ひびきのさと便り



No.1 分岐点に立つ世界 ('01.10.23.)

 念願のホームページ開設が成り、「ひびきのさと便り」の創刊号をお届けすることができます。ここに至るまでには、とくに、鳴門教育大学情報処理センターの助手の方に、メールでのアドバイス、研究室にご足労いただいての技術的なご指導など、ご多忙にもかかわらず、たいへんお世話になりました。この場を借りて、お礼申し上げます。

 人類の文明が、大きな岐路に立っているということは、もう何十年も前から、世界中でさまざまな人が言い続けてきました。しかし、分岐点が見えてはいても、そのやや手前で、進む先を考えたり相談したりする余地が、わずかながらあったように思います。ところが、2001年9月 11日を境に、世界の状況は一変した観があります。分かれ道の比喩にすれば、もうあと一歩、せいぜい二歩か三歩で、今後の地球がどうなっていくのかは決定される、私たちはそういうところに立っているのではないでしょうか。考慮の余地はほとんどなく、滅亡か否かの二者択一を突きつけられています。
 アメリカは早い段階から、「タリバン後」をにらみ、軍事行動終結後に、広汎なアジア地域に対してどのような影響力を行使しうるかを常に読みながら、作戦を展開しています。新聞などを見ますと、石油・天然ガスといった地下資源に関する利権が、きわめて重要な要素になっているようです。これに対して中国・ロシア等の思惑が絡み、事態はよりいっそうの複雑さを見せています。国際テロという犯罪に対しての、単なる対抗措置では済まなくなっているわけです。 このような、各国のしたたかな駆け引きに、日本政府はまったく付いていけないのが現状のようです。
 軍事的な協力ができないから存在感を示すことができないというわけではありません。先日、上海でAPECが閉幕しましたが、マレーシアのマハティール首相はこの席でアメリカに対し、「テロ行為の首謀者を明確にできないまま軍事行動に踏み切ったのでは、国際的な協調は得られない」と、真正面から正論をぶつけています。
 それに比べますと、日本は、「アメリカに最大限の支援を惜しまない」とくり返すばかりです。自衛隊機が現地に向かったりもしましたが、実際、どういう思想に基づいて、何をどのように行うのかについては、議論が紛糾するだけで、一向に具体的な進展はみられていません。これはつまるところ、日本が思想・哲学・宗教といった精神的支柱、英語で当てはまるところではprinciple(原理原則)、axiom(自明の理)を失ったあらわれに他ならないのです。人間としての屋台骨を欠いた上で、どのような対策を立てようとも、根本的な解決にはまったく至ることがありません。
 では、アメリカが真理にのっとって、正しい行いを為しているのかと言いますと、それもまた違います。具体的なことは今月号の「こころのとも」でくわしく考察しましたので、そちらをご参照くださればと思います。

 話は変わりますが、10月16〜18日の3日間、読売新聞で「紙上シンポジウム 新千年紀」という連載企画がありました。タイトルは「循環型社会の追求」で、松井孝典(東大教授)、山本一元(旭化成社長)、辰巳渚(マーケティングプランナー、ミリオンセラーになった『「捨てる!」技術』の著者)の3氏による討論でした。
 1回目の16日、3氏の発言のポイントが次のような見出しになっています。

「レンタル思想」こそ重要・松井/求められる「第二の釈迦」・山本/人間支えきれぬ地球の力・辰巳

 山本一元氏は、1回目の討論の最後で、次のように発言しています。

 今までのパターンと違う新しい人間圏が形成される時には、それを裏打ちする思想が必要とされるのではないでしょうか。紀元前五百年ごろ、世界に都市文明が現れてきた時代には、ソクラテスとか釈迦とかいった人物が出てきた。今こそ「第二の釈迦」の登場が求められているのかも知れませんね。

 山本氏がどのような真意をもってこう言ったのか、それはわかりません。釈尊、ソクラテス、そして老子とキリストを加えて4人の聖人を、私どもは「四聖」と呼んでおりますが、この人々が説くことは、ふつうの相対的な考えや判断を超えた、絶対の境地からの教えです。
 単に、地球環境問題に画期的な解決をもたらすとか、文化や経済で高いオリジナリティを発揮したとか、そういう相対的な価値観では、とてもはかり知ることのできないものなのです。頭で理解するものではなく、またできるものでもなく、すべての人々がおのれのはからいを捨てて仰ぎ見るべき、信仰の対象です。
 世界の中で、日本ほど信仰が失われた国は、他に例がありません。そういう状況にありながら「第二の釈迦の登場を求める」というのは、これだけを読む限り、分をわきまえないまったくの絵空事と思われても、仕方のないことだと言えるでしょう。
 日本が、世界がいま直面している危機は、「だれかが解決してくれる」ような、他人事では済まされません。われわれ一人ひとりが、一大意識改革の決意をもって、自らの問題として、主体的に取り組んでいかなければならないのです。その際によって立つべきなのが、個人や国の都合・欲・思惑・利益・好き嫌いなどを離れた、絶対的な教えです。そうできるためには、信仰がいるのです。
                                         


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