紙老虎の歴史漫歩   
  鉄の来た道(2)  
 

播磨と美作 「二つのイワナベ」      



  美作国豊野の岩邊と播磨国千種の岩鍋(岩野辺)は, 国土地理院の「5万分の1」地図1枚のなかにすっぽりと入る。ちょうど地図の左下角に美作・岩邊が,対角線上の右上角に播磨・岩野辺-岩鍋が見え, その距離は直線でおよそ20㎞程度かと思われる。

吉野庄と播磨の鉄産地「カニワ」

 
五名から北方を望む   

  岩邊から岩野辺に向かう4㎞地点あたりに,五名(ゴミョウ)の集落がある。 倭名鈔に吉野保と見英田郡から別れた吉野郡吉野庄に属し,行政区画は英田郡作東町(現在は美作市)にあたる。 近世の製鉄跡と考えられる「鈩(タタラ)」と地名が, 集落の東方兵庫県境付近に残っている。五名から国境の峠まで約4㎞,峠を下るとそこは播磨国佐用郡で,猪臥(イブシ),仁(ニ)方,金子,才金に加えて, 豊福,福吉,福中,福沢など,かっての金属精錬や鍛治を推測させるフク地名が集中している。
  『讃容郡  玉津日女命  鹿殺山號鹿庭(カニワ)山,山四面有十二谷 皆有生鐡也,難波豊前朝庭始進也  見顯人別部犬,其孫等奉發也』とある。カニワに通じる「神庭神社」が佐用町長尾にあり, 金屋子神の別名でもある天目一箇神を祀ることからも,別稿で触れたように, 五名を中心とした吉野庄の東隣-山の向こうが,『播磨風土記』の記すカニワ山の鉄産地帯であったと考えて,ほぼ間違いないところであろうか。

カニワ山と中山について

 

 
  カニワ山の南麓を走る断層帯 

 ついでながら,カニワ山に比定される現「大撫山」の南麓に中山村がある。地図を参照いただきたいが,上月で合流する河川に囲まれた山塊と,大撫山をピークとする山塊との狭間に中山村は位置する。中国自動車道路は佐用の町からこの狭間に入り,およそ3㎞の走廊を貫通して福吉・金屋の境に出で,そのまま西進して播磨・美作国境の杉坂峠に至る。この佐用から中山を通って美作へ至る道筋は,『太平記』などに載る後醍醐の隠岐配流ルートと言われ,古代から人や物資の流通に利用されてきたと考えられる。
  ところで,この中山の集落が南面する山塊の周辺部にも,金屋・福原・吉福・真(サネ-サナ)盛・仁(ニ)位など, 大撫山周辺と同様に, 往古の金属関連・フク音韻地名が頻出する。このことからは,『播磨風土記』の云うカニワ山を,大撫山と中山走廊に南接する山塊を含めた総称と考えた方が, 残存地名の類推からすると至当と思われる。
  先日,美作側から杉坂の峠を越えて播磨国に入り, 中国自動車道路に沿って旧道を東進した。 福吉の集落から金屋集落の手前の三差路を左にとり,中山の集落を抜けて「中山走廊」-大撫山とその南の山塊の狭間を通り佐用の町に出た。道の両側に続く南北の山塊の縁も低くなだらかで,浅くゆったりとした谷底地形のなかを細流が見え隠れして,うららかな棚田が続いていた。
  この南北山塊に挟まれた切れ目は,どんな自然作用によって作られたものか。フィールド・ワークから帰って『岡山の活断層と地震震央』で確認してみた。現地の景観から予想したとおり,中山走廊を挟んで佐用の町から杉坂峠にかけて太線が引かれ,活断層の存在を明らかに示していた。

中山について少し道草を

 
中山の景観   

  ついでながら,最近『続日本の地名』(谷川健一著・岩波文庫)を読んだが,そのなかに近江国の「中山」が出ていた。長くなるがその一部を引く。
  「田原藤太秀郷の藤太という名から連想されるのは,芋掘長者や炭焼長者などに登場する藤太という人物である。豊後の方言では炭をイモジという。これは鋳物師が鉄を溶かすのに炭を必要とするからであろう。芋掘長者の芋も鋳物師のことにほかならない。このことを示す祭りが,秀郷の後裔と称する蒲生氏の城下の滋賀県蒲生郡日野町中山で行われる。これは芋くらべ祭と呼ばれ,もちよった芋の長さで稲の豊凶を占う祭りーであるが,中山の隣にある蒲生町鋳物師(地名)と関係のあることは‥云々‥」
  また,奇しくもと言うべきか,蒲生町鋳物師にある竹田神社は石凝姥命・天目一箇命等を祭神とするうえに,隣接の日野町からはとき折り「高師小僧」も発見されると云われる。 (真弓常忠著『古代の鉄と神々』から)
  本シリーズ竿頭で述べたタタラの神と「朝日長者」の話,金屋子神の飛来地-能義郡比田に隣接する同じく鉄産地「伯耆国日野」と日野川(別名斐伊川)の存在, また,藤太の「藤」に通じる中山神と楢原村「藤」内氏のことなど,いずれまた稿を改めて検証する機会があればと思っている。
 近江国中山は未確認で何ともいえないが,ここ播磨国佐用郡の中山もまた中山名辞の土地に違わず,独特の「ただずまい」を持つことを述べて,本筋のイワナベ・ルートの方へ話を戻したい。

豆田と宮原の金生銅山について

  明治16年12月に五名の南の豆田村で,道路の開鑿中にそれとは知らず古墳を掘削して, 刀剣二口・鏡・轡・鎧・兜の金属器を含む多くの遺物が発見されている。 この遺物が元になって「高田神社」が創建されたようで, その経緯を『英田郡史考』の著者はおもしろそうに次のように書き残している。
  「某家の娘俄に発狂し,自分は高田八郎兼定なり,自分を神として祭るべし,その証拠とすべきものは過日発見の武器が, 自分の遺品であると云った,その言に憑て高田神社を建立し,発掘物を神器として神殿に奉安したと伝う」と。
  先に触れた鈩(タタラ)集落の北,同じく五名の「宮原」分に金生(コンジョウ)山があり, 『作陽史』は「金山なり,今に間分口ありて其あたり紺青の色あり」と書く。また,「螢石を産し,噴出岩中に脈状となり他礦と雑はり産出するもの多し,之を暗夜火中に投ずれば,明かに燐光を發す,釉薬の一原料たり,又,弗酸の製造に於て唯一の好材料なり,此の地の産は大いなる美晶□出づ」とある。なお,□の活字は潰れて判読不能である。
 間部口(坑道跡)の紺青色は, 初生(一次)鉱物が空気・地下水・熱水などに接触し,酸化・還元・分解・溶脱・濃集作用によって生じた二次鉱物と思われる。坑道の壁や,掘り出された鉱滓の堆積場所(ズリ)に派生し, 条件によってはこの二次鉱物が新たな鉱脈を再構成すると,ものの本に書かれるところである。

鉱山と温泉の関係を考える

 
   ルート周辺の鉱物資源

  また,『英田郡史』には金生鉱山について,鉱山・鉱泉の部に以下の記述があり,いつの時代まで溯ることができるかは不明ながら,この地でかなり古くからの鉱石の採掘・精錬が行われていたことを伺わせる。

①位  置  吉野村大字宮原-播磨に跨がる
②名  稱  金生礦山
③礦  種  含銀銅礦
④礦区坪数  419,156坪
⑤年  銅礦代價25,720圓含銀代價12,860圓
⑥沿革大要  往昔, 金生本山及び櫻坑共經營せしこと舊(旧)坑によりて明なり。 明治初年何れも再坑。 同25・6年に両坑を合併し盛大に赴き‥云々。同30年ごろ坂田某の手に歸するや, 一層事業を擴張し蒸気機関を備えて盛んに經營せしが,39年ころより漸次衰運し‥云々。
⑦開礦年月   

  また, 『作陽誌』には見えないが『新編・作東町の歴史』の記述には,宮原地内にはかって温湯が出たとある。火山性のものとは考えられないので,前回触れた豊野村周辺の温泉(瀬戸・粟井)で述べたように, 宮原の谷もまた小断層上にあって, 往古そのために温泉が湧出してものと考えることができる。 断層の存在とそこに出口を求める地熱・熱水は, 宮原・金生鉱山の有用鉱物生成の主な要因の一つだったと言えるのではないか。

壬生と赤田及びその周辺

  五名の北, 吉野川上流2㎞に壬生(ミブ)がある。 愛媛県にある壬生川は訓みが「ニウカワ」であるように,壬生は赤土とくに辰砂の産地としての丹生(ニウ)と同義とされ, 松田寿男氏は『古代の朱』のなかで次のように云う。「古代の朱砂産出を意味するニウということばについて,丹生氏が進出した場合は丹生となり,壬生氏が移居したときは壬生となる。」
  また, 井塚政義氏の説によれば,丹生はニフ・ニブ・ニビ・ニホなどとも呼ばれ,通常には朱砂の産出を言う。丹には大きく朱(主として硫化水銀)と丹(主として四塩化塩)及び赭(褐鉄鉱・赤鉄鉱・酸化鉄など)の別がある。このため,丹生は鉄産をも意味しニブ-金且・二部や,ミブ-壬生・ニビ-金且・ネウ-根宇など,その音韻と表記に多様なヴァリエーションが生まれたと説く。        
  
丹といえば朱であろうが,壬生の吉野川対岸集落が「赤田」というのは偶然であろうか。『作陽誌』は赤田の地字に福居を挙げ, また,赤田の隣村田井村のなかで「産奇兒」なる異様な記事を載せる。「文化十年癸酉十月二日, 里正市郎次カ別莊ニ居ル金治(阿波人)ナル者ノ妻姙メリ」で始まるものだが,形状は省くが極めて異様であった模様で,かつ死産であった。赤田村の産科江見某の所見か,その形状の観察は極めて詳細でもある。

 
 壬生から赤田方面を望む  

 田井村の記述の末尾に,「此の邑巽の方,赤田村の内福井と云う處,界入り組み‥‥」とあり,この福井は先の地字福居と同所を指しているものと考えられる。豊野村庄屋の福島氏の出自が,シリーズ⑰で触れたようにこの赤田である。 壬生・赤田・福井(居)・福島など,丹の採掘と生成の可能性を含めて,金属精錬に深く結び付いて地名・人名複合を予想させる。また,壬生-赤田が朱砂産出を意味していたとすれば,産奇兒についても水銀汚染問題などをベースにすれば,科学的・合理的に解明できる話ともなろう。

往古は美作であった中山村

  岩邊-岩野辺を結ぶ『イワナベ・ライン』は,ちょうど現在の岡山・兵庫県境「釜坂峠」の上を走る。西北方の岡山県側,峠の下の集落は宮本である。吉川英治の通俗小説の大ヒットによって,作州浪人宮本武蔵のイメージが巷に流布し,ここ宮本が武蔵の生誕地として不動のものとなった。武蔵その人は,生国を播磨と称したことも一時あったらしいのだか。
 ともかくも,当地の平田とも新免(シンメン)という郷士の家に生まれた武蔵は, ある事件を起こしてか-宇喜多方の雑兵として関ヶ原合戦に参加するためだったか-故郷を出奔する。この時武蔵が上方へ向かった道が,この釜坂越えであったとされる。峠を越えると中山の集落があり,中山の谷会いを南にたどれば佐用郡豊福に達する。そこは,先に五名で述べた『播磨風土記』の世界-山の四面に鉄を産する十二の谷を持つ「鹿庭山」である。
  ところで中山村について『作陽誌』は,明治の半ばまで旧美作国の領域であった説く。 同誌の記述によれば,古来より中山村は吉野郡讃甘(サノモ)庄に属していたが,明治29年3月30日に兵庫県側-佐用郡江川村に編入された。 同誌は中山村の方界・隣村の項に,南方十町で播州佐用郡大畑村に至るとし,村界迄は五町とある。古い国境は「本村」と国土地理院地図にのる「大畠」の,ちょうど中間点であったかと思われる。

中山-小中山を考察する

  以前,備前・備中を含めた中山地名について,それが特定の山を言うのではないことを述べた。 中山地名には特有の機能と景観がある。二列の山波(または丘陵)の狭間にある低地帯で,急峻な谷地形ではなく傾斜が比較的穏やかで通行しやすく,このため特定の地点間を繋ぐ流通ルートとして古くから利用されてきた-というのが,折に触れ述べてきた影山「仮説」である。
  ここ吉野郡中山村は,地図上で見ても村は東西を山波に挟まれて縦に長く伸び,幹線道路ではなかったものの東美-西播の人々とっては,今日に至るまで重要な物流ルートであった。地図を見ると,釜坂を越えて道は左右に分岐し,二本の道はともに南下して大畠に至り合わさる。等高線を読むかぎり,東回りの道は谷地形もなだらかで間口も広く,古くから活発に利用されたため「中山」の名辞が定着したのであろう。西回りの道も地形は中山的であるが,東ルートに比べ狭隘で坂勾配もきついようで,利用度は中山に比べ自ずと落ちたろう。このために,分岐点から末包経由で大畠に至る西回りルートが,小中山とあえて「小」が冠せられたものと思われる。
 もちろんのことだか,『作陽誌』は中山の語源について「中山村ハ播作(播磨-美作)ノ中山ナリ,或ハ孤獨ノ山アル故ニ中山ト云フトモイヘリ‥‥云々‥」と述べている。なお,中山の地字に小童谷(ヒジヤか)・釜坂・黒丸・鎌坂などの名が見える。また,讃甘という旧郷(庄)名であるが,大日本地名辞書はサノモ・サナモの二訓を載すものの,その語源は詳らかにしない。高山寺本には「佐奈保」と注す。音韻からすると「サナ」が語幹と推定され,サナギ(鉄鐸)のサナとも通底するかと思われる。

石井村も旧美作国に属す

  石井村は岩邊と岩野辺を結ぶ直線上のちょうど中間地点で,谷間を南流する佐用川に沿って大きく上と下に分かれていて,南北8㎞はあろうかと思われる河岸に散在する小集落の集合体と言えよう。この石井村もまた前述の中山村同様に,明治29年3月30日兵庫県佐用郡に編入されたもので,往古は美作国吉野郡石井庄という。
  和名抄その他古書には石井の名は見えず,『作陽誌』は「或は云う,石井は讃甘庄内の一大村なりしが,後世おのずから庄名となれりと」と述べる。次いで,石井庄に属する村々を以下の順に記述を進めている。 ①上石井村(戸数33・人口129),②上石井村内東町分(13戸・58人),③眞村(22戸・99人),④海内村(41戸・241人),⑤桑  野村(35戸・168人),⑥水根村(18戸・78人),⑦青木村(48戸・185人), ⑧下石井村上分(35戸・171人)と続き⑨下石井村下分(38戸・183人)で終わる。地図上の該当字名を□で囲んでみたが,山間僻地の石井庄とはいえ, 江戸末期の総戸数は283, 総人口1,312とかなりなもので,山間部のために領域もかなり広い。
 ③眞村の訓みは不明なるも, 村況の記述のなかで「眞(サ子)川」とルビが振られており,「サネ」村かもしれない。「真」の字を持つ地名は地図では見当たらないが,方界・隣村の記述から判断して,上石井の北方-現「若州-訓は不明」集落にほぼ間違いないものと思われる。 なお, 上石井の東北方の山間集落「奥海(オウミ)」も,かって同じく吉野郡(東粟倉庄)に属していた。江戸期の年貢関係資料のなかには, 石井庄分として書き上げたものもある。明治29年この奥海村もまた,中山村・石井村と同様に佐用郡へ編入されたものである

                            

石井産の「奇石・球石」について

  眞村の訓みが「サネ」であるとすれば,中山村がかって属した讃甘庄のサノないしはサナの音韻に極めて近い。また,中山村・石井村からそれぞれ南下する細流は,カニワ山のある佐用郡佐用町で合流するが,佐用は往古「讃容」と表記されている。相隣接する土地名の「サ音+ナ行音」と「讃」字の共有には,何がしかの特別な関係が類推されてよい。
 眞村の記述の末尾に,「奇石-此邑ヨリ出ズ如圖(圖略ス), 五指ヲ並ベタ如ク下連接, 白色ニシテ庭園状上ノ觀物トスルニ佳」と見える。この奇石を『作陽誌』の筆者は,不透明粗質の水晶群ではないかと言う。また,下石井(下分)では「球石」を産するとある。球石とは鳥銃の玉の如き石で,外皮が有って中に小さい丸石が存在すると言う。『作陽誌』の欄外注に「美濃の鈴石(一名鳴石)の類か」とある。
  鈴石・鳴石について以下,真弓常忠著『古代の鉄と神々』から引用する。

  「世に鳴石と称するものがある。鳴石は「なりわ」(なりいわ)と訓まれ, 地方によっては鈴石とも壷石とも称する。 愛知県の高師原で発見されたところから「高師小僧」と名づけられたのもそれで,地質鉱物学上の用語をもってすれば褐鉄鉱の団塊である。褐鉄鉱とは,若干の吸着水をもつ水酸化鉄の集合体の総称で,沼沢・湖沼・湿原・浅海底等で,含鉄水が空中や水中の酸素により,またバクテリアの作用で酸化・中和し,水酸化鉄として鉱泉の流路に沿って沈殿したものである。」

 「鈴石・鳴石」生成のプロセス

  「団塊とは,堆積岩中に存在する周辺よりも堅い自生鉱物の集合体の総称で,球・楕円体・管状・土偶状等の種々の形態があり,大きさは径1㎝以下の小さいものから,数mにおよぶ巨大なものまである。

  ようするに褐鉄鉱の団塊とは,水中に含まれている鉄分が沈澱し,さらに鉄バクテリアが自己増殖して細胞分裂を行い,固い外殻を作ったものである。とくに,水辺の植物, 葦・茅・薦等の根を地下水に溶解した鉄分が徐々に包んで,根は枯死し,周囲に水酸化鉄を主とした固い外殻ができる。
  こうしてできた団塊の内部は,浸透した地下水に溶解し,内核が脱水・収縮して外殻から分離し,振るとチャラチャラ音の発するものができる。これをいまは鳴石・鈴石,あるいは高師小僧と称するが,太古これを「スズ」と称していたのであろう。自然にできた鈴である。
  信濃は火山地帯であり,温泉郷であるから,この地方の沼沢・湿原の水は鉄分を多く含んでいることはいうまでもない。そこに生えた薦・葦・茅等の根もとには,自然の褐鉄鉱の団塊,すなわち「スズ」が多く生成されたのである。」  ( 真弓常忠著古代の鉄と神々 )

山崎-大原活断層と石井・金谷

 

 
山崎断層から続く大原断層線   

  下石井-上石井の谷筋は「因幡往来」と呼ばれ,現在の鳥取東部と上方を結ぶ最短のルートとなっていた。上石井から峠越えして大原町古町(本陣・脇本陣あり)に出,北上して西粟倉坂根から美作・因幡の国境「志戸坂峠」を越えた。近世の鳥取池田藩などは参勤交代にこの道を大いに利用したし,古く律令制下の因幡・伯耆国府と都との往来も,多くはこのルートであったかと思われる。因幡国司だった大伴家持の帰任が山陰道ではなく,志戸坂峠を経て播磨国に至り,山陽道経由であったことがわかっている。
  また,上石井から峠を越えて大原町に向かうルートは,兵庫県を東西に走る著名な「山崎断層」の西端部-「大原断層」上にある。全国の断層は阪神淡路の震災で一躍注目を集めたが,岡山県は昨年大原町で,この活断層の調査を急遽を行っている。『岡山の活断層と地震震央』によると,山崎-大原断層はこの地図上桑野から水根・上石井を通り, 大原町中町・古町から金谷に抜けている。
 ちなみに金谷は文字通り古くからの鉱山で, 『英田郡史』によれば慶長年中盛んに採掘したこと,鉱種は亜鉛・銅・銀・鉛と豊富で,鉱区は69万坪弱, 年産額2万貫と載せる。開坑年月は不明としつつも「平安朝か」と記している。また,『日本霊異記』に載る美作国英多(田)郡の官営鉄山(所在未確定)について, 比定地として湊哲雄津山郷土博物館長は金谷を挙げ, 銅・銀など以外にも古代鉄産(鉱石系か?)の可能性を指摘している。

カニワの辺縁を結ぶイワナベ・ルート

  以上述べた通り,美作の岩邊と播磨の岩野辺を結ぶルート下,五名・中山・石井エリアは,いずれも「古代カニワ山産鉄地帯」の辺縁部にあたる。しかも,中山・石井は近代初頭まで美作国に属しながらも,千草・佐用川などカニワ山に至る水系の上流部に位置し,人や物の流通が活発に行われていたことが推定できる。
  また,中山・石井から岡山-兵庫(現)県境を越える峠は,比較的ゆるやかであること。峠を下った吉野川水系の現大原・作東町には,金属採掘(集)や鍛治が推定される地名も多く, 年代は特定できないものの古墳遺物や鉱山・鉱種関係資料から,相当古い時代から銅鉄原料の採掘が旺盛に行われ,金属精錬や金属加工・鍛治技術を持つ人々の移動・定住が繰り返されてきたことが伺える。
  こういった先端技術を持った人々の,イワナベ・ルート下の美作国東部への進出は,やはり播磨国からであったとするのが自然であろう。五行思想に言うところの「顕現の方位」通りに,古代の金属技術者グループは自らの神を奉じて, 東方から美作の地に出現したと理解するのが至当と考える。

  次回は,いよいよ「鉄山秘書」の発端部分-金屋子神の示現地たる岩野辺を中心に,兵庫県宍粟郡千種町(現在の宍粟市)へのフィールド・ワークに出発することとします。