の中三人を留め」のフレーズと,宇佐八幡神の託宣集中の「五人行即三人死,十人行即五人死」との間に,どうも共通する祖形があったもののように思われる。
 また,前々回の石上布都魂神社でふれた素盞鳴の断蛇剣が,韓鋤(カラサビ)と呼ばれている。列島在来産ではなく朝鮮半島渡来の鉄剣か,もしくは韓から新しく渡来した新技術で吹かれた,鋭利な鉄剣だったとアピールしていることも確かだろう。

天目一箇神と隻眼の魚のこと

  また,備前(分国後の美作)国境に近い讃容郡については, 「山の四面に十二の谷あり,皆鉄を出す。難波の豊崎の朝庭(廷)に始めて進りき。見顕しし人は別部(ワケベ)の犬,その孫等奉り初めき」と播磨風土記に見える。同郡の按見-クラミに訓むと思われる-について,「佐用都比売(サヨツヒメ)命,此の山に金の按(クラ)を得たまひき。故に山の名の金□(クラ), 川の名を按見(佐用川の異称)という。」と載せる。 *□に用いられた漢字がない。
 金属関連地名としては福沢・平福・豊福・福吉・吉福など,福による「吹く」-フイゴを想起させる「フク」音韻が,過剰なまでに密集していることが見て取れる。これだけフク音・福字が並ばれると,古代の「好字表記」政策の結果としてだけでは,どう見ても済ませられないものがあるのではないか。
 佐用町長尾には神庭神社があるが,祭神を金屋子神の別名である「天目一箇神」とする。神羽様とも呼ばれ,鞴(フイゴ)の神として崇敬されている。 天平ないしは延暦ころの奉斎かとも言われるが, 谷川に棲む魚は悉く片目なりとされる。同郡内の上月町には, 金子・金屋・才金,南光町には鋳物師屋・金皆・徳久などが見え,徳久にある天一神社の祭神は未確認ながら,この神社名からは「天目一箇神」であろうことが推定される。この神は「一つ目」を特徴とし,長くタタラ炉の炎を見つめたことで隻眼となったことを,その神名の由来とする神である。

出雲へのフライトコースを推理する

  播磨西部-揖保川・千種川流域一帯には,古代から近世までタタラ製鉄の層が何重にも折り重なっており,現地名のすべてが金属生産・鍛治の古代層を示しているとは言えない。しかし,高品質の鉄生産技術を中核として「金屋子神を奉祀する集団」が,最初に降臨したと伝承されるに足る十分な条件を,千種川・揖保川流域が持っていたことは確かなように思われる。後代にその高い品質から「千種鉄・宍粟鉄」と呼ばれ,ブランド化したことがこれを証明している。
 金屋子神の白鷺はここを飛び立って針路を西に取ったのだが,果たして一直線に出雲を目指したものだったかどうか。地図上にその飛行ルートを辿ると,ものの五キロも飛べば備前国(分国後の美作)東北隅の上空にさしかかる。わたしの少年時代からの友-小椋君の生まれた西粟倉村長尾(引谷)は,いまや白鷺-金屋子神の眼下だ。 日暮れの刻であったなら, 民のカマドから夕餉の煙が幾筋も谷あいから上がっていたことだろう。
 一千メートルレベルで東西に延びる中国山地,その脊梁の南側斜面ほぼ十キロのあたりを,白鷺はほぼ真西に向かって飛んだとすべきか。三時の方向に伯耆大山を視認してから三十キロ程度で,出雲国能義郡比田の上空に達すると見える。直線距離ならばおよそ百キロ程度の遊覧飛行で、白鷺の羽ばたきは相当にゆったりしたものであったろうか。時速十キロと見積もっても飛行時間はおよそ十時間。いかに鷺の飛翔がスローでも直行ルートだと, 金屋子神と安倍正重及び彼の犬たちは, 播磨を発ったその日の内に比田の山中で遭遇した可能性が高いと思われる。


  金屋子神の足跡を求めて

  わたしは金屋子神の飛行を, 直線ルートではなかったのではないかと想像する。何分にも古代の有視界での飛行である。レーダーに導かれた自動操縦にはないファクター,例えば乗った白鷺の方向感覚や食欲・疲労といった問題も出てくる。また,脊梁部の山岳地帯を飛ぶ場合の気象条件などを考えれば,最短ルートにこだわらずに低高度を河川や平坦地に沿って,安全第一に飛行した可能性も考えられる。急ぐ旅でもなかったのであるから。

 
 桂 (カツラ)  

 だいたいに,金屋子神自身が明確な着陸地として, 出雲国能義郡比田という特定の地点を目指していたとは,鉄山秘書にも記されていない。とにかく金屋子神と白鷺は,西に向って飛行を始めただけだったと思われる。下界の様子を観察しつつ飛行していたとすれば,出雲に降下する以前にも能義郡の例のように,好ましい桂の大木を見つけて幾度か休んだのではなかったか。
 そうなると,白鷺飛行ルートの直下にある美作国のどこかに,金屋子神が足跡を残した可能性があるのではないか。作陽誌を繰っていて,神の出現についての伝承が二つあり,相互に関連していることが分かった。金屋子神という神名はどこにも見えないが,どうも気にかかる。一つは,新羅にまつわる話で前回少し触れた苫田郡の「中山神社」,いま一つは,播磨国境に近い英多郡楢原邑(現美作市)の藤内家伝である。

 中山大神と称する神が示現した楢原

  楢原(ナラハラ)郷は「和名抄」に見える。私見では楢原は那羅-奈良の原であって, 大和・奈良と同じくその語源は「国」という朝鮮語の音韻であったと思われる。国といっても古代のこと,集落レベル・小地域レベルの領域-「われらの土地」といったところだったろう。いま韓国に「ハンナラ」という名前の政党があるようだが,このナラは国-この場合は文字通りの現代国家で, ハンは確か「我らの」という意味だったと思う。楢原は河川の中流域の小平地をエリアとした,かっての古代部落国家だったのであろう。ちょうど津山盆地の東端に位置し,吉井川支流の二つの河川に挟まれ,地勢が西方に向かって大きく開けたところである。

 
江戸期に発行された神札 

 作陽誌によれば楢原郷に古井がある。『藤内家に在,一の宮の井と稱して今に汲(クム)ことをせす。‥‥云々‥‥。按るに山陽道美作記に云,人皇四十二代文武天皇慶雲三年丙午五月上旬-二の午の日と云-英田郡楢原村東内(藤内)の宅に中山大神化し來り, 廿日許(バカリ)御逗留, 同年九月廿一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ。 郷内の猟師有木と云者,此山に於て見付奉り‥‥云々。』
 そして,一宮社記に云うとして,『‥‥昔神始現于英多(田)郡楢原邑, 藤内祖採菰作□ (□は稷の禾偏が米偏。チマキと訓ませている) 奉之,既而神入苫田郷霧山。 ‥‥云々‥。藤内當(当)宅在楢原村,住者動夭死,以故雖其子孫,亦畏而遠之。舎傍有深井,嘗供神之水也‥‥其南十町許,有名乙田者,是上古採菰所也‥‥云々。』
  ( 藤内はのち東内につくる )

 中山大神の楢原邑「御逗留」

  慶雲三年に楢原邑の藤内という者のところに,中山大神が示現した。 西暦で言えば 706年,デビュー時期も五月と特定されている。ちなみに,慶雲五年は改元されて「和銅」となり,また慶雲直前の元号は「大宝」であった。 「化し来り」となっているのみで,どこから来たのかは不明である。楢原邑には二十日間止まっており,藤内らから饗応を受けたとされる。
 その後,楢原邑から直線距離にして約二十キロ西方へ,苫田郡霧山-現在中山神社の座すあたりに移って行く。楢原邑にいた二十日の間にこの神が成した業績については,なぜか少しも触れるところがない。藤内に何らの術も示すことなく去ったということになるが,無為にだだ饗応を受けただけとすれば誠に不思議なことである。
 この神-楢原邑を去って苫田郡に移った中山神が,どのような神だったのかは諸説あって確定しない。 一説には, 美作分国時に吉備国から吉備津彦命を分祀したとも, また「鏡作命」だとも言われ,一宮社記は鏡作命説を推しているようである。別には, 土地神「猿神」であるとも, 大己貴命(オオナムチ)とも言われている。とにかく諸説あってどの説も決め手に欠けるようで,大日本地名辞書も祭神「不詳」として断定を避けている。

中山神とは一体どんな神なのか

  中山神社  今一宮村(現在の津山市一宮)に在り,国幣中社に列す。延喜式苫東郡名神大と注するもの是也,津山の北一里半,俗に仲山(チュウサン)大明神と云う,又南宮(ナングウ)と称す。此の神は三代実録「貞観二年,美作国正五位下仲山神,授従四位下,同六年預官社」の事見え,宇治拾遺物語に此の神の祭りには,女子の牲を備え奉る由を載す,祭神詳ならず,神祇志料には吉備国中山大神を移し祭るものとす。

  大日本地名辞書, 次に『大日本史』の記述を引く。「所祀与備中吉備津彦社同神也,按三備並以吉備津宮為一宮,‥云々‥」と書く。中山神社の祭神は吉備津彦命であって,中山の号は吉備(備中)中山からくる。他はすべて「皆謬説也」と切り捨てている。

  一方, 中山神社は祭神を次のように記す。(鳥居脇の案内板)「美作国一の宮として高い社格と農耕の神-牛馬の守護神として広く人々の信仰を集めてきた中山神社は,鏡作命を祭神として慶雲四年(707年) 創建され,その後戦国時代の天文二年(1533年)尼子氏の美作攻略のとき兵火により‥‥云々‥」中山神社側-少なくとも現在の中山神社は,祭る神を「鏡作命」だと明確に言い切っているように見える。
 神が楢原邑の藤内の前に示現したのが慶雲三年, 中山神社の創建はその翌年となり時期に矛盾がない。 中山神社側がこの神を鏡作命だと主張することから, 楢原邑示現の神-中山大神も当然「鏡作命」ということになるのだか。
 中山神社の言う「鏡作命」とはどのような神なのか,その神は楢原邑に示現しその後苫田郡に移ったという中山大神と同一神,もしくはクローン神だったかどうか。さらには,祭神について一体どのような伝承や説が中山神社にあるのか。次回からは中山大神について, 出自とその神格を検証するためのフィールド・ワーク,資料ワークの旅に出発してみようと思う。



               
余    話

  「臍を噛む」というものか,悔しいというか,悔やまれるというか,どう表現したものか言葉が思い当たらないのである。
 写真には1994年8月25日の日付が入っている。 この時は松江大会の後に出雲大社に回り, 島根ワイナリーでワインとステーキを食し,出雲空港までN氏らを見送っている。T氏も一緒に行動し,記憶は定かでないが確か松江駅から,JR山陰線で山口に帰ったものであろう。岡山からはI氏も参加していて,松江駅でT氏を降ろしてから,二人で荒神谷・須賀神社・亀嵩と出雲の山岳地帯へ南進し,中国山地の脊梁部を越えて中国高速をめざした。

 
  亀嵩・・・ 砂の器

  蒲田のトリス・バーの薄暗い席で,二人の男,一人は初老,もう一人は若い男が話込む。押し殺したような低い声で,周囲には聞き取れない。翌朝,初老の男の方が死体で発見されたことから,驚くべき物語の扉が少しずつ開かれていく。松本清張氏の『砂の器』である。バーの女将は,初老の男がズーズー弁であったこと,会話は全く聞き取れなかったが,話のなかに「カメダはどうだ」とか「カメダはどうした」とか言っていたと証言する。
 結局,ズーズー弁が東北ではなく実は「出雲弁」であり,カメダが出雲の亀嵩であることが明らかになるのだが,その亀嵩をあの夏に訪れたのであった。小さな亀嵩駅舎を覗き,改札口を出てプラットホームに立った。野村芳太郎監督「砂の器」の亀嵩のシーンをあれこれ思い出して,なかなかに感慨深いものがあった。駅から本村に向かい,緒形拳巡査の駐在所の辺りや,少年が一人黙々と砂で器を作っていた川辺を捜したが,見つけることはできなかった。

  昨年の秋の米子自治研では,いつものことながら幾種類もの地図を手に入れた。最近金屋子神を書くため,出雲の能義郡西比田を地図で調べていて驚いた。金屋子神が播磨の岩鍋に示現し,そこから出雲に飛来して降りた立った西比田の黒田は,亀嵩のすぐ隣,山一つ向こうの集落だった。「あの道をもう少し走っていれば,すぐそこだったんだなぁ・・・。」  (能義郡広瀬町西比田は現在は米子市となっている。)
 山深い出雲道を南下しつつ,I氏とした会話を思い出す。「もう二度と,この道を走ることはないだろうな」と。絶好のフィールド・ワークの機会を逸してしまった。もう五年も前の話ではあるのだが, やはり悔やまれる。

   
*「金屋子神と白鷺」の画像は、合併前の旧)広瀬町教育委員会の了解を得て掲載しています。