紙老虎の歴史漫歩   
  鉄の来た道(3)  
 

産鉄地-千種をワークする



 
   岩野辺から美作国境の尾根を望む

  播磨の岩鍋を訪れたのは4月の末ごろであった。 現在の兵庫県宍粟郡千種町岩野辺である。 岡山県北部から兵庫に入るルートは幾つかあるが, そのほとんどは東進あるいは南進して一旦佐用町に至り,千種川の川筋に沿って大きく迂回し, そこからさらに北上する。その路程を地図上でたどると, 実に延々たる感がある。
  唯一の例外は, 英田郡大原町から東粟倉の谷を抜け, 岡山県の最高峰である後山(古名は行者山-1334m)と, そのすぐ南方の日名倉山(1047m)がつくる稜線の最もたわんだ地点-志引峠を越えるルートである。これだと岡山県側からダイレクトに千種町に入ることができる。峠の標高は 700m余りもあり, 道の要所は近年拡幅・改修されたものの, 古来交通の難所と言ってよいだろう。冬季積雪による通行途絶は今日なお日常茶飯事で, 国道へ昇格したのもごく最近のことと思われる。
  東粟倉から志引峠に向かう道は,比較的浅い谷中をストレートに上るが,峠を越えた途端に眺望が開ける。兵庫県側-稜線の東斜面は大きくえぐれて,深い谷が眼下に迫っている。そこからは播磨の西北部が一望のもとにあり,コンパスの方位と地図を照合しながら,山々やその端に見え隠れする村落に見当をつける。その結果,峠から真東の方角を遠望して-山に囲まれつつ東西に長く伸びる盆地がめざす「岩鍋-岩野辺」であることを確認できる。屈曲しつつ急激に高度を下げる峠道をかけ降りて、一気に千種川河畔に達することとなる。

播磨国宍粟()郡のこと

 『大日本地名辞書』 宍粟(シサワ・シサハ) 
 宍粟は和名「志佐波」と注し,風土記に「宍禾郡者  伊和大神国作堅了以後  堺此谷尾  巡行之時  大鹿出己舌遇於矢田村  爾勅云  矢彼舌在者  故号宍禾村  亦号矢田村」 (矢田と言う名は後世全く亡ぶ)風土記に「宍に遇ひし」という村里は今詳らかならず,播磨事始に宍粟は鹿猪多き山なれば此名ありと曰ふ‥‥云々。
  藤堂明保編『大漢和辞書』には,「禾」に①アワ・②イネ・③禾本科植物一般または④穀物の意味があり,訓みは呉音-ワ・漢音-クワ,古訓「アハ」となっている。粟も古訓はアハであるから, 宍禾(粟)はシシアハからシハへ, 次いでシサがシサ,さらにシサワがシソウへと,音韻が変化してきたものと考えられる。
  一説には、オオナムチとされる伊和大神が, 播磨の国を堅め(征服)終え,谷の尾(川・谷とも)境を巡行中,矢田村というところで舌を出した大鹿に遭遇した。それからの文意が解せないが、どうも「矢は鹿の舌に在り」と伊和大神が言ったらしい。矢の方は「鹿シシに逢う-シシアフ(ハ)-宍禾」」と、直接には何の関係はなさそうに思えるのだが。また「矢田村で遭遇」と言いつつ,「また矢田村と言う」という修辞もわからない。ともあれ,風土記によれば「伊和」という名の神-及びこの神を祭祀する集団が,宍粟郡を含む播磨一帯を制圧(国を作り固めた)していたらしいのである。

天日槍(アメノヒボコ)定住のルート

  『日本書紀』垂仁記に「三年の春三月に,新羅王の子天日槍来帰り」の記事が載る。天日槍については以前, 山口の金古曾(コソ)や古熊(クム・コム)神社で少し触れたが,半島から渡来した天日槍と彼のグループは,但馬国(播磨の北に隣接)にスンナリと定住したとされる。しかし,書紀は「一に云はく」として,「初め天日槍,艇に乗りて播磨国に泊りて,宍粟邑に在り」との異伝を載せる。
  この所伝では,列島の中央部を押さえる先住王権側との折衝を通じて,宍粟邑と淡路島の出浅(イデサ) 邑の二邑を確保し、後近江国吾名(アナ)邑に滞留,さらに若狭国を経て但馬国に至って定住し, 出嶋(イズシ)の人太耳の女麻多烏(マタオ) を娶ったとする。こういった天日槍集団の平和的な渡来・移動・定住の所伝と異なり,また別伝として先住・在地勢力との武力抗争を伺わせるストーリーも存在したようだ。
  天之日矛(天日槍)が最終的に多遅摩(但馬)に留まる点では, 『古事記』の記述も一致している。しかし,天之日矛が難波に至った時に,「渡の神塞へて入れざりき」と記し,天之日矛集団の難波進出を何者かが阻止したことを匂わせる。

播磨をめぐる天日槍と先住神の抗争

    伊奈加川
 葦原志許乎命,与天日槍命占国時,有嘶馬,遇於此川,故曰伊奈加川(アシハラノシコオとアメノヒボコが覇権争いをしたとき,この川でいななく馬にであったので,イナカ川と云う。)

    奪   谷
 葦原志許乎命,与天日槍命,二神相奪此谷,故曰奪谷(アシハラノシコオとアメノヒボコの二神が,この谷をめぐって争奪戦をしたので,ウバイ谷と云う。)

    
 天日槍命,宿於此村,勅川音甚高,故曰川音村(アメノヒボコがこの村に宿り,大変に川音が激しいと言ったので,カワ(オ)ト村となった。)

  これらは播磨西北部地名の起源説話の一部であり, いずれも『播磨風土記』に載せられている。その内の多くは播磨に上陸した天日槍(天之日矛)と,先住神「葦原志許乎」との支配権をめぐる闘争に付会したものが多い。天日槍を迎え撃った先住神については, ただ「大神」とのみ記す場合もあり, また,次のように「伊和大神」とする場合もあるようだ。

  「多馳里・粳岡は,伊和大神と天日桙(ホコ)がおのおの軍を発して相い戦い, ‥云々‥,天日桙がその時八千の軍を擁していたので八千軍-野(ヤチクサ-ヌ)と言う。」

  これらの神名から,天日槍と対峙した播磨先住の神格については,列島神代記に驚くほど多様な名辞で登場する「オオナムチ」とする見方が,専門家の間では定説となっているようである。

「出石ノ小刀」と但馬国出石

  奇妙な一致と言うべきか,天日槍についてここまで触れたところで,某商業紙が「船と出石」について報じている。 古代の船団の姿を刻み込んだと推定される杉板が, 兵庫県出石町の袴狭遺跡から発見されたと言う。 天日槍が最終的に定住した場所が但馬であると述べたが, そこは但馬国出石郡出石(イジイシ・イズシ)だったとされているのである。
  天日槍が列島にもたらした七種(日本書紀)の宝物については,以前山口の古熊神社をあれこれ詮索した際に, その内の一つ「熊の神籬(ヒモロギ)」について触れた。 天日槍七種の宝物のなかに,「出石の小刀一口」及び「出石の桙一枝」が見える。出石に関する岩波文庫の注は「地名-和名抄に但馬国出石郡」と簡単に片付けている。しかし,この文脈のなかの出石を,土地名とするのは妥当性を欠くように思われる。出石という土地名は,天日槍及び彼の苗裔が定住して後に発生したものではなかったろうか。
 『大日本地名辞書』は「一説天日槍持来の宝物中に出石と名づけし刀子あり,地名は之に由るかと。今按ふに此刀子此地の宝と為りしより,出石の名を負へるにて,因果相倒置すべし,出石の名義不祥」と載せる。後段は吉田東伍自身の考えであろうか,「土地名が小刀の名に転化した」としている。しかし,本文を素直に読み取る限りは,「出石」の固有名辞を持つ小刀と桙が先に存在し,これを宝物として斎祀した土地にその名前が転化したとする-前段の一説の方が,はるかに説得力があるように感じられる
 出石の小刀・出石の桙とは,一体何を意味したものであろうか。ここではとりあえず「石製刀・桙」ではなくて, (鉱)石から(取り)出された「金属(鉄)製の鋭利な小刀・桙」だったろうという私見を述べて, 次へと話を進めて参りたい。

『播磨風土記』から見える千種

 「土万(ヒジマ)の西なる大渓谷にして,北を千種(チグサ)村と云い,南を三河村と云ふ,其の渓水を熊見川と云ふ,又千種川上津川と唱ふ,南流して佐用郡を貫き,赤穂の借屋新浜に至り海に入る。千種駅は千種谷の中央に位置し,風土記に敷草村と云ふは蓋是也。

  「柏野ノ里,敷草村。 草ヲ敷キテ神ノ座ト為ス。 故ニ敷草ト曰フ。此ノ村ニ山有リ, マタ南方ニ去ルコト十里バカリ,二町バカリノ澤有リ。 此ノ沢ニ菅生イ,笠ヲ作ルニ最モ好シ。 梔・枌・栗・黄蓮・葛等ガ生エ,鉄ヲ出ダシ,熊・狼ガ棲ム‥‥云々。」

  前半は『大日本地名辞書』から,漢文調の後半(筆者による我流読み下し文)は,和銅年間に撰述された『播磨風土記』の云う敷草村-後代の千種村である。古代(和銅年間)千種の村は「敷草」と呼ばれたこと,敷草村は柏野里に属していたこと,そして当時すでに「鉄産の村」であったことがわかる。また,当時の「里」の基準が聞くところの50~60戸であったとすれば,敷草村は柏野里に含まれることから,精々数戸ほどの,多くても十戸程度の集落だったかと想像する。

 
 千種中心地の北方の山-三室山  

 風土記の記事から見ると,熊や狼の棲息する広大な山野に囲まれて,小支流が千種川に合流して作る狭小な河岸低地に,わずかばかりの集落が形成されたものと思われる。この十戸足らずの人々の生業は何であったか。 里制はもともと良戸-水田稲作により租税を負担する実質的な国家農奴-が基礎であったから,千種川支流の湿地帯や河岸低地では, それが細々としたものであっても, とりあえず稲は栽培されていたものであろう。 
ところで,『風土記』からは鉄の精錬に従事する人々の存在とともに,山野に棲息・自生する有用動植物の採取・加工を行う人々の存在もかすかながら伺える。これら水田稲作による貢租民以外の人々は,どうも里制の埒外にあったものと思われる。鉄生産や動植物特産品の加工に従事する人々は,半定住・半漂白の形で千種を舞台に活動していたと思われ,こういった公称戸数では把握されない人々を含めると,「十戸足らずの千種」に収まりきらないものと考えた方がよいのではないか。

タタラの死命を制する木炭

  古代の敷草の里は, 千種川とその支流-岩野辺川との合流点付近,現在の千種町役場がある辺りと推定されている。役場の建物に隣接して「千種町歴史民俗資料館」があったので,入ろうとしたが閉館中であった。後に聞いた話では,ここの歴史民俗資料館の売りというか-展示物の大部分を占める「たたら」関係史料が,町が新たに作ったたたら専門の展示館へ移転されたらしい。 閉館はそのためであったようでもある。
  明治初年までは,千種町域の数ケ所で「たたら場」が稼働していたと言われる。その後一挙に衰退するが,八幡製鉄所などの官営洋式製鉄に圧倒されたということではなくて,直接の要因は維新政府による林野の囲い込み(官有林化)にあったらしい。 千種は江戸期を通じ一貫した天領で-これも良質の鉄産地であることによろう-生野代官所支配地であった。このため,一帯の山々はほとんど全てが村落共有林を除き御用林だったらしい。
  タタラ製鉄のためには,必要な鉄砂と炭が確保されなければならない。鉄砂の含有量(3%あれば良とされた)を推測し、まず掘り崩す山を決め,近辺の雑木山などからの木炭供給のメドを立て, 幕府勘定方の山役所に事業申請が行われる。 この申請は,ほとんど例外なく認可されるのが例であったという。 ところが, 維新政府によって御用林(山)はもちろんのこと,共有林や無主の入会地まで官有林-国有地とされたため,ここから雑木一本刈り取ることができなくなったのである。
 まず,タタラ燃料としての木炭入手の途が絶えた。 困った千種村の人たちは, 官有林の従前通り利用を天皇政府に「お恐れながら」と愁訴したが,洋式製鉄業に巨額の資本投下を行う政府に聞き届けられた様子はない。

村長の陳情書と近代の千種村

  「本村は兵庫県宍粟郡の最西北端に位し,人口七千に垂(ナンナン)とする大村にこれあり候え共,北に中国山脈の背嶺を負い,東西はこれが支脈により遮(サエギ) られ,わずかに南に向かって流れる千種川の一衣帯水を以て,辛(カロ)うじて南方市場たる姫路市或るは山陽本線上郡駅に通ずるを得るのみの,極めて交通不便の土地にこれあり候。
  斯(カ)くの如く,本村は極めて僻地の土地なるがため,本村住民は古来,製鉄・製炭事業及び農業に生計を営み,所謂(イワユル)天領の地として他地方との交易極めて少なく,村内にて自立自給し来りしが,明治十一年,土地官民区分の確立せらるるに及び,従来製鉄業の生命ともいうべき木炭資材林地は,殆(ホト)んど大部分国有林として編入されたるがため,入林作業すること能わず,現国有林接続林地は既に伐採しつくされたるがため,製鉄業は一時に衰微せり。これがため製鉄業は,自然機械工業に圧迫されたると共に,廃止の運命に立ち至れり‥‥云々‥。」

  これは,1927年に村民の生活窮乏と村財政の逼迫から,千種村長尾崎氏が「国有林立木の年次計画的払い下げ」を国に訴えた「陳情書」の前半部分で,千種町教育委員会発行の『たたらと村と百姓たち』に収録されている。平易で要領をえた名文だと思うが,木炭の供給不能によってタタラ場が火を消し-文字通り鞴(フイゴ) の「息の音」が止められたことがよく現わされている。

今日の千種町の地勢について

  千種の自然地理条件は,尾崎村長の陳情書で的確に言い現された通りである。完全に周囲を山脈・大山塊に取り囲まれ,北の鳥取・西の岡山はもちろん,同じ兵庫県の隣村に行くにも,全て峠を越えなければならなかったようである。現代の地図から拾っても,三室山の西から,鳥取県境「大通峠・江浪峠」,岡山県境「峰越峠・上乢・志引峠」,現佐用町境の「奥海越」,南光町境の「千合地峠・塩地峠」,山崎町境の「イチガ乢」,波賀町境の「カンカケ越」が載る。この地図で切れている東端部には,岩上峠(山崎町境),鳥ケ乢・ハカ坂(波賀町境)などがあり, 千種町資料は実に16もの峠・乢名を数える。
  唯一南への開かれたルートとなるべき千種川も, 急峻な谷川地形によって通路として利用が阻まれたのであろう。 1889年に郡道が南から千種川筋に沿って改修され, 「村民は初めて峠や乢を越えずして村外に出られる路が開かれた」と,千種町資料「ちくさの蹤」に書かれている。
  現在の千種町は○で囲んだ大字で構成されるが, それらはいずれもかっては十一個の村々であったらしい。 南部の千種川及び支流沿いに 下河野(ケゴノ)・七野(ヒツノ)・室・黒土・西山・千草・河呂(コオロ)・・岩野辺が,南東部の山塊中に鷹巣,町の中央部-千種川が刻むV字谷の北方に河内・西河内の集落がある。

鎌倉期にまで溯る天児屋遺跡

 

 
  テンゴヤ 鉄山のジオラマ

  さて,閉館中の千種町歴史民俗資料館を後に,製鉄関連史料を集中的に展示する西河内の「天児屋(テンゴヤ)鉄山跡」をめざして,千種川沿いに北上することになる。すでに確認されている中・近世の製鉄遺跡は,千種町域で五十五ケ所にのぼると言われ,その幾つかは地図上◆で示した。なかでも天児屋鉄山は,三室・高羅(コウラ)・荒尾(アロオ)とともに屈指の規模を誇り, 明治初年ごろまで操業が続いた場所の一つである。
  閉山の後, 天児屋タタラ跡は畑地として利用された時期もあったが, 時代の推移のなかで次第に山林に覆われた。 1970年代末から80年代初めにかけて,文化庁・兵庫県・千種町による大規模な発掘調査が行われ, 山腹の傾斜地に東西・南北ともに500mに及ぶ大規模な遺構が,ほとんど完全保存の状態で出現した。もちろん上屋は朽ち果てて姿を消していたが,必要施設を計画的に配置するために築かれた石垣の列は,傾斜に沿って幾段も重なり合い,その累々たる様は一種の城塞を思わせるものがある。
  この時の調査では,タタラ関連施設がほぼ伝承どおり整然と配置されていたことが確認された。これ以外に,大石垣の基底部分のさらに下から,大量の鉄滓・木炭・陶質土器・磁器が出土し,この地における産鉄の上限が中世-鎌倉期にまで溯る事実が明らかとなった。また,江戸期の慶安から宝暦年間にかけての最盛期には, タタラ関連従事者がおよそ六百人(百二十戸)にのぼることも,遺跡の検証のなかで明らかにされている。

金屋子神の神札と神像

  天児屋鉄山遺跡の入り口,渓流のほとりに新築されたタタラ資料館(「たたらの里学習館」というのが正しい名称)に入り,館内の展示物を順路に沿って参観した。各種の用具類や鉄素材・絵図などの展示と解説,往時のタタラ場-高殿・天秤鞴などの精巧な模型,伝承されるタタラ唄が流れる装置など,島根県安来市にある和鋼記念館に勝るとも劣らないりっぱなものであった。が,その時の入館者はわたし一人だったかもしれない。別に撮影禁止の札も見かけなかったので,黙って写真を何枚か取らせていただいた。

 
 祭られていた出雲の金屋子本社のお札  

  高殿の南柱に祭られていた金屋子神の小祠と, 開かれた扉の中の意外にボリュームのある神札は, 古色を帯びてガラスの陳列ケースに鎮座している。 ここ天児屋鉄山の高殿に祀られていた祠とすれば,閉山後も地元関係者によって大切に保管されてきたものか。金屋子神のお札は, 村下(ムラゲ) と呼ばれたタタラの責任者が,出雲国能義郡西比田の金屋子神社に参詣し,直接に神札を受けるのが創業にかかわる作法であったらしい。村下によって大切に持ち帰られた神札は, タタラ炉が中央に築造された高殿の南柱に祭祀された。
  古色蒼然たる金屋子神の掛け軸もあったが,ガラス越し撮影のため写り具合はさらによろしくない。掛け軸の足元には, 「金屋子神社祭文」一巻が千種村関係部分を開いて展示されている。 この巻物は紙も白く, 新たにリ・メイクされたもののようであった。

金屋子神「祭文」と五行思想

  『‥‥故(カレ), 民集まりて雨乞ふ所を成(ツク)り, 雨を祈るに, 先ず, 金神(カナカミ)を祭れば, 金,水を生みて雨降る事, 神の教えがまま也。丹(アカ)き誠を抽(ヌキン)でしかば,雨頻りに降る。 時は七月(フミヅキ)七日の申(サル)の上刻(サカリ)なり。

  播磨ノ国の志相郡(シソウコオリ), 今の岩鍋と云う所に, 高天原より一はしらの神天降り座す有り。 人民(タミクサ)驚きて如何なる神ぞと問ひまつる。 神託(ツ)げて曰(ノタマワ)く,吾(ア)は是れ作金者(カネタクミ)金屋子(カネヤ子)の神なり, ‥‥云々‥‥。

  故(カレ),遠き雲路より来(キタリ),今より士農工商云ふに及ばず, 入るが程の金の道具(ウツワ) を造ら令(シ)むる有らん, 而して悪魔(アラブルカミ)降り伏し,民安く, 五穀(クサグサノタナツモノ)豊饒(ユタケ)く, 事を教へんと云々(シカジカ)なり。  宛(アタカ)も其の侭(ママ) に盤石(イシ)を以て鍋を造り賜ふ。 是に依って彼の地(トコロ)を岩鍋と号(イ)ふ。 故に鍋のはじまりは播磨ノ国なり。

  然れども其の四方に住みたまふ山無し。 吾ハ西の方を主(ツカサド)る神なれば, 宣(ムベ)住む所有らんとして,白鷺に乗りて西の国に趣(ユ)き‥‥』 

  以上が「金屋子神社祭文」一巻のなかの, 展示用に開陳されている部分である。金神への雨乞いが「金生水の理」であったり,七月七日・申刻の豪雨や白鷺・西方などが,いずれも五行思想の金気にぴたりと一致することは,別稿で吉野裕子氏の著作を引いたところでもある。

金屋子神と剣の関係について

  展示物のなかに小型の赤サビた鉄製鳥居があった。「村下」の屋敷跡から発見されたもので,屋敷地内に祀った祠に奉納したものらしい。そのミニ鳥居の脇には,長さ30㎝ほどの矛が立てられていた。説明のプレートには「宝剣」とあり,タタラの安全操業を祈願して,最初に出来た鉄で宝剣を型どり,金屋子神社に祀ったと書かれている。 千種町内の各地に残る金屋子神の小祠ごとに, 往時こういった剣が幾本も奉納されていたものであろう。

 
  ムラゲ屋敷から発掘の鉄鳥居 

   そのつもりで,館内に展示されていた掛け軸をよく見ると,最上部に女体で描かれる金屋子神は,童形の脇侍を従えて正面に向いて立つが,その右手には剣が握られている。また,千種町発行のパンフレットに載る別の金屋子神像も,犬と思われる白色の動物を従えて, 同じように右手に剣を持つ姿で描かれている。
  カラサビ・フツノミタマなど,剣は古来霊力を持つと信じられていたが, 鉄そのものが持つ呪力・霊力への信仰もまた,古代には普遍的に見られる傾向であったらしい。金屋子神が-さらには金属精錬・鍛治など,あまたの名辞で呼ばれる同一系譜に連なる神々は,その属性として剣の奉納が喜ばれ,また自らも剣を持つ形で現れされたもののように思われる。ただ,宝剣の形状は, 剣と言うよりも矛(ホコ)先に感じられた。

「ムラゲ」と村下さんの関係

  「たたら学習館」を出て,産鉄のセクションごとに仕切られた豪壮な石垣の続く天児屋鉄山遺跡を歩く。谷川のほとりのゆるやかな斜面に広がる遺跡には,いたるところ金屎と呼ばれる鉄滓が夥しく散らばっていた。高殿背後の急傾斜地に祀られていた金屋子神祠まで上り,施設全体を俯瞰してから鉄山遺跡を後にした。

 
 ムラゲの子孫は村下(ムラシタ)に 

  谷川に沿った坂道を下り,道端の廃屋の前で車を停めた。無住となってどれくらいの時を経たものか,往路に見た最も谷奥の廃屋が気になったのである。天児屋鉄山が最も遅くまで操業していたタタラ場の一つであるとすれば,往時のタタラ関係者に繋がる人の住居ではないかと思われたのである。家は南に面した斜面に建ち,背後は植林された桧の林に覆われ,屋敷地とその下の三段に築かれた田は日当たりもよく,田は今日なお耕作されているように見受けられた。
 辺りを見渡すと,廃屋から10mほど右手に一基の墓が確認できた。それは普通の墓としてはかなり長身で,墓域を囲む石垣も二段構えというリッパなものであった。墓石に刻まれた文字を望遠レンズで覗くと,「陸軍歩兵上等兵 勲八等功七級」とあり,戦死された方のお墓であることがわかった。続けて,その下の名前をよみ始めて驚いた。「村下○○墓」と刻まれている。訓みは「ムラシタ」かと思われるが,同じく「村下」と書いてタタラの技師長は「ムラゲ」と呼ばれている。

 ご維新のとき天児屋鉄山の技師長は,その職名をそのまま「氏」名にしたもののようである。そして,明治初期に閉山となった後もタタラ跡に最も近い谷口に定住し,農業や林業を営んだものであろう。その子孫にあたる人達も,あたかも先祖たちの伝承や記憶を守るかのように,この土地から離れることなく生き続けて来たように思われる。( 村下姓が「ムラゲ」の子孫であることは, その後千種町発行の資料等のなかで確認できた。)

検証された千種タタラの黎明

  ところで, さて, 千種における砂鉄タタラの始まりについてである。 江戸期の永代タタラ・天秤フイゴによる大規模な鉄産は置くとして,和銅年間に成立した『播磨風土記』の記述以外に,実証的に千種の鉄産が確かめられたのは「高保木遺跡」であると云われる。ここは1969年に調査されたもので, 千種町西河内の小学校裏山斜面(A)と,小学校の前を流れる川の対岸段丘上(B)から,古代の製鉄遺跡が発掘されている。
  この二つの地点から5基のタタラ跡が確認されたが,炉附近から出土した鉄滓片の鉱物組成分析の結果,「相当高温に砂鉄が熔解されて歩留りの良い鉄精錬がおこなわれていた」と推定された。また,穴状の孔の痕跡を思わせる炉壁片も採取されたが, 既知のフイゴ口やフイゴの送風口(木呂)とも異なり, フイゴについては断定を避けたようである。 ともあれ, A地点のタタラ炉がより古い形態を示しており,『播磨風土記』敷草の記事にほぼ匹敵する時代の遺跡と考えられた。(千草町の「製鉄史年表」による)
  高保木遺跡A・Bの位置を見ると,いずれの地点も狭隘な谷地形の高台にある。両岸の等高線から考えると,古代においてもB地点付近の河道は屈曲していたと推定でき,谷筋に沿って東西方向に動く大気の流れは収束されて,両地点に強い「自然風」なってかけ上るのではないかと推測される。特定の地域・地点には,山風・谷風・海風・陸風・季節風などが固有の地形によって集中・分散され,その土地特有の風向きや強弱,さらには吹く時期・時刻などのパターンが発生する。 この列島各地に住む人々は,古くから経験則としてその土地の風を情報として蓄積してきたところでもある。

タタラの三要素と自然風

 フイゴを知らない黎明期の金属精錬においては,こういった自然風にたよる「野ダタラ」であったものかと思われる。例えば最近聞きかじったところでは,炭焼釜の温度は自然風のみでも1000~1200度に達するらしい。近世タタラの三要素として「鉄砂・木炭・炉材粘土(本釜土)」が上げられるが,人力による強制送風-フイゴ発明以前においては,これに風を加えた四要素とすべきではないかと考える。

 
  今も渓流に沿って壮大な石積みが残る

  古代の金属精錬や鍛治などの黎明期の遺跡の多くは,丘の斜面や川筋に面した谷の傾斜地などに集中して発見される。こういった地点は,今日もなお風当たりのよい土地である場合が多い。古代の金属精錬・鍛治技術者は,その土地特有の風が強まる季節や時刻・風向などを計算した上で炉を築き,加熱に最も適した時期・時間を選んで操業したと考えられる。自然風の要素の重要性は,やはり鉄産についても例外ではなかったと考える。
  これまで幾度か『播磨風土記』の記述を引用してきた。風土という言葉-その土地固有の風・雨・雪などの気象条件,地形・土壌の地味,さらには特産物や人々の生活振りも含めて,それらが風と土の二語に集約されている。風雲・風景・風光・風化・風習・風俗・風聞・風流などなど,列島に土着した人々の風に対する思い入れには,格別なものがあったようである。古代人にとってとりわけ風は, あらゆる気候現象のチャンピオンであると強く意識され,その土地固有の風に対する人々の関心と知識の蓄積は,現代人には想像もつかないほど豊かだったと考えて間違いないだろう。




       (余   話)     「平成之大馬鹿門」始末

  数年前のことである。西日本-確か香川県だったか,ある大学か-短期大学だったかは定かではないが,とにかく彫刻家に芸術作品を発注したらしい。学園の経営者としては当然に,その学校のシンボルとなるようなゲイジュツ作品を期待したのであろう。注文を受けた彫刻家は,彼の芸術性をいかんなく発揮したはずの作品を仕上げ,発注した学園に引き渡そうとした。ところが, 作品自体のゲイジュツ性ではなく,名辞の「大馬鹿」という作品名が問題化し,学園と彫刻家が「要らない-引き取れ」の大騒動に発展した。
 ゲイジュツ作品の行方が宙に浮きかけたとき,千種町がこの騒動に横から突然割って入り,この石造彫刻を引き取ったようである。なぜ千種町なのかはよくわからない。学園側・彫刻家の当事者双方ともに,千種町とはどうも特別の因縁はなかったらしいのだが。
 とにかくこの作品は,現在千種町の山上に片方ずつ据えられ,中国山地の脊嶺をバックに谷を挟んで対峙している。ごく少数とは言え,そのゲイジュツ性に触れる機会に恵まれる人は幸いである。ただ,この結末が作品自体にとってよかったかどうかは,いささか気になるところではある。

  

 
天児屋川に累積するスラグ   










  「天児屋たたらの里学習館」の入口展示「ケラ