紙老虎の歴史漫歩   
  鉄の来た道(5)  
 


信濃の淡海のほとりから



  以前から、一度は諏訪湖を訪れたいと思っていた。湖のほとりに向かい合う諏訪神の上社と下社,その名も高い「御柱」を見ておきたいと思っていたが, 昨年の夏に長野市から安曇野を回り,諏訪まで南下して一泊し, 旧中山道にも立ち寄りながら上田へ抜けた。 諏訪温泉宿のその名も「天空露天風呂」には驚かされたが,この旅をアレンジしていただいたN・T両氏には,深く感謝し申しあげる。特に,この三人が集うと,いつもドライバー役が回ってしまうT氏には,誠に申し訳なく思っている。

シナノの語源について

  信濃と表記される「シナノ」とは何なのか,車中や訪れた先々で話題となった。語幹からすれば「シナ」プラス「ノ」であろうと思われるが,木種にシナ(科)があり, シナ・ベニアという合板も馴染み深い。 『広辞苑』によれば「菩提樹」とも同種で,有用な木材資源として古くから利用されていたようだ。シナノの領域は広大な山国であり,科の木に代表される有用木材が豊かであったことによるかとも考えてみる。
  しかし,仁科・蓼科・浅科・更級(科)・明科・豊科・埴科・保科など,信州には今日なお「○シナ」の土地名が多く残ることから,こういったシナの「集合体としての野」と考えた方が,まずは至当というべきであろう。ただ,この「○科」のシナが何を意味したものかは,未だに解明されていないようである。信州によく見られる「平(タイラ)」地名と合わせ,科(シナ)を特有の地形・地勢と見る説が有力らしい。 司馬遼太郎氏もエッセーのなかで,この地形説を支持しているようだ。

ミスズかるシナノを考える

  枕詞というものがある。意味不明の修辞で単に歌の調子を整えるものと学校教育では教えられた。タラチネは母に,アシビキは山に-などと,意味不明なまま覚える-しかも受験のために-という,突拍子もない授業であった。どうもおかしいとは思っていた。極めて短く制限された表現形式の詞のなかで,表現者が囃子言葉や合いの手のような意味のないことばで,全体の五分の一を浪費するようなことがあろうか。後代,全くその意味が読み解けなくなったとは言え, もともと枕詞には意味があったのではないか。
  ところで, 信濃の国にかかる枕詞は「ミスズカル」であり, このミスズとシナの関連をきちんと意味づけて,読み解いた人がいる。 たびたび登場していただく真弓常忠氏である。 ミスズを「美鈴」とすれば,列島の女性名の一つとして今日でも通用するように,鈴であり,御鈴である。この場合の鈴は「鈴石・鳴石」などと呼ばれ,水辺の禾本植物の根に形成された褐鉄鉱団塊のことだと考える。この鈴は古代製鉄の原料となったもので,氏は沼沢から禾科植物を抜き取り鈴石を採取することが,ミスズカルということばで表されていると指摘する。

シナには鉄の意味もある

  氏によれば,鉄を意味する多くの古語について,大きく五つの語群に分けられる。

   ①テツ・タタラ・タタール・韃靼
  ②サヒ・サビ・サム・ソホ・ソブ
  ③サナ・サヌ・サニ・シノ・シナ
  ④ニフ・ニブ・ニビ・ネウ
  ⑤ヒシ・ヘシ・ベシ・ペシ

  以前,宇佐神宮のついでに豊前の「犀川「佐比川」」に触れ,②サヒ音=古代産鉄の可能性を指摘したが,「犀川」はご存知のように加賀にも,またここ信濃にもあり,いずれの「犀」も産鉄の可能性を示す「サヒ」であったのではないか。また,③サナ音と③ニフ音についてはイワナベ・ルート下の讃甘(サノモ)・サネ川,及び壬生・赤田集落に触れた際に,古代からの鉄産の可能性に言及したところである。
  シノ・シナもまた鉄を意味したとすれば,「ミスズカル」の枕詞は「シナ」に,しっかりと結び付くことになる。

   みすずかる 信濃の真弓 わが引かば 貴人(ウマヒト)さびて いなと言はむかも (万葉集巻二・九六)

  さて, いかがなものであろうか。 弓-とりわけ鉄鏃(矢じり)に焦点を当てれば, 解釈はよりスムースになるようにも思われる。 また,後段のサビが②の鉄音に懸るとすれば, かなり技巧的な詠いぶりと言えそうである。

「風林火山」といま一流の旗

  わたしたちの車は長野駅前を発し, 南下して「犀川」を渡り川中島の古戦場に寄った。欅の古木の傍らに八幡祠があり,これが古戦場「八幡原」の名辞となったらしい。馬上から切りかかる行人包の謙信と,床几に腰をおろして「諏訪法性の兜」を被り,謙信の刀の切っ先を軍配で払う信玄像を見る。越後上杉・甲斐武田の両雄の戦いは,ここ信濃を舞台に幾度も繰り返されたが, 後代「戦国の華」ともて囃された。

諏訪神社(上社・下社)

 川中島合戦のイメージの肥大化は,後に覇権を確立した家康が信玄に深く心酔し,領国経営や軍略の手本としていたこと,家康及び徳川譜代の将が武田の遺臣の多くを収容し,軍事力の強化に役立てたことなども大きく作用したものと思われる。家康の生涯ただ一度の敗戦は,信玄を相手とした「三方ケ原」と言われているし,事実「小牧・長久手」でも秀吉に敗れていない。徳川幕藩体制化での信玄は,源氏を称した徳川とすれば同族であり,野戦で神君を破ったただ一人の,畏敬すべき大人物ということになるのであろう。
 また,大阪の役や島原の乱以降太平の世が続き,実戦によるトレーニングの機会を失った武士階級にとっては,軍事・軍略の机上研修として上杉・武田の戦史-とりわけ「甲陽軍鑑」が広く読まれたことも無視できない。このフィクションも織り混ぜた読み物は,武士に限らず広く庶民の間に流布した。はるか後代,官軍の東山道方面軍の将となった土佐の乾退助が,遠征にあたり板垣の姓を名乗るのもこのあたりに由来するか。その雄図は挫折したものの,かって信長が九州進攻をも視野に入れ,麾下の軍団長に筑前守や日向守の官職名を充て,さらに日向守には「維任」を名乗らせたことにも,相い通じるものがあろうか。
  ただ, 川中島合戦は世に喧伝された割に, その歴史的意味合いはほとんどないようである。 あえて言えば, 信濃及び関東をめぐって小田原の後北条(伊勢氏)も加えつつ, 武田・上杉が辺境で消耗戦を繰り返したことが, 結果として信長の「天下布武」の道筋を開いたと表現することはできようか。話は長くなる。要は信玄の旗印のことである。孫子の兵法からとった「風・林・火・山」の旗は余りに有名であるが,合戦にあたっていま一流, 「南無諏方(訪)南宮法性上下明神」の旗を掲げたと言われる。

軍神としての諏訪神について

  南無は置くとして, 法性とは「仏教用語として一切の存在の真実の本性,真如・実相・法界など(広辞苑)」となっている。 要は, 神仏習合した諏訪神の名が掲げられたもので, その神威発揮を祈ったものと言えようか。 古来-といってもいつのころからか,諏訪神は第一級の武神と考えられていた。

 『梁塵秘抄』に次の記述がある。 

 「関より東の軍神 鹿島 香取 諏訪の宮 また比良の明神 安房の洲滝の口や小鷹明神 熱田に八剣 伊勢には多度の宮」

  小学館「日本古典文学全集」の注によれば,比良の明神とは滋賀県高島郡の白髭神社,安房の洲宮は館山市の神社を,また小鷹明神は安房郡白浜町(旧長尾村滝の口)の小鷹神社としている。 関とは逢坂関である。
  この旗の意味は, そういった一般的な武神として諏訪神の名を掲げたというだけではなかろう。 甲斐から信濃の入り口にあたる諏訪をまず攻略し, 信濃の覇権をめぐって上杉と争う信玄にとって, 諏訪神信仰の本場で神名旗を立てる効果を, 十分に意識したものでもあったろう。 ところが名族諏訪氏を滅ぼしたのは,外ならぬ信玄自身だったわけでなかなかに食えない人物である。 上下明神は諏訪の上・下の二社を言うのだろうが,問題は残る「南宮」である。南宮(ナングウ)とは一体何か。

南宮の本山は信濃国とぞ

  南宮について解説されたものが見当たらない。探してみたが,未だ手にしていない。 どなたかご教示いただければ, 大変にありがたいのだが。 それで, とりあえず「梁塵秘抄」に載せられた南宮を挙げてみることにする。

  梁塵秘抄(262)    南宮の本山は  信濃国とぞ承る  さぞ申す    
                            美濃国には中の宮  伊賀国には稚き児の宮

           (250)    南宮の宮には泉出でて  垂井の御前は潤ふらん  濁るらむ 
             
中の御在所の竹の節は  夜に五尺ぞ生ひのぼる

            (416)    南宮の御前に朝日さし  児の御前に夕日・・・・

            (276)    浜の南宮は  如意や宝珠の玉を持ち ・・・・

  小学館本によると(262)「南宮の本山」の意味を、①本末関係のなかの本宮とするものと,②並列したなかのもっとも大きな宮とする, 二様の解釈があるようだ。また,摂津(兵庫県)西宮市の広田神社について,「本社そのものが南宮とも呼ばれたか-もしくは境内社に南宮があるらしい」ことが,関連する注釈のなかから拾うことができる。また,角川書房の地名事典「岐阜県」版の索引には,不破郡・恵那郡・関市・加茂郡・可児市など,南宮神社が幾つか掲載されている。
 とにかく,南宮という名辞をもつ神(神社)グループが,かって存在していたことは確かなようで, この南宮グループのトップにランクされたのが諏訪神のようである。 中の宮は不破郡垂井ということからも, 関ヶ原で毛利勢が陣を敷いた「南宮山」が思い浮かぶ。 ここに「仲山」があり, 東の海道と対になる東山道の「道の口」にあたることから, 後の中仙(山)道の名辞の由来ともなったかと考える。 中仙道は美濃から遥か山並みを縫って諏訪に至り,下社の社頭を折れて和田峠を越え上田に抜けている。実はこの「中の宮」こそが,南宮大社と呼ばれる「仲山金山彦神社」なのである。

吉備の国にもあった「南宮」

  現在そういった名辞は忘れ去られているが,大日本地名辞書』によればかって「南宮」とも呼ばれた神社が,古代吉備の国(美作と備中)にも存在してことがわかる。

     今一宮村に在り 国幣中社に列す 延喜式苫東郡(美作)名神大と注するもの是也 津山の北一里半 俗に仲山(チュウサン) 大明神と云う又南宮と称す

  吉備津彦神社  後世約略して吉備津宮と云う  今真金村に属し其(備中)の里を宮内と云う藤原保則伝に‥‥云々‥, 神官賀陽朝臣実に本社の神裔也 此社を南宮とも云うは其所以を詳らかにせず 美作の中山神も蓋し同神なれば  また南宮と云う

  吉備津彦神と中山神が同じ神格であるというのは,『大日本史』の専断といってよいのだが,両社ともに「南宮」という名辞で呼ばれた理由を不祥としつつも,「蓋し同神」ということで大日本地名辞書はくくろうとしているが,さていかがなものであろうか。
  仮に同神だったとして, 吉備津(彦)神社の祭神は古事記・延喜式・神祇志料・大日本史の記述を総合すると,彦五十狭彦命あるいは稚武彦命,または五十狭芹彦, さらに大吉備津彦などと, わけがわからなくなるのだが, 手っ取り早く「吉備津彦」としよう。文字どおり解釈すれば「吉備の津(港)の男」神となるが,『梁塵秘抄』の信濃国諏訪神社・美濃国南宮神社・伊賀国敢国神社といった「南宮グループ」の神々とは,どう見ても「同神」というわけにはいかないように思われるのだが。
 完全に忘れ去られたとはいえ,かって南宮グループの神社には共通して「特別な何か」存在したとするのが至当であろう。諏訪・中山・吉備津神社は,それぞれ国の一宮と称されているのが,一宮にランクされた全国すべての神社が南宮と呼ばれたわけでもない。また, 美濃の場合に限っては, 仲山金山彦神社が美濃国府の南方にあったため(か)-と解釈されているようだが,南宮グループに属する神社全てが,それぞれの国府の南方にあるとは言えないので,南宮という共通名辞の理由とするには,いずれも根拠薄弱と言わなければなるまい。

祭神タケミナカタについて

  『古事記』によれば諏訪神は「建御名方」である。アマテラスの国譲りの要求に対して,出雲の大国主命・八重事代主命の父子は従うが,大国主のもう一人の子建御名方が反抗したとされる。アマテラスの使者建御雷命との抗争に敗れ,出雲からはるか信濃国洲羽海まで逃げた。建御名方はここで捕捉されるのだが,「諏訪から他の土地へは出て行かない」ことを条件に助命されたと云う。
  しかし,『古事記』の八年後に完成した『日本書紀』には,出雲国制圧という重大事件にもかかわらず,建御名方の反抗のことは全く触れられていない。ほどなく諸国の地誌が編纂され,さらに詳細な記述があってよいはずの『出雲国風土記』にも,不思議なことに建御名方の反抗についての記述はどこにも見当たらない。 この点について,宮坂光昭氏(諏訪信仰遺跡研究会代表)は著作のなかで, 次のような解釈を示している。

  『建御名方は出雲の国譲りとは無関係で, 諏訪神として後に意図的に挿入された。 国譲りの使者として建御名方を制圧した「建御雷」は, 鹿島社の祭神であり, 宮廷祭祀を司る中臣氏が奉祭する神であり,また,『古事記』の編者太安万侶は,「建御雷」を祀る多氏一族でもあった。国津神の最後の抵抗者として「建御名方」を設定し,諏訪上社の祭神をこの「敗者」に位置づけたのではないか。なお,諏訪下社の大祝金刺氏は多氏一族であり,『古事記』のストーリー展開は先住神(上社)の押さえ込みと,下社側への助勢が意図されたものではなかったか。

重層し複合する諏訪の神々

  こうなると上・下両社とも,吉備津神社や中山神社と同様にそもそも祭神が誰れだったのか, だんだんとわけがわからなくなってくるのだが, これを表にしてみるとこうなるか。

   祭  神 形  態 祭 祀 集 団
上  社 建 御 名 方 前宮・本宮

(前宮は大祝の
古い居館地)
○大  祝  神(諏訪)氏
○神長官   守  矢 氏
○禰宜大夫 小  出 氏
○権  祝  矢  島 氏
○擬  祝  小  出 氏
○副  祝  守  矢 氏
下  社 建御名方の后神
八 坂 刀 売
言  代  主
二座 一社
(春・秋宮)
○大  祝  金 刺 氏
(その他の神職制不明)
中世に上社により廃絶

  上社の大祝は神(ミワ)氏を名乗り, ミソギ祝で現人神・生神として祭神ともなったという。 また, 神長官(ジンチョウガン)の守矢氏は, 諏訪明神の侵入以前の土着の神を奉祭する家であったらしい。要約すると,まず守矢氏の祭祀する土着神「ミシャグチ」があり,これに神(諏訪)氏が別の神を担いで諏訪地方に侵入し,守矢氏を圧倒しつつその勢力を吸収し, 原初の上社を形成した。 その後に, 金刺氏が畿内権力を背景に諏訪地方に進出し,上社側勢力を侵食・圧迫するなかで今日の下社の基礎を固めたということか。上・下社間の祭る神々の錯綜と混乱は,その後たびたび繰り返された神祇革命を想起すれば,理由のないことでもないだろう。孫引きになるが宮坂光昭氏の指摘を, 吉野裕子著「陰陽五行と日本の民俗」から引用する。
  「‥諏訪祭政の基礎を支える大御立座神事は, この大祝と神長官守矢氏によって, 巨大な藁製の神蛇のこもる縄文式仮屋の中で, 毎年, 元旦の深夜から行われる秘儀であった。 ついで元日の朝, 本社鳥居の前で, 凍った川から蛙が掘り出され, 明神への初贄とした。 古来, 諏訪神社の神体は, タケミナカタノ命を知らない人でも, 蛇体であるということは知っている。」

  氏は,この巨大な藁製の蛇こそミシャグチ神であり,ミシャグチとは「赤蛇(シャグチ)」の尊称であったろうと推測されている。 やはり湖を中心とする諏訪の神は,龍蛇神であってこそ似つかわしいように思われるし,事実諏訪地方にはその種の民話が数多く残されてもいるようである。

鉄器と藤枝の抗争が物語るもの

  諏訪に入ろうとするタケミナカタ神に,先住の洩(守)矢神は「カナワ(金輪)」を武器に対抗したが敗れた。侵入神タケミナカタの得物は,なぜか「藤枝」であったという伝承がある。双方が手にした得物の内「カナワ」は金属製であったと推定できるが,その形態は不祥である。「藤枝」にいたってはなおさら想像もつかない。今日までいろいろと識者の間で解釈がなされてきたが,定説と言われるほどのものはないようである。ストーリー展開のうえからはいずれの武器も,それぞれの神-その神をいただく集団を象徴する事物であったろう-ことは,想像にかたくないのだが。

諏訪社神紋=梶葉(カジ)鍛冶?

  守矢神の「鉄輪」について,たびたび登場いだだく真弓常忠氏は, 諏訪上社の宝物館に展示される「鉄鐸」様のモノであったろうと推理される。また,製鉄工程の技術革新(砂鉄採取)を表したものが「藤枝」であり,タケミナカタは新テクノロジー集団の神であり,先住守矢神の旧テクノロジー(褐鉄鉱団塊採取)集団の制圧にあったとする。真弓氏の説についての詳細はここでは省くが,伝承と歴史的事実の問題は置くとしてもタケミナカタが出雲から来たとされること,守矢氏が祭祀の中心を占める上社の「湛神事」では,鉄鐸が祭祀の重要な役割りをになうことなどから考察される。また, 一般的には稲作儀礼と解される「湛神事」に,諏訪湖畔に茂る禾本植物に「鈴-褐鉄鉱団塊」が生(ナ)ることを祈願した古代祭祀の痕跡を見る。
  カナワと藤枝という奇妙といえば奇妙な武器について, なぜ鉄輪なのか,なぜ藤枝でなければならないのかについて,納得できる説明を未だ知らない。真弓氏以外に論理的かつ説得力ある考察があれば,どなたかご教示願いたいところ。

藤は産鉄のキーワードか

  中山神が美作国楢原邑に初めて示現したとき,触媒的役割り果たしたのが「藤内」氏であった。藤内氏は菰を刈ってチマキを作り神を饗応したといい,その功から以後明治初年まで美作東半国の初穂料を徴収し,中山神社に納める職能を担うこととなる。シリーズのなかでそのあたりの事情を述べたが,中山神の古代金属生産とのつながりや,楢原地域の産銅・産鉄の可能性の高いことを指摘したところでもある。
  また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。 いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。

出雲の藤内

柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに藤内某というものがあった。 能義郡布部というところに至り, 宿泊した長者の家で近辺(比田)に巣くう魔物の話耳にし, 大納言の命により藤内が退治することになる。 山王権現の使いである猿の案内でめでたく化物を打ち取るが, 頭は人のようで白髪三尺あまり, 四足は狼・尾は牛に似て,前身黄色の毛に覆われていたという。
 藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。       (原話:田辺善明/再話:小汀松之進)

  能義郡は近代までたたら-砂鉄による産鉄地帯で,播磨国宍粟郡岩鍋に示現した金屋子神が,白鷺に乗って西比田の黒田に飛来し, たたらの技を伝えたとする伝承を述べた。 この神はこの地に鎮まり「金屋子神社」となっている。田辺家は桜井・絲原とともに出雲御三家の一つに数えられ,日本屈指の山林地主で広大な林野を私有して,中近世を通じ鉄の生産と流通を支配し続けた。土地と鉄により蓄積した巨大な富みを背景に,近代に入っても山陰地方の政財界に隠然たる影響力を保持し今日に至っている。奇しくもと言うべきか,藤内がここでも顔を出している。 

播磨の藤無山

  播磨国に藤無山という養父郡で三番目に高い山があるが,昔この山に出雲の国から大国主命が,反対の方角から天日槍(アメノヒボコ)が登ってきて, ちょうど山の頂きで出会った。 ここで二人は但馬の国の支配権をめぐって, 翌日力比べをすることになるのだが,その方法が「藤かずらを結びつけた石」をより遠くに投げるというもの。各自三回づつ投擲するルールで競おうとしたが,あたりには藤かずらが一筋も見当たらず,結局藤の替わりに「黒かずら」を代用することにした。
  結果は,天日槍の三投は全て但馬の「出石」に落ち,但馬は天日槍が治める国となった。大国主命の黒葛を付けた石は,城崎・八鹿と播磨の宍粟に落ち,敗れた大国主命はすごすごと出雲へ引き上げたそうである。そのため, この山は藤無山と呼ばれるようになったという。    (養父郡西谷子供風土記より)

  天日槍と伊和大神(またの名はオオナムチ,さらにはオオクニヌシ)の国占めについては,播磨の地名縁起としてその幾つかに触れた。土地の占有争いに「藤」が登場する点では,播磨-但馬と諏訪の話は通底している。鉄産に関して言えば,砂鉄を含んだ泥水を水路に流し,泥水が階段状にした水路を順次下るなかで,比重選別によって純度の高い鉄砂を集める。このとき,鉄砂吸着シートを水路底に敷くが,藤カズラで編んだムシロが使われたと言われ,稲ワラやカヤ草はうまくなかったとされる。もちろん終末期タタラ関係者の証言ではあるが,なかなか示唆に富むもののように思うがいかがなものであろうか。