Hikikomori−民主主義ニッポンの子どもたち−



                    (400字詰原稿用紙換算・約420枚)




目次

  はじめに  溶けたアイスクリーム   1
T ひきこもりとは何か   3 
   「精神病ではない」/病気とひきこもり/神経症、人格障害/社会的ひきこもり
    ひきこもり者の数/ひきこもり者の割合/思春期内閉症/自我防衛/Hikikomori
   「ひきこもりは突然、陥る」
U ひきこもりの「ひらきなおり」   14
    ひきこもって何が悪い?/ひきこもりとインターネット/「ネットで稼ごう」
    ひきこもりの応援団、カウンセラー/ひきこもりとゴーマニズム
   「カウンセリングでは治らない」/「稼げ、ひきこもり」/民主主義が生んだひきこもり
V ニッポンの教育   21
    教育改革/日本人はトップランナーになれるか/危うしニッポンの未来
    総合的な学習の時間/先生は教えない/子どもたちよ、サバイバルせよ
    自分を誉めたい/おもしろさ第一/学力低下/学級崩壊/授業内容の削減
    学校週五日制
W ニッポンの子育て   31
    新たな忙しさ/親の二重拘束/ユメもチボーもない/こんな子いらない
    愛情不足/いきなり型犯罪/自己愛/閉そく感の大安売り/もっといやしを!
    ジコチューと「エゴロジー」
X ニッポンのエゴイズム(エゴロジー)   41
    他人は手段/マス・エゴロジー/エゴロジーの洗礼/エゴロジーとひきこもり
    エゴロジーと選択/進む選択社会/ついに登場「選択縁」/選択縁という幻想
    選択と危機の同時進行/ひきこもりというタガ/タガは規則、規範
    火の車ニッポンよどこへ行く
Y ニッポンの民主主義   57 
    民主主義とは/権力/権力者もキレる/ナタデココと戦争の話
    善悪を好き嫌いで決める/自由/人の義/平等/エリートを養成せよ
    機会の平等/つりあいをとる/民主主義はつりあいを無視する/闘う人生
    二極化現象の可能性/ひきこもり者も勝ちを目指す/答えは出ていないのか
Z ニッポンの「甘え」   73
    甘えとは/許されてきた「甘え」/欧米は理性の社会/甘えは非理性的
   「甘え」と「神」/戦時体制と甘え/「ぎすぎす」と「ホドホド」
    甘えが通用しない世界/甘えがやけくそに/もう甘えません
    人に甘えずにいられない/甘えるんじゃない!/甘えは悪くない
[ ニッポンの「和」と「権威」   87
    聖徳太子の「和の精神」/「和」とは何か/三人寄れば文殊の知恵
    民主主義には「こころ」不在/傲慢でなければ生き残れない/和と仏教
    権威/権威と自由/なだいなだ氏の考え/権威なき調和/コギト エルゴ スム
    人間が人間として育つとは/愛情と信頼/五分五分の関係
    何がそれを許しているのか/権威は無意識に宿る/権威の否定と不安
    ひきこもりの不安/権威にアンビヴァレントな日本人/権威によるコントロール
    問答無用/信じ合うことで得られる安心
\ ニッポンのコミュニケーション   112
    コミュニケーション花盛り/コミュニケーションに求められるもの
    進化するコミュニケーション形態/コミュニケーションとは何か
    コミュニケーションを求める人々/コミュニケーションによるコントロール
    マニュアル・インフラ・戦略/自由選択という前提/自由な対話
    コミュニケーションの進化と貧困/人間にとってのコミュニケーション
    人間だけが持つこころ/人間の人間たるゆえん/民主主義とコミュニケーション
    ひきこもりとコミュニケーション
] どうなるひきこもり   128
    ひきこもりが増える要素/不登校/蓄積適応社会/権威などない、という権威
    時代の変化に対応する/どうやって生きていくのか
  おわりに  生ける日本人論   134 
  参考・引用図書および文献    135

解説

 「ひきこもり」は、現代日本が抱える諸問題の中でも、その深刻さにおいて、もっとも上位にランクされるべきものだろうと思います。それでも、その蔓延と比例してと言うべきか反比例してと言うべきか、ひきこもり自体は以前ほど驚かれなくなっていますし、騒がれなくなっています。それだけ社会に定着したということでしょう。日本は、「ひきこもりがいて当たり前」の国になったのです。
 しかし、「ひきこもりがいて当たり前」などという国は、世界中さがしても日本だけです。アメリカあたりにも同じような若者がときどきいると、ときどきマスコミで言われますが、よく聞いてみると事情がだいぶ違っていることがほとんどです。
 そもそも、アメリカで、子どもが部屋を「占拠」して立て籠もったりしたら、親が子どもを相手取って訴訟を起こします。「家は親の所有物である。その一部を、たとえ子どもであっても不当に占拠することは違法である」というわけで、裁判所も親の訴えを聞き入れて、子どもに対し、速やかに部屋を明け渡すよう判決を下します。子どもがあくまでも抵抗したら、何らかの罰則が適用されるでしょう。日本とは、月とスッポンです。
 ひきこもりは、精神分裂病やうつ病などの精神疾患によって起こることがあります。しかし、いま日本で問題になっているのは、そういう病的な原因が見当たらない、「非精神病性ひきこもり」です。
 なぜ、精神病にかかっているわけでもない若者(と言いましても、中には40歳台後半の方もいます)が、家や部屋から一歩も出られなくなるような状態が、何ヶ月も、何年にもわたって続くのか。さまざまな人が、さまざまな立場から、さまざまに原因を推測しています。
 よく言われることのひとつに、日本は急激に豊かな社会を実現したために、子どもや青少年から「生きる力」が失われてしまった、というものがあります。100%間違いとは言えないかも知れません。しかし、豊かさは、必然的に生きる力を失わせるのでしょうか。もしそうならば、日本以上に豊かな社会が継続している欧米で、日本以上に若者から活力が無くなっていなければ、つじつまが合いません。しかし、実際は、欧米の若者の方が、はるかにエネルギッシュです。ひきこもりを豊かさだけのせいにすることには、無理があるようです。豊かなおかげで、引きこもっていても飢え死にせずに生きていられるということはありますが。
 子どもに限らず、日本人の多くから「生きる力」が無くなっているのは事実でしょう。そこで、文部科学省が中心になって、数年前から「子どもに生きる力を育てよう」と、さまざまな取り組みが続いています。しかし、その努力とは裏腹に、ひきこもり、不登校、いじめなどは、減るどころか、逆に激増の一途をたどっています。これは当たり前と言えば当たり前の話で、「生きる力」など、育てようとして育つものなら、最初からへたることはないわけです。いままでのような考え方や方法がいっさい通用しないからこそ、現在の問題が発生しているのです。根本的な転換をせずに、困った困ったと言い合ってみても、事態が好転するわけがありません。
 自己・他己双対理論で考えますと、いわゆる「生きる力」は自己に属するものです。ことばを換えれば自己主張、エゴの追求です。しかし、人間は本来、エゴイスティックな自己だけではなく、他者に心を開き、他者を求め、他者に配慮するという、他己の働きも持っています。両者のバランスを取り、統合をはかっているのが、生きる現実の姿なのです。
 他己を形成するのは、世間のならわしであり、慣習であり、社会規範です。より根源的には、宗教であり、思想であり、哲学です。しかし日本は、終戦後に民主主義社会となって以来、そうした他己を形づくるものを、いっさい排除してきました。そのため、現在にいたって、自己が限りなく肥大し、暴走し始めているのです。
 人間は、自己だけになったら、強烈に「生きる力」を発揮するようになるのかというと、そういうわけにはいきません。他己を失い、自己だけになると、他者や社会に心を開けなくなります。すると、他者もまた同じように、自分には心を開いていないのだと思うようになります。そのうち次第に、周りの人々が、誰もかれも、自分をあざ笑い、疎んじ、軽蔑し、陥れようと画策している「敵」に思えてきます。
 それをはね返すために、人はしばしば、浪費したり、ヤケ食いしたり、異性と遊び回ったり、ケンカに強くなろうとしたり、出世を生きがいにしたりするのですが、実はそんなことをすればするほど、ますます不安や恐怖が増大していくという悪循環に落ち込んでいくのです。
 こうした精神状態が高じていくと、もはや、世の中には出て行けなくなってしまいます。そうなったら、あとは自分の殻に閉じこもることしか、逃げ道は残っていません。これが、多くのひきこもりが生じる心理的メカニズムだと考えられます。
 ですから、ひきこもり対策として、「生きる力」をより一層つけさせようとしたり、カウンセリングをして言い分を好きなだけ聞いてやったりすると、引きこもっている人の自己、すなわちエゴはますます拡張し、その分だけ他己は枯れていくことになります。いま行われている対策のほとんどは、このように、むしろ逆効果になるものがほとんどなのです。ひきこもりが減るはずがないわけです。
 アメリカやヨーロッパでは、自己の肥大に対して、キリスト教・聖書という絶対的な他己が、強力な制限をかけます。弱体化が激しいとは言え、その影響力はいまでも社会のすみずみにまで行き渡っています。ですから、もし子どもが引きこもろうなどしようものなら、親は聖書の教えにのっとって、どこまでもビシーッとたてまえを貫き通すのです。
 日本には、もともとそういう強烈なたてまえはありませんでした。たてまえがなくても、「そんな親不孝は許されない」とか「世間に顔向けができない」とかの、こころとこころのつながりで秩序を維持して来られたのです。
 しかし、戦後民主主義の成立とともに、こころのつながりは捨てられ、「個の確立」ばかりが言われるようになりました。そして、それならそれで、当然セットで取り入れるべきであった、他己を支えるものとしての「たてまえ」は、一切かえりみられることがなかったのです。
日本人は、こころを失い、たてまえやけじめも持てない、まったくの根無し草になってしまったのです。ひきこもりは、その果てに生まれた、時代の落とし子とも言えるでしょう。
 ここから方向転換していくためには、日本人一人ひとりの、一大意識改革が必要です。仮に、いまからそれが始まったとしても(ほとんど期待はできませんが)、その結果が具体的に現れるまでには、おそらく何十年という長い年月がかかることと思います。それまでは、おそらく、ひきこもり者の数はどんどん増えていくのではないでしょうか。そして、その間に、日本という国が無くなってしまうことも、絶対にないとは言い切れないのです。




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