紙老虎の歴史漫歩   
  鉄の来た道(7)  
   

赤松円心のパワーの源泉について




吉備と播磨の国境ゾーンを行く

 美作・備前から播磨に出るには幾つかのルートがある。美作からの二つの道筋については別稿ですでに触れた。いずれも大原から佐用に至るもので,一つは釜坂峠を越え中山の谷筋をたどるもの,いま一つは上・下石井の川筋に沿って南下するものである。これらのルートは,地勢的に中国山地の北側と上方を結ぶ最短コースの一部でもあった。特に大原-石井-佐用ルートは因幡国司が利用するなど、古代から近世に至るまで重要な交通路であったらしい。
  現代においてもこのルートは国道 373号となり, 鳥取-阪神を結ぶ定期長距離バスが運行され,中国自動車道の開通により佐用にインター・チェンジが設けられたことから,ますます物資や人々の往来が活発化してもいるようである。凍結されていた国鉄時代の鉄道敷設計画が復活し,新しく発足した民営会社「智頭急行」が,鳥取市から智頭・佐用経由で山陽線上郡を繋ぎ、既設のJR線に乗り入れることで山陰の鳥取と京阪神をダイレクトに結びつけた。鉄道会社の営業収支は,予想以上になかなか好調であると聞く。最北ルートの因幡・東播磨に隣接する美作国東北端から目を転じ,かっての国府・封建領主の居城となった津山や,美作の領域全体から見た場合には,播磨(播磨の向こうの上方)との主要ルートと言えば, やはり「杉坂峠」越えということになるだろう。


太平記と「杉坂・船坂峠」

 
  鹿庭山(大撫山)展望台から見る中国山地

 以前、杉坂峠を越えて鹿庭山(大撫山)の何麓ー中山走廊を抜け,佐用から国道 373号を北上して下・上の石井の集落を通り, 再び岡山県側の大原町入った。 この時は, 作東町田原から中国自動車道の北側をしばらく併走,中国高速道の杉坂トンネルの上を越した。その頂上部で杉坂峠「旧跡」の案内板を右手に確認したが,かっての峠跡は今少し南の山中に残っているらしい。往古ここに関所があり,『太平記』に杉坂関と載る。
  佐用-中山走廊-杉坂越えが後醍醐の隠岐島配流ルートであったこと,この時の後醍醐護送団は数百人もの規模で、その中には千葉介貞胤やあの佐々木道誉など有力武士も含まれていたらしい。ここで『太平記』は,後醍醐奪還を企てる備前の武士「児島(備後三郎)高徳」なる人物を登場させる。彼は隠岐配流ルートを播磨・美作国境ではなく、山陽道の備前・播磨国境と予測し,一族を動員して舟坂峠で後醍醐の奪還をめざしたことになっている。隠岐へのルートを備前経由と思い込むこと自体が吉備の土豪としては甚だしく地理不案内で, このあたりにも彼の実在が疑問視される所以でもあろうか。『太平記』によると, 彼が勘違いに気づきあわてて杉坂峠に駆けつけた時には, 既に後醍醐護送団は杉坂関を通り過ぎた後だったとなる。 先の「杉坂峠の旧跡」とは,明治期に建てられた後醍醐と「誠忠の士」児島高徳顕彰の巨大モニュメントなのである。『英田郡史考』によるとこのモニュメントは、第1期工事が1925年に竣工、1927年4月に完成したものらしい。
 一方の山陽道の「船坂関」であるが、このルートは古来大宰府と中央政権をつなぐ主要道であって,現代にあっても国道2号線・山陽本線・山陽新幹線が通り今日もなお要衝と言える。南北朝動乱期には、在地の赤松氏が九州に走った足利とタイアップして関を塞ぎ、西国からの情報と物流を遮断して宮方にプレッシャーを加えてもいる。。

  二つの「赤松」と赤松円心のこと

  佐用の町から佐用川筋を少し下ると,佐用川が本流の近世の産鉄地から流れる千種川と合流する。その合流点をさらに少し下流の右岸に「小赤松(上月町)」がある。そこからさらに下ると、同じく「赤松(上郡町)」が川の左岸にある。やはり赤松と言えば,円心-赤松則村に言及しないわけにはいかないだろう。自称した系図は伝えられているが、彼の出自は詳らかとは言えない。皇国史観が歴史を覆っていた時代、実在が疑われるにもかかわらず寵児となった備前の児島高徳に比して、ここ播磨の赤松円心及びその後の赤松氏一党は、南北朝動乱期を通じて活躍した実在人物であるにもかかわらず極めて不遇であったと言えよう。その円心ー赤松党の出発点が、これらの「赤松」にあったことはまず疑いないところであろう。

 
  赤松集落の神社奉納額 (右側が赤松弾正)  

 この点赤松と同様に,鎌倉末期から南北朝動乱初期に突如歴史の舞台に登場した楠氏・名和氏にても,その出自にいまなお定説がないようだ。源氏の一門たる新田・足利などのお歴々と比べ,その血統については後代の秀吉や家康同様誠におぼつかない。同時代人に高師直という破天荒な-都大路で高位公卿の牛車に矢を射掛けた-人物もいるが,パーソナリティとしては師直も赤松・楠・名和に類型的に近いように感じられる。師直が足利家執事を家職とする高氏に生まれていなければ, 列島の半分ぐらいは掌に収めるぐらいの異能を発揮したかもしれない。
  ある説によれば, 河内の楠氏は「馬借」に代表される運送・流通業者であったとか,拠った城「赤坂」に象徴される朱砂(水銀)の精製・販売業者だったといも言われる。一方, 伯耆の名和氏(後醍醐の隠岐脱出の手引きをし,大山に  近い船上山に後醍醐を奉じて旗揚げした土豪)の出自は,日本海側の各地の港で物産を交易する船運送業者で,実弟を通じて大山の山伏集団(武力と情報力を持つ)と緊密な関係を持っていたらしい。ところで, 播磨の赤松円心のバック・グランドとは,いったい何だったのであろうか。
  赤松円心は元弘の乱で突如表舞台に登場し,佐用郷から身を興してまず播磨を押さえ, 京における鎌倉方の拠点-六波羅攻めに大功を立てた。彼は後醍醐復古政権の論功行賞で播磨国守護職を望んだ無視されている。 このため, 尊氏が政権から離脱して反後醍醐勢力を結集すると, 積極的に尊氏に呼応して宮方の制圧に活躍する。 これにより, 室町幕府の樹立とともに念願の播磨国守護職を手に入れ, 後には播磨に加え摂津・備前・美作の守護を兼ねるなど,山名・細川などの足利一門に伍して,有力守護大名(四職)へと成り上がったものである。

 
千種川による鉄の集積と流通

  円心の曾孫赤松満祐は将軍義教を謀殺した事件-嘉吉の乱で,列島史に不朽の名を残すことになる。この事件の発端が,将軍による赤松氏家督相続争いへの介入だったのか, それとも領地である三国守護職の防衛のためだったか, その原因をしかとは思い出せない。 このとき満祐は備前長船の刀鍛治康光に命じ,播磨で三百刀を打たせて決起の準備をしたと伝えられている。

 
 はるか後代の吉井川舟運(高瀬舟)  

  また,別の資料によれば,正中二年(1325)に備前長船景光・景政というものが,宍粟郡三方(千草鉄)で鍛刀したとあり,『蔭涼軒日録』には, 長享二年(1488)備前長船の刀匠が足利将軍の命により上洛した時, 千草鉄二十駄を持参して都の東で作刀したと記す。 さらには,長享三年「作州住宗光於播州千草作之」との銘文を持つ刀も現存している。
 嘉吉の乱は1441年であるから, 満祐が播磨で打たせた三百振りの刀の素材が, 千種(千草)鉄であったに相違ないところだろう。 『播磨風土記』の時代から変わらず,この地域の人々は営々と鉄を作り続けてきたわけで, もちろん赤松円心の時代が例外であろうはずもない。千種川と佐用川の合流点下流にある二つの赤松は,「アカ」を冠することから鉄・ないしは水銀などを背景としていた可能性もあるが,そのすぐ上流が古代以来の重要な鉄産地帯であることからも,赤松が舟運を中心にした西北播磨一帯の鉄の集積・流通ルートの要衝に位置したものとも思われる。
 古刀と言えば「備前長船」と言われている。それでは、さて長船住刀鍛冶はいったい、どこから良質の鉄素材を得ていたのであろうか。中世の長船の名を継ぐ長船町は岡山県東部に位置し、瀬戸内海に注ぐ吉井川の左岸にあるのだが、この吉井川が上流から運んできたもののようで、しかも播磨の千種鉄であったとされる。吉井川の上流は播磨国境に接し、産鉄地千種は吉井川源から国境の山一つを越えたエリアなのである。千種鉄は江戸期においてはなお盛んに、高瀬舟によって吉井川(美作・備前)経由でも流通していたと、千種町史料集「たたらと村と百姓たち」のなかで述べられている。
 赤松円心と彼の一党は,鉄素材の卸販売業を手広く営んでいたかもしれず, さらには円心自身が佐用や千種のタタラを支配していたとしても驚くには当たるまい。 どうやら円心のパワーの源の一つに、鉄があったことは否定できないようにわたしには思われるのである。


 苔縄山腹の坑道から考える

 
  赤松幼稚園舎と背後の苔縄城(右山腹に穿たれた穴)

  円心が在地の土豪を糾合して、まず拠った山城が「苔縄」である。国土地理院地図には愛宕山(標高410m)と載る山塊、その一つのピークに築かれたものらしく、南東面には千種川との間に集落があり「苔縄」の名が残る。当時、播磨守護は北条得宗家の指定席となっていたことから、円心ら在地土豪との矛盾を抱えていたものであろう。旗揚げの後急速に勢力が膨張したことにもよろうか、ほどなく主城を苔縄から東へ3km、対岸の白旗山(標高440m)山塊の頂上に移していて、白旗城はちょうど赤松集落の背後にあたる位置になる。このあたりは準平原と呼ばれる吉備高原の東端に位置していて、これら山城からは播磨一円はもとより瀬戸内海・備前方面への眺望も、大きく開けていたものと思われる。苔縄には山を背に赤松円心ゆかりの法雲寺が残っていて、瀟洒な赤松幼稚園の園舎や赤松小学校が隣接しているのだが、写真を撮ろうとして山腹に開かれた坑道?に気が付いた。坑口に排出された土石の色合いからしてそう古いものとは感じられないが、周囲に人影もなく地元の人にこれが何のために開けられた穴か確認できなかった。
 後で苔縄周辺を調べてみて、その穴が鉱石を採掘あるいは試掘のための坑道である可能性を考えてみた。国土地理院地図から愛宕山(苔縄城)西麓を見ると、鉱山関連地名とも言われる「朝日」という集落が載り、周辺に鉱山記号(いずれも「きん」とある)が二ケ所、そして「旭日鉱山」と記されている。さらに、周辺集落の地名としては船岩・岩木・黒石・倉尾・鍛冶が並び、対岸の白旗城下の千種川支流「鞍居」川の奥に「金出地」が、鞍居川合流点にある上郡には「釜谷」「湯ノ脇」「丹東・丹西」などが見える。これらはいずれも、かっての鉱石採集や金属精錬の推測させるネーミングと考えられる。ところで、さて、旭日鉱山であるが、インターネットを検索して次のようなデータが得られた。

鉱山名 通称・別称 開鉱年 産出鉱物 鉱床タイプ 最終事業所 関連事業所等 最終所属集団 閉鉱年
旭日鉱山 岩木鉱山・旭鉱山 不明 Au・Ag・Cu・FeS 鉱 脈 旭日鉱業所 赤松鉱山・苔縄石灰山 合同資源産業 1986
日本の金属鉱山』 による

 関連事業所とされる「赤松鉱山」は、リストには載っていないため詳細は不明であるが、註釈に「皆坂東4k」と書かれていて、旭日鉱山付近に皆坂地名が確認でき、また皆坂から真東へ直線距離でほぼ4kmに赤松の集落があることから、赤松鉱山とは赤松円心の本貫地である赤松にあったもののように思われる。また、ここで苔縄「石灰山」としていることからは、山腹に最近開けられたと思われる穴は石灰岩採掘のためであろうかとも考えてみる。しかし、石灰岩はだいたい露天掘りと決まっていて、坑道を掘って進むにはどうも採算が合わない。やはり、歴史的にも山口秋吉台や伊吹山・関が原などの石灰岩地帯に金銀銅が発現するように、苔縄石灰山に開けられた穴もこういった鉱物を探すためのもである可能性は高いと思われる。


柵原鉱山記念館の鉱石標本

 
柵原鉱山記念館(黄色塊がイモと呼ばれる硫化鉄鉱床)  

 旭日鉱山産出の金Au・銀Ag・銅Cu・硫化鉄FeSなどの有用鉱物が、円心時代に採掘が行われていたかどうかは定かではない。しかし、周辺に残る地名に金属精錬・鍛冶関連と推測できる地名が頻出することや、旭日鉱山の鉱床タイプが岩脈であること、旭日鉱山と赤松鉱山が千種川を挟んだ数キロの地点にあることなどから、円心のホームグランドには旭日・赤松の2ポイント以外にも幾筋かの鉱脈が走っていることは疑いないようだ。さらには、鉱床生成時の微妙な環境の差異や岩脈の褶曲、その後の河川浸食や断層といった条件によって、これらの鉱脈が断続的に地表面近くに「露出」する可能性も高く、南北朝期に止まらず円心以前の相当古い時代から採集・採掘されていた蓋然性は、極めて高いと考えられる。
 旭日・赤松鉱山から目を播磨・吉備国境に転じると、その西北方・美作に近年まで硫化鉄鉱を産出していた柵原鉱山がある。硫化鉄鉱は硫酸の原料で戦後は化学薬品や化学肥料の素材として活況を呈したが、石油精製過程の脱硫装置から副産物として硫酸が抽出されるようになって、柵原鉱山も1991年遂に閉山となった。以前ここの「鉱山記念館」を訪れたことがあるが、埋蔵量日本最大と言われる「芋」状の硫化鉄鉱の塊や、周辺に幾筋も走る鉱脈や坑道、掘削に使った鉱具の変遷、往事の鉱山労働者とその家族たちの暮らしなども丁寧にまとめられていて、なかなかいいものだった。その中で特に注目しておきたいのは、硫化鉄鉱以外に柵原鉱山で採取された鉱石サンプルの展示である。

金銀鉛鉱 磁 鉄 鉱 褐 鉄 鉱 黄銅鉱・磁硫鉄・黒鉱

 柵原一帯から掘り出された有用鉱物は硫化鉄鉱のみではなく、磁鉄鉱、磁硫鉄鉱、褐鉄鉱などのFe系に加えて、金銀鉛鉱や黄銅鉱なども採掘されていたことがわかる。硫化鉄鉱に比べてそれらの埋蔵量や品位及び採算性から、ここ柵原鉱山においては「商品化」されなかっただけであろう。展示史料によると鉱床は「玄武岩しょう接触交代鉱床」で発見を江戸期・慶長年間とする。しかし、周辺には小規模ながら村瀬鉱山、金堀鉱山、和気鉱山、休石鉱山などがかってあり、さきの旭日・赤松一帯同様に、全国の鉱山地帯の例に洩れず数多くの有用鉱物を内臓し幾筋もの鉱脈を持つとすると、やはりもっと古い時代から人々によって採集され、あるいは採掘されていた可能性はやはり高いと言わなければなるまい。


 
関東武者とは異なる戦術について

  源平の争い以来軍事力は、「○○騎」という風におおむね騎馬武者の数で現される。大きな戦でも数百騎であろうか、通常の戦闘程度だと数十騎、大会戦ともなると千余騎とか二千余騎とかあったものかもしれない。しかし、赤松円心の部隊が幾つかの遭遇戦や会戦で、関東武者と騎馬戦で渡り合った様子がどうも見えない。苔縄城で蜂起して混戦を抜け出すまで、その傾向が強い。

 
  上郡町赤松の集落とその背後の白旗城跡

 これは、同時代の楠木氏にしても言えることだが、千早・赤坂の険阻な山城の篭って幕軍を引きつけて戦うとか、伏兵による不意を突いてのゲリラ戦といったところで、騎馬の兵数は極めて少なかったものと推測できる。もちろん、土豪としての赤松・楠木らは馬匹を幾らか保有してはいたろが、騎兵の養成には時間と金がかかることは、中世においても変わりはなかったと思われる。少なくとも内戦初期段階にあっては、彼らの騎兵はせいぜい軍事情報の収集ないしは敵兵力の分断など、側面的な役割りに終始している感がある。
 山塞をあちらこちらに構築し徒歩で山坂や沼川を跋渉して、正規の騎馬軍団を相手に神出鬼没の遊撃戦を展開する彼らを想起するとき、そこに農地に縛りつけられた封建時代の農民にないもの、敢えて言えば漂泊・自由民の剽悍さを感じるのはわたしだけだろうか。先述したように馬借や朱沙(水銀)の製造・流通業、廻船業、さらにはたたら・鍛冶など、鎌倉末から始まる内乱で頭角を現したおよそその出自が詳らかでない一党の兵力基盤が、農民ではなくてこういったある種の「自由民」であったことは共通しているようだ。彼らの戦いぶりもまた、大きくこの点に起因していたかと思われる。
 赤松についてはわからないが、関東を中心にして動員されて楠木に当たった武者たちが、河内を舞台にした彼らのゲリラ戦に大いに閉口したことは太平記に詳しい。しかし、内戦の帰趨を決するためには「会戦」での決着が不可欠で、西上してくる足利軍を迎撃した湊川、次いで四条畷と楠木氏は壊滅している。もちろん彼我の兵力数も関係し、また戦術的失敗も指摘されてもいようが、さてどうだろうか。正規の騎馬武者主体の大会戦には、彼らはそもそも不慣れだったと言うこともできようか。



         余   録

 柵原の硫化鉄の巨大な鉱脈は吉井川の河道の下をくぐっている。中央立坑のある吉井川の左岸は「和気庄」と言い、右岸の藤原とともに磐梨別=和気氏が下流の「和気」勢力を扶植した地と言われる。和気氏については「古代列島雑記(1)」でも少し触れたが、「ワケベの犬」が播磨・佐用の鹿庭山で鉄を発見したと古書に見え、その後播磨・備前国境地帯に忍熊王を追い、吉備への入り口、今日の和気町の藤原(後「藤野」に改称)の地を得たとされる。その後郡域の改変では磐梨郡を新たに創設し、さらに吉井川を遡って美作に「和気庄」「佐良庄」などを手に入れたことになるが、このあたりが和気氏を備前・美作「国造」と記する由縁でもあったろう。
 古代において、備前・美作・そして播磨と有用鉱石のあるところ、かならず和気氏が足跡を残していると言って過言ではないだろう。

柵原鉱山・中央立坑 (現在は解体され姿を消した)
 備前鉱山地図(④が柵原鉱山)  
B)備前・和気地域に集中するものは主にロウ石鉱山で多くは稼動中である