ひびきのさと便り



No.24 「教育を守る」!?  ('02.6.27.)

 精神分析学を専門とする、岸田秀(きしだしゅう)・和光大学教授が、6月16日付の朝日新聞、「私の視点」欄に、「学校崩壊/守るべきは教育か教員か」と題する文章を寄せていました。
 以前、第12巻(平成13年)7月号の「こころのとも」でも、「家族は人間には適さない?!」と題した随筆において、岸田氏による別の発言について考察しています。ご関心のある方は参照していただきたいと思いますが、いまのところ、その号をホームページ上でご覧いただけるようにしておらず、また、氏の考え方を一貫して見直すことには意味があると思いますので、今回の記事の検討に入る前に、その「こころのとも」の随筆を振り返っておきたいと思います。
 そのときに取り上げましたのは、毎日新聞に掲載された、「家族幻想の崩壊で直面を強いられる『必要』と『束縛』の二律背反」という、岸田氏による記事です。そこで、私は、次のように書いています。

 (前略)この記事の出だしには、次のような記述があります。
「……人間の家族は本能に基づいたものではなく、人間が発明した制度であって、場所によってそれぞれ異なっており、また時代によって変化する。/人間以外の動物も、種によっては一時的に家族をつくったりするが、それは人間の家族と根本的に違い、本能に基づき、本能の目的(種族保存と個体保存)に適合している」
 驚きました。
 人間に本能があるかどうかの議論は、さて、置くとしても、動物の家族(群れ?)は、「種族・個体の保存」という本能的な目的に適合しているが、人間の家族は、「本能」に基づかないので、人間の(生きるという)目的には適合しない、ということのようですが、これは、まったく人間の本性(本能の代わりに使います)とは、何かがわかっていない議論だと思います。
 人間が生きる意味は、動物のように、単なる「種族・個体の保存」という本能的な目的の中にのみあるわけではありません。
 人間は、自らが生きようとする、つまり動物に即していいますと「種族・個体の保存の本能」の他に、「人の心を感じるこころ」、つまり、人の喜びを我が喜びとし、人の悲しみを我が悲しみとする「こころ」をもっているのです。私は、そのこころのことを「他己」と呼んでいますが、これは、動物にはない心です。人間が、動物から人間に進化したとき、獲得した(あるいは神・仏さまから頂いた)ものなのです。
 人間が、子どもに恵まれたとき、その子を愛情をもって育てることは、なにも「種族・個体の保存の本能」でやっているわけではありません。人間が人間のあかしとして、その子に愛情を掛けて、自分と同じような存在として育てているのです。
 中頃には、次のような文章があります。
「要するに、人間にとって、家族は、現実的保護のためにも精神的安定のためにも必要不可欠である。しかし、人間の家族は、動物の家族が動物に適しているようには人間に適してはおらず、不自然なつくりものであるから、あちこちに無理があり、ともすれば崩壊するのは避けがたい。人間にとって、家族は、束縛であり、圧迫である。かいつまんで言えば、家族は、なければ困るし、あれば邪魔になるという厄介な代物なのである。家族は、自我を支えると同時に自我を押し潰(つぶ)す」
 この文章を読みますと、この方は、私の言う「自己」しかないのではないかと思えてしまいます。
 自分が他者を支えていく、自分が生きていくと同じように他者を生かしていく、という考えは、全くないように思えます。日本人の大多数が、いま、このようになっているのだと思います。
 自分が他者を愛することは考えられません。他者が自分を愛してくれることばかりを考えているのです。「自我」を捨てて(自我没却)、他者のために愛を注ぐ(慈悲寛大)ことは、まったく頭に無い、ということです。

 やや長くなりましたが、岸田氏のよって立つところが、よく理解していただけるのではないかと思います。
 この随筆に書きましたように、岸田氏の意見やものの見方は、必ずしも特殊な、異端のものではなく、むしろ、現代日本人の考え方を代表するものであると言えます。多くの人にとっては、家族をはじめとする、あらゆる他者が、自分を支えさせ、自分に奉仕させるだけの対象になっているのです。他者とは、「なければ困るし、あれば邪魔になるという厄介な代物なので」、できるだけ邪魔にならず、かつ、そこから利益を引き出せるように、うまく利用する対象になっているわけです。
 さて、このような立場をとる人が言う教育論、学校論とは、果たしてどのようなものなのでしょうか。今回、朝日新聞に載った記事を見てまいります。
 書き出しは、以下に引用させていただきますように、教育そのものではなく、まず戦争の話から始まっています。これには、たいした意味はないのかも知れませんが、岸田氏は、教育とはつまるところ、他者と争って、打ち負かすことのできる人間を育てるものであり、その点で戦争に通じるものがあると考えているようにも思えます。

 戦争は固定した伝統的作戦思想に固執した側が負けるが、何事も同じで、固定した経営方針に執着する企業は倒産するし、正しい権威的な学説を固守する学者は死んだも同然である。

 同じ観点から見ると、岸田氏には学校や教育の現状がどう映るのでしょうか。

 日本の学校教育は小学校から大学まで今や崩壊に瀕(ひん)している・・・。
 わたしに言わせれば、現代日本の教育の崩壊の原因は意外と簡単である。それは、われわれが硬直した教育思想、固定観念に取り憑(つ)かれているからである。

 そして、次のように続きます。

 現代日本の教育の崩壊を招いている固定観念とは次のようなものである。
 1、みんな潜在的には平等な能力を持っているという観念。・・・できる子は分かり切ったことを教えられて授業がアホらしくなり、できない子は怠けていると責められ、授業がイヤになる。学級崩壊は不可避的結果である。
 2、誰にとっても勉強は苦痛であるが、がまんして勉強すればそのうち役に立つという観念。これも明らかに現実に反している。・・・好きで勉強したことは身につく。・・・がまんして勉強しても身につかないし、もし仮に身についたとしても、のちの人生において何の役にも立たないことが多い。
3、一定の正しい教育方法というものがあって、それを実施すれば、生徒の能力が伸び、個性が開発されるという観念。いくら探しても正しい教育方法のようなものはない。能力は、生徒が自分で伸ばすものであるし、個性なるものは、むしろ、画一的教育を強制する弾圧的教師とのせめぎ合いから生まれる。
4、有害なこともあるのに学校教育は長期であるほど無条件に本人のために有益であるという観念。
5、ある学校に通学し、卒業すれば一定の能力とか教養とか技術とかが身についているという観念。・・・
 まだ他にもあるが、これらの現実に反する固定観念に基づいている現代日本の教育が崩壊するのは当然である。 

 岸田氏はこのように断じた上で、次のような「解決策」を提示し、意見を締めくくっています。

 問題の解決は理論的には至極簡単である。これらの観念を捨てさえすればよい。教育を立ち直らせるにはそうするしかない。
 わたしは義務教育は読み書きの基礎ができる小学校4年まででいいし、とくに大学の卒業証書は廃止すべきであると考えている。
 しかしそうなれば、多くの学校が廃校になり、多くの教員が失職するであろう。教育を守るか、それとも学校を維持し教員の職を保証するかの二者択一の問題である。


 岸田氏の結論をもう少し極端に言い換えれば、「学校をなくせ、教育はするな」、あるいは、教育を守るためには、教育をやめるしかない、というものになるでしょう。なるほど、教育が無くなれば、教育にまつわる問題も同時に消滅するわけですから、これは、「理論的には」成り立ち得る話だと、岸田氏は言いたいのかも知れません。しかし、そんな無茶が通るものでしょうか。これでは、「病気にかからず、健康に悩まなくなるためには、死ぬのがいちばんだ」と言うのと同じで、問題を解決したことにはなりません。

 岸田氏の意見が根本的に問題であるのは、現在われわれが抱いているとしている「硬直した教育思想、固定観念」を捨てよと言ったその先に、では、どのような新しい教育思想をもつべきなのか、という、きわめて重要なことを何ひとつ示していないことです。
 「いまの方法ではダメだ。ぜんぶ捨ててやり変えろ」「わかりました。ではどのようにしたらいいでしょうか」「そんなことは知らん。とにかくやり方や考え方がダメなんだから、それを今すぐやめろ」「はい、しかしその後はどうしたら・・・」「知らんと言っているだろう!」
 たとえば社長が社員にこんな指示を出したら、あるいは監督やコーチが選手をこのように指導したとしたら、いったいどうなるでしょうか。大混乱が起こることは火を見るより明らかだと思います。「こんな指導者についていけるか」、と、逃げ出す人が続出するでしょう。これほどの無責任が通用するはずはありません。しかし、岸田氏の言っていることは、これとほとんど変わらないと思うのです。
 もっとも、岸田氏はこう書いています。

 いくら探しても正しい教育方法のようなものはない。

「正しい教育方法のようなもの」は決してないのだから、何をしてもよいのだ、ということです。すると、「何もしない」という方法すらがあり得るわけです。ですから、ここでは、「どうしたらよいのか」「何をするべきなのか」等などと問うこと自体が、ナンセンスだということになります。
 ただし、岸田氏自身は、上記のように言ったその数行あと、次のようにも書いています。

 わたしは義務教育は読み書きの基礎ができる小学校4年まででいいし、とくに大学の卒業証書は廃止すべきであると考えている。

 義務教育を小学校4年までにして読み書きの基礎だけを教え、また、大学の卒業証書を廃止するという2つのことだけは、少なくとも岸田氏にとっての「正しい教育方法」ということになるようです。正しいものなどない、と前もって断言した後に、こういう提案がなされるのは矛盾しているのではないでしょうか。
 しかし、そこは譲って、小学校4年までの義務教育と、大学における卒業証書の廃止について考えることにしましても、それでは、なぜそれらの方策が有効なのか、なぜ必要なのか、それらはどのような教育思想、もしくは理念や哲学に基づいているのか、こうした大切なことには、いっさい触れられていません。
 できる限り岸田氏に同情的な解釈をすれば、それらのことを書くには、割り当てられたスペースが足りなかったのだ、と言えるのかも知れません。しかし、議論のためには不可欠な、重要な内容が抜け落ちた主張に、果たしてどれほどの意味や説得力があるのか、という問題があります。短い文章しか書けないという制約があればあるほど、最重要なことから優先的に盛り込んでいかなければならないはずなのです。

 結局、岸田氏の教育観、あるいはもっと広く捉えて人間観が、新しい、あるべき教育の姿を示すことができないという、限界を含んでいるということになるのだと思います。
 従来の「硬直した教育思想、固定観念」を、捨てよう、捨てよう、とする努力は、実は岸田氏が言うまでもなく、これまでにも文部(科学)省が、さんざんやって来たことである、と言えます。
 いま、文部科学省が推進している「ゆとり路線」は、これまでの詰め込み教育が、子どもたちから「生きる力」を奪ってきた、という反省から生まれたものでした。しかし、新学習指導要領・学校週五日制が始まりもしないうちから「子どもたちの学力が低下する」という非難が相次ぎ、文科省の方針は早々と揺れ動いていました。その一例としては、子どもにゆとりを、と言ったその舌の根も乾かぬうちに、先生には宿題も出してもらいたい、と言わんばかりの発表をしたことなどがあります。こうしたことの影響を受けた学校現場の「被害」は、小さくなかったように想像されます。そして、似たような問題は、何もここ数年だけに限ったことではなく、そもそも現在の民主主義教育が始まった終戦直後から、長い間くり返されてきたことなのです。
 私は最近、次のような詩を作っています。

 右往左往
   文科省/総合学習/きもいりで/勧めはしたが/今となり/教科に使うも/やむなしとする  あっち行って/ちょんちょん/こっち来って/ちょん  ああ/なさけなや/なさけなや(こころのとも 第13巻〈平成14年〉4月号)

 振り返ってみれば、日本の教育史全体が、この右往左往の繰り返しになっています。それはつまり、いまの世界の大原則になっている民主主義そのものが、右往左往する社会を生み出しているのであり、しかもその状態を良しとする制度に他ならない、ということなのです。いつも言っていますように、その時々の、人々の利益と選好に合致するかどうかが、民主主義における価値判断のすべてになっているからです。そこでは大多数の人が賛成するかどうかだけが大切なのであり、本当の善悪や真偽、正邪は、まったくかえりみられることがありません。
 多くの人が、その場その場で問題を感じ、それを解決することを目指して「改革」をするのですが、その願いとは裏腹に、さまざまな方策をとればとるほど、事態はかえって悪化していきます。
 いまの学校教育で言えば、子どもたちからゆとりと生きる力が失われている、それを取り戻させるには体験が必要だ、そのためには総合学習だ、と言われて、教育全体が「総合、総合」で浮かれたようになりました。しかし、ちょっと試行してみて、これで子どもたちに本当の学力がつくのかという疑問が発生しますと、今度は総合学習の時間に、計算ドリルや漢字ドリルをするのもよいではないか、いや、それらこそをすべきではないか、と言われ出して、いちばんの売り文句であった「体験」が、看板から消されても不思議ではない、という状態になっているのです。これまでのところ、たしかに日本の教育はよくなった、という手ごたえを実感している人は、ほとんどいないのではないでしょうか。むしろ、学校にも家庭にも、いっそうの混乱がもたらされているように見受けられます。
 ゆとりとは、生きる力とはいったい何なのか、そういうものが本当に子どもたちにとって必要で、教育を通じて教えていかなければならないものなのか、こういう、いちばん大切な、つまり哲学や理念に根ざしたビジョンが、ほぼ完全に抜け落ちているのです。いちおう形の上では、そうしたものをまったく無視しているわけではありません。かつての「教育改革国民会議」でも、その報告書を見ますと、教育理念「的」なものについて議論が交わされてはいます。しかしながら、本当の哲学や理念といいますのは、みんなで話し合って出てくるようなものではないのです。
 十人いれば十人が、自由に(自分勝手に)言いたいことを言った上、どの意見にも、善いも悪いもないのならば、結論を出すために、最終的には損得と好き嫌いによって採決する他はありません。そういう手続きで出来上がったものなど、哲学とも理念とも、思想とも呼べないのです。あえて名づけるならば、単なる「合意」であって、多くの人の欲求に合わなくなれば、いつでも破棄されるものに過ぎません。こうなりますと、いわゆる「朝令暮改」が日常的になってしまいます。近ごろの文科省の動向など、まさしく朝令暮改の典型を見るようです。むろんそれが、政治全体、日本社会全体、世界全体に広がっている傾向であることは、言うまでもありません。
 こうした状態を仏教のことばにすれば、灯りを失って、無明の闇をさまよっている、ということになるのです。

 哲学や理念といいますのは、人間が生きていく上での、あるいは人間が人間であることについての原理原則である、と言えます。原理原則は、当然、普遍性を備えているものですから、1人ひとりの人間が好きなように考えて、それで良しとできるものではないことは、おのずと明らかです。岸田氏の意見をみるなら、「いくら探しても正しい教育方法のようなものはない」というのも「義務教育は小学校4年まででいい」「大学の卒業証書は廃止すべきだ」というのも、あくまで岸田氏個人の意見であり、どこにも普遍性はありません。
 もっとも、氏自身もそれは承知の上で、この意見がよいと思えば賛成すればいいし、いやならば反対すればいい、それこそが自由で平等な民主主義なのだ、ということなのかも知れません。
 いまの一般的な価値観からしますと、これはこれでいいようですが、しかし、結果的に教育を与えられる子どもはどうなるのでしょう。子どもにとっては、大人から与えられる教育の内容や環境が、絶対的とも言える影響力をもっているのです。現代日本のような、原理原則が失われた状況においては、大人が自分自身では好き勝手に選択をし、自分の利益と選好に基づいて行動するのに、子どもにはそれを許さず、大人の都合に従わせるということになりかねません。実際、こうしたことは今や日本中で起きており、それが虐待や家庭内・校内暴力、不登校、引きこもりなどの重大な原因になっていると考えられるのです。
 少々、話題が拡大してしまいましたが、原理原則を見失って右往左往している、という点においては、岸田氏の意見も、いまの教育が直面している限界を、残念なことに何ら越えられるものではない、ということなのです。

 なぜ、こうなってしまうのでしょうか。それは、私がいつも言っていますように、多くの日本人が、人間存在の根本であるところの「他己」を喪失してしまったからなのです。 教育の目的ということを考えてみますと、一般にも広く知られていますように、教育基本法の第1条には、「教育は人格の完成をめざし」と書いてあります。しかし、この「人格の完成」とは何かという、教育の根幹にかかわる大問題が、これまではきわめて不明確なままであった、と言えます。
 いま、教育に多く期待されていますのは、社会に有用な人材を養成することです。たとえば、先ほども少し触れました「教育改革国民会議」では、その第1回の会議において、当時の小渕首相は、冒頭の挨拶で次のように述べています。

 私は、我が国の明るい未来を切り拓き、同時に世界に貢献していくためには、創造性こそが大きな鍵であり、創造性の高い人材を育成することが、これからの教育の大きな目標でなければならないと考えております。 (平成12年3月27日)

 それでは、ここで言われていますような「創造性の高い人材」が、教育基本法で目指されている、完成した人格の持ち主と考えていいのでしょうか。今はたしかに、多くの人がそう思っている面があります。知能が高かったり、体力や運動能力、手先の器用さ、歌のうまさなど、いろいろな技能が優れていたり、新しいことが創造できたりすれば、それだけ人格もすばらしいものになっている、と考えている人は多いと思うのです。
 しかし、具体例を挙げるまでもなく、一流大学を出て、政治家になったり官僚になったり有名企業の社員になったり、裁判官、弁護士、医師、教師、警察官などになった人の、どれほど多くが、さまざまな悪事に手を染めて、新聞やテレビをにぎわせていることでしょうか。スポーツ選手(プロ、アマを問わず)や芸能人にしても、薬物乱用とか脱税などの話題には事欠きません。このような人々の大半は、いま期待されている「創造性の高い人材」に当たると言ってもいいでしょう。しかし、そのことと、完成した人格との間には、非常に大きな落差があるということなのです。
 私の「自己・他己双対理論」では、人格の完成、あるいは完成した人格というものは、次のように考えられます。
 私たち人間の精神は、自分自身を追求する内的な「自己」と、他者や外界を求め指向する「他己」という、2つの「モーメント」を持ち、両者は互いに矛盾する関係にあるために、哲学用語で言いますところの、弁証法的な運動と統合を、日々くり返しています。かんたんに言えば、自分を大切にしたり、自己主張したりする気持ちと、他者に心を開き、他者に配慮したり愛情を向けたりする気持ちとの間を揺れ動いて、バランスをとっているのです。
 2つのモーメントは運動と統合を繰り返していると言いますのは、人間というものが相対的で、とても不安定な存在である、ということです。たとえば毎日の生活の中で、人との心のふれ合いを実感できたり、反対に食い違いや対立を味わったりすることで、自分の気持ちがどれほど深く影響を受けることか、どなたにも思い当たるところがあると思います。それは、ほとんどの人が、いつでも精神のバランスを大きく崩す、綱渡りのような状態にある、ということなのです。
 この不安定さを脱し、精神のバランスを完全に保てるようになることが、人格の完成に至る、ということです。それは、精神をなす2つのモーメントである自己と他己が、完全に統合されることです。それが、仏教では「解脱に至った(悟りを開いた)」と言われ、キリスト教では「神の御国を実現した」と言われ、老子の哲学では「『道』を体得した」と言われ、ソクラテスの哲学では「無知の知を知った」と言われるのです。
 ちなみに、老子のことばに、「無為而無不為」というものがあり、これは「為すこと無くして為さざること無し」と読みます。現代語にしますと、「何もしないのに、しないということが無い」となります。この二重否定の表現を言い換えますと、「何もしないのに、すべてをした」となるのです。
 これはあくまでも心境(境地、悟りに達した人の「自内証」)を語ったものであり、現実の、具体的なことを指しているわけではありません。「道」を体得すると、何かをしたとかしないとか、何かを知ったとか知らないとか、そういういちいちの出来事に自分が振り回されたり、それによって自分を見失ったりすることがない、ということなのです。
 この「為す」、英語にすればdoという動詞になるところに、「知る」を入れますと、「無知而無不知」、「知ることなくして知らざること無し」、つまり、「知らないのに、すべてのことを知っている」となります。これが、ソクラテスのことばでは「無知の知」となるのです。
 いまの知識偏重教育では、できるだけたくさんのことを頭に詰め込むことが目指されます。試験も、知識の量をはかる目的で行われます。しかし、人間はどれほど努力しても、たった1冊の辞典の情報すら、完璧に覚えることはできません。それだけならいいのですが、少しでも余計に「ものを知った」と思いますと、おおかたの人は傲慢になり、自分より知識が少ない人を見下すようになってしまいます。また、自分より知識が多い人からは反対に見下されまいと、必死に自分を守ったりもします。知識に執らわれて、自分を見失ってしまうのです。こうしたことによって、どれほど人間は人格の完成から遠ざかってしまうことでしょうか。

 自己と他己が統合され、人格の完成に至りますと、自己への執着を捨て去り、あらゆる人とこころを開いて接することができるようになります。いまは「コミュニケーション」ということばが大はやりになっており、教育においてもたいへん重視されています。そこでは、一般的に、どれほど自分の考えを上手に話せるか(書けるか)、直接伝えられない場合には、インターネットや電子メールなどの「コミュニケーション・ツール」をどれくらいたくさん、たくみに操れるか、などといったことが重視される傾向にあるようです。 しかし、いま申し上げましたように、あらゆる人とこころを開いて接することができることこそが、コミュニケーションの極致なのであり、それは人格の完成に至ったとき、初めて可能になることであると言えます。

 自己と他己の統合が成る、人格の完成に至る、といいますのは、「そうしよう」と思い、頭で考えればできるものではありません。どれほどたくさんの書物を読み、人の話を聞き、思索にふけって勉強しようとも、そうした努力で達成できるものではないのです。むしろ、逆効果になる場合が多いのは、先ほども触れたとおりです。
 人格の完成は、これまでも折に触れて申し上げてきましたように、無意識に沈潜する、精神的修行を通してのみ可能なことなのです。もっとも、修行をすればだれでもが人格の完成に至れるかと言いますと、そういうわけにもいきません。これは、「向こうから」訪れてくるのであって、こちら側から、自分の思惑で好きなように行き着くことのできる境地ではないからです。ただ、そのような修行にひたすら打ち込むとき、たとえ人格の完成に至ることはできなくても、限りなくその境地に近づいていくことは可能になります。そうしますと、現実生活の中で、悪や間違いを犯さず、善を行うことができるようになるのです。
 しかし、このように、無意識に沈潜する修行、別のことばにすれば瞑想やお祈りなどは、現代日本の学校教育からは、徹底的に排除されています。それこそが教育本来の目的を可能にする、いちばん大切なことであるにもかかわらず、です。ただ、まったく可能性がないわけでもないと思います。たとえば、「黙とう」といいますのは、公立の学校でも、集会や授業などで、しばしば行われています。このように、特定の宗派によらない精神的な修養が、時たま思いついたようになされるだけではなく、教育課程の中に日常的に取り入れられていくことを期待したいと思います。

 また、私はかねてから、「教育」は「響育」でなければならないと言ってきました。人間は、善い人と触れ合ってのみ、善い人間になっていくことができます。この場合の「善い人」とは、ごく普通の意味で言われるような「いい人」を指しているのではありません。世の中に、いわゆる「いい人」は、それこそゴマンといます。しかし、そういう「いい人」も、その人の利害が絡んだ、その人自身が巻き込まれる事態に直面すると、多くの場合、自分自身を見失い、エゴに執らわれた行動をとってしまうのです。
 私がここで言います「善い人」とは、まさしく人格が完成した人を指しています。しかし、先ほども少し言いましたように、人格の完成に至るのは、欲すればだれにも可能というわけにはいかず、したがってそういう人に出会えるのは、非常に限られた出来事です。
また、ある人の人格が完成しているかどうかは、同じように人格が完成した人でなければ、うかがい知ることができません。この世の99.999…%の人々は、人格の完成に至っていないのですから、その人の目から見たのでは、出会った人が人格の完成者なのか、あるいは未完成者なのか、わからないのです。すると、自分と「ウマが合う」「ソリが合う」人には好意を向けますが、そうでない人のことは嫌ったり、遠ざけたりすることになります。ここでも、人間関係において、利益と選好が働くのです。
 このようになりますと、世間の大多数の人々にとっては、人格の完成ということがまったく無縁の出来事のように思われてしまうかも知れませんが、必ずしもそうではありません。
 人は、たとえ人格完成の境地に達してはいなくても、自分の執らわれに少なくとも気付いていて、その執らわれを離れようと、ひたすらに、ひたすらに、はからうことなく努力を続けているとき、他者に対して思いやりをもつことができ、他者にこころを開いていることができます。すると、自分の執らわれを通して他者を見なくてもよくなり、他者に自分の執らわれをを映し出さなくてもよくなります。相手の執らわれを執らわれとして認め、受け入れ、許すことができるようになります。
 そういう関わり方をしているとき、次第に相手は、その人が自分を理解してくれていると感じ、自分自身の執らわれに気付くことができるようになります。そして、その人を善い人と認め、その人のようになりたいと思い、その人が善しとすることを、自分も行いたいと思うようになるのです。
これが、こころの響き合い、響育の意味するところです。教師といいますのは、人の人格の完成を目指す、つまり、善い人を作り、育てることを役目とする職業です。自分自身が善い人になっていないのに、子どもを善い人にすることは不可能です。響育者たるものは、一生涯、自らの心を磨く修行を続けなければならないのです。これは、人格完成の境地に達した人、私は、釈尊、キリスト、老子、ソクラテスの4人を「四聖」と呼んでいますが、そうした人々の教えを信じ、その説くところに則って生きていくところから始まることです。

 岸田氏は、現在の教育崩壊を解決できるかどうかは、いまの教育を捨てるか、維持するかの、「二者択一の問題である」と断定しています。しかし、そんな単純と言いますか、もっとはっきり言えばお粗末なことで解決できるような状態に、いまの日本があるわけではないのです。
 事ここに及んで、岸田氏が言われるような意見が出てくることから、かえって日本が抱えている問題の根深さを再確認するような思いです。



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