以前より、二大内因性精神病と言われているのは、統合失調症(旧名:精神分裂病)と、うつ病です。特に統合失調症は、人類に残された最大の謎、とまで言われています。この重要なふたつの病は、自己・他己双対理論によってどのように解釈することができるでしょうか。

統合失調症
 参考までに、アメリカ精神医学会によるDSM-Wの診断基準を略記しますと、次のような5つの特徴的症状のうち2つかそれ以上が一定期間見られれば、その患者は統合失調症と診断され得るとなっています。その5つとは、
  @妄想
  A幻覚
  B解体した会話(例:頻繁な脱線または滅裂)
  Cひどく解体したまたは緊張病性の行動
  D陰性症状、すなわち感情の平板化、思考の貧困、または意欲の欠如
です。この他に、社会的または職業的機能の低下の状態や、他の疾患の除外などが慎重に検討されます。
 自己・他己双対理論による統合失調症の解釈に入ります。統合失調症は、精神の自己モーメントに属する各精神機能(情動+感覚+認知+自我)の働きが、他己モーメントに属するそれら(感情+運動+言語+人格)に対して、相対的に優勢になると共に、それにつれて他己モーメントの縮退ないしは喪失が起こる精神疾患である、と考えられます。
 他己の中で、特に人との関係を直接的に担う精神機能は、感情と人格です。感情は、「人の心を感じるこころ」であり、人格は「そうあろうとする意志」、「他者の期待や要請に従おうとする傾向」であって、統合失調症ではこれらの働きが弱くなっていくことになります。そうすると、統合失調症者にとっては、他者も同じように「人の心を感じるこころ」を失ったように感じられてしまい、他者や社会は、患者に対して脅威を与え、被害を及ぼし、圧倒する存在として迫って来るのです。
 多くの対人関係においては、配慮と無視・尊敬と軽蔑・賞賛と非難・受容と拒否・援助と攻撃・承認と否認・善意と悪意、等の、両価的(アンビヴァレント)な感情が生じます。自己と他己のバランスが取れていれば、これらの感情もうまくつり合い、両極端に引き裂かれたり振り回されたりすることはありません。しかし、自己肥大が進行して他己が枯れてきますと、例えば配慮と無視であれば、否定的な感情である無視ばかりが感じられるようになってしまうのです。
 他己が働くことで、われわれは社会の中で安定していられます。他己は、他者の支えを信頼する心、他者を思いやる心、他者を求める心、他者に共感する心です。そういう心を失った時、私たちは他者とのつながりを失い、あい対するものを失って、客観に定位できなくなってしまいます。糸の切れた凧が風に翻弄されるように、社会の中で自己を定位できず、不安と孤独にさいなまれながら、あてどもなくさまようことを余儀なくされるのです。これが、他己を失うことの本質的意味であると言えます。

うつ病
 現在、日本では、壮年期以降の精神疾患において、うつ病がもっとも重要視されていると言ってよい状況があります。また、欧米においても、あるデータによれば、老年期うつ病の有病率は平均5%に達しているといいます。
 うつ病は、DSM-Wで「気分障害」というカテゴリーにされていて、その中の「大うつ病エピソード」には、ほとんど毎日の抑うつ気分、興味・喜びの減退、著しい体重減少、不眠または睡眠過多、焦燥感、易疲労性、無価値観、過剰なあるいは不適切な罪責感、こういった診断項目があげられています。
 自己・他己双対理論によると、うつ病は、統合失調症とは逆に、他己モーメントに属する精神機能の働きが自己モーメントのそれらよりも相対的に優勢になるに従って、だんだんと自己モーメントが縮退ないし喪失していく精神疾患であると解釈できます。
 毎日の生活や人生を、どのように生きていくか、ということに直接関わるのは、自己モーメントの中でも目的的な働きを担う、情動+自我機能です。情動は、欲求や気分のような「自分の心の動き」であり、自我はそれを統合して「より善い自分を実現していこうとする意志」です。うつ病者では、もともとの病前性格としてこの情動+自我機能が弱く、それがさらにだんだんと障害を受けていくと考えられます。すると、欲求が低減し、気分がふさぎ、何をしても面白くなく、喜べません。何か重苦しい、何もする気が起こらない、といった自我機能の弱体化が進行していきます。
 うつ病者には責任感や義務感の強さが共通することが多いと言われ、気分がすぐれなくても、何とか人に付き合おう、社会に出ていこうと努力する傾向があります。しかし、そこで自己の能力への不全感を持ったり、活動的な他者から圧迫感を受けたりして、それは病者のこころにさらに重い影を落としていきます。この状況は日々悪循環を形成し,うつ状態は次第に重症へと深まっていくとされるのです。こうした症状は、自己モーメントの喪失で説明が可能です。

基本的治療方針
 統合失調症の場合は、人が十分「善意」や「愛」に満ちていることを理解させ、実感させます。そのことによって「感情」を育てます。また、したことを他人に誉めてもらうなどして、肯定的な社会的感情を体験させ、情動+自我の安定化をはかります。
 次いでうつ病は、人生が「楽しい」ものであることを、趣味や遊びなどを通じて体験させ、実感させます。また、成就の喜びを体験させたり、自分の将来に対する希望を持たせたりします。これらによって、情動+自我を育てます。また、社会的な要請や期待を減らすことにより、感情+人格の相対的な弱体化をはかります。
 このような治療は、治療者と病者の人間関係を通じて行われるものであって、そこでは、治療者がより安定し、完成した自我−人格機能を持っていることが不可欠です。より根源的には、精神の基礎となる、研ぎ澄まされた、とらわれのない、そして無垢で「聖」なる、「人の心を感じるこころ」が、治療者には求められるのです。

人格障害
 二大精神病の他に、近年の日本で人々の関心を集めている重大な精神疾患が、「人格障害」です。そうなった原因のひとつは、従来は起こらなかったような、凶悪な犯罪の加害者が、人格障害の診断を受けることがしばしばであるためと考えられます。しかも、逮捕される以前に診断や入院の経験があった者もいますが、その際、下された診断名が医師によって異なっていたというケースがしばしばです。診断マニュアルはあるものの、現場では、人格障害の概念がほとんど明確にされていないというのが実態と言えます。
 人格の定義を今いちど明確にし直すことが、実は緊急に求められているのです。人間精神の心理学モデルで言う「人格」は、「そうあろうとする意志」であり、「他者の期待や要請に従おうとする傾向」です。このような精神機能が障害されたのが人格障害と呼べるのであるなら、それはまさに「名は体を表す」ものとなっています。こう考えると、人格障害の輪郭は、きわめて明確になります。
 人格障害には、いくつかの類型があり、DSM-Wによる分類は以下の通りです。

A(対人関係からのひきこもりと奇妙な話や態度を特徴とする)群
  妄想性人格障害(Paranoid Parsonality Disorder)
  分裂病質人格障害(Schizoid Perasonality Disorder)
  分裂病型人格障害(Schizotypal Perasonality Disorder)

B(演技的、活動的で不安定、「劇的(dramatic)」で「情動的(emotinal)」、「奔放な(erratic)」) 群 
  反社会性人格障害(Antisocial Perasonality Disorder)
  境界性人格障害(Borderline Perasonality Disorder)
  演技性人格障害(Histrionic Perasonality Disorder)
  自己愛性人格障害(Narcissistic Perasonality Disorder)

C(不安に関連した行動,感情,および思考の偏りがみられる)群 
  回避性人格障害(Avoidant Perasonality Disorder)
  依存性人格障害(Dependent Perasonality Disorder)
  強迫性人格障害(Obsessive Perasonality Disorder)

 人格障害には、このようにA・B・Cの3群がありますが、A群は精神病に近く、C群は神経症に近いことが、それぞれの分類名にも反映されています。すると、B群が、いわばもっとも人格障害らしい人格障害である、と考えることもできるわけであり、それはまた、このB群が、治療や対応にもっとも困難を伴うことも意味します。と言いますのは、精神病や神経症のために開発されてきた精神療法や薬物療法の応用があまり効かず、医師や看護スタッフ、そして家族が引き回され、混乱させられる例が頻発しているからです。
 ここではすべての類型について考察を加えることはせず、境界性人格障害(Borderline Perasonality Disorderの頭文字をとって、以下BPDと略記)を取り上げてみたいと思います。他の型については、いつか詳細に考察する機会を作りたいと思います。
 DSM-WによるBPDの診断基準は次の9項目(ここでは要約してあります)があって、このうち5項目以上を満たすことで診断が確定します。
  @見捨てられることを避けようとするなりふり構わぬ努力
  A極端で不安定、かつ激しい対人関係
  B同一性障害
  C衝動性
  D自殺および自傷行為
  E感情不安定性
  F慢性的空虚感
  G激しく制御困難な怒り
  H妄想観念、解離性症状
 @、それからAには、相手を過剰に理想化する行動が含まれています。例えば治療場面では、医師との面接において、「先生ほどの素晴らしいお医者様にめぐり会ったことはいままでなかった」などと言うのです。その言い方にはある種の必死さや切実感があり、単なるお世辞とは思えないものです。このことから、BPD患者にはある種の他己、つまり他者への関心や共感が存在していると考えられます。しかもそれはかなりあらわに、強く表出されるものです。
 しかし同時に、治療が思うように進まなかったり、相手が自分の意にそぐわない態度を示したりすると、とたんに凄まじいまでのこき下ろしが始まります。それまでの理想化から急転直下し、容赦のない罵詈雑言が浴びせられたり、暴力がふるわれたりするのです。 このような現れや、それからHにある妄想観念(他己障害である統合失調症に近い)などから、患者の自己が「むき出し」になっている状態が認められます。他己は、対人関係や社会生活において緩衝装置の役割を果たしている面がありますので、他己が発達している人は他者の胸中を理解したり、常識や慣習に配慮したりすることで、ストレスに耐え、自分を見失うことなく環境に定位させていられます。しかし、他己が失われたり緩衝装置としての役割を果たせなくなったりしますと、人間はむき出しの自己のまま外界に放り出された形になり、どこにも、あるいは何にも自分自身を定位させられず、不安と恐怖におののきながら生きていかなければなりません。
 この状態が病的に恒常化したのが分裂病と考えられますが、BPDでは、それが極化する時期とさほどでもない時期とに揺れ動くようです。他己を欠いた状態に耐えきれなくなったとき、Dの自殺・自傷行為が出てくると考えられます。
 他己が失われ、外界への定位不能に陥りますと、人間精神の心理学モデルで言う自己の情動(特に欲望、欲求)に執着し、その満足によって代償を得ようとすることがあります。DSM-Wの中に、Cの衝動性の例として挙げられているのは、浪費、性的放縦、物資乱用、無謀な運転、過食で、いずれも他己欠如の代償行為として理解できるものです。
 統合失調症では他己全体が縮退が起きますが、BPDの場合は、自己と他己の極端なバランスの崩れ、統合の不全が起きていると考えられます。自我−人格は、精神機能の最上部に位置しており、ある意味、精神全体を表す機能とも言え、特に社会的な場面においては、自我は自己、人格は他己の代表と言える面があります。
 BPDは、自我と人格に著しい障害と混乱と混乱を来し、そのために精神機能全体の適切な統制がとれなくなっているものと考えられるのです。Eは感情機能、FGは情動機能の障害と言え、同じく統制が失われた結果と言えるでしょう。BPD患者に関してよく言われることば、「わかってはいるけどやめられない」というのは、たとえ認知−言語機能のレベルで事態が理解できても、それを自我−人格機能が適切に導いたり抑えたりすることができない姿、と考えられます。
 また、Hに挙げられた解離性症状とは、一般によりなじみのある言葉で言えば、いわゆる多重人格に近いものです。自己と他己、すなわち自我と人格の統合不全は、精神構造上「縦割り」のバランスの崩れと言えます。一方、この解離性症状は、「横割り」の見方が当てはまるでしょう。すなわち、自我−人格機能とそれ以下の機能領域が分離してしまう
か、あるいは一時的にせよ自我−人格機能が失われてしまうのです。その結果、認知−言語以下の領域がコントロールもモニターも受けずに「暴走」すると考えられます。自分のしたことの記憶がない、行動の意識はあっても、「自分がしている」という認識がない、等の状態です。Bにある同一性障害も、同じような症状と考えられます。


 最後に、人格障害への対応ですが、人格障害には、まさしく心理学モデルで言うところの人格機能障害(と、その反映としての自我機能障害)が顕著に見られます。とすれば、治療や対応の中心は、自我−人格機能のリハビリテーションを行うことで、自己と他己の統合を促すことになると言えるでしょう。
 ここで注意しなければならないのは、自我−人格の働き(統合性、目的性、一貫性の3つがある)は、その性格上「能力」としては捉えられないということです。トレーニングによって回復したり伸びたりするようなものではありません。この機能領域の充実は、それ以下の領域の高まりを反映した結果なのです。そして,自我−人格と特に密接不可分な領域は情動−感情(こころ)ですから、このバランスを回復することでしか、おそらく治療の目的は達成し得ないと考えられます。
 人は、豊かなこころの持ち主とふれあったときにだけ、自分のこころを豊かにすることができます。となれば、治療者にまず求められるのは、自身のこころを豊かにし、人格を磨く不断の努力を続けることに他なりません。
 また、自我−人格機能には、患者のそれまでの人生経験がくまなく反映されています。従来の研究で、すでにおびただしい症例が報告されていますが、ほとんどの例において、悲惨な(そこまでではないにしても相当な問題をもった)家族歴の記述があります。家族の歴史をやり直すわけには行かず、また、かなりの程度形成されてしまった患者の人格に変容を迫るのは並大抵ではありません。当たり前すぎる意見かも知れませんが、人格障害への対処としては、予防に勝るものはないと考えられるのです。



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