ひびきのさと便り



No.26 法意識はなぜ変わったか ('02.8.2.)

 7月26日付読売新聞の文化欄に、次のような見出しの、注目すべき内容を含む投稿記事が載りました。

日本人の法意識に世代差/倫理観伝える対話が欠如/本音隠さぬ若年層/注意しない高齢層

 執筆者は河合幹雄(かわい みきお)・桐蔭横浜大学助教授(専攻は法社会学)です。河合氏は、他の研究者と共に「法意識国際比較研究会」を組織しており、今回の記事は、その会が行った調査研究の結果を紹介して、それに関する河合氏の見解を述べたものです。冒頭、河合氏は次のように書いています。

 私達・・・は、1995年から2001年にかけて、中国、日本、米国の3か国において、法意識の国際比較をするべく全国調査を行った。三国間の法意識の差は予想以上に大きかった。その原因である社会的背景の違いを分析するなか、日本について興味深い発見があった。

 記事は、三国間の比較ではなく、日本人の法意識における「興味深い発見」に焦点が絞られています。では、その発見の中身は何なのでしょうか。続けて引用させていただきます。

 これまでの社会調査によれば、日本は、地域、収入の多寡、職業等どれをとっても意見の差が少なく・・・、そのため、一般には、しばしば「同質の単一民族」国家と見なされてきたくらいである。確かに、今回の調査でも、民族、宗教、地域の大きな多様性を抱える米国や中国と比較すれば、この傾向は確認できる。
 ところが、日本の内部において、年齢差が、かなりの意見の違いを生んでいることがわかった。
(アンダーラインは中塚、以下の引用においても同)


 河合氏は、「最も顕著な例をあげる」として、次のように説明します。

 自分の生き方として、「A型=ときには法を守らないが、上手に生きる」「B型=多少損をしながらも、法を守って生きる」のどちら寄りかを、程度差をつけて選択させたところ、最高齢層の65歳以上では、平均が明確にB型「法を守る」に寄るのに対して、最若年層の18から24歳では、A型「上手に生きる」寄りとなる。その間の年齢層では、若いほど「上手に生きる」を選択する傾向が強くなる。

 最初に、この記事について「注目すべき内容を含む」と書きました。それは、現代社会の様相や、それを支える民主主義制度について、私がつねづね申し上げてきたことを、河合氏らのデータが、見事なまでに裏付けていたからです。
 民主主義のもとでは、各個人が、できるだけ自分の利益を最大にすることを目指して行動します。つまり、損になることは避け、得になることを選んで行動するのです。自分は損をしても他人に得をさせるということは、民主主義の原理に含まれていません。もし、一時的にそう見える行動があったとしても、それは、その「投資」が、めぐりめぐって自分に返って来る(もちろん利息付きで)のを期待してのことであって、決して無償の行為ではありません。「損して得とれ」というわけです。あらゆる社会的行動が「取り引き」になっているのです。他人同士がそうなるのはまだ当然としても、いまや親子や夫婦の間ですら、ギブ・アンド・テイクの関係になっています。いや、ギブ・アンド・テイクなら、まだましかも知れません。いまでは、互いの人間関係が、自分は他者に何も与えないのに、他者から与えられることには貪欲になる、いわばテイク・アンド・テイクに陥っていることがめずらしくないのです。私の周囲でも、その実例を挙げるのに困らないほどです。
 民主主義は「自由と平等」を原則としていますが、それは、個々人が「自由」に、つまり好き勝手に、自分の生きる権利を追求できるという面において「平等」であるという解釈になっています。そうであれば、自分より他者の利益を優先させなければならない理由は、どこにも見当たらなくなるのです。しかし、そうした状態が放置されて、ホッブズが言ったように「人が人に対してオオカミ」になってしまいますと、かえって個人の生存は危うくなります。そこで、「社会契約」というルールを定め、危機を回避しようとするわけです。それが、歴史が下って来るにつれて、法律などとして整備されてきたのです。民主主義を理論的に支えてきた社会契約論は、もともと他者への愛情や思いやりなどを基盤にしたものではなく、動機はエゴイスティックなものだった、と言えるのです。

 また、民主主義のもとでは、みんなが自分の好み、好き嫌いによって物事を判断します。判断や評価、決定の基準は、自分だけにあり、それ以外のどこにもないというのが民主主義の大きな前提です。すると、その基準は、1つには自分の損得、もう1つは自分の好き嫌い(選好)でしかあり得ません。そこでは、「人間はどうあるべきか」「人生はいかに生きるべきか」等のことが、まったく問題にならなくなります。個人の選好以外のところで、あるべき理想を追求することなど、人々にとっては説得力をもたないのです。
 私はかつて、本ホームページの「ひびきのさとネットライブラリー」で公開している『愛を育む子育て』を、ある出版社に送り、出版を検討してもらったことがありました。お読みいただければわかりますように、そこには、親としてどのような気構えをもち、子どもに対してはどういう姿勢で接するべきか、という提言を、私自身の研究に基づく成果をふまえて、多く盛り込んであります。
 出版社からの返事では、そうした「べき」というかたちの書き方は、読者に好かれないということでした。つまり、そのような啓発的な内容に対しては、耳を傾ける人がほとんどいないわけなのです。人々の好みを余計にあおるようなものならば、大いにうけるのでしょうが、「こうすべき」「こうあるべき」という理念の提示や理想の追求は、世間一般の好みに迎合するのではなく、むしろそれらを批判的にとらえ、正していくものです。多くの読者が、甘さよりも苦さを感じるのは、ある意味で当然のことです。そして、いまや、書物にそのような苦さを求める人など、皆無に等しいということなのです。ご存じのように、この不況の世にあって、出版業界はとくに厳しい状況に見舞われています。リスクの高い本を手がける余裕があるところはありません。「べき」という論調を含んでいたことが理由のすべてではなかったのですが、結局、出版は見送らざるを得なくなりました。
 話をもとに戻しまして、現代の民主主義社会では、判断基準はすなわち好き嫌いということです。欧米人が、日本の捕鯨を批判するのも、結局は「あの賢くてかわいいクジラをとって食うような日本人は気持ち悪くて嫌いだ」という、好き嫌いに集約されるのです。最初は筋の通らない好き嫌いであっても、それがたくさん寄り集まれば、みんなが好きなものが善で、みんなが嫌いなものは悪、ということになります。民主主義における数の力とは、そういうものなのです。

さて、記事にあります、「A型=ときには法を守らないが、上手に生きる」と「B型=多少損をしながらも、法を守って生きる」の、2つのタイプですが、民主主義社会においては、B型の人が減ってA型の人が増えるのは、必然的な結果です。損をしたり、好みに合わなかったりしたら、もはや、法を守らなければならない理由はどこにもないからです。また、若い世代になるほどA型の人が増える傾向にあるといいますのは、民主主義がどんどん社会に浸透し、人々の精神を変化させるまでに影響力を強めていることを、如実に示しています。民主主義社会に生まれ育った親が、民主主義的な子育てや教育をして、さらに「進んだ」民主主義的思考や行動を身につけた子どもを、拡大再生産している、ということです。
 また、記事には次のようにも書かれています。

 「どちらともいえない」という中立の回答があるにもかかわらず、「上手に生きるとする若年層」と「損しても法を守る高齢層」に分かれてしまっている。これは、実に大きな差があることを意味する。
 また、
「上手に生きる」度合いを折れ線グラフにすれば、きれいな直線的傾斜で若いほど高くなる。

 現代の民主主義的な考えの中にどっぷりと浸かっている限り、「上手に生きる」ことを的確に批判できる視点に立つことはできません。記事からしますと、法の遵守より、上手に生きることを優先させている若年層の存在を、河合氏が問題に思っているらしいことは感じられるのですが、今回の結果が現代社会の中でどのような意味をもっているのか、それこそわれわれはこれからどのように生きていくべきなのか、法とその遵守という問題をどう考えていったらいいのかという、もっとも重要な点については、ほとんど触れられていません。
 上手に生きるために、ときには法を守らないことがあっても、実際多くの人がよく口にしますように、「人に迷惑をかけなきゃいいんだろう」と言ってしまえばおしまい、というのが、いまの社会のあり方です。法を破った結果、民事事件や刑事事件になったとしても、賠償金を払えばいいんだろう、刑務所に入りゃいいんだろうということで、迷惑をかけたとか人を傷つけたとかいうことが、完全に吹き飛んでしまうのも、決してめずらしい出来事ではありません。たとえ加害者になっても、いくらでも開き直ることができるのです。
 こうした現代的状況に、実際的なメスを入れられるものでなければ、せっかくの大規模な社会調査も、ほとんど意味がないものになってしまいます。ただ、先ほども申しましたように、今回示されたデータは、これまでの私の考え方を強く支持してくれるものであり、その点ではたいへんありがたいものでした。ことばを換えますと、自己・他己双対理論の有効性と普遍性を示すデータが、新たに1つ加わった、ということなのです。

 人間は、自分を優先し、追求しようとする「自己」のみをもっているのではありません。精神の、もう一方の柱として、他者に心を開き、他者を求めて愛そうとする「他己」をもっているのです。哲学的な言い方では、私はこのことを「精神の弁証法的二重性」と呼んでいます。精神が二重性を帯びていること、自己から分化した他己をもつようになったことが、人間の人間たるあかしなのです。ですから、他己が枯れてしまった人は、人間性を失って、動物並み(あるいは動物以下)になってしまった人だと言えます。どれほど知識があり、権力があり、社会的名声があっても、そうなのです。
 7月号の「こころのとも」の、「釈尊のことば」にも書いたことですが、人間には、自己と他己それぞれにおける、人生の基本命題(目標)があります。そして、人間が真の幸せに達するためには、その2つの基本命題を自覚すると共に、それらを実現しようとし、同時に、その2つを統合すべく精進しなければならないのです。2つの基本命題とは、おのおの次のようです。

自己の側の基本命題(目標)
 人間は自分自身を知ることを目指して、より善く生きようとする存在である。
他己の側の基本命題(目標)
 人間は法を目指して、より善く社会的であろうとする存在である。

 お読みいただければお分かりのように、今回、問題の中心になっています「法」は、人間精神の他己に属することがらです。ただ、基本命題での「法」は、単に「法律」を指すだけではありません。法律を含み、さらに慣習や風習、義務や規範や秩序、善や徳などなど、非常に広く、深い意味を指しています。そして私は最終的に、法とは「絶対他者の自覚」に達することと考えています。これは、無意識における自己と他己の統合が成ることです。ことばではこれだけの表現ですが、毎日、一生にわたって続ける、心を磨く修行の果てにある境地であることは、つねづね申し上げているとおりですし、修行をすれば必ず到達できるかと言いますと、必ずしもそうではないことも、これまで折に触れて書いてきました。
 人間は、心を磨いて、自己と他己を統合できたとき初めて、法を体得できます。その境地に達していない人でも、注意していれば、刑法に触れるような危険性は、ある程度なら減らせるでしょう。しかし、人間として為すべき善や徳などは、しようと思うだけでできることではありません。だれでも、自覚のないまま、日常的に無数の悪を犯してしまっているのです。反対に、自己と他己の統合が成れば、特別に意識しなくとも、日ごろの行いすべてが善となるのです。弘法大師空海は、師匠の恵果を称えて「行住坐臥が法にかなう」と言われましたが、まさに、立ち居振る舞いのすみずみに至るまで、あらゆることが善である、ということです。
 法律を守り、従おうとするのは、精神の他己によるのであり、これは、他己を育てようとする親や教師からの働きかけですとか、心を磨こうと修行に励む、本人の積極的な努力がなければ、枯れてしまうものです。民主主義が進行し、それを信奉する人々があふれている今の世の中で、遵法精神や規範意識が失われていくのは、当然と言えば当然のことなのです。

 河合氏自身は、調査の結果をどのように解釈しているのでしょうか。再び引用をさせていただきます。
 
 ・・・70年前後の学生運動は意識を変える節目にはなっていないことが読み取れる。節目がないことに注目すれば、マクロ社会の制度変更ではなく、ミクロな社会関係の変化に原因がありそうである。
 この大きな世代差は、意識の違いを埋める対話が世代間に欠如していることと関係があると思う。例えば、後輩に威張りちらす先輩は、最近ようやく減ってきているようだが、下の者の面倒を見る良い先輩も同時に消滅傾向にある。一方、それに代わるコミュニケーション方法はまだない。これが、意見の大差を維持する方に働いているとみる。


 ここでは、高齢層と若年層とで、法意識に差が出た原因が、世代間において対話が欠如しているためだと考えています。言語によるコミュニケーションが失われたために、倫理観が伝えられず、世代が下がるほど法を守ろうとする意識が薄くなっていくという解釈です。
 しかしながら、本当に世代間の対話が欠如しているのかどうかは、実証されていないようです。もっとも、それ以前に、河合氏の解釈には重大な欠陥があると言えます。前の引用部分をもう一度思い出していただきたいと思います。それは、次のような指摘です。

 「上手に生きる」度合いを折れ線グラフにすれば、きれいな直線的傾斜で若いほど高くなる。

 A型=「上手に生きる」が、若年層になるほど、直線的傾斜をもって増加していく、ということです。もし、記事にありますように、対話の欠如が原因でA型が増えたのであれば、その増え方はきれいな直線的傾斜にはならず、世代間の断絶を反映して、段階的なかたちになるはずです。
 世代間や親子間の断絶、コミュニケーションの欠如、人間関係の希薄化などなど、これまでもよく言われてきたことに原因が求められているのですが、それでは、実態が的確に理解できません。つまり、河合氏の解釈は、従来の社会観の延長上にある、いわば常識的なものであって、特別にまずいものであるとは言えないわけです。しかし、そうしたものの見方では、かつてなかったような今回の現象を理解することができないのです。
 私はこれまで、何年にもわたって、自己・他己双対理論に基づき、現代日本に見られるさまざまな社会の崩壊現象を、精神における自己と他己のアンバランス(とくに自己肥大と他己萎縮)という、一貫した視点からとらえ、論文や「こころのとも」などでそのことを指摘してきました。そして、そのアンバランスからの回復を目指さない限り、多くの問題の根本的な解決はあり得ないことを主張し続けてきました。
 行き過ぎた民主主義が蔓延し、人々が自己(の利益と選好)のみで行動するようになり、他己が失われたために、法や規範が無視され、ないがしろにされています。それはつまり、「こういうときには、人はこう動くものだ」「こういう状態になったら、次はこうなるはずだ」など、人間関係や社会に関する法則性が失われ、予測がきわめて困難になったことを意味するわけです。
 ですから、人類はいま、予測困難な世界情勢を、それでもなお見通すことのできる、まったく新しいパラダイム(思考の枠組み)を必要としています。私は、自己・他己双対理論が、その基礎を提供するものであることを、確信しています。

 対話が欠如していることが、法意識の変化の理由ではありません。事実はむしろ逆で、世代間の対話が存在しているからこそ、「きれいな直線的傾斜で若いほど」、法を無視し、破っても、うまく生きることを優先する人が増えているのです。
 人間同士の対話、コミュニケーションは、言葉によるものがすべてではありません。ごくたまにしか会わないとか、相手が外国人であるとかの場合でしたら、言葉に頼らなければコミュニケーションは難しくなります。しかし、四六時中顔を合わせ、生活を共にしている、とくに親子、家族では、いちいち言葉にしなくても、互いの気持ちが自然に、勝手に伝わっていきます。情動が伝染していくのです。人間には、人の心を感じるこころがあるからです。そこでは、必ずしも言葉が必要ではありません。
 子どもにとって、親の影響は絶大です。意識的にしつけようとしなくても、子どもはおやが善いと思うことを善いこととし、親が悪いと思うことを悪いとして身につけていきます。子どもの人間性は、親の人間性そのもの、子どもの生き方は、親の生き方そのものなのです。
 ですから、親が、頭のてっぺんから足の先まで民主主義に染まっていれば、その子どももそっくりそのままになるか、多くの場合は親以上にその傾向を強めるのが当然です。親が、自分の利益を最大化するように行動し、選好によってものごとを判断していれば、子どもも、その行動様式、思考様式を勝手に身につけていくのです。
 法を守るより、上手に生きることを優先する親が子育てをすれば、その子どもは親と同じように育ちます。そして、その子が親になったとき、また同じことがくり返されます。こうして、「きれいな直線的傾斜」が現れるのです。人間同士では、共に生活することのすべてが「対話」になっているのです。
 民主主義が行き過ぎてしまうことにより、法律は無視され、破られ、規範意識は低下し、倫理は失われ、あらゆる「法」が廃れていきます。そして、社会は崩壊へと、坂道を転げ落ちていくのです。そして、民主主義自体の中には、その危機を回避し、克服する原理はありません。
 仮に、「みんなで法を守るために、世代間の対話を復活させよう」という声が上がったとしても、「人の心を感じるこころ」を欠いた、むなしい言葉のやりとりをどれほど重ねたところで、まったく効果は期待できませんし、場合によってはそんなことはしない方がまし、ということも考えられます。そのような、わざとらしい、付け焼き刃の対策では、どうにもならないところまで来てしまっているのです。

 今回の調査結果に対して、河合氏が示す結論は、次のようなものです。

 ・・・もう一歩踏み込んで解釈すれば、単純に「若者の道徳が失われた」とか「意識が変わった」というより、人前で言ってはならない本音を彼らは平気で語るようになり、それをたしなめる者がいなくなったから、と見ることもできる。根底では意識の違いはないかもしれないのである。しかしながら、「上手に生きればいいさ」と口にしているうちに、それが自分の意識だと若者達は思い込むようになっている、そんな状況ではないか。
 だとすれば、いま大切なことは、マクロな道徳教育ではなく、ミクロな関係で、上から下へ、倫理観などを伝えることができるようになることだと考える。


 この「踏み込んだ解釈」によりますと、高齢者層も、実は「法なんて守らなくてもいい」という、「人前で言ってはならない本音」を抱いているのであり、それを口にするかどうかだけが、若年層との違いに過ぎない、ということです。これは、「踏み込んだ解釈」というよりも、データから逸脱した想像になってしまっているように思えます。したがいまして、「いま大切なこと」として最後に示される方策も、的はずれなものになってしまうのは、やむを得ないと言いますか、当然のことです。
 ここで提案されている、「ミクロな関係で、上から下へ、倫理観などを伝えることができるようになること」というのが、具体的には何を指すのか、正確なところは明らかではありませんが、記事から判断しますと、親子間や家族間、あるいはせいぜい広がっても教師と生徒、あるいは職場の上司と部下などとの個人的な関係において、積極的に「対話」を復活させ、法を守ることや、倫理に従うことなどの大切さを、年長者が年少者に言葉で教え、伝えていくこと、と考えられます。
 これを読みますと、かつて、いまから4年ほど前のことですが、中央教育審議会が、文部大臣の諮問に答えて、「心の教育」というものを提唱したときの、その内容を思い出します。その際、中教審の報告書に、「いまの子どもたちは何がいいことで、何が悪いことかの判断ができなくなっている。家庭で、親が子どもに、悪いことは悪いと、しっかりしつけることが大切だ」、と、およそこのようなことを述べた箇所がありました。
 「悪いことは悪い」としつけられなくなっているから、その当時のような(同じ状況はもちろん続いており、おそらくさらに悪化していますが)事態になっているのに、どうしてそうなったのかという根本的な原因や、具体的に何をなすべきかという有効な対策がわからないまま、「しつけがなくなったからしつけましょう」と言うのでは、対症療法にもなりません。医者が、病気の患者を前にして、「病気になるからいけないんです。かからないようにしなさい」と、お説教をするようなものです。それで症状が治まるのでしたら、医者などいりません。
 この記事の提案も、これと同じなのです。高齢層が、若年層に、法や倫理の大切さを話さなくなったから、もっと話すようにしましょう、と言うわけです。日本において、法意識が明らかに変化しており、その変化は(記事にはありませんが、おそらく)中国やアメリカには見られない、すなわち、世界に類を見ないものであるわけです。そして、なぜ日本において、そういうことが特異的に起きているのかという、肝心の分析は、「世代間に対話がないから」という、データをほとんど考慮に入れていない、きつい言い方ですが、きわめてお粗末なものです。さらに、その解釈が誤っていることがほぼ疑えないのは、先ほど検討したとおりです。対話が欠如しているからではなく、対話があるからこそ、それはつまり、子どもが親の鏡になっているからこそ、日本では若者の多くが、法を軽んじるようになっているのです。
 子どもに無関心な親が増えていることは事実です。しかし、基本的に無関心であっても、
親自身のエゴにかかわること、たとえば学校の成績がいいとか、友だちには負けていないとか、運動や音楽の才能に優れているとか、そういうことについてだけは、異常とも言える関心を示す親が多いのです。子どもを、自分のエゴ満足のための道具、ペットにしているのです。そして、そういう場面においては子どもにベタベタと関わり、「対話」を深めているわけです。子どもは、そういう親の姿をなぞりながら成長していくのです。
 百歩、いや、百万歩ゆずって、世代間の対話がないと仮定しても、「対話がないから対話するようにしましょう」と言ってみて、果たしてどんな効果があるのでしょうか。そんなことはいくら言ってみても、むなしいだけです。
 さらに、高齢者とて、「根底では意識の違いはないのかもしれないのであ」り、つまり若者と同じように、本音では法を守る気などさらさら無く、ただ年だけはとってずる賢くなっているので、本心は明かさず、いかにも法を守っているように見せかけているだけ、という可能性すらが、記事には触れられているのです。そうしたら、そういう高齢者が、いったい何を若者に語りかけるというのでしょうか。「思ったことを何でも口にすればいいというもんじゃないんだよ。もっと私みたいに上手にやらなくちゃあ」と、教えるのでしょうか。それでは、法が廃れていくのに拍車をかけることになります。

 遵法精神や規範意識が失われてきたのは、「対話」の欠如によるのではありません。いまの社会状況を見渡しても、「対話」がなくなっていることを示す根拠は、ほとんど見当たりません。携帯電話、インターネット、電子メールなど、一昔前までは考えられなかった便利な機器を使って、老若男女を問わず、多くの人が「対話」にいそしんでいます。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアも、「対話」の場を提供しています。交通機関が発達していますから、誰と会うのにもたいした苦労はありませんし、家の中にいるだけで、世界中の、不特定多数の人とリアルタイムで交信することすら可能になっています。しかし、それと反比例するように、法意識が変化しつつあるのです。
 いまから半世紀ほど前の、太平洋戦争前後の方が、いまとは比べものにならないほど、
「対話」は欠如していたと言えます。庶民が社会的な場で発言することが不可能だったことはもちろん、親子間、夫婦間においても、「対話」などほとんど存在していなかったことは、当時に生まれ育った人でなくても容易に想像できます。しかし、法を守り、規範に従う精神は、社会に徹底していました。そのことが、とうてい勝ち目のない戦争を継続させる原動力になってしまったのですが、人々の他己を保つ働きが存在していたことは事実です。
 反対に、現代ほど、自由な対話が社会にあふれ返っている時代は、これまでの歴史においても例がないと言えるでしょう。そして、それと共に、日本は社会崩壊への道を進んでいるのです。
 法を無視し、ないがしろにさえする人が急増しているのは、対話の有無では説明がつきません。反対に、むしろ社会にあふれている対話が、人々の自己を肥大させ、他己を萎縮さていることが原因であると言えます。
 おそらく河合氏も危惧されていることとは思いますが、このままの状態が進行すれば、すでに世界でいちばん社会崩壊が深刻な日本の状況が、よりいっそう悪化することは明らかです。

 以前、ある用事で警察署に出向いたとき、担当の警官の方といろいろな話になり、その流れで、「それにしても、日本人の規範意識の低下には、はなはだしいものがあるように思いますねえ。仕事をされていて、そうお感じになるのではありませんか」と、つねづね感じていることを申し上げました。すると、相手の方も、我が意を得たりというばかりに身を乗り出してきて、「そうです、そうです。まさにその通りですよ」とおっしゃり、肝心の用件はすっかり中断して、そちらの話になってしまいました。
 その方の話だと、犯罪が起こって犯人が特定できても、すぐには逮捕しない、といいますか、できないそうなのです。なぜかと言いますと、「あのですねえ、つかまえても、入れるところがないんですよ」とおっしゃるのです。
 留置場が、常にどこも満杯で、「行き先」の決まった人が抜けて空き室ができなければ、取調中に収容するところがない、ということのようです。ですから、逮捕は、留置場の都合と合わせてスケジュールを組み、その順にしたがって、計画的に、という、ほとんど笑い話のようなことが、実際に行われているのです。テレビドラマのように、腕利きの刑事がジャンジャン犯人を捕まえてしまったら、たちまち留置場はパンクです。せっかく署に連行したら、「申し訳ございません。あいにく本日は満室となっております」と、事務担当の警官に断られ、上司からは「勝手なことしやがって」と叱られて、いまさら逃がすわけにも行かず、自宅に連れ帰ったら家族に何と言われるかわからないので、仕方なくビジネスホテルに同宿。刑事さんの心意気に感激して、犯人も改心、更生を誓う、という筋書きだったら結構だと思いますが。
 また、これも驚くような話ですが、刑務所を空けるために、仮出所させることもやむを得ない状態に至っていると聞きます。
 世界一の犯罪大国、と言えば、アメリカが思い浮かぶことが多いと思いますが、実態は、日本もそれほど違わなくなっているのではないでしょうか。むしろ、日本の方が危険な国だという認識が、一般化しつつあるかも知れません。たった数十年ほど前までは、「水と安全はタダの国」と評されていたことを考えますと、天と地ほどの変わりようです。何しろ、警察の犯罪検挙率は、いまでは2割台に低下しています。5人の犯罪者がいたら、そのうち捕まるのは1人だけで、後の4人はまんまと逃げおおせるわけです。
 さらに、逮捕、起訴された場合でも、確定する刑の軽いことでは、日本はまた世界に類を見ません。殺人であっても、わずか数年の懲役刑で済むことはめずらしくなく、刑罰がほとんど犯罪の抑止力になっていないと言えます。毎日ニュースを見ておりますと、よくこれほど次から次へと、いろいろな犯罪が、途切れることなく起きるものだとあきれてしまいますが、いろいろな条件を考えてみますと、それも当然なのかと思えてきます。
 こうした情勢に加えて、若者の遵法精神が、どんどん失われつつあるわけです。法律をばか正直に守るなど、間抜けな人間のすることで、うまく立ち回って利益を上げ、好きなように人生を送ることこそ、自己責任、自由競争の現代にふさわしいと考える人が、これからはますます多数派を形成していきます。法律違反で捕まる可能性は低くなっていますし、万が一つかまっても、たいした刑を受けるわけではないのです。「ハイリスク・ハイリターン」を目指すべきだ、と考える人が増えていくのです。
 現代の民主主義は、こうした風潮にブレーキをかけるどころか、ますます助長させ、加速させるものです。民主主義以外に信じるものをもたない日本人が、世界一、遵法精神や規範性を失っていて、それがデータで裏付けられたという事実には、きわめて重いものがあると思います。

 この、日本の現状を克服するためには、「対話を復活させましょう」というようなかけ声ではとうてい無理なのです。
 現代人がとるべき、根本的な解決の道は、行き過ぎた民主主義がもたらした弊害に気づき、方向転換の必要性を自覚することです。それは、いつも申し上げていることですが、人間の力を超えたものを信じる、信仰の回復をはかること以外には不可能なのです。



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