LDADHDは、今日、児童青年期における、発達/精神・行動障害のトピックスになっています。
 LDとADHDを明確に区別することには困難が伴います。もちろん、ADHDは医学的な診断基準がいちおう成立しているので、医師にはさほど難しいことではないかも知れません。しかし、教育や福祉の現場にいる実践家にとっては、そのような区別が、そもそも意味を持たないことが多いと言えます。そして、概念の広さ、曖昧さは、LDの方がADHDよりはるかに上回っています。したがって、まずLDを行動的に正しく把握し、さらにそれを絞り込んでいくことで、ADHDの臨床像を明確にすることができるのではないか、と考えられるのです。
 教育学的概念としてのLDが広まり始めたのは、1960年代の初頭からです。そのころから今日に至るまで、ほぼ一貫して、LD児は認知機能に障害があるため、さまざまな面において困難を示すのであると言われ続けてきています。LD児に関する研究は、おそらく当時すでに盛んであった、自閉症研究の強い影響を受けていたと考えられます。LD児に多く見られる、学習面以外の問題、例えば対人関係上のトラブル、不器用さ、衝動性や爆発性などは、認知障害の結果として現れる二次的な障害であるとされてきました。

 LD児には、確かに認知の障害が見られることが多くあります。しかし、自閉症についても言えることですが、いろいろな発達障害の根源を認知機能に置こうとすると、障害同士の差異や区別が曖昧になってきます。症状の上で類似性が見られるだけに、余計に障害の本質が見えなくなってしまうおそれがあるのです。
 LD、あるいはADHDに関する知識を持っている人、実際に症児と触れあったことのある人はよくわかると思いますが、この子どもたちは実にさまざまな症状を示します。人間精神の心理学モデルの機能領域で言えば、情動−感情、感覚−運動、認知−言語、そして自我−人格と、多くの場合、ほとんどすべての領域において何らかの困難が見られるのです。また、学力的に劣っていないどころか、きわめて優秀な成績をとることができる子どもがいます。自閉症児とは違って、非常に人なつっこく、馴れ馴れしいとさえ言える子どもも、多くいます。この多彩さ、複雑さは、精神全体をコントロールする役割を担う、自我−人格機能の障害と考えると、明快に理解できるのです。私たちはこのように、LDの「自我−人格機能障害仮説」を提唱しました。
 さらに、LDを行動的に捉えて仮説を検証するために、約四千人の保護者に協力してもらい、チェックリストのデータを集めました(被験児はほとんどが健常児)。およそ千人分の集計結果を分析したところ、4因子が抽出されました。それらは、人間精神の心理学モデルの4つの機能領域、自我−人格・認知−言語・感覚−運動・情動−感情に対応していて、そのうち、データ的にもっとも重要度が高かったのは、自我−人格機能因子でした。この時点で、LDは自我−人格機能障害ではないかという私たちの仮説は、かなりの程度支持されたと言えます。分析を通じて構成されたLDの測定尺度は「学習適応性尺度 Adjustment Scales of Learning : ASL」と名付けられました。
 続いて、LD児やADHD児を持つ多くの親に協力を要請し、診断を受けている子どものデータを大量に収集しました。分析の結果、そのような子どもたちにおける自我−人格機能の障害は、より顕著なものでした。そして、認知−言語の障害は、子どもたちの示す問題行動や困難性の中核をなすものではなかったのです。また、これは大変重要なことですが、ADHDという診断を受けていた子どもは、そうでない子どもより、自我−人格機能の障害が重篤であるという結果が得られました。この結果は、統計的に有意な差として現れたものです。
 私たちの仮説は、データ的な裏付けを得て立証されました。研究の詳細は、『学習障害研究における人間精神学の展開 −新仮説の提唱および学習適応性尺度の構成−』(2001年、風間書房刊)として出版しましたので、関心がおありの方はご参照くだされば幸いです。

 LDは、「学習」障害と言われるので、保護者や指導者の意識は、どうしても勉強に向いてしまいがちと思います。外見上、重い障害があるようには見えないのに、どういうわけか、みんなができて当たり前のことができない。何度教えても同じ間違いや失敗を繰り返す。頑張らせようとしても、すぐにあきらめたり口応えをしたりする。このようなことが繰り返されると、大人の方が意地になってしまうことも多いのではないでしょうか。実際、百人ほどのLD児の親御さんに、心理的ストレスを測定するアンケートへの回答を依頼したところ、LDは障害として軽度な方であるにもかかわらず、より重度の障害児を持つ親よりも、高いストレスを抱えている傾向が現れました。
 ADHD児は、より重度の自我−人格機能障害を負うことがあるため、対応はさらに難しくなります。ADHD児は、学習面の問題を持たないことがしばしばです。つまり、テストの点がよく、授業中は元気に発言し、運動も得意。それなのに、例えば、少しでも気に入らないことがあるとすぐに爆発して友だちとトラブルになったり、注意を素直に聞かなかったり、物を壊したり教室から飛び出して戻ってこなかったりする。落ち着いたところを見計らって諭すと、涙を浮かべて反省するが、数時間後にはもう同じことを繰り返す、といった調子であることが多いのです。親や教師は、何とかしてしつけようとしますが、その努力は多くの場合、徒労に終わってしまうのです。
 「言う通りにさせよう」「言うことを聞かせよう」としても、多くの場合は逆効果です。言えば言うほど、かえって子どもは反抗的になり、親のストレスも高まるという悪循環に陥ることがしばしばです。しかしながら、そうそうに見切りをつけ、無視、放任をしてもよいということでは、もちろんありません。

 LDやADHDは自我−人格機能障害と考えられるので、最終的にはこの領域のリハビリテーションが必要ですが、それは道徳や建て前を教え込むこととは違います。そういうことが行われたとしたら、おそらく百害あって一利なしという結果になるのではないでしょうか。自我−人格機能は、精神の基盤をなす情動−感情機能と、密接不可分な関係にあります。特に、精神成長過程にある子どもでは、この二つの領域がほとんど一体になっていると考えられます。したがって、精神の基礎である情動−感情、「こころ」を豊かに育てることを第一にしなければならない、と言えます。
 これは、言って聞かせるようなことではないのです。親や教師のこころと、子どものこころとがふれ合い、響き合うことによってこそ、可能なことです。そのためには、ありふれた言葉のように受け取られるかも知れませんが、大人が子どもに対して、無限の愛を注ぐことです。エゴや都合を捨てた、無償の愛が必要なのです。これは、言葉にすればこれだけながら、実行は容易ではありません。まずは、大人自身の、徹底した人格の錬磨が必要と言えます。
 半世紀近いLD研究の結果、感覚−運動や認知−言語を伸ばすのに有効であると言われる教育プログラムやテクニックが、いくつも開発されています。いま述べたような、「こころの教育」の上に立って、それら既成の教育技術が応用されれば、効果が上がる場合が多いでしょう。



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