民主主義
 民主主義は、世界の大多数の国と地域に共通した社会制度であり、その正当性はほとんど疑う余地がないように見えます。日本における、いわゆる「戦後民主主義」の弊害を指摘する声を聞くことは少なくありませんが、そのほとんどは、いまだ日本が「真の民主主義」に目覚めていないからであるという立場からの意見であり、民主主義そのものが内包する問題点に迫った議論は、これまでに行われることがなかったように見受けられます。
 自己・他己双対理論による民主主義論の要点を示しますと、次のようになります。民主主義は、基本的に「自己」を追求する制度であり、「他己」を欠いています。したがって、その社会で暮らす人々には、必然的に自己肥大と他己萎縮が進行し、伝統や規範性が失われて、社会は崩壊の危機に瀕するようになると考えられるのです。戦後の日本は、まさにこのことを実証しています。


 もう少し具体的に見ていきます。近代民主主義思想の成立に決定的な役割を果たしたのは、社会契約説を説いたホッブズロックルソーです。ここに共通する考え方は、「人間は、元来、自然権として、自己保存(生命・財産など)自由平等などの権利を有する」とするものです。ところが、これは、自己・他己双対理論において、「自己」への執着を離れた立場から見ると、まったくの誤りであると言えるのです。
 いくつか簡単な例をあげて説明しますと、まず、人間の誕生時のことがあります。人間が、元来自由であるならば、生まれてすぐに自由でなければなりません。しかし、世話をしてくれる他者の存在がなければ、自由どころか、ただちに死に至らなければならないのです。もちろんこれは成人してからも同じことで、他者のいない生活がどれほど不自由か、衣食住のことを考えてみても、容易に想像がつくことです。個人のレベルを離れても、日本が今のように安閑としていられるのは、海外の安い労働力が、この国を支えてくれているおかげです。自由は、人間に生来そなわっているものではないのです。
 平等も、この自由と大同小異です。つまり、人間は生まれながらにして不平等なのです。容貌、能力、親の経済状態・社会的地位・人格など、あらゆることが千差万別です。どこにも平等は存在していません。先ほどのように国のレベルで考えても、飢餓や紛争が恒常的であるところに生まれる人と、平和で豊かなところに生まれる人とでは、比較にならない差があります。この差は、当然、後々の人生に影響します。すると、そこでは、「結果の平等」は言うに及ばず、「機会の平等」すらが、最初から奪われていることになるのです。豊かな国の中で比べても、高所得層と低所得層との間には、現実的に、機会の平等はありません。


 実は、このような不平等を、平等たらしめる原理は、人間が持つ精神の働きとしての他者性(すなわち他己)の中にしか存在しないのです。すなわち、自己追求の制度である民主主義の原理の中には、真の平等はないということです。
 民主主義思想が、はじめから、他者や社会への配慮を欠いていたわけではありません。完全にそれが実現されていたのではありませんが、もし、そういう配慮がまったくなければ、ホッブズの言にあるように「人は人に対して狼」となり、「万人の万人に対する戦い」が出現して、社会はただちに混乱と崩壊の危機に突入したことと思います。
 民主主義確立者たちは、そのような混乱や闘争の事態を避けるために、人間が動物と違った「理性的な存在」であることを前提として、自分に都合の良い解決方法を考え出しました。それは、自分が自由、平等であろうとするなら、他人もそう思っているのだから、それが守られるよう互いに約束を取り交わしておけばよい、というものです。この約束の前提条件や内容には、前述の3人の間で多少ちがいますが、一般にはそれを「社会契約」と呼んでいるのです。しかし、社会契約では、自らの利益や権利を守り、拡大することを第一としますから、残念ながら他者性を欠いた、きわめて自己に閉じたものになってしまいます。


 ここで、他者性を回復ないしは取り戻すためにはどうしたらよいかということが、重要な問題となります。特に現代では、大国同士のエゴがぶつかり合ったり、過激な組織が武力やテロリズムによって勢力を拡大しようとしたりすることがしばしばです。その際、双方が異口同音に正義と民主主義を叫ぶことがあるのです。無数の核兵器や生物・化学兵器が存在するいま、民主主義の行き詰まりは、地球の滅亡に直結する危険性をはらんでいます。
 私たちは、人間の本質を捉え直すことから始めない限り、問題の核心に迫ることはできないと考えています。一般には、理性こそが人間の本質であり、理性に基づいて社会契約を結ぶ以上に、すぐれた方法や制度はあるはずがないと信じられていると思いますが、そこに落とし穴があると言えるのです。
 人間の精神には、民主主義が追求しようとしている「自己」だけがあるのではなく、他者のことを思う「他己」の働きもあります。自分の利益や権利のために、他者を利用したり尊重したりするだけなのではありません。また、理性は、人間精神の心理学モデルで言うと自我−人格機能と認知−言語機能を合わせた働きですが、人間はそれ以前、その基礎に、「人の心を感じるこころ」である感情機能を持っているのです。
 ホッブズ、ロック、ルソーの3人は、ともに人間の行動の原動力として、欲望を積極的に肯定しています。しかし人間を動かすものは、「自己」の情動をなす欲望だけではありません。それに拮抗した「他己」の感情(=人の心を感じるこころ)も働いているのです。あるいは、現代に社会においては、働くように努力しなければならないのです。そうしたこころを持つことが、人間の人間たるゆえんです。


 動物にはない、人間の精神独自の働きとして、この他には、時間を持つようになったことがあります。人間(精神)以外の動物(生命)や物(物質)にとっては、時間はただ物理的なものとして流れているだけです。すなわち、そこには過去も未来もなく、ただその時その時があるだけで、何らの意味もありません。ところが、人間では、精神としての存在に進化したときに自己と他己が分化して、自己の働きが「未来」を作り出し、他己の働きが「過去」を作り出すようになりました。そして、自己(未来)と他己(過去)の弁証法的統合が「現在」を生み出すようになったのです。これが、自己・他己双対理論に基づいた、新たな時間論です。
 時間の意味をもう少し具体的に述べますと、自己の働きとしての「未来」は、無意識の自己の働きである、自己の生命を維持発展させようとする自己保存の機能を基礎として、自己の情動(@欲望・A情緒・B気分)を、未来に向かって無限に追求し、自己の生きがいや幸福を求めようとします。それは、民主主義のことばで言えば、人間の合理的行動としての「利益」「選好」の追求です。
 しかし、人間には未来だけでなく、「過去」もあります。この過去とは、「これまで、人間(自分自身を含む)が為してきたことで、未来に向かって意味を持っているもの」、あるいは、「これまで、この宇宙で起こったことで、人間の未来に意味を持っているもの」です。さらに具体的には、前者としては、伝統・慣習・風習・規範・倫理・道徳・文化・法律・制度、などですし、後者としては地殻の変動や天変地異などです。
 こうなりますと、理性で他者に配慮するとは言え、その基礎にある感情を無視し、根本において自己のみを追求しようとする民主主義社会では、何が起こるのでしょうか。それは、過去に蓄積され、人間を支えてきた、伝統・慣習・風習・規範・倫理・道徳が消えていくという事態なのです。伝統などは、過去、すなわち他己の中の感情に、基礎を持つ働きだからです。なお、民主主義の進展に伴って伝統や慣習が失われることは、フランスのトクヴィルという政治学者が、1835年に発表した『アメリカの民主主義について』という著書において、すでに指摘しています。


 過去が意味を失うと、その社会では、あらゆることを法律(契約)で決めなければならなくなります。当然、法律はどんどん増えていきます。また、その制定に際しては、主権在民のルールから、多数決原理によって支配されます。それはつまり、多くの人が望めば、いつでも法律は改正される、すなわち朝令暮改が日常的になるということです。そして、伝統・慣習・規範の喪失は加速化し、ますます法律が量産されるという、いわば悪循環が生じます。民主主義社会の運営には、このようなメカニズムが働いているのです。
 多数決で決まれば、多くの人が賛成すれば、それが正義であり、善であるとされます。真理になるのです。ということは、相対的な価値観の世界に、正義や善や真理を求めることになります。しかし、自己にとらわれた相対な世界には、そのようなものは存在していません。
 また、他己の基本にある感情の働きを無視していますので、人の喜びや悲しみを自分自身が感じることに、意味を見出すことができません。自分の利益や選好に合致しない他者の気持ちには、無関心になるのです。合致したときにも、それを自分のために利用するだけです。すると、自分の気分を晴らしたり、満足を得たりするためには、平気で他者を無視し、暴力をふるって、痛みや悲しみを与えることができてしまいます。
 冒頭に述べた社会崩壊の危機は、こうした、民主主義の本質的欠陥から生み出されるのです。


日本社会の特異性
 さて、民主主義には、これまで述べてきたような限界・制約があるにもかかわらず、発祥の地である欧米では、すでに何百年も続いてきています。
 一方、日本では、本格的に民主主義が入ってきたのは、終戦後のことであり、まだ半世紀あまりの歳月しかたっていません。しかしながら、日本は、世界に先駆けて、さまざまな社会崩壊現象を抱えています。それは、政治・経済・教育・家庭・医療・福祉等々、ありとあらゆる分野に及んでおり、例を挙げだしたらきりがないほどです。
 なぜ、民主主義の歴史が比較的浅い日本で、世界に類を見ないほどの急速な社会崩壊が進行しているのでしょうか。
 結論から言いますと、それは宗教の喪失に原因があります。欧米ではキリスト教の教えが根強く息づいているため、日本のようなことが起こらないのです。
 世界の民主主義のリーダーであることを自他ともに認めるアメリカでは、いまでも多くの人がキリスト教を信じています。大統領の演説には、聖書の一節が引用されることがしばしばであり、最後は必ず神への感謝と祝福で締めくくられます。その様子はメディアによって国中に伝えられ、ほとんどの国民が、深い感動と信頼をもってその姿を受け止めます。また、1998年、アメリカのマスコミが、十代の若者を対象にしたアンケート調査で、「神の存在を信じるか」と尋ねたところ、9割を超える者が「イエス」と回答しています。どれも、日本ではまったく想像もつかないことばかりです。もちろん、アメリカと同様の光景は、イギリスでも、フランスでも、ドイツでも、ごく当たり前に見ることができます。
 民主主義制度を維持してきたのは、「社会契約」の思想でしたが、キリスト教はそれを超えて、人々に他己の働きをもたらしてきました。その結果、信仰と車の両輪をなす形で、民主主義(および資本主義)が発展してきたのです。


 日本社会の歴史は、欧米とはまったく事情が異なっていました。明治時代以前の思想史は、ここでは割愛しますが、明治政府が鎖国を解き、諸外国と交流を始めてみると、そこには驚くような近代文明の繁栄ぶりがありました。欧米人の精神的バックボーンになっているのが、キリスト教という、唯一絶対なる神への信仰だということを、明治政府の高官たちは痛感し、日本も同様の思想を持たなければ、とうてい列強に伍していくことはできないと考えました。そのために利用されたのが復古神道でした。キリスト教に習って、天皇を万世一系の現人神(あらひとがみ)とし、質素・勤勉などの点でキリスト教と共通性のある儒教を、倫理・道徳的な支えとしたのです。
 このような政策は国粋主義思想・ナショナリズムとなり、無謀な日中戦争・太平洋戦争の開戦を招いて、当然の帰結であった敗戦へと進みました。その後、進駐軍による占領政策の中で、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重を三原則とする新憲法が制定されましたが、日本にとって不幸なことに、そこでは、他己となる思想としての宗教が、徹底的に否定されました。こんなことは、先進諸国に類を見ない事態なのです。
 ここに至って、日本は神道も儒教も仏教も、長い歴史の中で人々を支えてきた思想という思想を、残らず失うことになったのです。その中で、唯一のこされた、思想と呼べそうなものは「民主主義」だけでした。
 欧米では、民主主義という自己の思想と、キリスト教という他己の思想が、車の両輪を構成していますが、日本は宗教を失い、民主主義という片輪だけで走る車になってしまったのです。進むべき先を正しく指向することが、まったくできません。目的地すらわからないのです。自己肥大と他己萎縮が進行するため、ますますコントロール不能に陥ります。これが現代日本の抱える根本的な問題です。


 近ごろは、もはや日本などどうなってもいいではないかという、投げやりな意見が聞かれることもあります。私たちには、世界に冠たる日本が、未来永劫世界の頂点に立って繁栄を続けることを願う、というような考えはまったくありません。しかし、日本社会がこのまま衰退し、崩壊し、外国の支配下に置かれるようなことになれば、それは、また新たな不幸がこの世に生み出されることに他ならないのです。支配される側が不幸ならば、支配する側も、めぐりめぐって不幸に陥るのです。わざわざそのような事態を招かなくとも、避けられるのであれば避ける努力をすべきだろうと思います。目先の利益や選好にとらわれてはならないのです。
 日本が、現在おちいっている窮地を脱するためには、他己となる信仰を取り戻す以外にはありません。
 宗教や信仰について述べると、すぐに「非科学的である」等の批判が聞こえてきます。しかし、そういうことを言う人こそが、実は世界のスタンダードからもっとも外れたところにいるのだという事実に、多くの人々が気付かなければならないときに来ていると思います。




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