ひびきのさと便り



No.25 不自由に甘んじる人がいるのか ('02.7.12.)

 全国規模の新聞は、毎月末、その月に発刊された総合雑誌(たとえば『世界』『文藝春秋』『中央公論』など)や、いわゆるオピニオン誌に載った評論の中から、おもだったものを紹介し、それに対して評者がコメントをする欄を設けています。
 6月は、精神科医の斎藤環(さいとうたまき)氏が、毎日新聞の「雑誌を読む」欄を担当していました。斎藤氏は「ひきこもり」の問題に対して活発に発言しており、著作も多いので、ご存じの方は大勢いらっしゃると思います。6月27日のその欄は、次のような見出しでした。

情報の自由と安全/「不自由」再評価も必要/弱者保護に国家の役割/どう制御するかが課題

 ちなみに、この6月の各誌の中から、斎藤氏が選んだ評論のタイトルと著者、掲載誌は、記事の一覧によりますと次のようになっています。

◆立法の精神が「官の監視」から「民の規制」へ(田島泰彦) =望星7月号
◆情報自由論−−−データの権力、暗号の倫理(東浩紀) =中央公論7月号
◆『諸君!』『赤旗』オピニオン 急接近の「なぜだ!?」(松原隆一郎・宮崎哲弥) =諸君!7月号
◆クリニック・クリティック ナショナリズムについて(千葉一幹) =文學界7月号


 取り上げられた評論と、斎藤氏によるコメントが対象にしている、最近の政治的、社会的な動きは、記事によりますと、次のようなものです。

 6月14日付の毎日新聞によれば、政府与党は13日、有事関連法案と個人情報保護法案を今国会中に成立させることを断念した。しかし、今後も継続審議を目指す方針は変わらず、小泉首相は依然として今国会中に個人情報保護法案を成立させる意向を改めて示しているという。

 こうした情勢について、斎藤氏は、自身が取り上げた評論の内容と絡めながら、まず次のように述べています。

 田島泰彦はこの法案(=個人情報保護法案)が提出された背景をコンパクトに整理し、それが実質的に民間規制法であることを指摘している。・・・田島は、この法律の存在自体が象徴的効果を持つことで過剰な自主規制ムードが高まることを懸念しつつ、権力ときちんと対峙(たいじ)せず、ときには迎合すらしてきたメディアの側をも批判する。
 田島が強調するように、もっとも規制のしわ寄せが及ぶのは一人一人の市民である。ここで個人情報をめぐる問題を、さしあたり「安全」と「自由」の対立と想定してみよう。たとえば東浩紀は、情報技術が個人に自由を与えると同時に、自由を奪うものでもあることを指摘する。携帯電話やインターネットの普及で、個人の情報伝達の自由度は大幅に広がったが、それは個人情報の漏洩(ろうえい)や新たなタイプの犯罪の増加にもつながり、情報技術はあるていど制限されるべきという形で合意が形成されつつある。・・・プライバシーを犠牲にして確保される「安全」のもとで、いかなる「自由」が可能となるか。東はそのように問いかける。
(アンダーラインは中塚)

 アンダーラインをほどこした部分にあります「安全」と「自由」との対置が、見出しの最初に掲げられていることからも分かりますように、斎藤氏の意見の中心になっています。「自由」とは何か、「安全」とは何か、斎藤氏はそれらをどのように考えているのか、こうしたことを念頭におきながら、もうしばらく引用を続けさせていただきます。

 こうした東の問題意識に深く通底する議論を、大澤真幸は「自由の過剰」として論じている(「〈絶対の否定〉への欲望」=季刊インターコミュニケーション41号)。大澤は小泉内閣の「聖域なき構造改革」とはオウムの「ハルマゲドン」あるいは「完全自殺マニュアル」にも通ずるような「絶対の否定」への欲望によって支持されたのではないかと推定する。ここで否定されているのは、現代における自由の過剰がもたらす閉塞(へいそく)感である。選択の自由は、個人を常に「私は何を欲するか」という問いと向きあわせるが、おそらくはその欲望の無根拠性こそが閉塞感をもたらすのだろう。それゆえ、ここでも素朴な「自由」は決して単純には肯定されていない。(アンダーラインは中塚)

 斎藤氏、および大澤氏によりますと、現代社会では、過剰な自由が絶対となっており、それが人々に閉塞感をもたらすと言われています。「何でもあり」の、自由きわまりない勝手気ままさが、なぜ閉塞感を生み出すのかと言いますと、「何でもあり」であるために、人々は「常に『私は何を欲するか』という問い」に直面させられており、その欲望は無根拠であるから、つまり、根拠のない欲望を、無制限に自分自身へと課さなければならないからだ、ということです。
 では、いったいなぜ人は、「欲望の無根拠性」に「閉塞感」を覚え、それに耐えることができなくなるのでしょうか。その原因を究明することは、斎藤氏が記事によって提起している問題の、根幹にかかわるきわめて重要な点だと思われます。しかし、残念ながらというべきか、ここでそのことは明らかにされていません。ただ、その閉塞感をうち破るために、多くの人がオウムを信じ、自殺マニュアルを読みふけり、小泉首相の構造改革を熱狂的に支持したのではないかという推定がなされているだけです。この点は、のちに考えてみたいと思います。
 さらに記事を見てまいります。

 宮崎哲弥は松原隆一郎との対談で、保守・反共論壇誌の筆頭格である雑誌『諸君!』と、共産党機関紙である『赤旗』の論調が、このところ急速に接近しつつあるという興味深い指摘をしている。そこで共通しているのは小泉改革批判、あるいは反アメリカン・グローバリズムの姿勢である。とりわけ後者における新自由主義、すなわち「自己決定」「自己責任」「自由競争」などの原理は、「国家」そのものを後景化する。『諸君!』と『赤旗』は、これに対抗して国家の積極的役割を認めるという点で一致をみる。なかでも共産党が最終的な理念として「国家の廃絶」を唱えているにもかかわらず、福祉や弱者保護の視点からナショナリズムを目指さざるを得なくなっているという指摘は重要である。(アンダーラインは中塚)

 アンダーラインをほどこしました「新自由主義」について、『広辞苑』を参照しておきたいと思います。

しん‐じゆうしゅぎ【新自由主義】
(neo‐liberalism) 国家による管理や裁量的政策を排し、できる限り市場の自由な調節に問題を委ねようとする経済思想。オイケン(W. Eucken1891〜1950)・ハイエク・フリードマンなどに代表される。


 この説明にありますように、新自由主義においては、「国家による管理や裁量的政策を排」することが目指されています。そこで、以下に引用させていただきますように、斎藤氏の意見も、ナショナリズムへと論点を移し、締めくくられています。

 千葉一幹による「ナショナリズム」を巡っての論議・・・は・・・次のように指摘する。・・・ナショナルなものを恐れることは、自身の中にあるナショナルな情動を「否認」し、「否定」することで、逆により悪性のナショナリズムを招来してしまうことにつながる可能性があるのだ。この指摘は、宮崎らの論議で指摘された、『赤旗』が「ナショナルな表象」を取り込まざるを得なくなる過程を連想させる。
 以上のナショナリズムをめぐる議論は、個人情報保護法案を論ずる際にも重要な意義を持つ。「自由」と「安全」の対立は、「グローバリズム」と「ナショナリズム」の対立に置き換えることができる。われわれは言論の自由について、その規制はことごとく悪であるという「否認」の発想に傾きすぎてはいないだろうか。法規制そのものはさしあたり論外としても、これを機会にわれわれは「情報はいかにコントロールされるべきか」について、徹底して論じておくべきではないだろうか。「不自由」の必要性を学習した上に、真の「自由」が成立するとすれば、この好機を逃すべきではないと思われる。
(アンダーラインは中塚)

 さて、上記引用部分の中頃、アンダーラインをほどこした箇所を読みます限り、斎藤氏は、「グローバリズム(自己決定・自己責任・自由競争)=自由=危険」、一方「ナショナリズム=不自由=安全」と捉えているようです。
 ちなみに、ナショナリズムの定義はどのようになっているのでしょうか。再び『広辞苑』で確認をしておきたいと思います。

ナショナリズム【nationalism】
民族国家の統一・独立・発展を推し進めることを強調する思想または運動。民族主義・国家主義・国民主義・国粋主義などと訳され、種々ニュアンスが異なる。


 「種々ニュアンスが異なる」とありますが、斎藤氏(もしくは千葉氏)が果たしてどのようなニュアンスでこの言葉を用いているのかは、いまひとつ判然としません。いちおう、「国家主義」「国粋主義」あたりが該当するのではないかと考えておこうと思います。
斎藤氏の意見を、全体的に眺め直してみますと、要するにここで言わんとされているのは、過剰な自由やグローバリズムの進展により、現代人はかえって閉塞感を高め、危険にさらされている(オウムに走ったり、小泉改革断行内閣に熱狂するのは、そのあらわれである)、ここで、ナショナリズムに期待できる「安全」について、それがたとえ不自由をもたらすものであっても、われわれは再考すべきなのではないだろうか、と、このようにまとめられるようです。
 それでは、現代人は、この問題について、何を、どう考え、どのように行動すべきであると提起しているのでしょうか。再掲になりますが、結論は次のようです。

 これを機会にわれわれは「情報はいかにコントロールされるべきか」について、徹底して論じておくべきではないだろうか。

 この直前には、「法規制そのものはさしあたり論外としても」とあります。斎藤氏は、ナショナリズムの意義を見直すべきではなかろうかというニュアンスを匂わせつつ、その一方で、「国家による管理や裁量的政策」は「さしあたり論外」と、斬って捨てているわけです。こう見ますと、斎藤氏は、ナショナリズム、あるいは国家に役割を期待することについて、「善いけれど悪い、悪いけれど善い」、あるいは、「好きだけど嫌い、嫌いだけど好き」という、両価的(アンビバレント)な思いをもっているように読み取れます。
 だからこそ、斎藤氏は「これを機会に・・・徹底して論じておくべきではないだろうか」と提案しているのでしょう。斎藤氏や、氏の提言に賛同する大勢の人々にとりましては、ナショナリズムに、善いも悪いもないわけです。これはもちろん、グローバリズムに対する考え方や態度にも共通して言えることだと思います。
 つまり、ある方針の採択について、国家による規制や強制はとりあえず「論外」だとした上で、みんなで「徹底的に論じ」合い、その後は、多数決という、もっとも「民主的」な手続きによって、何らかの結論が出されることになります。この段階では、言論の自由をどう考えるか、情報はいかにコントロールされるべきか、等の問題につきまして、グローバリズムや新自由主義に基づき、あくまで自己決定、自己責任、自由競争を良しとするのか、反対に、ナショナリズム的な立場から、国家による管理や統制にまかせるのか、結論はどちらにも転び得ますし、どちらに転んでもいいのです。いや、むしろ、どちらに転んでもいいようにしなければだめなのです。「何が、どう決まるか」は二の次、三の次であり、「みんなで話し合い、みんなで決めたことならば、何がどう決まってもいい」というのが、大原則になっているわけです。
 では、斎藤氏が提案するような、徹底的に論じ合うことに、どのような意味があるのでしょうか。そこでは、何が善いことなのか、何が正しいことなのか、ということより、こちらの立場に賛成する人を、どれだけ増やせるか、ということが、もっとも重要になります。すると、たとえ正しくても多くの人に煙たがられ、嫌われる意見より、間違っていてもみんなの気に入る意見の方が取り上げられるようになるのは、必然のことです。その結果、話し合いの前より、後の方がむしろ事態が悪くなっているということが、いくらでも起こり得ますし、たとえいったんは決まったことでも、人々の気が変われば、それにつれて方針が二転三転することも、日常茶飯事になる可能性が高くなります。これまで何度も指摘してきましたように、大多数の人の利益と選好だけに基づく、民主主義制度の欠陥が、ここに現れてくるのです。
 斎藤氏は、「徹底的に論じておくべきではないだろうか」と言うだけで、将来的なあるべき方向性も、望ましい姿も、いっさいして示していません。言っているのは、現在ただ今、論じておくことが必要だという、ただそれだけです。これはつまり、記事には書いてありませんが、とにかく議論が必要なのだ、ただし、その結果がどうなろうと、そんなのは知ったこっちゃない、私に聞くな、みんなに聞いてくれ、と言うのに等しいと思うのです。
 以前、ある高名な学者が講演のなかで、日本の現状をひとしきり憂えた際、聴衆から「では、われわれはいったいどうすればいいのでしょうか?」という質問が出ますと、その学者は「それは私にはわかりません。みなさんで話し合って、みなさんで決めることです」と答えていました。その講演にどんな意味があったのか、学者の存在する意義は何なのかなどと考えますと、笑い話として通用する回答だと思うのですが、現実がそうなっているのです。ここでの、斎藤氏のコメントも、その状態を一歩も出るのものではないわけです。
 
「情報を自由にしすぎるのは危険です。安全確保をしなければなりません」
「それは国家が法律で情報を統制すべきということですか?」
「いや、そんなのは論外ですね」
「はあ、それじゃどうすればいいのでしょう?」
「さあ、そんなこと私にわかりませんよ。あなた方で話し合って決めて下さい」
「えっ? 教えていただけないんですか」
「そりゃそうです。それが民主主義というものでしょう。人の考えに頼るなんてあなた、自立していないにもほどがある」
「(聞かなきゃよかった・・・)」

 斎藤氏には失礼かも知れませんが、事実、こうなっているのです。もちろん、これは斎藤氏だけのことではなく、先ほど例に挙げた高名な学者も同様ですし、つまるところ日本中、世界中が「同じ穴のムジナ」になってしまっている、と言えるのです。

 記事の最後は、先ほども引用しました、次の一文で終わっています。

「不自由」の必要性を学習した上に、真の「自由」が成立するとすれば、この好機を逃すべきではないと思われる。

 「不自由」とは何で、それがなぜ必要なのか、それを「学習」するとは、何を、どうすることなのか、そしてさらに、真の「自由」とはいったい何なのか、これらはたいへん難しく、それだけに、人間の生き方にとってきわめて重要なことがらだと思うのですが、その大切なことを、きつい言い方ながら、終わりにとってつけたように書くだけで、まるであとは頬かぶりして知らん顔、というような文章になっています。ここでも、斎藤氏のコメントがかなり無責任なものであることを指摘しなければならないと思います。
 現代社会の過剰な自由が、人々に閉塞感をもたらしている、と書いているのですから、今あるような「自由」は、「真の自由」ではないと言いたいらしい、という見当はつくのですが、大事なことには何もふれられていません。
 「自由」を『広辞苑』で引きますと、最初のところに、「心のままであること。思う通り。自在」とあります。これが、ごく普通に使われる意味での「自由」に当たっていると思います。
 自由は、当然、個人の自由です。したがいまして、人間の精神に、自分自身を追求する「自己」と、他者に開かれた「他己」という、2つの矛盾的なモーメントを想定している「自己・他己双対理論」では、自由は、自己の側に属します。自由ばかりを主張しすぎますと、誰も彼も自分のことだけを追求し、自分を最優先にしますので、その結果、人間同士の争いの世界、修羅場が待ち受けることになります。事実、現代は国際テロや紛争が頻発していますし、核兵器がいつ使われるかという危険も常にあり、自分の、自国の、自民族の自由の追求と、人類の滅亡とが、かなり近接していると言えます。
 しかし、人間は、自己のみで生きているのではありません。自己とバランスをとる、他己の側をもっているのです。この他己モーメントを、自由に対応させて、有名なフランス革命のスローガンにある言葉をあてはめますと、「友愛」になります。さらに、自己の自由と、他者への友愛とを統合して、同時に成りたたせるものが、スローガンにありますいまひとつの言葉、「平等」なのです。
 自己(=自由)と他己(友愛)とのバランスをとる(=平等)のが、人間の根本的な存在様式です。ですから、他者への友愛を欠いた自由は空しいものであり、人間としての自由と呼ぶには値しません。斎藤氏の言った「真の自由」を説明するなら、こういうことになると思います。
 また、斎藤氏は、「不自由」の必要性を学習することが大切だ、という主旨のことも述べていますものの、この「不自由」が何を指すのかも、まったく不明確です。あえて考えてみれば、なにがしか外的な統制を甘んじて受けること、ということになるのかも知れませんが、先ほども指摘しましたように、「法規制そのものはさしあたり論外」と断っていますので、意図がますますわかりにくくなっています。
 自己・他己双対理論に基づく「自由」の考え方において、「不自由」を理解するならば、それは、自己を抑えて他者をたてる、すなわち他己(=友愛)を発揮するということになります。「人間精神の心理学モデル」で言いますと、「人の心を感じるこころ」である「感情」と、人の道に従って生きていこうとする「人格」とが、豊かに働くことです。これはまた、中国の孔子のことばにある「仁」に当たります。
 斎藤氏は、「不自由」について、その必要性を学習せよ(させよ)と提案しています。しかし、いつも申し上げていますように、(斎藤氏の言う「不自由」を、他己であると理解するとして)この精神の働きは、学習、つまり本を読んだり人の話を聞いたりして知識を蓄えるようなことでは、身につかないのです。知識を得ることで、多少、動機づけが高まることはあり得ますが、知ったからといってその通りにできることはなく、最近はむしろ、知ることで、「どうすれば自分が不自由しなくてすむか」「どうすれば自分の自由が拡大し、より多くの利益を得られるか」と、(悪)知恵をめぐらす人の方が多くなっているように見受けられます。
 得をめざして損を避け、好き嫌いで判断・行動するという「合理性」が、現代の民主主義社会では善しとされているのですから、当然と言えば当然です。自分を抑えて他者をたて、他者の自由を尊重して自分は不自由に甘んじるということは、民主主義原理の中の、どこを探しても存在していないのです。斎藤氏の提案は、残念ながらまったくの画餅です。
 自己と他己、自由と友愛のバランスをとるためには、精神修養、修行が欠かせません。そして、その根底には、聖なるものへの信仰心がなければならないのです。
 相対的な存在である人間は、自分の欲望を満たし、または自己主張し、他者に優越すること、すなわち、いわゆる「自由」を拡大して、生きている意味を見出そうとすることが、しばしばです。そうしますと、自己と他己のバランスがどんどん崩れていって、他者は、自分を邪魔するもの、おびかやすものとしてしか、感じられなくなってしまいます。他己によって、他者に心を開き、他者定位することによって、安定して生きていけるのが、人間の人間たるゆえんなのですが、それができなくなるわけで、これはつまり、人間としての存在そのものが揺らぐ、危機的な状況なのです。斎藤氏が言った、過剰な自由がもたらす閉塞感という考え方を敷衍(ふえん)すると、こういうことになると思います。
 そうした閉塞感(=根源的な不安感)から逃れるために、人々はオウムに走ったり、小泉首相を熱狂的に支持したりするのだと、斎藤氏や大澤真幸氏は見ているようで、その指摘は不十分ながら、間違っているわけでもないと言えます。しかしながら、斎藤氏が最後の方で言っています、「『自由』と『安全』の対立は、『グローバリズム』と『ナショナリズム』の対立に置き換えることができる」という部分に関しましては、対立構図の設定があまりにも単純でありすぎる上に、検討内容も的はずれであると言わざるを得ません。
 自由、あるいは自己責任や自由競争には、リスクがつきもので、それが過剰になると、人々は閉塞感を抱き、危険な行動や弱者の切り捨てが起きかねない、だからそこでは、国家によって安全の回復がはかられる必要がある、斎藤氏による「自由」対「安全」、「グローバリズム」対「ナショナリズム」の構図は、このように説明できると思います。ついでに言えば、どちらがいいか、つまり、リスクを伴う自由と、管理統制による安全のどちらがいいかは、みんなで話し合って決めたらいい、というのが、斎藤氏の提案であるわけです。
 しかし、実は、この対立構図そのものが、成立するものではありません。グローバリズムの現場において、ナショナリズムが消滅しているかと言いますと、まったくそんなことはないわけです。現在は、どこの国も(とくに主要国は)、自国の国益最優先で、自由競争にしのぎを削っています。経済や政治、軍事の場面ではもちろんのこと、先日閉幕したサッカーのワールドカップでも、どれだけナショナリズムがあおり立てられていたことでしょうか。
 ナショナリズムはグローバリズムに対立するものであり、ナショナリズムは安全をもたらし得るという考え方は、まったく現実に反しています。ナショナリズムは、個々人によるエゴの主張が、国家のレベルに肥大し、まとまったものであって、自己責任、自由競争を是とするグローバリズムと、対立どころか、本質的に何ら異なるものではないわけです。どちらも、限りない自己肥大と他己萎縮という、共通の根をもっており、咲いた花の色や形が違って見えるというだけなのです。

 結局、斎藤氏も、現代の民主主義という、自己肥大、他己萎縮の制度と原理の中にあって、そのバイアスがかかった視点しかもち得ないために、コメントのあちらこちらで、限界が露呈してしまっているのです。「『不自由』再評価も必要」と、見出しの真ん中に大きく書かれていますが、その「不自由」とは、何の、どの程度の不自由を言っているのかがほとんどわからない上、個人の自由の制限を、原理にまったく含んでいない民主主義社会においては、不自由の再評価など、かえりみられないのが普通です。乱暴に言いますと、「うるせえな、何でオレが我慢しなきゃならねえんだ、そんな法律どこにある」(何しろ、「法規制そのものはさしあたり論外」と言われていますから)と開き直ったらおしまいなのです。

 斎藤氏が、現代社会の危機的な状況を憂えていることは事実だと思います。しかし、いまの民主主義制度の延長線上に、解決策はありません。民主主義を超えて、他己社会へと回帰していくこと以外に、本質的な解決の道はないのです。そして、そのためには、信仰の回復がどうしても必要なのです。



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