ひびきのさと便り



No.2 大学はどうあるべきか ('01.10.30.)

 少子化、景気の低迷、財政の悪化などにともなって、大学が冬の時代と言われています。その厳しさは、関係者の予想をはるかに上回っているようです。
 マスコミも、今後の大学のあり方に対して、高い関心を寄せています。つい先日、NHKの朝のニュースは、二日連続のシリーズで、大学改革を特集しましたし、読売新聞は、全国の大学の学長・副学長を対象に、大規模なアンケート調査を実施し、その結果を踏まえて今月23日より「大学」という大型連載企画を始めました。
 確かに、大学に関する危機意識は高まっています。しかし、そこには、いっこうに深まりが感じられません。多くの人が、目先の現象や利益だけにとらわれて、右往左往しているに過ぎないと言えるのです。
 多くの大学が、生き残りのために、あの手この手を模索し始めました。統廃合が不可避ならば、少しでもいい条件になるように根回しをする。社会人入試や、夜間大学院、高校生や一般市民を対象にした公開講座など、学生集めを盛んに行う。経営計画の見直しや、支出の引き締めを行う。こうした取り組みが無用とまでは言いません。しかし、あまりにも不十分です。大学改革の大半が、こんなレベルで進められるとしたら、それこそが大学の危機なのです。
 大学は、学問、研究の場です。ですから、端的に言うならば、大学改革の本質は、研究のレベルアップ以外にはあり得ません。この根幹部分にメスを入れないまま、枝葉末節をどれほど変えてみても、結局、大学が良くなることは期待できないと思います。そんなことは百も承知だと言われる人も多いでしょう。しかし、そのことばと、具体的な行動とがほとんどかみ合っていないのは、いったいどうしたことでしょうか。 
 国際的な観点から見たときに、日本の大学はまったく評価されていません。たとえば、
今年の4月、スイス・ローザンヌに本部を置くビジネススクール、国際経営開発研究所(IMD)が発表した、2001年の主要国経済の国際競争力ランキングの結果を、全国各紙はいっせいに報じました。その中に、「国際競争力の観点から見た大学教育の充実度」という項目があり、日本の大学の順位は、なんと調査対象49カ国のうち、最低の49位でした。シンガポール、香港、台湾といったアジア各国にも大差をつけられています。これでは、途上国からの留学生が、日本の大学にまったく見向きもしなくなる日が、そう遠いことではないでしょう。GDPの高さと、大学のレベルとは、まったく比例しないのです。
 また、これは日本経済新聞に載った記事ですが、最近、フランスの経営大学院INSEADがアジアに進出してきました。開校候補地として、当初は東京を含む11都市が挙げられ、有力地として絞り込まれたのはシンガポール・香港・クアラルンプール、結局選ばれたのはシンガポールでした。アルヌード・メイエール学長は「日本進出は眼中になかった」と語ったそうです。また、シンガポールは世界の一流大学十校を誘致する計画を推進中で、すでにINSEAD、米マサチューセッツ工科大学、シカゴ大学など6校の誘致を実現しているとのことです。日本の大学のお寒い現状と比較すると、何という差でしょうか。

 私は、いまから十年以上前、その年の授業を始めるに当たって、学生の、学問に対する態度があまりにもできていないことを痛感し、「大学・大学院学生心得十ヵ条」をしたためて配布しました。また、それから3年ほど後には、同窓会報に「これが大学院か」という文章を寄稿し、当時の大学のあり方に対して、かなり具体的に踏み込んだ苦言を呈しました。さらに今日までは長い年月がたちましたが、私の提言は意味が薄れるどころか、ますますその必要性が増大していると言わねばならない状態です。1999年には、これらを学術論文として整理し直し、「学道要諦 −教員養成系大学・大学院学生のための指針−」(鳴門教育大学研究紀要(教育科学編)第14巻,pp149-162)として発表しました。関心がおありの方には参照を請う次第です。
 今日の大学改革に、とくに関係が深いと思われるところを、少々長くなりますが引用します。

 ・・・大学・大学院で真に学問をしたいと思う学生は、かなり少ないのであるが、もっと悲しいことには、こうした事情が、なにも教育を受ける側の学生に限ったことではないということなのである。つまり、教育をする側の、教員の中にすら見られるということである。
 ・・・一体、教育とは何なのであろうか。教育基本法を持ち出すまでもなく、それが人格の完成を目指して行われるものであることは周知の通りである。なのに、現実は最高学府である大学あるいは大学院の教員においてすら、自らが人格の完成を目指している人間は、全くと言っていいほどいない。まして、それより下の高・中・小・幼の各学校の教師たちに於いておやである。
 だからこそ一層、「大学院は学問をする所である」と声を大きくして言いたいのである。 人が人格を完成させるためには、何が必要とされるであろうか。いろいろと考えられるが、その中の一つは自らに与えられた、あるいは選んだ仕事をひたすらに追求していくことである。・・・自己の限界まで突き進んだ時に、初めて人間は自分の力のなさ、無力さが自覚できる。そしてそれから逃れず、その事実の真っ直中に立つとき、人間として自分は何者なのか、自分の生きている意味は何なのかについて考える事ができるようになる。そしてそう考えることが出来だしたその時、やっと人は人格の完成を目指せる出発点に立つことが出来るのである。・・・
 世間はいま、大学の先生を含めて教師に期待しなくなってきている。教師を尊敬も信頼もしなくなってきている。それを回復する道は、ただひたすら教師が堕落を戒めて、自己完成に向かって精進していく以外にはない。
 苦しいけれど、お互いに頑張ろうではないか。


 小手先の改革案や延命策を弄しても、決して大学、ひいては日本の教育がよくなることはあり得ません。「人格の完成」という根幹に立ち返って、まったく新たな教育を構築することが、いまこそ求められています。すべての大学・教育関係者に、自覚と猛省を呼びかけたいと思います。 



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