「自己・他己双対理論」は、私たちの研究の根幹をなすものです。この理論は、1994年出版の中塚の著書、『人間精神学序説 −自他統合の哲学的心理学の構築とその応用−』(風間書房刊)において確立されました。詳細につきましては同書および本ホームページの諸論文をご参照いただければ幸いです。


 私たち人間は、生きているのに、あるいはもっと生きていたいと思うのに、いつかは必ず死ななければなりません。あらゆる生き物の中で、このことを自覚するのは人間だけです。人間にとっては、死のない生もなければ、生のない死もありません。生と死の弁証法的矛盾の過程を、自分自身が主体的に統合して生きていかなければならない、ということです。行く手に待ち受ける死に向かい、生から疎外されるプロセスとして生きていかなければなりません。

 自分自身の否定は、絶対的で、終局的で、直接的な「死」だけで起こるのではありません。日常生活を振り返ってみれば、いくらでも程度を異にして、「他者による否定」の現象が見られるものです。私たちは、毎日、安心して環境や社会に働きかけ、食糧をはじめとして、衣服や住居など生きていく上で必要なものを手に入れています。現在の日本や、先進諸国のような経済的に豊かな国では、そうした暮らしがほぼ完全に実現しています。

 しかし、少し視野を広げてみれば、お互いがすぐに死の不安へとつながっていることが理解されると思います。例えば、経済活動が不十分で、富が蓄積されていない場合、死が目前に迫ってくることは、我が国をはじめとして世界大戦の敗戦国は現実に経験しましたし、現在でも貧しい国では日常のこととなっています。そうした状況では、明らかに、「私の腹がふくれれば、誰かの腹が減る」ことが起きています。
 こういうことは、死が目前であるような危機的状況でなくても、社会生活をする上で、実はいつでも見られていることなのです。自己の権利の主張は、他者の権利の犠牲、すなわち他者の否定を伴うことがきわめて多いと言えます。

 さらには、餓死の危機にさらされているわけでなくても、あるいは直接相手を傷つけるまでには至らなくても、お互いの利害が対立的なことは、いくらでもあります。おのおのが、より多くを得たいと思い、互いが互いにとってオオカミとなり、相手を否定しあいます。一見やさしそうで、実は微笑の下に牙を隠したオオカミになっているのです。
 その牙を収めることを、いちおう保証しているのが、道徳であり、法であり、それらに基づいたさまざまな制度です。しかし、それらとても実は脆いものであり、しごく簡単に綻びてしまうことは、紛争や、それに伴う略奪・虐殺がいまも世界中で繰り広げられていることを見れば、一目瞭然でしょう。

 このように、個人と社会はある意味で対立しています。互いに矛盾的です。人間は、自と他が互いに否定し合う弁証法的矛盾の中に存在している、ということです。では、人間はこのような矛盾の中にあって、それを克服することはできないのでしょうか。
 人間はいつか必ず死ななければならないということは、自分の中に、自分自身の存在根拠を持っていないことを意味します。つまり、自分の意志で、自分の命を自由にすることはできません。私たち人間同士の、お互いの否定は、お互いが自分の中に自分の生きる根拠を持っていない、つまりお互いが相対的な存在でしかない、ということを自覚することによって、避けることができるのです。

 ヒトは、社会の中で生まれ、社会の中で育てられて人間になり、社会の中で、一方では対立しながら、他方では支えられ援助されながら生活し、そして最後に社会の中で死んでいきます。つまり、あらゆる人間は、「社会」によって「生かされている」からこそ、「自分」が「生きている」ことができるのです。決して、自分だけで勝手に生きているのではなく、どこまでも「生かされて生きている」のです。ここに、人間が「他者」によって否定される相対的存在であることの、もう一方の意味があります。他人によって否定されていますが、同時に他人がいなければ生きていかれないし、存在すらがあり得ないのです。

 人間としての、究極の、絶対的な安心は、自分の死を、他人の死と同じように客観的に受け入れるようにならない限り、訪れてきません。自己にとらわれていては駄目なのです。人間の社会全体の安心も、自己を受け入れるように、あらゆる人が他者を受け入れなければ訪れてきません。自己にとらわれていては駄目なのです。
 私たちは、このような、精神の弁証法的二重性の中に生きています。自分が生きるということと、他者が生きるということは、自分へのとらわれを捨てれば、実はまったく等しいのです。自分だけが楽をすればよい、自分だけが豊かになればよい、自分だけが生き延びられればよいのではありません。すべての人にとって、他者の痛みは、即自分の痛みであり、他者の喜びは、即自分の喜び、他者の空腹は、即自分の空腹です。そういう、「人の心を感じるこころ」を持っているからこそ、ヒトは人間なのです。

 心理学は、このような精神の二重性を説明できるものでなければなりません。さまざまな心理現象も、この視点を欠いては、的確に理解ができません。こうした問題意識に立脚して構築されたのが、自己・他己双対理論です。
 ここで言われる「自己」「他己」とは、人間の精神活動が、自他の統合という弁証法的過程の中で営まれることの反映として、自他ふたつのモーメント(契機)を仮定したものです。モーメントとは、平易な辞書によりますと、「物事の変化・発展・発生などをうながす本質的要素」となっています(学研国語大辞典,1980)。自己・他己双対理論では、ソクラテスの哲学をもとに、人間であることの目的、生きることの基本命題を想定しています。それは、自己と他己の両面のものがあります。
  
「自己」の基本命題:人間は自分自身を知ることを目指して、より善く生きようとする存在である
「他己」の基本命題:人間は法を目指して、より善く社会的であろうとする存在である
 
 
 さらに、この理論によって人文諸科学全体を統合する構想があり、構築されるべき学問体系を「人間精神学」と呼んでいます。




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