紙老虎の歴史漫歩   
  鉄の来た道(6)   
 


新羅浦と旭川・吉井川流域




閑谷学校孔廟の楷ノ木 (備前市)

今年の2月、埼玉N氏・山口T氏に加えて、熊本からN氏も飛び入り参加して、つごう4名で備前を回る機会をえた。岡山駅前からまず、北方の屹立する金山に上って「備前の国見」をして、そこからから旭川を東に渡り、牟佐の大塚・備前国分寺・両宮山古墳を回り、和気氏の本貫地を見てから閑谷学校までが初日の日程だった。金山では、旧正月の「こども会陽」の準備にかち会って金山寺へは寄れず、時間の都合で古代山陽道「和気の渡し」や最古級製鉄遺跡「石生天皇」は素通りとなったが、その甲斐あってなんとか閑谷学校の閉門時間までに滑り込むことができたという次第である。そこから「楷」つながりへ発展することとなるのだが。
 その日の宿は、閑谷学校からはちょっと距離がある「牛窓」に取ったのであるが、それにはわけがあった。一つは、翌日は備前長船で刀剣鍛錬の実演が予定されていて、まずこれを見聞することが旅のメインだったことである。確実に開演時間に間に合わせるために、民宿が多いことでも有名な「日生」をあえて避けたのである。それにいま一つ。牛窓を選ぶには理由があった。

大魚五十二隻が漂着した新羅浦

天平15(743)年備前国で,次の事件が起こったと『続日本紀』は伝える。

「備前国言。邑久郡新羅邑久浦漂着大魚五十二隻。長二丈三尺己下。一丈二尺己下。皮薄如紙。眼似米粒。声如鹿鳴・古老皆云。未嘗聞也」


  現地から郡衙への報告,さらに郡衙から国府経由での報告ということで尾鰭がつくことも考えられるが,土地の古老も見聞したことのない怪魚だったようだ。古代の丈尺はわからないが相当大きかったこと,生きた状態で集団漂着していること,鹿のような鳴き声を発していることなどから,わたしは現代でも時々ニュースなどにも取り上げられる鯨・イルカ類の陸上がり現象ではなかったか思われる。
 シャチなどに追われ逃げ場を失ったか,あるいは寄生虫の伝染・集団発生により、方向感覚を狂わされたものか,その原因は未だに解明されていないようだ。ただ,この怪魚が鯨やイルカの類だったとすれば、よく見られる現象でもあるわけで。海浜に住う土地の古老が知らなかったとも考えられない。どうもツジツマが合わない。まあ,とにかく怪魚が大挙して浜に押し寄せて,次々に自死したものであろうか。

邑久郡新羅邑久浦について

 邑久郡は古代「於保久-大伯」と書き,古代吉備エリアの東南部-瀬戸内海側に張り出した部分で,南に小豆島(現在は香川県・讃岐-古代は吉備の一部であった)を,西に吉備の穴海(古代は流海・現在は湾)と兒島(中世に流海が塞がれて陸続きとなった)を臨み,東は深く入り込んだ片上湾に囲まれている。北は古代の上道郡(カミツミチ)に接し,吉井川(古代の東の大川)が貫流し、後に赤坂郡への分割・和気郡・磐梨郡の新設など、たびたびの郡域の変動が見られた地域である。郡域の変動には、ここ邑久郡は少なからざる影響を受けている。特に近現代の岡山市域の拡大や、さらに備前市の誕生などから,領域はかなり削ぎ落とされたが, 邑久郡は現在も牛窓・邑久・長船の三町をエリアとして命脈を保った。
 邑久・新羅浦の位置については,大日本地名辞書が「また師楽(シラク)という地名,牛窓浦に在り,是は聖武紀に見ゆる新羅浦也」と, 備前国誌を引いて載せる。また,「牛窓は邑久浦とも新羅浦とも呼びし地か,斉明紀に『天皇西征,御船到于大伯海(オオクノミ)‥‥』此大伯海の泊所も牛窓なるべし」としている。また,同書は「補」として備前国誌から,「師楽は牛窓村にあり,是新羅の文字なるべし,古へ新羅の人多くおきけるよし古き書に見えたり,新羅をシラキと訓じシラクと転ぜしにや。」と引く。これによると続日本紀の「新羅邑久浦」は師楽で,また牛窓浦・新羅浦・邑久浦などの表記も同じく師楽のことだと云う。

シラキ類似の音韻地名は他にも

  大日本地名辞書の記載はほとんど全部が備前国誌を引いたもので,どうも吉田東伍自身の文章としては,「牛窓は‥‥呼びし地か, ‥‥牛窓なるべし」という,か・なるべし-のいささか覚束無い部分だけのようである。国誌の言う「古き書」が何であるかも明らかでない。大日本地名辞書の記載を目にする

 
吉備穴海・吉井川・牛窓の島々  

以前,邑久郡の古代海岸線と思われるあたりを現代地図で辿ったことがある。わたしなりに新羅邑久浦に似た音韻の地名を探してみた。今は干拓されて内陸になっているが,邑久郷は古代には吉備穴海のほとりに拓かれたと推定される。その地名からして邑久郡の中心域ではないだろうか。近くには式内社「安仁神社」があって,かって境内から銅鐸を出した。その銅鐸は現在も神社に所蔵されてもいる。邑久郷の近くには城島の地名が見える。ジョウともキとも訓めるが,古層にシロの音を想定することができる。
  牛窓半島の北側-錦海湾は,近世に湾全体が埋め立てられて塩田になってしまったが, 師楽の錦海湾の対岸に尻海(シリミ)がある。 往古の尻海庄のなかには佐井田・庄田の村があり, サイ・サヒ・サビ音は古代製鉄に深い関連を持つ。ショウ・ジョウの音はシロ音との交替も想起させる。また, 尻海の西部2キロの山上には古代の窯跡も多数発掘されていて,早くから新技術を持つ人々によって拓かれた地域であったことを推測させる。

邑久郷説もなかなか捨て難い

  ところで続日本紀の記述「邑久郡新羅邑久浦」だが,どう読むものであろうか。牛窓浦(村)は大日本地名辞書の記述に登場しているが, 牛窓は瀬戸内海に突き出た半島部の南側に位置し, 師楽はこの牛窓村の一部、邑久郡牛窓村師楽である。「邑久郡新羅邑久浦」のどこにも,「牛窓」という地名・地域名が登場していない。和銅年間に各地の地名を良字-2文字へ表記替えする指示が出され,この当時にはかなり徹底されていたと推測される。この『続日本紀』の記述は,果たして「新羅邑久」浦という四字名の地名を表わしたものだろうか。言い換えれば,邑久郡の「新羅というところの邑久浦」と区切って読むべきではないかということである。邑久の名を持つ浦(海浜・港湾)を順当に解釈すれば, 邑久郷という郡の中心的な位置を推定することになるのではないか。 そうすると, 新羅はこの邑久浦を包含する地域名となり, 当然に新羅もまた邑久郡の中核的な領域ともなってくるように思われる。
 こう考えると, 「古き書」が明らかにならない限りは, 近世の地図に邑久の名を負う「邑久郷」を,「邑久郡新羅邑久浦」の比定地としてもさしつかえないのではなかろうか。問題は古代の吉備穴海の海流と,邑久郷の西に広い河口を持つ吉井川の水流で,瀕死のイルカの群れが瀬戸内海から着岸できたかどうか。いまとなっては実験のしようもないが,「何々か」とか「何々にや」である以上,新羅-師楽説の外にここで一つ「新羅-邑久郷」を強く押しておきたい。
 いずれにせよである。備前国邑久郡に新羅という地域名があり,古代に朝鮮半島から多くの新羅人が渡ってきていたことは疑いない。「おきける」はほぼ列島西部をカバーする中央政権が発生して以降の勝手な言い草であって,この種の政権ができるはるか以前から,伽耶・百済・新羅といった朝鮮半島南部,後には北部高句麗からも多くの人々が列島に渡りきたものであろう。そういった人々-新天地を求めて新羅から集団で移住した人々の一部が,邑久郡に定住しその土地を「新羅」と呼ばれた-また自称もしたのでもあろう。
 シラギ・シラキ・シロキ,さらには新羅の旧国名「斯盧」からはシラ・シロなど,その後に邑久郡では新羅が師楽(シラク)へと転化したと言われるように, 地域によってさまざまな音韻・表記へと変容していったことが想定できる。 これにまつわる話をいくつか,わたしの狭い知見から思いつくままに挙げてみよう。

志呂神社とニワトリの話

  これはもう十年以上も前にある人に聞いた話。
 明治以降に繰り返された町村の合併で,いまは旧国名で言えば備前の御津郡建部町に編入されたが,旭川の中流域の支流に誕生寺川があり,合流点から少し誕生寺川を溯ったところ,旧美作国久米郡に「志呂神社」がある。 延喜式に載る古社である。 この社は高台にあるが, 社の下は誕生寺川が大きく湾曲していて, その内側がちょうど武蔵国高麗郡の「巾着田」状態となっているが,残念なことには昭和三十年代に「きんちゃく」の絞った紐の残丘部分を掘削して,川筋を最短距離につけ替えたため,今では元の河道は田んぼとなってしまっている。
  この神社は,作陽誌によれば創建は和銅六年で,美作一宮「中山神社」-同じく和銅六年創建-と浅からぬ因縁があったとの伝承が残るが詳細は不明。久米郡弓削庄の産土神で,現在は神功皇后・応神・仲哀の三座を祀り,応神と仲哀は後に合祀されたものらしい。もともと神功皇后単神であったかとなると,実はそれにも疑問が残るところ。
 付近に神原・野伏尾・宮の前・鳥羽などの集落があるが,それぞれに古来から禁忌があって,ある集落ではニワトリを飼ってはならないとされてきたという。他の集落ではそれぞれに,ウリであったりヒョウタンであったりするという。その禁忌は近年まで守られてきたらしい。ニワトリを飼わないということは,必然的に鶏卵・鶏肉を食べることをタブーとしていたということでもあろう。
  志呂は「シロ」と訓むが,元は「斯盧(シロ)」ではなかったか。新羅の前身が「斯盧」であり,現在の慶州市を中心とした古代「辰(シン)韓」の地に興るが,六部族が共立する王の始祖が天から落下した卵から生まれるという「卵生神話」を持っており,国王の都城-現在の慶州は「奚隹林」とも呼ばれていた。奚隹と鶏は同じであり,斯盧-新羅は鶏をトーテムとする人々であったようである。金達寿氏はその著「古代朝鮮と日本文化」のなかで, 敦賀市の白城(シロキ)神社-白木村についてこう述べている。「白木といい白城といいこれが元新羅であったことは言うもでもありません。白木集落は近年まで鶏も卵も食べなかった。これは新羅がその始祖伝説により国号を鶏林とも号し,鶏を神聖視していたことからきたものだ。」 シロの音韻といい,鶏の禁忌といい,志呂神社の初発の姿は,新羅系の人々が斎祀する神であった可能性が濃厚である。

山ノ城と法然上人の母

  志呂神社から誕生寺川を溯る。法然上人の誕生した場所に創建されたのが「誕生寺」であるが,その誕生寺の東の丘陵一帯に山ノ城(ヤマノジョウ)の集落がある。 城をもともとは「シロ」と訓んだのではなかったかを疑う。作陽誌によれば, この地に志茂(シモ)-シロに音が近い-氏があって, 志茂氏の

 
  波多神社の鳥居

祖を城(ジョウ?シロ?)氏という。また同じく作陽誌は「此の村は古今にわたり奚隹を畜せず,俚氏の言によれば平氏(先祖を平氏一族としたらしい)は奚隹を忌むが故に然るなり。けだし闘奚隹無理の故事によるか,未だこれを考えず。」と載せる。平氏云々を理由とすることに信憑性を認めていないようである。
  ところで法然上人(釈源空)は浄土宗の創始者であるが,久米郡押領使の漆(ウルシ)時国を父に,秦氏の女を母に生まれたと言われる。 「父母ニ子無ク, 神仏ニ祈リテ, 母夢ニ剃刀ヲ呑ミテ」 そして法然を身ごもったとされるが, 秦氏の母親が神仏祈願のために籠もったとの伝えられる本山寺も近郷にあり, この本山寺の近くには「波多神社」もある。ハタ(波多)はまぎれもなく秦であったろう。 法然上人の母の出自が、古代朝鮮半島から渡来した雄族秦氏とすれば,N氏資料の「朝鮮と古代日本文化」の新羅系渡来集団とも重なる。山ノ城・城氏・志茂氏に隠された共通の「シロ」音韻といい,「鶏を畜さない」という本当の意味もまた、自ずと明らかとなってくるように思われる。

新庄と五城と素盞鳴尊の話

 
吉備・石上布都魂神社の元宮磐座   

  誕生寺川と合流した旭川は,流れ下った吉備高原の南辺-金川付近でその左岸に新庄川を合わせる。この小川の流域一帯は旧赤磐郡に属し,その水源の山塊の頂上に磐座(イワクラ)がある。山上には現在も小祠があり,磐座にはしめ縄が張られ,一帯は現在も「禁足地」となっている。中世祭祀は廃れたことが推測されるが,江戸初期に備前の領主により復興し,南麓へ新たに社殿が造営されたようである。新庄川流域には新庄・五城の地域名があり,訓みは庄・城ともに「ジョウ」であるが,シロの音が時代とともに転化したものではないかと推測する。町史は「五城」について戦国期の五つの山城にちなむとしているが,日本書紀にこの地域の社が揚言されるほど早くから開かれた地であるだけに,シロ・ショウ・ジョウといった近似音の重層は無視できないと感じる。
  素盞鳴尊が出雲で八岐大蛇を切った話は,つとに有名である。大蛇の尾から出た剣は日本武尊とともに,「天叢雲(アメノムラクモ)=草薙剣」として東国遠征を行い,日本武尊の死により尾張国に祀られたとされる。 いわゆる三種神器の一つが, この剣の模造品-イミテーションということになっているが,いま一つの剣の行方である。 日本書紀はその名をまず「蛇(オロチ)のアラマサ」として「此は今石上に在す」と載せる。大和の石上神社である。しかし,一書に曰くとして,剣の名を「蛇の韓鋤(カラサヒ)」と言い「蛇を断りたまへる剣は今吉備の神部の許に在り」とも記す。この吉備神部の許とは,延喜式にも載せられる新庄川の水源に座す-この地の石上布都魂神社のことであり,今日もなお祀官が物部氏であることに驚かされる。またこの素盞鳴尊であるが,その子五十猛神とともにまず天降った所が新羅国であり,新羅を「韓郷の島には金銀あり‥云々‥」と語らせるなど,日本書紀は素盞鳴尊が新羅と大変に深い関係があることを隠していないのである。

 
  伊田銅山跡(緑に覆われた丘陵) 

 新庄川の下流域に伊田があり,明治初年に黄銅鉱脈が発見されている。品位は80~90%あって, ほとんど純銅(自然銅)に近かったと記録にある。 銅鉱石以外にも方鉛鉱・黄鉄鉱・磁硫鉄鉱を含み, 操業は70年代まで続いていたようである。 上流域の佐野にも古くから銅鉱があり, 銅以外にも銀・鉛・亜鉛・硫化鉄が採掘されてきた。また,鍛冶屋・金汁・金道・金子坂・風呂谷などの金属・鍛治関連地名が集中していることなどから,古代から新庄川流域では,鉱脈露頭からの採集や初歩的な掘削が繰り返し行われて来たのではないか。素盞鳴尊の断蛇剣の伝承も,石上布都魂神社の鎮座もまた,こういった背景があってのことなのである。

牟佐とニワトリの話

  蛇行を繰り返して吉備高原を抜け,最後の屈曲点から一挙に吉備の穴海に流れ込む-最後の屈曲点の左岸に牟佐(ムサ)がある。岡山地名事典は「古代に大和国高市郡牟佐村主の分派が居住」と記し,古代の官道-旭川渡河のための「水駅」が置かれた。規模はさほどではないが,後期古墳の特徴

-巨石玄室を持つ「牟佐大塚」があり,古代官道沿い東北1キロには「両宮山古墳」がある。外周に盾型の濠を持つ前方後円墳で全長は約200米,高さは前方部後円部ともに約22米あり,吉備地方では造山・作山に次ぐ第3位の規模で,築造は古墳時代中期と推定されている。この地域は古代吉備東部の中心的エリアであったもののようである。

 
牟佐の大塚・玄室   

  牟佐大塚の背後には本宮高倉山(高蔵山とも)があり,高倉神社を祀る。祭神は天香山命・天火明命で,前者は古代銅の生産に関係がある物部系の神「高倉下の神」と同一神とされ, さらに八幡神社も見え,付近の金堀山では鉄鉱石を出したとの古記録もある。また,旭川を挟む高倉山対岸には金山(カナヤマ)の山塊があり,ここには古代金属関連地名が数多く残され, 山塊の北麓では磁鉄鉱を産出したことも記録として残される。  牟佐の字に大久保があり, 岡山地名事典は次のように載せる。
  『本村から2キロばかり川上にあたる旭川左岸の集落。30戸ばかりの農山村で背後の高蔵山は‥‥。菅公立ち寄りの伝説を残す天満宮がある。鶏を飼わぬ風習があった。‥云々。』

牛窓の宿から黒島を望む

われわれが泊まった旅籠は、ちょうど牛窓港に面し、眺望も一等の部屋であった。ほんの目と鼻の先の前島を結ぶ連絡船がしきりと出入りしていて、湾の前面に浮かぶ島々もよく見えた。冬とはいえ、牛窓の瀬戸はベタ凪だった。

 
  牛窓沖の前島(左)と黒島(中央)

この牛窓湾の南方3  kmぐらいのところ小島と岩礁群があり、ちょうど湾を守護するかの形成を示す。そこが無人島の黒島で、近藤義郎編「岡山県の考古学」によると、築造が前Ⅲ期の後半と推定される前方後円墳(墳長70メートル)があり、陪塚とされる円墳一基も確認されているらしい。また、本土側には牛窓湾を囲むように、東から、牛窓天神山・波歌山・鹿歩山・双塚といった、全長60メートルから90メートル級の前方後円墳が連なる。いずれも築造は古墳前期(Ⅱ~Ⅳ)とされていて、鹿歩山古墳にいたっては空堀ながら周濠を廻らし、濠の外縁部にまで円筒埴輪が立ち並んでいたらしいのである。
 まず地勢的に言っても、古代牛窓が豊かな農業生産地帯だったとは考えらず、黒島を含め「還」牛窓湾に五基の前方後円墳が継続的に作られていることは、農業以外の基盤-例えば製塩・製陶・製鉄などの生産、あるいは湾岸の海上権を基礎にした流通・交易といった経済力の集積が考えられる。さらには、邑久・新羅に漂着した大魚の記事からも、牛窓湾岸地域の権力主体がまぎれもなく朝鮮半島から渡り来た人々だったことも、容易に類推されて然るべきであろう。

黄島の岩礁に漂着した仔牛

古代に不可思議な大魚が漂着したように、牛窓近海は「海からの贈り物」が寄り付く場所なのかもしれない。近年では生きた小牛が漂着して、大きな話題となったことがある。
 数年前に中国地方を襲った集中豪雨で吉井川が氾濫した。吉井川は中国山地を河源に、津山盆地を貫流して南下し、和気の渡しで大きく西に屈曲、備前長船をかすめて岡山・西大寺から瀬戸内海(児島湾・古代の流海)に流れ込んでいる。津山市南端部の吉井川河岸「金屋」というところにある牧場が、折からの集中豪雨で川があふれ浸水、繋がれていた親牛十頭あまりが、救助する暇もなく溺れ死んだが、繋がれていなかった仔牛一頭が濁流に流された。
 なんとこの仔牛、驚くべきことには翌々日に牛窓湾「前島」の先、黒島に隣する「黄島」の岩礁で発見されたのである。津山から西大寺川口まで濁流を下ることざっと70kmはあろうか、さらに児島湾口から黄島まで、瀬戸内海を東に流されること15km。この小牛は牡だった。本来ならほどなく肉として潰されるところ、『奇跡の仔牛』として世間の寵児となり、その後は安穏にくらしているらしい。なんでも神社まで創建され、牛の分際で今や「生きる神」となっているらしいのである。
 ことほど左様に、今日なお牛窓の地は、「海幸」が寄り付く特異点でもあるようだ。