心を磨け−心理学で語る「四聖」の教え−



                  (400字詰原稿用紙換算・約約540枚)




目次

  はじめに    1
T.宗教とは何か    4
 1.日米の意識の違い
    日本人の宗教嫌い/アメリカ人の信仰心/自分を信じて幸せか
 2.宗教の本質
    信仰の理由/現世利益/人間らしい生き方
 3.自己と他己
    ふたつの心/自閉症の研究/閉じた情動と開かれた情動/自己と他己の対/人間の精神構造
    5段階の精神/心理学モデルの特徴/各精神機能の働き

 4.人間のあるべき姿
    10の精神機能/人格の完成/日本人の目指すもの/「あたま」の重視/自己の肥大と他己の萎縮
 5.自己の成長と他己の成長
    自己と他己の統合/自己肥大の心理メカニズム/他己を育てる/無意識での統合を
    解脱/無知の知/無為而無不為/他者のために生きる/信じることの難しさ

 6.自己社会と他己社会
    自己肥大の歴史/他己社会への転換/再び自己社会へ/日本社会の自己化
    自己・他己の歴史観

 7.自己肥大を支える宗教的背景
    科学者の意見/「たてまえ」重視のヨーロッパ/こころを大切にする「和」
    和を捨てた日本人/人間の不安/不安解消=欲望の充足/執着を捨てる

U.修行のすすめ   76
    七仏通戒偈/心を浄める/善とは、悪とは何か/六波羅蜜/布施(檀那)/持戒/十善戒
    忍辱/精進/禅定/智恵/無意識に降りる/不自由の末の自由/自由とは何か
    依存と執着/感覚遮断実験/絶対他者への定位/「感覚遮断」的修行

V.釈尊のことばから −解脱とは何か−   110
W.キリストのことばから −神の愛、神の国とは何か−    140
   参考文献   177
   おわりに   178
 

解説

 2001年9月11日に発生した、アメリカ同時多発テロ事件は、全容の解明が必ずしも十分でないまま軍事行動が遂行されて、賛否はあったものの、キリスト教社会とイスラム教社会との「文明の衝突」であるという見方が、大きくクローズアップされました。
 多くの日本人には、聖戦(ジハード)に殉ずることが最高の栄誉という狂信的な思想が理解できないのはもちろん、欧米人が聖書のもとに一致団結する姿にも、共感するのはかなり困難だったと思います。いちおう、世界で何が起き、事態がどのように推移しているのかということについて、多少は世間の関心を呼んだらしく、書店では宗教関連の本の売れ行きが伸びたようです。
 しかし、当然と言うべきでしょうが、日本人の宗教に対する姿勢は、まったく変化しませんでした。同年12月28日付の読売新聞に、宗教観に関する世論調査が掲載されましたが、「幸せな生活を送るうえで、宗教は大切と思うか」という質問に対して、「そうは思わない」と答えた人は62%、「何か宗教を信じているか」という質問に対して、「信じていない」と答えた人は77%に上りました。ちなみに、数年前、アメリカの十代の若者に対して、「神の存在を信じるか」と聞いた、米マスコミの調査では、94%までが「信じる」と回答しています。何という差でしょうか。
 自己・他己双対理論によりますと、人間の精神は、自己と他己という、ふたつのモーメントから成り立っています。また、見る角度を変えて、精神機能の水準、レベルに着目すると、まず、無意識層と意識層に大別することができます。無意識層の自己は「個人的無意識」、あるいは「生命蔵識」、「煩悩蔵識」、「精髄」と呼ばれます。一方、無意識層の他己は「集合的無意識」、あるいは「自然蔵識」、「如来蔵識」、「神髄」と呼ばれます。
 人間は、なぜかわからないけれど、他者のことが気になります。知らず知らずのうちに、他者を求めています。他者と関わりを持ちたくなり、受け入れたくなり、心を通わせたくなってくるのです。そうしようとか、そうすまいとか、いちいち気にしなくても、どういうわけか、勝手にそうなってくるのです。
 これは、進化の過程で、人類だけが、動物にはない特性として得た、無垢で、無条件な他者への関心を共有しているからです。その無垢なものが、無意識の他己に宿っているのです。これは言い換えれば、人は誰しも、心の奥深いところに、神、仏を宿しているということです(ご理解を得るのはなかなかむずかしいと思いますが)。
 しかし、その仏は、無意識の世界に沈潜しているので、意識して、思いのままにするというわけにはいきません。簡単な例を挙げれば、たいていの人が、誰にでも優しくしてあげたい、あるいは優しくしてあげなければいけないと、頭では思っていても、気に入らない人を前にすると、勝手に腹が立ってきてしまうものです。
 無垢な仏の輝きを、実際に生きている場で実現するためには、無意識における自己と他己の統合がなされなければなりません。その境地を、釈尊は「解脱」「悟り」と、キリストは「神の御国」と、老子は「無為自然(為すこと無くして自ら然る)」「無為而無不為(為すこと無くして為さざること無し)」と、ソクラテスは「無知の知」と語ったのです。中塚は、この四人を、相対的な現実世界を超越して絶対の境地に達した「四聖」と呼び、その説くところを、あらゆる人が信じて仰ぐべき教えであると考えています。
 四聖の教えを信じ、心を磨いて、自己と他己の統合を目指すためには、本を読んでも、人の話を聞いても、テレビを見ても不可能です。もちろん、何百万、何千万とお金を積んでも、買えるものではありません。
 自らの思惑やはからい(自我機能)を捨て、考えや判断(認知機能)を中止し、身体の感覚(感覚機能)を制限し、欲求や心の揺れ動き(情動機能)を止めます。そして、お祈りや読経などの、決められたことば(言語機能)を繰り返し、決められた単純な動作(運動機能)をおこない、こころ(感情機能)を開いて、特定の絶対他者(宇宙根源の原理、神、仏)を観想するのです。
 たったひとりで、静かにおこなう、このような宗教的修行を通してのみ、人は、自己と他己の完全なる統合に至ることができます。この統合は、向こうから訪れてくるものですから、「これくらい修行したのだから、そろそろいい頃だろう」と、自分で決められるものではありません。そう思った分だけ、かえってその境地は遠のいてしまいます。自己を捨てるのが修行のはじめなのに、あり方としてまったく反対だからです。
 ですから、死ぬまで修行を続けても、ついには絶対なる境地に達することができない場合もある、と言いますか、達することができない場合の方が圧倒的多数です。「では、修行などしてもムダじゃないか」と、即物的に考える人も多いでしょうが、そうではありません。たとえ解脱に達することができなくても、その境地があることを信じ、そこに到達したいとひたすらに念願して、日々の修行を怠らない時、すでにその人は絶対なる境地に限りなく近づいていると言えるのです。現実生活で間違いを犯すことが、ほとんどなくなるのです。
 人生で大切なことは、それほど多くありません。大事なのは、間違ったこと、悪いことをせず、正しいこと、善いことをするということです。そのとき、不動の幸せを、だんだんと心の中に築いていけるのです。
 修行法は、宗派にこだわる必要はないと思います。釈尊が長命であったこと、優秀な弟子が輩出したことなどから、仏教においてはさまざまな修行法が体系的に確立されています。キリストはわずかに三十歳で処刑されてしまったため、仏教のようには教義を残すことができませんでした。しかし、目指すべき絶対な境地が説かれているという視点で読みますと、聖書にも修行の大切さが書かれていることがわかります。本書では、こうした修行法についても、くわしく説明しています。




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