ひびきのさと便り



No.3  人間の原理、動物の原理 ('01.11.13.)

 つい先日、タリバン政権と、北部同盟およびアメリカをはじめとする勢力との間でおこなわれている戦闘において、大きな動きがありました。テレビ等でご存じのように、これまでタリバンが抑えていた軍事的な拠点が、徐々に北部同盟によって陥落され始めているということです。しかしながら、この交戦が今後どのように推移していくのか、どこの国も予測に苦慮しているようです。
 「こころのとも」先月号の『タリバンは悪で米は善か』で論じましたように、どちらも「相対」の中にあって、一方が悪なら、他方もやはり悪であるというのが真実だと考えられます。でも、現実をそのようにとらえる論調にはほとんど出会いません。ブッシュ大統領は聖書をひもときつつ、「正義の名においてオサマ・ビンラディンを正当な裁きにかける」と演説しますし、ビンラディン氏はそれに対抗して、「聖戦」への参加をイスラム教徒に呼びかけます。
 各国のメディアによる報道も、やはり相対な、堂々めぐりの、もっと下世話な表現をすれば「目くそ鼻くそを笑う」といった中に落ち込んでいます。11月9日の読売新聞は、今回のテロと軍事行動に関する、世界の有力紙の論評をまとめて紹介していますが、たとえばその中で、エジプトの「アル・アハラム・ウィークリー」は次のように述べています。

 何よりも、9月11日の出来事は、世界における深刻な不公正について熟考する機会となるべきだとエジプトは確信している。こうした不公正の多くは米国の外交政策、特に中東政策によって、悪化したとは言わないまでも、恒久化したものだからだ。・・・問題は、米国が理解できない傲慢さを持って、国際世論と国際的価値観を無視する政策に固執し、欲求不満と憎悪を引き起こし、世界貿易センターとペンタゴンに対して爆発したような狂気を生み出していることである。

 他方、イギリスの「エコノミスト」は次のように主張するのです。

 深層において、また長期的視野において、世界はどう変わったのか。・・・加速したもの・・・それはブッシュ政権の成熟だ。おそらく年末までに、ブッシュ政権は自国の利益を最優先に置く一国主義的本能と、他の国々との協調の上で目的を達成する必要性との間に、ある種の均衡を見出しているだろう。

 アメリカは中東政策に関して厳しい見直しを迫られているはずですが、エジプトにはアメリカの「理解できない傲慢さ」が改まっていると見えない一方、イギリスにはそれが「成熟」「均衡」と映るのです。こういう食い違いを社会システムとして保証するのが、「ひびきのさと」で重要なテーマとして取り組んできている、民主主義なのです。


 民主主義は、ふたたび平たい表現をすれば、「あれもええなあ、これもええなあ、どっちもええなあ、どうでもええなあ」と言える思想です。自分の利益になること、好みに合うことが善であり、真であり、正義になります。自分が絶対的な基準になるのです。そして、この風潮が世界でいちばん進んでいるのが、他ならぬこの日本です。連日の報道を見ておりますと、その実例を挙げるのに事欠かないのですが、11月8日の読売新聞でも、次に紹介するような記事が目にとまりました。
 「文化」という欄に、東京大学助教授(科学技術論)である佐倉統(さくら・おさむ)氏が寄せたコラムです。見出しは次のようになっています。

「メディアの扇情的なコメント/是非論より熟慮の言葉を/社会問題、簡単に割り切れぬ」

 佐倉氏は、近ごろ「人気のある生物学的人間論」を、「科学的に正しい可能性は高い」と前置きした上で、「だが、人間の本性というのはそんなに単純なものではないはずだ」と述べています。そして、具体的には次のように説明します。

 昔から生物学的な人間本性論では、「人間は本能的に攻撃的だから戦争は不可避だ」という一派と、「人間の本能は平和を愛するものだ」という一派とが対立してきた。きっとどっちも正しいのだ。しかし、世の中に受け入れられるときは、性善説か性悪説かという二者択一の形になってしまう。何でもそうだ。構造改革か景気回復か? 遺伝子組み換え食品は安全か危険か? ゆとり教育は是か非か?……もう少し余裕をもって、白黒つけずに議論することも大事なのではないか。忙しい時代だからこそ、ゆったりと議論することも必要なのだと思う。ほとんどの問題は、そう簡単には割り切れないほど複雑きわまりないのだから。 

 佐倉氏の議論は、いろいろな角度からの批判が可能と思いますが、大きな問題点として、「人間は動物ほど単純ではない」としながらも、結局のところ、動物原理を超えた人間固有の原理を、何一つ示せてはいないことが指摘できるでしょう。佐倉氏によれば、「ほとんどの問題は複雑きわまりな」く、「二者択一の形」で「簡単には割り切れぬ」。それは「どっちも正しい」からだと言うのです。まさに、「あれもええなあ、これもええなあ、どっちもええなあ、どうでもええなあ」という思想に他なりません。
 二者択一では決められない、と言いながら、佐倉氏の意見にしたがっていけば、結局のところ二者択一しかあり得ないことが、最初から明らかです。「熟慮」には、時間稼ぎ程度の意味しかありません。
 その際、最後は何によって判断が下されるのでしょうか。「どっちも正しい」のが民主主義の大原則です。ですから、あとは、どちらが自分の得になるか、どちらが自分の好みに合うかという、「利益の極大化と選好」に基づいて「合理的」に決定するしかありません。「熟慮」は、自分の都合のためだけにあるのです。こうして、民主主義では、必然的に自己(エゴ)が肥大し、他己(他者性)が失われていきます。
 民主主義によって支えられている、現代のグローバリゼーション・市場主義・自由競争は、みな、動物の原理です。もう少し言えば、適者生存・弱肉強食のダーウィニズムです。そのことを無視して、あるいはその土俵の上でいくら議論をくり返しても、事態は良くならないばかりか、ますます悪化する危険性すらはらんでいると言えるのです。 



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