紙老虎の歴史漫歩   
  鉄の来た道(4)  
   

 山口の金属関連地名考



  山口のT氏ゆかりの「埴生-ハブ」の地は,丹砂が出る-昔出ていたのではないかと常々睨んでいた。このハブでは、古代に「丹(ニ)」と呼ばれた朱砂・辰砂・丹砂が埋蔵されていて, かって採掘されたのではないかと推測する。それがハブと呼ばれ、このハブがそのまま地名に転化したものではないか。ハブをワープロ変換すると埴生・土生と出てくるが,いずれも丹の露頭や採掘に関係した地名と考えて差し支えないないだろう。

丹との関連が想定される地名

 こうった古代の水銀関係地名は, 以外と各地に残っているように思われる。 ハブという音韻のほかにも「丹」のグループがあり,丹羽(ニウ)・丹生(ニウ)・丹波(ニハ→ワ)・丹土(ニハ→ワ)。丹土をタンと読んで「タンド」という場合もあり, 変わったところではタンゾウ(丹蔵)などという音韻も残る。「ニ」の音からは,仁保(ニホ)・仁掘(ニボリ)や新田(ニイダ)などがある。ニ・イズがニイズ→ニーダ(新田)と音韻変化を推測するが,ただ漢字表記が新田と同じでも全て丹砂と関連づけるのは早計で,江戸期さかんに行われた開発新田(シンデン)との混同を避ける必要がある。
 さらには「タン」の音からは旦土(タンド・タド)が, 「ニウ」からは入田(ニュウタ)など,地域によってそのバリエーションには幅広いものがある。また,水銀を含有する独特の土の色からは赤土・赤井・赤坂・赤野,さらに単に「赤」という地名も生まれたと推定されるが, これも土師器等の材料土との関連も考えられ, 正確には周囲の地名や伝承・古記録・発掘の状況など,総合的な検証の必要性はもちろんのことである。壬生(ミブ)という地名は古代の壬生部の居住地であろうが,ニブなどとも訓む。丹砂採集との関連が考えられてよい。

生命力の象徴としての丹

朱沙(産出地不明)

  水銀というのは,ご存じのとおり常温では液状という珍しい金属で, 通常には硫黄と化合した辰砂(丹砂)の状態で存在する。また朱砂とも書かれ,古来から赤色顔料として珍重されてきた。単体としての水銀は,この丹砂を焼いて取り出される。森下仁丹やハナ糞万金丹に代表されるように,かって薬には○○丸とともに「○○丹」という命名が多く見られた。それというのも,丹(ニ)に防腐作用があることが古来から知られていて,不労長寿・不死願望さらには多種多様な病気の薬剤として注目され,実際に使用されてきたことによると思われます。時の権力者やこれに奉仕する医者(当時は呪術師とイコールだった)は,これを大いに活用・多用していたようだ。
 防腐効果に加えて丹の色が鮮血色であることが,古代人にとっては不死・再生の呪術用素材としても, 現代人からは想像できないほどインパクトがある物質だったようである。こういった水銀化合物の使用方法は,エジプトから西域そして古代中国や半島と,古代世界における文字通りのグローバル・スタンダードだった。列島においても,弥生・古墳時代の多くの被葬者(さらには埋葬された甕・棺・廓壁)に, 赤色顔料として丹が塗布されていることはよく知られている。古代の権力者は,存命中から不死の基礎トレーニングとして,この「丹」を常用した痕跡が諸記録にも随所に見られる。
 しかし,水銀化合物の人体への影響-という現代人の常識からは,古代の権力者たちが急性・慢性の水銀中毒によって,かえって命を縮めたろうことは想像に難くない。しかもこれが,古来より白粉-オシロイの原料になり,高貴な女性たちにとっての必需品でもあった。栄養状態や病原菌よりもこちらの方が,案外に薄命の主たる要因であったかもしれない。

 水銀と冶金と中毒の歴史

 水銀の需要が高く, あちこちで採掘が試みられた理由の一つは,こういった形で古代人の生活レベルでの要求・効能を満たしていたことにある。さらに,実はもっと重要な用途としては,金や銀の精錬(冶金)に欠かせない物質だったことである。水銀は容易に他の金属と合金を作るということで, この性質は古代すでに知られていたらしい。 不純物を多く含む自然金・銀(塊状・粒状・砂状)素材に水銀を加えて合金を作り,まず異物・不純物を取り除く。この合金素材を過熱(水銀沸点356.7以上)して水銀を飛ばせば, 純度の高い金・銀の地金が残るというわけである。
 この方法は,近代の冶金技術においても基本的には同じらしい。以前に某国営TVのドキュメントで,アマゾン川流域の「ガリンペーロ」と呼ばれる人達の金採掘の様子を見たことがある。この人達は一獲千金を夢見てアマゾン流域に集まり,それぞれが思いおもいに黄濁した川底をさらって,自然金の粒子-といっても微々たる量を黙々と収集していた。彼らが簡単な用具を使って手作業で, 何日間続けても集められる量はたかが知れている。 時には親指の頭大の金の固まりを川底からすくい上げる-そういう幸運に恵まれることもあるという。 集めた金の粒に水銀を加えて古代と同じ方法で合金を作り,それからガス・バーナーの炎で水銀を気化させる。容器の底に極く少量の固まりが残る,それが純金であった。「ガリンペーロ」たちの多くは身体を悪くして,長くは続けられず次々と姿を消していく。さもありなん,急性・慢性の水銀中毒である。この精錬過程で大量に気化した水銀・タレ流された水銀は,当然に水-土壌に拡散しアマゾン流域を覆い,他の物質とも化合しつつ植物-魚-小動物の連鎖によって,水銀は次第に濃縮されていく。そして,この連鎖の頂点に立つのはヒトである。アマゾン流域の「水俣病」の大量発生は,そう遠い未来の話ではないだろう。

  関連地名がセットで頻出

 T氏からいただいた周防の地図によると,埴生の地には「福田」がある。埴生から掘り出された丹砂を運び,焼いて水銀を抽出するための炉があった場所-それが福田(フクダ)ではなかったか。フクは元々は「吹く」であって,水銀に限らず金属精錬・鍛治の工程が「フク」といわれる。フク-吹くは風を起こす・風を送ることに因む。辰砂を焼くためには炉と燃料(木炭)が必要で, 温度を上げるには炉に風を送る装置が不可欠であろう。これがフイゴ(鞴)・フクであり,フク(福)田地名の語源となっているのではないか。岡山市に上伊福という所があるが,一帯から古代の鍛治炉跡が大量に発掘されている。ちなみに,伊福は古代「伊吹」と表記されていた。
 福田の北-「山野井」も関連地名と推定したい。井はそもそも地面に掘った縦穴を意味し,そこに湧き出てくるものは普通には水である。しかし,この「丹」いう漢字をじっと睨んでみていただきたい。「井」の中に「丶」があるのが字源という。井のなかから水とは別のものが出てくるという意である。(これは藤堂明保氏の受け売り) この山野井村の「井」の由来は,丹砂を採るために掘られた古代の縦穴ではなかったか-近くに埴生があることからも, その可能性は高いと思われる。

  そういう風に考えながら, T氏から送られてきた周防・長門の古図を眺めると,美祢の赤村・於福と麻生(マブ)・山口の仁保(ニホ)・岩国の二鹿(ニカ)などは,当然地域の伝承・周辺の小字名や切絵図名など,総合的に検証する必要があるが,古代金属関連地名としてなかなかに楽しみな素材と感じられた。そのほかにも,阿武の地福・鷹の巣・北側の大蔵岳と,フク・タカ・クロ(ラ)の複合地域が見られ,地福川の下流をたどると, 高佐村・鷹巣山・その東麓の蔵目喜,北麓の福井・福田と,やはりここにもタカ・フク・クロの濃厚な複合を確認できる。
 また,その西部の赤沼田・鷹ノ巣・高良のセット,さらには金道・鷹子・高山・多羅川のセットも見受けられる。 こういった地域への金属関連地名からのアプローチも,十分収穫が期待できるのではないか。もともと鉱物はマグマの地層貫入による熱水作用で組成され,これらが長年の地殻変動-再過熱を受けて地表近くに押し上げられる。さらに風化・水の侵食や断層作用によって地面に露出する。古代の人々はこれをまず発見したわけで,阪神淡路地震で脚光を浴びた「活断層」は,この意味からも大変に重要なポイントになる。
 この夏,別府の山際を通る高速道路からチラッと,明礬温泉の草葺屋根の群れを見た。温泉は火山性のもの以外に活断層の上にもできる。いつかT氏と行った浜田のひなびた-実に味わいのある温泉も,断層上の温泉ではなかったか。丹砂が硫黄と化合した硫化水銀であることは前に述べたが,岡山県北には著名な温泉が三つある。このうちの二つは明らかに断層上にあり,その断層線上にはかって温泉が湧出したという伝承とともに,入田・赤坂・羽武・丹蔵などの地名の連なりを見ることができる。

 山口の金属精錬地名は最古層

 山口にも「タカ」のつく山を見つけた。「鴻ノ峰」である。たしかに現在の訓みとしては「コウノミネ」であろう。しかし,その山麓に目をやると二つの「タカ」がある。一つは音韻は濁るものの「多賀神社」である。この鴻ノ峰の頂きと多賀神社を直線で結び,これを延長していく先に古熊神社が座す。いま一つ,山口大神宮は『山口古図』には「高嶺大神宮」となっていて,手元の地図では確定できないが鴻ノ峰-高峰神宮のラインは,大内氏の屋敷・金古曽に達するのではと推測される。
 コウとタカでは音韻としては異なる。山嶺には「鴻」の漢字が当てられているが,鷹(タカ)・高(タカ→コウ)・鴻(コウ)へと転化してきたことが推測でき,鴻はもともとの漢字ではなかったことが解る。コウを表記できる漢字は多々あって,「神の峰」とか「甲山」「香山」などの,多様な地域パターンが発生してくる。例えば常山(ツネ)があったとして,たまたまその古名が恒山だったとした場合には,コウ→ツネへの音韻転換が推測して,タカ地名グループに分類される場合もあろう。
 タカについては「宇佐八幡について考える」で, 広く東アジアに見られる鍛治鳥としての信仰と, 秦氏系鍛治集団の鷹と「タカ」地名の関係を述べた。鴻ノ峰-高嶺と金山・金古曽と金属関連地名が,やはりここでも重層していたことに驚いている。金古曽については『その4』でも少し触れたが, 金古曽の地名があるということは同時に「祭祀の場」もあったはずで,それが「仁壁神社」としたものか-少し遠すぎる。
 また,その後のT氏の話から「御堀村」が,大内氏の山口盆地進出以前のベース・エリアだったことが解った。訓みが通常の「オホリ」ではなく「ミホリ」である。『山口古図』では,ここに御掘神社-現在は「三保利」と表記が変わっている-があり,しかも仁保川の谷筋にあたることからも,いちおうは御掘の語源を潅漑用・屋敷の掘割りの意とするが、地面を掘ることそのもの-掘った穴・鉱物を掘り出す井戸ということも推測可能かと考えられる。事実、地図を見ると「大内御堀」地内には「金山」が存在するようだ。

  古曽(コソ)は古代半島の祖先廟

  埼玉のN氏の指摘, 『金・古曽の古曽(コソ)は金・糞(クソ)ではないか』-については,わたしも糞について考えてみた。各地に「金糞」の地名がかなりたくさん残っているが,かっての金属精錬や鍛治に付随して排出されたスラグ・カスが堆積する場所を指す場合が圧倒的に多い。古来より糞は大変に一般的な,使われる頻度の高い音韻だったはずで,金属工房の残滓が語源だったとすれば,早くから「クソ」と表現されてよい。一方,「コソ」の音韻はかなり稀な部類に入り,そのために他の類似音への転化が阻まれて残ったと推定するのが至当だろう。コソからクソへの変化は容易かもわからないが,反対のクソからコソへの転化は,どう考えても自然に起こるとは感じられない。
 確か-伴友信だったと思うが,『神社を古曾と云事』について何かに残している。また,もう二十年以上も前になるか,ムラコソというオリンピックにも出た(?)マラソン(?)選手がいたが,たしか「村社」だったと記憶する。美作国・真庭郡の小字名に「社田」があるが,これを地図は「コソダ」と訓みを振っている。このことからも社-やしろを,古代「コソ」と呼んだこと-コソが社を意味したことは間違いないように思われる。
 以前の別稿で摂津の比売許曾(ヒメコソ)神社を取り上げたが,この神社-ご多分にもれず主神の座を他神に乗っ取られているのだが、元々の神名は「阿加流比売(アカルヒメ)神」である。天日槍(アメノヒボコ-天之日矛とも書かれる)に先立って半島から渡来した, 彼のワイフがこの女神である。元来コソとは半島バージョンでいうところの氏族の始祖「廟-ミタマヤ」であり,これが列島バージョンとして神社(祭神なんでもあり)に拡大した-との指摘もある。
 古代の金古曽に金属技術集団の工房があったことは間違いなく, そこには必ずや彼らの斎祀する「廟」があったはずである。前稿で言及したのは,彼らの「廟」音韻がダイレクトに土地名へ転化していることである。『山口古図』にはそれらしい神社が見つけられなかったが、仁壁神社ではやはり少し遠いかもしれない。小社ではあろうが金古曽町のどこかに必ず,金属神を出自とする神が祭られているのではなかろうか。

 忘れ去られた古熊(フルクマ)の意味

 古熊神社の方は,やはり「フルクマ」と訓まれるようだ。フルは「クシフル」のフルをまず思った。記は天孫降臨の地点を「久士布流」といい,紀は「? (クシヒ)」記す。このフルは, 七枝刀-これは刀ではなく形状からも剣である-で有名な石上神社の別名「布留(フル)の社」とも相通じ,神体である剣も「布留魂(フルノミタマ)」と呼ばれてきた-あのヤマタノオロチを切ったとされる剣である。金古曽を流れる「古川」のフルも同じだろう。
 何が古い熊なのか,古い川とは何かと誰に聞いても,ほとんど意味をなさない答えしか返ってこないのではないか。『三国遺事』によると,駕洛国の首露王も布に包まれて降臨しているが,そこは亀旨峰(クジフルノタケ)と記されているという。 わたしはこのフルを,これまた論証抜きながら「ソ-フ(ウ)ル」のフルであり, 村邑・都邑の意味と解すると言っておきたい。
 熊(クマ)とは一体何であるか。クマとはコムであって,新井白石が指摘しているように, 後の「カム」の語源となったものと考えたい。カム-ヤマトイワレビコのカムであり,カムとはカミ「神」である。前述の天日槍が,列島にも携えてきた宝物七種(記は八種)のなかに, 『熊神籬(クマノヒモロキ)一具』と記されたものがある。これを,江戸期のまじめな考証家は『後世の神祠也。何にても,其人の身体として祭る主を蔵る物也。訓ずるは元新羅の辞にして‥‥云々。』と述べている。氏族の始祖を祀るための依り代-神社の原初形態と押さえたい。
 ちなみに,天日槍は出自を新羅の王子とする。新羅の始祖は赫居世(ヒョクコセ)であって、このコセ(居世)は尊称といわれるが, このコセもコソ(古曽)に通底しているように感じる。いま,カムロギ・カムロミという呪文のようなことば-いつか耳にした祝詞を思いうかべているところ。とにかく, 古熊とは村邑(フル)の祖先廟(ク-コム)を意味していたと考える。

倭王を凌駕-檀君神話の皇紀五千年

  最近半島北部の話が多い。権力の父子相伝や飢餓・ミサイルが話題となるたびに,TVニュースの「資料」映像として公式セレモニー・フィルムを見せられる。例外なく左右の胸-というより上着の全面一杯に,夥しい数の勲章をくっつけた老将軍たちが登場する。これには,本当に閉口してしまう。この国は近年なんでも「檀君」の墓を掘り当てたそうで,いま食糧生産そっちのけで墓園を整備中と聞く。その前はピラミッド形の高層ホテルで,その前が世界最大の凱旋門,さらに前は巨大な人物銅像や白頭山のパルチザン基地捏造など,繰り返されるモニュメントづくり-非生産的国家プロジェクトにはあきれてしまう。
 半島の人々にとって檀君は,この列島で言えば神武のようなものだから,だいたいそんな墓があるわけない。まあこの列島も、神武陵を橿原にうち立てたのもそんな昔じゃないから、似たようなものと思えばいいのかもしれない。最近,檀君の即位・建国を紀元とする独自暦を採用そうである。列島の皇紀二千六百年を軽く凌駕して,実に五千年レベルというのだからなんというか,どうしようもないというか。この話は置くとして,この檀君の神話に熊が登場するので,次への展開にかかるかもしれないので少し述べておきたい。
  『天神桓因の子桓雄は人間世界を治めるために,太白山の頂上に降臨した。そのとき同じ穴に住んでいた熊と虎が,桓雄に祈願して人間になるための修行をした。虎は途中で修行を放棄したが,熊は修行を終えて人間の女になった。やがて桓雄と結婚し,檀君王倹を生んだ。檀君は中国の堯帝即位五十年に平壌に都し,はじめて朝鮮と称した。国を治めること千五百年で ‥‥云々。』人間に化生した熊が檀君の母ということになる。半島・北方アジアの諸族は一様に熊を「水の精」と感じてきたようで,何かをシンボライズするものであったことは確かである。『その4』で触れた薩摩焼の里「苗代川(ノシロコ)」にも,二十二姓(現存十七姓)の集団の始祖廟が鎮座する。やはり, ここでも檀君が定住以来の四百年間, 絶えることなく祭祀されてきたということである。


         
余   話 

  N氏のご指摘のとおり,「鋳銭司」には文字通り銭の鋳造工房があったし,地名辞書には産銅の記述もある。ただ,銅鉱はいずれ尽きたと考えると,銅などの金属素材(インゴッド)を他所から移入して, 銭の鋳造のみ行う工房の形態も考えて置く必要はないか。ほぼ,江戸期の銀座・金座のごときものを想像してもよいのではないか。近世のたたら製鉄についても,「鉄梃」という厚板・塊の状態で輸送されたし,交易物としても価値を持ったと考えられる。もちろん古代においても鉄梃が流通しており,地域首長の古墳に太刀や鏃・鉋など一緒に副葬されている場合も少なくない。製鉄にしろ製銅にしろ当時の燃料は木炭オンリーだったわけで,周囲に豊富な木材資源を必要としたことは言うまでもない。
 しかし,木炭の材料となるナラ・クヌギ・カシ・アベといった雑木は,山村でわたしが少年期に知見した「炭焼き」から言えば,伐採してほぼ十五年ぐらいで再生していたように記憶する。銅のインゴッドを銭に鋳造するに必要な木炭については,十五年から二十年サイクルで一定の地域の山林を計画的に伐採することで,その必要量は十分にまかなえたのではないかと推測する。
  古代の金属の採掘については,現在のわたしたちの常識-鉱物は特殊なものであちこちに出るものではない-は,通用しないと思わなければならない。現代では企業として成り立つかどうか,採算がとれるかどうかが全てであり,そのため品位がまず問題となる。品位が劣悪で採算ベースに合わなければ,採掘-鉱山とはならない。品位が相当劣悪であっても鉱脈が尽きるまでは,採掘・採集が可能である限り試みられた-精錬も含めて-と考えておく必要がある。 山村地区へ行けば今でも全国各地に,狸掘りといわれる極小の穴が数多く残り,いつのころか銅とか銀が出たという記録・伝承は実に多い。こういったもののなかで,比較的長期に操業できたところにハブとかカナイ・カナホリ・フクオカ・フクダ・タタラなど,採掘や精錬・鋳造にかんする土地名前が残ったと考えられる。例えばユダニというのがある。湯谷と表記するが二つの可能性がある。一つは温泉の湧出する(した)谷, いま一つは金属の熔融が行われた谷である。 金属原料が熱くドロドロとなって融解した状態を「湯」といったのである。
 鉱石にせよ砂鉄にせよ,まず原料を熔かし金属を抽出するための木炭確保,そのために木材資源の大量消費がはじまったということではないか。大陸の河北・河南や半島は,金属器文明の黎明によってはげ山となった。列島がそうならなかったのは,周囲が海で全体が湿潤なうえにモンスーン地帯にあったという,まれにみる気候条件による。