教育基本法第一条に明記されている「教育の目的」は、「人格の完成」であり、教育に携わる人や、高い関心を持つ人が、このことばを知らないというのはまずないことと思われます。
 しかし、「人格が完成するとはどうなることか」あるいは「完成した人格とはどのようなものか」、このように問われたとしたら、教育現場での実践からは答えが出そうにありません。教育行政や学問研究の場においてすら、明確化されているとは言い難い現状です。目標が、まさしく画餅でしかないという観があります。すなわち、現在の日本では、教育の根幹がきわめて空疎なものに成り下がっているということです。基礎がなければ、その上に何を積もうと、むなしく崩れ去るばかりです。どんな教育法案も、施策も、実践も、根幹を欠いたままでは意味をなしません。

 自己・他己双対理論では、この「人格の完成」を次のように考えています。
 人間精神の心理学モデルで言うところの、自己モーメントと他己モーメントが弁証法的に統合されると、他者(特に絶対他者、神・仏)を信じ、できるだけ他者を尊重し、他者と心を通わせて、他者の喜びをわが喜び、他者の悲しみをわが悲しみとできるようになります。それは、自己の欲望や気分や情緒などの情動「こころの動き」をコントロールし、「他者を助けさせていただいてありがたい」という気持ちが持てることです。それはまた、自分が自分の力で「生きている」のではなくて、他者によって「生かされて生きている」ことを実感できる心境でもあります。これが、自己・他己双対理論で考える「人格の完成」です。
 したがってこれは、知識(認知−言語機能)の増大でも技能(感覚−運動機能)の伸長でもなく、単なる理性(自我−人格機能と認知−言語機能)の発揮でもありません。そのような、相対的な基準では測れない、絶対的な境地と言えるのです。

 それでは、どのようにしてその境地、人格の完成に至ることが可能なのでしょうか。道徳を教え、知識を詰め込み、身体のトレーニングを課しても、それだけではまったく不十分であることは言を待ちません。では、それらを超えたところで、何が必要で、何があり得るのでしょうか。
 他己モーメントの無意識層に潜んでいる如来蔵識(集合的無意識・神髄)と、もうひとつ、自己モーメントの無意識層に潜んでいる煩悩蔵識(個人的無意識・精髄)との、意識下での統合・一体化が実現したとき、人間は人格の完成に至ります。
 これは無意識でのことであり、統合しようと「あたま」で「はからって」なれるものではありません。一般の人には唐突なように思われるかも知れませんが、わかりやすく言うならば、坐禅・瞑想の修行によって「意識を滅する」ときに、現れてくる世界なのです。しかし、これは、実現のきわめて難しいことと言えます。
 これよりも容易な方法があり、それは、意識のすべてではなく、「自己を滅する」ことです。自己モーメントの、「自我」のはからいを捨て、ただひたすらに、「認知(判断)」を中止し、「感覚」を制限し、「情動(こころの動き)」を止めて、決められたことば(言語)を繰り返し、決められた単純な動作(運動)をし、こころ(感情)を開いて、特定の絶対他者(宇宙根源の原理・仏・神)を観想するのです。そのときに、自己が他己に、完全に一体となることができるのです。仏教の中の密教では、その状態や、その状態への移行を、「入我我入」と呼んでいます。

 実際は、ここまで至れる人はきわめて少ないと思います。すると、大多数の人々にとっては、ここで述べたことが単なる「説明」「解説」に過ぎず、ことばの上だけのことに思われるかも知れません。しかし、そうではないのです。たとえこの境地に至ることができなくても、そういう境地やそこへ至る道を知ることで、われわれ存在者を超越した絶対他者(仏・神)が、われわれ人間に力を及ぼしている、ということを信じ、自己のはからいやこだわりを捨てて、その力に従順に生きていく、そういう態度を養うことはできます。そして、そういう態度を身につけて、つまりその力を信じ、それと一体になろうと念じてひたすら修行を行うとき、たとえ一体な境地に至れなくても、すでにその境地に限りなく近づいていると言えるのです。
 これは、日本以外のどの地域、どの国でも常識となっていることで、あらためて言葉を尽くさなければならず、しかもそれに耳を傾ける人が少ないなどというのは、世界の中でも日本だけに特異な状況です。日本の常識は世界の非常識であるという事実に、われわれは一刻も早く気付くべきでしょう。

 「人格の完成」に至りますと、あるいはそこに限りなく近づきますと、自己へのとらわれが捨て去られ、あらゆる人とこころを開いて接することができるようになります。他者の痛みが即わが痛みであり、他者の喜びが即わが喜びとなるのです。これは、「コミュニケーション」の究極のかたちでもあります。すなわち、コミュニケーションとは、自分自身の中の「自己」と「他己」との統合に基づいた、他者との心の通じ合いである、と定義することができます。この統合が忘れ去られたままに、どれほど言葉が用いられようと、どれほど情報がやりとりされようと、それは、まったくコミュニケーションとしての意味を持ちません。しかし、今日の社会は、これとほぼ等しい状況に陥っていると言えます。
 すべての教育も、本来、真のコミュニケーション(すなわち響育)であるべきですが、いまの現場におけるコミュニケーションの貧困には、目をおおうものがあります。

 教育の根幹は、以上のようなものであるべきだと、私たちは考えていますが、こうした考え方は、日本で今日行われている公教育とは、まったくあい反するものです。しかしながら、思想や哲学を失った今の学校教育が、どれほどの惨状を呈しているかは、ここで実例を挙げるまでもないと思います。
 教育改革を叫ぶのであれば、それは、すでに起きてしまっている現象にどう対応するかというような、底の浅い対症療法であってよいはずがありません。人間を育てるのが教育という営みです。したがってそこでは、人間とは何か、人間が育つとはどうなることかが、常に問い直されていなければならないのです。その姿勢を支えるのは、哲学や思想をおいて他にありません。私たちは、自己・他己双対理論に基づいて、この探求を続けています。




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