ひびきのさと便り



No.23 「組織」をどう考えるか    ('02.6.18.)

 朝日新聞に、「be on Saturday」という、2部からなる土曜版があります。「be」の「b」は「business」、「e」は「entertainment」の頭文字で、これがそれぞれ扱っている内容を表しています。
 ビジネスパートの1〜2面には、「フロントランナー」と題するインタビュー記事があり、毎週、朝日新聞の編集委員が各界の著名人に意見や提言を聞いています。6月15日に登場したのは、第27代東大総長である佐々木毅(ささきたけし)氏で、この方は本文で次のように紹介されています。

 英、仏、独語はもちろん、ラテン語、ギリシャ語の文献を読みこんで、プラトンやマキャベリの思想を論じる。米国の保守主義も解析する。政治思想研究の第一人者だ。総長就任後は、大学改革の想を練る。「絶えることのないクレーム」に対応する日々だ。

 さて、インタビューの内容ですが、見出しは以下のようになっています。

 エリートは育て、鍛え、作られる/「寄らば大樹」なんて求めるな/「東大生はバカに なったか」/リーダー劣化、組織に責任/「個人を生かす組織」とは

 昨今の政治(政府、国会、中央省庁、地方自治などあらゆる場面での)における混乱や、企業が次々に引き起こす不祥事、「底入れ宣言」は出たものの、ほとんどの人が回復には疑問と不安を抱いている景気の問題等々、そしてさらに、これらの根底に横たわっている、日本に顕著な人心の荒廃につきましては、これまで何度も「こころのとも」や、この「ひびきのさとだより」で取り上げてきました。
 こうした現状の中、「フロントランナー」では、佐々木氏へのインタビューの導入として、こう述べられています。

 3月の卒業式では、(佐々木氏が)こんな調子で「門出」を祝った。
 「『寄らば大樹の陰』とばかりに、ありもしない大樹を求めて空しく人生を送ることだけは考え直すべきだ」
 4月の入学式では、受験秀才を前に厳しい言葉を連ねた。
 「今日は、これまでの小競争から、これからの大競争への切り替えの記念すべき区切りの日だ」
 「大競争」に苦戦続きの日本。中央省庁や大企業の失態には、必ずと言っていいほど登場する東大出身者。東大は、低迷・日本の象徴のように見える。
 「エリートはなにか、うまみがあるように思われてきたのが間違いだ。エリートは、気楽なものではない」。碩学(せきがく)のリーダー論、エリート論は、東大再生、そして日本再生に生かされるだろうか。


 ちなみに「碩学」とは、辞書を引きますと次のようにあります。「学問が広く深いこと。そういう人。大学者」。
 では、「リーダー」や「エリート」について、佐々木氏はどのように考えているのでしょうか。

 −−−日本社会のリーダーの劣化と、東大生の質の低下とが関係しているように思えるのですが。
 佐々木氏  いま起きているリーダーの劣化は、組織の劣化とくっついている。東大を出れば大きな組織に入れる。その組織の中でやっているうちに、組織が劣化していく。結果としてその組織に残っているのは、東大卒業生が多い、ということではないか。ただ、・・・大学で身につけたものが意味を持つのはせいぜい2、3年。そのあとは、入った組織の行動規範で動いていくわけですから、リーダーの劣化の責任はやはり、長くいる組織にあるのでしょう。・・・
 −−−エリートについて、どう考えますか。
 佐々木氏  ・・・日本のエリートというのは非常に内部志向的で汎用(はんよう)性がない。だから、逆に、ある組織の中では評価が高い。政治家で言えば、派閥内で評価が高い人が総理大臣にまでなってしまう。

 
佐々木氏は、組織の劣化がリーダーの劣化の原因になっていると言います。それでは、その「組織の劣化」はなぜ起こるのでしょうか。その点については、次のように述べられています。

 佐々木氏  ・・・いまは組織よりも個人に期待しようという流れになっている。小泉さんなら何かやってくれる、カルロス・ゴーンさんなら日産を再生してくれる、という期待です。今の政治は、素晴らしい人が出てくればどうにかなるという期待ばかりが募る。まるで、王制のようだ。
 −−−組織よりも個人志向になっている、ということですか。
 佐々木氏  かつて、日本人は集団行動が得意だと言われた。それが完全に反転したのが、この10年間じゃないですか。「もたれ合い」「かばい合い」「横並び」とか、すべて悪い意味で使われている。・・・明らかに一種の社会的変化が起こっている。
 −−−どうして、こうなってきたのでしょうか。
 佐々木氏  
分かりやすさに一番プライオリティー(=priority  〈…より〉重要なこと、優先)を置くところから来ている。組織で、団体で、というのは基本的に分かりにくいわけ。1人の人間が「こうだ」というのが透明性が高い。15年前なら、分かりやすさよりも「結果がよければいいや」という世界でしたから。誰か1人を中心に政治を見るのが、たまたま一番わかりやすい話になる。一方で、80年代の貿易摩擦の時代と違って、いまの金融マーケットでは、機動性のある決定メカニズムを持たないといけない。組織で積み上げるより、トップダウンの方が機動性がある。そういう経済の事情に政治の話が重なってくる。政治家にも1人ひとり見ればすぐれた人材は多い。ところが、政治全体になるとどうしてこんな風になってしまうのか・・・。
 ・・・個人の能力には限界がある。1+1が2にとどまらずに、少なくとも2.1ぐらいになるというのが、組織の醍醐味(だいごみ)のはずです。個人と組織という問題について、もっと複眼的に考えなければならない時期に来ています。
(アンダーラインは中塚)

 お読みいただければわかりますように、いまの日本が「組織よりも個人志向になっている」ことについては言われていても、そもそもの問題であったはずの、組織が「劣化」する理由については、はっきりとは述べられていません。劣化するも何も、その組織そのものが消えつつあるという話に、途中から変わっています。
 また、経済や政治の場面で、分かりやすさが最優先にされるようになったという「一種の社会的変化」が起こったとも指摘されていますが、なぜそれが起こったのかという原因についても触れられていません。「どうしてこんな風になってしまうのか」という嘆きがあり、「個人と組織という問題について、もっと複眼的に考えなければならない」と提案されてインタビューは終わっています。個人と組織の問題を理解するための「複眼的」視点とは何なのか、どうすればそれが持てるのかといった、いちばん重要なことについては、何も示されていません。

 この記事全体からは、聞き手と話し手、それぞれの発言の意図が不明確で、さらにやりとりが噛み合わず、焦点の定まらないインタビューになってしまっている、という印象を受けます。「いま起きている混乱に対して、識者が、どんな解決策や方向性を示してくれるのだろう」と思って読みますと(そう期待する読者は多いのではないかと思いますが)、肩すかしを食らってしまうのです。現状についてはくわしく語られても、その原因についての考察はあやふやになり、さらに解決策になりますと、ほとんどお手上げ、という状態と言えます。これは、今回のインタビューに限らず、いま、どの新聞を読みましても、テレビを見ましても、そこで行われている議論には、この、同じ限界が露呈しています。
 もっとも、民主主義の社会では、こういう議論の方が歓迎される面があります。と言いますのは、すぐれた、従うべき特定の思想や意見などはない、というのが民主主義の原則だからです。犯罪行為はともかくとして、誰が何を言っても、何をしてもよく、そこに善悪や優劣はありません。乱暴に言うなら、ミソもクソも一緒です。できるだけ多くの人が得をし(利益)、できるだけ多くの人の好みにあう(選好)、そういう意見がもてはやされます。悪いもの、間違っているものであっても、世間の大多数の人が「いいじゃないか、それで」と言えば、善いもの、正しいものに変わり得るのです。「赤信号 みんなで渡ればこわくない」わけです。ですから、時と場合によっては、犯罪的な行いであっても、利益と選好に合致すれば、合理的なものとして認められ、評価されることもあり得ます。
 こういう状態では、東大の総長であろうが誰であろうが、意見や行動には、結局のところ大差がないことになります。「碩学」と称されるような人であっても、「わからない」と迷うのが当然で、みんなで考え合い、話し合って、いちばん賛成が多い方向に進んでいきましょう、ということになるのです。
 実は、これは、灯りを持たずに真っ暗闇を手探りで進む、たいへん危うい行為に等しいものです。しかし、現在、その危うさを指摘する声は、ほとんどあがりません。自分の判断こそが絶対で、客観的な灯りは信じませんし、そもそも自分以外に灯りがあるとは思わず、それを求めようともしません。世界でいちばんこの傾向が強いのが、この日本です。

 さて、このような民主主義社会の特徴は、佐々木氏がインタビュー中で「まるで、王制のようだ」と言った現代日本の状況と、一見すると矛盾するように映るかも知れません。しかし、これは必ずしも矛盾ではないのです。
 小泉首相やカルロス・ゴーン氏を例に挙げて、「いまは組織よりも個人に期待しようという流れになっている」と、佐々木氏は述べています。これですと、一種カリスマ的なリーダーを求め、その人の後に付き従っていくことを、多くの国民が熱望しているように思えなくもありません。今はたしかにそういう風潮があり、上記の2人以外にも、たとえば、プロ野球・阪神タイガースの監督に星野仙一氏が就任したとたん、同チームは昨年までの低迷がまるでウソのような快進撃を始めました。すると、マスコミがアンケートをとる「理想の上司」の最上位近くに、星野氏はいきなりランクインです。今シーズンのプロ野球は阪神を中心に回っているようなところがあり、さらにその台風の目は星野氏です。たしかに、一個人に対する期待は、過熱している面があります。
 しかし、ここで気をつけなければならないと思いますのは、人々が、祭り上げたリーダーを、心から信頼したり、尊敬したりしているわけではない、ということです。それは、小泉首相の場合を考えてみれば、きわめてわかりやすいと思います。
 「聖域なき構造改革」「構造改革なくして景気回復なし」「自民党抵抗勢力との戦い」、あるいは「痛みに耐えて、よく頑張った! 感動した!」等々、華々しく印象的なことばを唱え続けて、小泉内閣は政権を担ってきました。ところが発足から1年以上がたった現在、構造改革や景気回復はきわめて不十分であり、状況が前よりさらに悪くなった面も、少なくありません。
 小泉政権がスタートして以来、最重要課題に位置づけられていた景気回復は、まったく国民の期待通りに進みませんでした。しかし、まるでその現実と反比例するかのように、内閣支持率は低下するどころか、空前の高い数字を維持し続けました。政治家としての手腕や、実績などが正当に評価されていたとは言えないと思います。そして、その追い風は、田中真紀子氏の外相更迭や、鈴木宗男氏らをめぐる一連の騒動のあたりから、方向を変えはじめたようです。
 この支持率の低下は、最近の小泉首相が、国民の好み(=選好)に合わなくなってきたことを表していると言ってよい、と思います。国民が本心から景気回復を願い、その舵取りを小泉首相に託しているのであれば、曲がりなりにも景気が底入れしたと言われている今こそ、少しくらいは支持率が再浮上しなければつじつまが合いません。
 ほとんどの人々にとりましては、極端なようですが、日本がこの先にどうなろうが、景気が回復しようがしまいが、そんなことはどうでもよい問題になってしまっているのです。何となくかっこよさそうで、おもしろそうな首相なら支持しますし、飽きたらそっぽを向くだけです。首相や政府を支持することが、アイドルタレントやスポーツ選手、俳優やミュージシャンに熱狂するのとまったく同じになっています。「鮮度」が落ちてブームが去れば、また新しい対象に乗りかえるだけです。
 そこで「期待」されているのは、私の心理学理論のことばで言うなら、自己に閉じた「情動」の満足だけです。それはつまり、食欲(物欲や金銭欲を含む)・性欲(生命延長や子孫繁栄の欲求を含む)・優越欲などの「欲求」を満たすこと、快苦喜怒哀楽の「情緒」のうち、快・喜・楽を求め、苦・怒・哀を避けること、明るく浮かれた「気分」を味わうこと、などです。いま、この瞬間にそれらを満足させられるかどうかだけが、あらゆる判断や評価の基準になってしまっており、たとえば何十年後かを見越したときに、今の判断が適切かどうかや、人間の本来あるべき姿に照らしたとき、現在のあり方はどうなのかなどといった視点は、ほとんど欠落しているのです。
 こうした傾向は、若い世代の人々ほど強くもっており、以前にも紹介しましたように、日本の高校生は、その6割までもが、人生の目的を「たのしく、楽をして生きる」と考えていることが、アンケート調査の結果からわかっています。苦労してお金をかせいだり、社会的に認められる気などありません。そんなことにエネルギーを費やすより、お金も、地位も「そこそこ」でいいから、享楽的な生活を送れることの方がずっといいと思っているのです。同じ傾向は外国にも皆無ではありませんが、そういう空気がここまで蔓延しているのは、世界ひろしと言えども日本だけです。

 いま、日本に存在するように思われている「リーダー待望論」は、結局のところ、個々人が極端なほど自己に閉じ、その情動をうまく満たしてくれる、都合のいい対象を求めているに過ぎない(これが言い過ぎであるなら、そのような部分が大きい)と言えます。ですから、そこでは、リーダーとしての資質や能力などは、ほとんど問題ではありません。何より大事なのは、その「リーダー」が、自分の気に入るかどうか、つまり選好に合致するかどうか、ということです。こうなりますと、統率力、実行力、決断力などに優れた人物でも、ファッションセンスが悪いとか、無趣味だとかの理由で、リーダーとしての存在を否定されることにすらなりかねないのです。
 そもそも、リーダーと言いますのは、フォロワー(follower、 支持者・信奉者)あってこその存在です。すべての人が「われもわれも」と、リーダーになりたがるのでは、リーダーが生まれる余地などありません。しかし、ことにこの日本では、フォロワーの意義や大切さが、まったくかえりみられていないのです。学校ではもちろん、おそらく家庭でも、子どもたちは良きフォロワーになることなど教えられていないでしょう。フォロワーになど甘んじず、他人を蹴落として上に立つのが素晴らしいことだと叩き込まれる方が、はるかに多いと思います。
 民主主義自体が、こういう思想を本質にしています。そこでは、あらゆる「民」が「主」であって、だれもが同等対等、リーダーもなければフォロワーもなく、言い換えればみんなが偉いリーダーなのです。だれかの後に付き従っていくようでは、主体性のない、情けない人間と見なされます。

 民主主義の本家である欧米の場合は、いかに「民」が「主」であっても、それを超越した、絶対なる「神」が存在しています。とくにアメリカでは、いまでも国民生活のすみずみにまで、神が強い影響を及ぼしています。
 「職業」のことを英語で言う際に、「コーリング」(calling)ということばがあります。これは、call、「呼ぶ」ということばから来ており、つまり神の呼び声、宗教のことばで言うなら「召命」「神のお召し」ということです。英語圏、キリスト教圏の人々にとっては、職業は、神の思し召しによる「天職」なのです。リーダーはリーダーとして、フォロワーはフォロワーとして、あるいは、農夫は農夫、職人は職人、漁師は漁師、商人は商人、教師は教師として、それぞれの務めを神から呼びかけられたのであり、それを誠実に果たすことが、人間に課された「義」なのです。それを、人間の勝手な都合や思い込みで無視したり、放棄したりすることは許されません。欧米社会には、いまでもこのような絶対的規範が根強く残っています。
 ところが、日本には、このような、職業に関する倫理感や規範意識は、もはやまったく存在していません。江戸幕府が倒れて明治新政府が発足し、それまでの強固な身分制度・職業制度が崩壊しました。それを主導したのは、薩長土肥の、いわば下級武士たちで、このころから、日本人の、職業に対する考え方は現代につながるものに変わってきたと思われます。そして、昭和20年に敗戦を迎え、欧米型民主主義が直輸入されるに及んで、職業倫理や規範の喪失は決定的になりました。民主主義以外の思想をいっさいもたなくなったのが、現代日本の非常に大きな特徴ですが、このことは、リーダーとフォロワーの関係や、組織のあり方に根本的な影響を与えました。
 高度経済成長を経て、日本経済が世界を席巻した1980年代頃までは、日本的な会社組織の優位性が、日本人自身だけでなく、海外の企業家や研究者からも、大いに賞賛されました。そのころであっても、日本の企業戦士がもっていた忠誠心、愛社心は、欧米人が抱くcallingの思想とは、当然のことながらまったく違うものでした。
 ほとんどの日本人は、「鉄砲の撃ち合いや爆弾の落とし合いでは負けたけれども、今度は経済の戦争でアメリカやヨーロッパを見返してやる」という執念で一致団結し、一丸となって突っ走ってきたのです。ここでも、お金を稼いで、豊かな、快適な暮らしをしたい、あるいは欧米に優越したいという、自己(エゴ)に閉じた情動の満足が第一に目指されていた、と言えるのです。
 日本経済が絶好調だったころ、日本の大企業の振る舞いは世界のひんしゅくを買いました。アメリカにおいては、ハリウッドの映画会社や、大きなビルディング、タワーなどが日本企業に買収されたことが、現地の大きな反発を引き起こしました。それらはどれも、アメリカ人の心のよりどころ、誇りの象徴のようなものだったのです。それを、あたかも札束で頬を叩いて手に入れていくような日本のやり方は、アメリカ人にとって、断じて許せないものでした。これは、日本経済がどれほどエゴイスティックなものであったかを示す一例です。
このように、エゴイズムに突き動かされて、ひたすら経済復興に奔走してきた日本人は、その目的をほとんど達成しますと、それから先の目標を失ってしまいました。お金だけはたっぷりある「金満国家」になり、飽食暖衣して、することがなくなり、何かをする気も起きなくなったのです。自己、すなわちエゴだけが精神のすべてになり、人間の本質である「他己(他者を求め、他者に開かれた心。他者性)」を喪失した日本人は、満腹して寝転がったまま、鼻先をネズミが通っても反応しない、ぐうたらなネコのようになってしまったわけです。
 日本人がこうなるのと時期を同じくして、バブル経済が崩壊し、日本は長い長い不景気のトンネルに入り込みました。「失われた十年」を経ても、出口は見えてきません。しばらく前までは、日本経済の復調を期待していた諸外国も、だんだんその気を失ってきており、日本を、いまや世界の足を引っぱるお荷物だと見なしています。つい先日報道されたことですが、いま、日本の国債の格付けは、先進国中最低になったばかりか、新興市場国や途上国の一部にも抜かれるという、主要国では前例のない事態に直面しています。
 こうした現状からの脱却を叫ぶ声は高く、今回取り上げた佐々木氏のインタビューもその1つであるわけですが、意見や提言のにぎやかさとは裏腹に、具体的な明るさはいっこうに見えてきません。むしろ、日本をおおう暗さは、その色をますます濃くしています。

 なぜ、こうなってしまうのでしょうか。それは、先ほども触れましたように、日本人が世界に先がけて、精神構造の2本柱をなしている一方の「他己」を、喪失してしまったからです。
 多くの人が自己に閉じ、しかも自分が閉じこもっていることに気付いていません。そして、あらゆることを、自分の得になるか損になるか、自分の好みに合うか合わないか、という観点だけで判断しています。さらに、民主主義思想と、民主主義に基づく教育が、その傾向に拍車をかけています。損得、好き嫌いを最優先することこそが正しい、あるいはすばらしいのであり、それ以外の道徳や規範にしたがう必要はないのだと、子どもたちはみな教育されているのです。極端な言い方に聞こえるかも知れませんが、学校現場にはこうした考え方が根強く存在しています。各家庭での子育ても、そのほとんどが例外ではありません。
 こうした人々が集まっているところに、「組織」が成りたつ余地は、そもそもないのです。組織が成立し、維持されていくためには、人々が共通の目的意識をもっている必要があります。しかし、それぞれがエゴを主張し、それが当然のこと、よいこととされたのでは共通の意識などあり得ません。そこには、謙虚さ、ゆずり合い、許し合い、寛容、もっと進んで献身、自己犠牲などが伴わなくてはならないのです。これらは、精神の他己を形づくるものに他なりません。他己が回復されなければ、組織は成りたたないのです。
 冒頭に紹介しましたように、佐々木氏へのインタビューの見出しの中には、「個人を生かす組織」とは、とあります。残念ながら佐々木氏が、この問いに答えられているわけではありません。近ごろは、「自己責任」「自助自立」ということがさかんに言われ、このような考え方を重んじる「自立した」個人が集まれば、おのずと素晴らしい組織が出来上がる、という期待があります。新聞やテレビで、そのような発言にしばしば出会うのですが、それらはどれもまったくの詭弁であり、幻想です。他己によって保たれていくのが組織であるのに、その他己を枯れさせ、限りない自己肥大をもたらす民主主義の思想しかないのでは、あらゆる組織は崩壊し、消滅していくのです。それは、社会や国の崩壊へとつながっていく危険性をはらんでいます。現に、この日本では、世界でも類を見ないほど、その現象が進んでいるのです。
 佐々木氏は、インタビューの最後にご自分で提案している、個人と組織という問題を捉えるための「複眼的」な考え方について、それがどのような構造や内容をもつのか、どうすればそれがもてるのか、といったことは示していません。この佐々木氏の提案を、具体的に可能にするものこそが、私の言います、自己と他己の理論だと思います。これまでのような、自己の原理だけでは、人間の組織について語ることも考えることもできないのです。 
 言わずもがなのことですが、人間の組織は、アリやハチ、オオカミやハイエナ、チンパンジーやゴリラといった動物のそれとは、決定的に違います。動物の群れのボスを、人間社会のリーダーと同列に論じることはできません。人間の組織は、自己と他己という、二重性を帯びた精神によって担われているのです。他己の概念を抜きに、人間の組織を理解することはできず、当然、組織に関する理論も構築できません。

 他己の回復は、しようと思ってできることではありません。それが人間のやっかいなところです。「相手やみんなのことを考えて行動しよう」と、あたまで考えて、知識を詰め込み、技術を身につけるために練習しても、その通りにはできないのです。それは、人間が、他己のもう一方に、自分を優先し、主張しようとする、自己をもっているからです。 人間は、この自己と他己の間を揺れ動き、バランスをとりながら生きています。近現代は、民主主義の「おかげ」で、このバランスが崩れ、他己を失って自己だけで生きる人間が増えてしまいました。これは、人間の人間たるゆえんを失って、動物なみ、あるいは動物以下に成り下がった人が増えたことでもあります。
 他己を取り戻すのは、私が常に申し上げていますように、信仰を回復することによる他はありません。こう言いますと、たいていの人、とくに日本人ならば十人中ほぼ十人までが、強い拒絶反応を示します。リーダー論、組織論、社会論といった「科学的」な議論の土俵に、どうして「非科学的」な宗教が持ち込まれるのだというわけです。しかし、そう言う人ほど、宗教や信仰の問題を「非科学的」としか考えることのできない、強いとらわれ、執着の中にいるのだということに、自分自身でまったく気付いていません。自分こそが、「私は宗教を信じない」という「科学教」を盲信しているのに、です。
 信仰を取り戻すとは、なかなかことばでは簡単に申し上げられないことですが、相対的で、時間的で、有限な存在である人間を超越した絶対他者(神・仏)が、人間に力を及ぼしている、ということを信じ、自分のはからいを捨てて、その力に従順に生きていくということです。そうして、そういう態度を養うために、ヨーガやお祈り、読経などの精神的な修行をひたすらに行うことです。その修行によって、「心の垢」に覆い隠されていた無意識の他己が、本来の輝きを取り戻す可能性が、開けてくるのです。

 かつて、アメリカのケネディ大統領が演説で語ったことばに、「国に何をしてもらえるかではなく、国に何ができるかを考えるべきだ」というものがありました。いま、多くの日本人には、国や地域社会、会社、学校、隣近所や友だち、はては夫婦や家族に至るまで、それらの相手に何をしてもらえるのか、そこからどういう利益が得られるのか、という意識しかありません。勤めている会社が危ないかも、となりますと、多くの社員が、退職金をたくさんもらえるうちに早く辞めよう、と考えて、退職希望者が殺到します。また、やり手と言われる官僚やサラリーマンほど、税金や収益の上前をはねて、私腹を肥やすことがあります。「会社のため」「社会のため」と考え、それと「心中」を覚悟するようなことは、愚かな行為として笑いものにすらなるのです。
 さまざまなレベルで、人々は組織を利用し、自分の利益分をむしり取ることに一生懸命になっています。そうした人々の気持ちをうまくつかみ、それを利用して、上手に立ち回れるのがリーダーの条件になっているとも言えます。そういうことでは、組織が衰退していくのは必然です。組織の問題は、人間の心を根本的に捉え直さなければ、考えていくことはできません。



                NO.22へ       戻る       NO.24へ