ひびきのさと便り



No.27  W杯の評論を考える  ('02.8.16.)

 サッカー・ワールドカップの閉幕から1か月以上がたち、このところはさすがに、かつての熱気や余波が薄らいできました。6月の、ある試合のあった晩など、NHKでニュースを見ようとテレビをつけたら、ふだんはニュースをやっているその時間が、ちょうど前半の終了間際で、それどころではない様子です。しばらく待ってハーフタイムになり、アナウンサーが登場して「ここで8分間、ニュースをお伝えします」と言ったので、やれやれと思っていたら、何とそれが、ほとんど、その日に日本および韓国の各会場で行われた試合のハイライトを伝える内容で、結局、生中継の試合に、おまけの映像がついたようなものでした。
 1か月におよんだ、世界をあげてのお祭り騒ぎを通して、日本人の観客が、応援や観戦の場面において、どのような振る舞いを見せたか、ということが、けっこう話題になりました。また、その振る舞いが、海外の人にはどのように映ったのかという点も、新聞などが多く取り上げていました。
 少々古くなりますが、6月25日付の朝日新聞は、次のような見出しの記事を掲載しています。

日本人の印象一新/W杯 世界の記者が素顔紹介

 海外メディアが、日本人の思考や行動、国民性(あるいはその変化)などをどのように伝えたかという部分を引用させていただきますと、以下のようです。

英国 他国への声援驚き/偏見砕く熱狂ぶり 
 「韓国が決勝トーナメントに進出したら誇りに思う、と語るスポーツライターが大勢いる。ライバルに敬意を払う昔気質が生きているようだ」とサンデー・テレグラフ紙。オブザーバー紙は「W杯で素晴らしかったこと」の一つとして、「日本人ファンがイングランドのシャツを着ていたこと」と書いた。
 大阪の道頓堀川に次々に飛びこむファンの熱狂は、「シャイで無表情」という日本人への偏見をもうち砕いたようだ。サンデー・ミラー紙は「ロンドンやリバプールのファンの熱狂ぶりにも引けを取らない」。
 日本経済が低迷から抜け出せない中で、W杯が日本人としての誇りを自覚できる貴重な機会になったとの分析も。タイムズ紙は「戦後60年、自国の名前を連呼することすらはばかられてきた国民がサッカーでやっと声を与えられた」と書いた。
 封印されてきた愛国心の高揚が、戦前の国家主義回帰につながるのか。
 オブザーバーは「そんな心配はない」と一蹴した。「・・・年功序列よりも実力主義、古い民族意識よりもグローバル文化、感情の抑制よりも発露を重視する、日本人の価値観の変化を『トルシエ・ニッポン』は象徴している」と分析する。

メキシコ 珍しさに加え生の姿も
 ・・・日本を訪れた記者は「知れば知るほど不可解な国」との印象を抱いたようだ。
 週刊誌「プロセソ」は16ページの日本特集を折り込んだ。「女の子は欧米のファッションを模倣するだけ。定年を過ぎても働く人が多いから若者の昇進や雇用の機会が失われ、自殺は世界一の多さ」と書いた。・・・週刊誌「ベルティゴ」の記者は、・・・「技術大国というが、ホテルでインターネットができない。町には日本語しか表示がなくドルの換金も困難だ」とつづった。グローバル化の時代にどうした、という指摘だ。

 これらの中で、ドイツメディアの報道を紹介した部分には、注目すべきものを感じました。

ドイツ 染め髪、個人主義の表れ 
 決勝トーナメントで惜敗した日本を、ドイツ各紙は・・・好意的に紹介した。
 しかし、・・・週刊誌シュピーゲルは、髪を染める若者たちを個人主義の表れと指摘。勝利の夜、各地で興奮した若者たちが暴れた事件を日本社会の危険な兆候と紹介した。カラフルな髪の青い戦士の姿は、「集団主義で行儀が良い」というドイツ人の古くさい日本のイメージを壊したことは間違いない。


 ドイツは、日本人の精神性の変化(低下)をかなり的確に、そしてシビアに見ているようです。残念なのはそれに対する朝日新聞側の反応であり、ドイツが勝手に「古くさい」イメージを日本について抱いているだけで、それが壊されたことはむしろ喜ばしいことだ、と言わんばかりの書き方をしています。つまり、「集団主義で行儀が良い」のは古くさく、遅れた、悪いことで、髪を染めたり、勝ち試合に興奮して暴れたりすることの方が、進んだ、善いことだという意識を、朝日新聞の記者がもっているように思われるのです。そして、これはもちろん、この記事を書いた一記者の個人的な思い込みではなく、現代日本人の多くがもっている、あるいはもちたがっている考え方であると言っていいでしょう。
 同じ欄に、ロンドン大学・東洋アフリカ学院講師の、フィル・ディーンズ氏による、次のようなコメントも掲載されています。

勤勉・没個性から情熱的・多様に
 英国には、日本人についてのステレオタイプがある。過去数十年間に定着したのは、勤勉だが個性のない人々というイメージ。一方、第2次大戦での経験から、残酷な民族主義者という見方も根強い。
 それが変わった。
 新たな日本人像は若々しく情熱にあふれ、多様性に富み、個人主義的といったところか。・・・今後、欧州の人たちの頭に日本人の顔が思い浮かぶようになれば、大きなプラスだろう。
 日本をある程度知る者にも、発見は少なくなかった。多くの人々が自然に「君が代」を歌い、「日の丸」を振って代表を応援する光景は新鮮だった。好戦的なナショナリズムのイメージが付いて回る君が代、日の丸が市民のシンボルへ生まれ変わったかに見えた。



 このように、今回のW杯は、日本と日本人の現状および今後のあり方について、なにがしか、考える機会を与えた、とは言えます。しかし、その考察が的確なものであるかどうかには、注意する必要があります。先ほど、朝日新聞の論調を例にしましたように、多くの日本人が、自分たちのことを的確に捉えられておらず、したがって当然、今後のあるべき姿についても、方向性を見失っている、という問題を抱えています。
 ほとんどの日本人は、W杯を通じて自分たちが見せた反応や行動、発言、ものの考え方などを、総じて、「これでいいのだ」「これが素晴らしいのだ」「こうでなくてはいけないのだ」等々のように考えているようです。そのことを、いわゆる有識者の発言から見ていきたいと思います。
 まず、7月5日付の毎日新聞は、工藤隆(くどう・たかし)・大東文化大学教授(専攻は日本古代文学)によります、次のような見出しの投稿記事を掲載しています。

「根弱草」の愛国主義/茶髪と日の丸に見る一つの希望/W杯サッカー
 
 工藤氏は、まずW杯に対する感想を述べ、続いてそれを、日本古代文学という氏の専門分野から論じています。そして、「根弱草」という、この記事のキーワードが示されます。その部分までを、まず引用させていただきます。

 ・・・日本チームの試合をテレビ観戦していて、いろいろ感じることがあった。・・・選手のほとんどが髪を赤茶色や金色に染めていたこと。赤く染めた変形モヒカン刈りの選手もいたこと。日の丸を顔に描いたり、日の丸の小旗を振るファンが多かったこと。・・・
 金髪・モヒカン刈りには、“国辱だ”と不快感を表明する保守系国会議員がいたり、 “違和感を感じる”と書いた評者もいた。・・・
 しかし、選手たちの異装の背景には1960年代の若者のような社会的プロテスト(異議申し立て・反抗)の精神はほとんどない。これには、・・・敗戦後の日本の思想状況によってもたらされたものもあるのではないか。・・・
 敗戦から現在までの57年を日本人は、過去からのアイデンティティー部分を封印して生きてきたのである。 
 (明治〜敗戦までの「神の国観」の基礎となった)『古事記』神話は、ムラ段階的な人間生存の原型を結晶させた良き部分と、王(天皇)の神格化の装置として近代国家でのファシズム性の突出を準備した悪しき部分との複合体である。敗戦後の日本は、こういった明と暗を区別する論理を持てなかった。したがって、
神の国観に酔った時代の記憶につながる中高年者の場合は、全否定のあとに代わりのものを与えられなかった心的空洞を持っている。そういう大人たちを見ながら育った若者たちの多くが根無し草ならぬ“根弱草”(“根”への願望はあるが、深く考えることは放棄している状態)になったのにも、やむを得ない面があった。 (アンダーラインは中塚・以下の引用においても同)

 工藤氏の言う「心的空洞」を、私の「自己・他己双対理論」から補足しておきますと、次のように考えることができます。
 敗戦後、アメリカの占領政策によって、それまで日本人の精神的支柱をなしてきた、いっさいの宗教や思想が徹底的に否定されました。人間の精神は、「自己」と「他己」という、2つの「モーメント」からなっています。地球上の存在は、物質→生命(動植物)→精神(人間)という段階で進化してきましたが、それぞれの間には、断絶と飛躍があります。そして、精神としての存在である人間にいたって初めて、自己と他己の分化が起こりました。生命以下の段階にはない他己の働きを有すること、別の言い方をしますと、自己と他己という二重性を帯びた精神をもっていることが、人間の人間たるゆえんです。そして、他己を根底から支えるものが、宗教や思想や信仰心です。ですから、宗教を失った人間は、他己がだんだんと枯れ、ついには失われてしまいます。それは当然、人間性そのものを失うことであるわけです。
 工藤氏も若干ふれていますが、明治の新政府は、天皇を万世一系の現人神(あらひとがみ)とし、また、質素・勤勉などを中心的な価値とする儒教を、倫理・道徳の支えとしました。これは、一神教であるキリスト教思想のもとで、すさまじい近代化を成し遂げていた欧米列強に飲み込まれないための政策でした。「富国強兵、殖産興業」というスローガンを掲げ、軍事・経済大国として、世界に冠たる大日本帝国を建設するために、宗教を利用したわけです。ですから、そこでの「宗教」は、本来の、人間精神の他己を支えるものではなく、反対に果てしない自己の拡張や肥大をもたらそうとするものでした。
 皇国史観を徹底させるため、明治4年には廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)令が出されて、仏教の弾圧が始まり、特に、神社と直接に関係の深かった「神護寺」が、お取り潰しの直接的な対象になりました。仏教を広める機会も失われ、ただ、葬式のための仏教のみが残ることになったと言えます。千五百年ほどの長きにわたって、日本人の精神的バックボーンをなしてきた仏教が、こうして明治の始まりとともに、公式的には日本人の思想から消されていったわけです。
 明治から敗戦に至るまで、このように、国粋主義=自己化のために宗教が利用されており、公的には、他己を支えるものとしての宗教はありませんでした。このことが、悲惨な戦争と、壊滅的な被害をもたらした、実に大きな原因となったと考えられます。ただ、そうではあっても、儒教の考え方などを通じて、人々の他己を形成し、維持する社会の風潮や、学校教育などが存在していた、とは言えます。
 しかし、この後、敗戦によって、日本からは、他己をなすものがいっさい失われてしまったのです。日本人に与えられたのは、唯一、欧米直輸入の民主主義制度だけでした。民主主義の原理は、これまで何度か考察してきましたように、人々に自己肥大と他己萎縮をもたらすものです。
 戦後の日本人は、ご理解を得やすくするために自動車にたとえますと、他己という片輪を失い、残った片輪の自己だけで走らされているわけです。しかも、急激な経済発展によって、まるでターボのように急加速がつけられました。ハンドルもブレーキも、あったものではありません。その結果がとんでもない暴走になることは必定なのです。
 工藤氏の言葉に戻りまして、「心的空洞」とは、すなわち、日本人が他己を失い、自己のみで生きているということです。工藤氏は、そういう大人を見ながら育った若者たちが「根弱草」になったのは、やむを得ない面があった、と書いていますが、これも言い換えますと、他己を失った大人、親や教師などが、子育てや教育をすれば、育てられた子どもたちには、当然大人並みか、多くの場合それ以上に、自己肥大と他己萎縮が進むのです。

 さらに、工藤氏のキーワードである「根弱草」にも、説明を加えたいと思います。人間は、自分以外の他者がいなければ、存在していることはできません。人間は相対的な存在であり、互いに依存し合って存在している、ということです。これは、親や、そのまた親がいなければ人間は生まれてくることはできないという、生物学的な法則だけを意味しているのではありません。
 ヒトは、社会の中で生まれ、社会の中で育てられて初めて、人間になります。反対のことを考えますと、たとえば「オオカミに育てられた少女」の例がありますように、ヒトは人間以外の動物に育てられれば、その動物として育ってしまう、という事実があります。そして、社会の中で、一方では対立しながら、他方では支えられ援助されて生活し、最後には社会の中で死んでいきます。つまり、人間は、「社会」によって「生かされて」いるからこそ、「自分」が「生きている」ことができるのです。決して自分だけで勝手に生きているのではありません。
 これが、人間の根本的存在様式です。そして、人間は相対的である限り、現実世界の他者とコミュニケーションすることで心を通わせない限り、精神的健康を保つことはできません。人間は、社会に開かれ、社会とつながった他己をもっているから、人間なのです。
 他己が枯れてきて社会定位が困難になると、人間は大きな不安に襲われます。工藤氏のことばにすれば、「根」が危うくなってしまうのです。
 すると、人間は、何か代償を求めて、その不安を解消しようとします。他者に心を開き、社会に定位しなければ、根本的な解決にはならないのですが、他己が枯れてきますとそれができません。仕方なく、自己に不安の解消を求めることになります。
 多くの場合、人は、自己の「情動」を満足させることで、不安を解消しようとします。食欲(物欲、金銭欲などを含む)・性欲(生命延長欲、子孫繁栄欲などを含む)・優越欲という、3つの欲望を満足させたり、快苦喜怒哀楽の情緒のうち、苦・怒・哀を避け、快・喜・楽ばかりを追求したりするのです。しかし、そうやって自己ばかりを肥大させると、ますます精神のバランスが失われ、よけいに不安がつのってしまいます。大きくなった不安をどうにかするために、前にも増して自己に執着するようになってしまいます。そういう悪循環に陥ってしまったら、抜け出すのはきわめて困難です。
 このように、自己・他己双対理論から見た、すなわち人間精神のあり方に照らして見た「根弱草」とは、若者に限らず、多くの日本人が、他己を萎縮させ、反対に自己ばかりを肥大させていることです。このことによって、世界に例を見ないような、日本特有の精神的問題が、数多く引き起こされているのです。

 さて、それでは、工藤氏は、この「根弱草」について、どのようなことを考えているのでしょうか。再び引用させていただきます。

 ・・・“根弱草”とはいえそれが長く続くと量から質への転換が生じ、W杯という国際的な場で平気で“根弱草”を露出できる金髪・モヒカン刈り若者が登場した。“国辱”の異装はスポーツドリンクの心理的代替物になった。観客という“根弱草”たちも、熱狂的な阪神ファンが球団歌を歌い球団旗を振り回すような水準で君が代を歌い日の丸を振ったところに、狂的にならない愛国主義の可能性を感じる。“根”へのこだわりが強すぎれば狭小な民族主義・愛国主義となり、民族、国家間の果てしない流血を呼ぶ。“根弱草”の愛国主義は、一度 “根”に過剰依存して大失敗した日本のマイナス性が、心的空洞の57年に耐えているうちにプラス性も生み出し始めたことを示す。これは案外に、21世紀の愛国主義の国際モデルの提示になったのかも知れない。

 みなさんはこれを読まれてどのようにお感じになったでしょうか。私はたいへん驚きました。「根弱草」という概念を示したものの、工藤氏にはその本質的な意味がまったくおわかりになっていないとしか、思えないからです。
 私は、多くの日本人が、もはや「根弱草」の段階をはるかに通り越して、もはや「根無草」になってしまっていると考えています。それは、すでに書きましたように、日本人の自己肥大、他己萎縮がきわまっているということです。そのため、いちいち例はあげませんが、世界のほかの国では見られないような社会病理・社会崩壊の現象が、日本では日常茶飯事になっているのです。
 工藤氏は、「根弱草」に、量から質への転換が生じた、と述べていますが、別にそんなことが起きたわけではありません。ただ、年を経るごとに、自己肥大・他己萎縮の風潮が広まり、強まったのです。これは、前回、この「ひびきのさとだより」で検討しましたように、日本人の法意識が変化し、若い世代ほど「法を破っても、上手に生きる」ことを良しとする人々が、直線的傾斜をもって増加していることにも、端的に表れています。
 以前は、自分や、周りの人が、根弱草、いや、根無草であることに、いくばくかの悩みや迷い、反省を抱く人が、多かったかも知れません。ところが、いまや、日本人の圧倒的多数が根無草となり、「根無草でどこが悪い」と、開き直るようになったのです。まさしく、「赤信号、みんなで渡ればこわくない」を、地でいっているわけです。
 しかし、根無草のままですと、人間はどこにも定位できず、不安にさいなまれます。その不安を解消するための、手っ取り早い手段の1つが、ひいきのサッカーチームに熱狂し、そのチームが相手をやっつけるところを眺めて喜ぶことなのです。とにかく自分の情動が満足させられればいいわけですから、応援するチームがどこであろうとかまいません。そのときの気分や、周りの様子によって、今日は日本、明日はイギリス、その次はブラジル、となってもいっこうに不思議ではありませんし、かえってその方が当然です。とにかく騒いで、暴れて、うっぷんを晴らすことだけが目的だからです。そのためには、どこであろうと節操なく応援した方が、むしろ効率的で、合理的なのです。

 工藤氏は、日本を応援するサッカーファンに、「狂的にならない愛国主義の可能性を感じる」と書いていますが、「狂的にならない愛国主義」と、対置されている「狭小な民族主義・愛国主義」とは、いったいどこに線を引いて区別できるのか、明らかなわけではありません。「何となくそう思える」という、雰囲気のレベルを超えるものではないのです。
 せいぜいスタンドで君が代を歌ったり、日の丸を振ったりする程度で、しかも日本戦が終われば、次には平気でよその国を応援できるという、言うなれば無邪気なレベルの愛国主義であるなら、それほど危険ではないだろうし、その方が「21世紀の愛国主義の国際モデル」とすら言い得るのではないか、という意見です。
 つまりこれは、日本国民よ、いまよりさらに根無し草になろうではないか、そしてそのことに自信をもって、その風潮を世界に広めようではないか、という呼びかけであるわけです。日本人の自己肥大、他己萎縮にお墨付きを与え、ますます進めようとする主張であり、人々の精神のバランスが、すでに大きく崩れているいま、それをさらに重度にする危険性をもったものと言わざるを得ません。
 寄る辺ない根無し草になってしまい、そのままでは不安に耐えられないので、それならいっそのこと、その寄る辺なさ、根無し草であることそのものに、心理的に依存しようというわけです。つまり、「楽しけりゃいいじゃん、好きなんだからいいじゃん、それで何か文句ある?」という開き直りを奨励しているわけです。

 工藤氏の主張に驚いていましたら、読売新聞紙上でも、それと共通性のある記事に出会って、二重にびっくりしました。読売新聞は、毎週月曜日、1〜2面にわたって、「地球を読む」という大型コラムを掲載しています。執筆者は毎週交代し、中曽根康弘元首相、元アメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャー氏、同じくアメリカの、ノーベル経済学賞受賞者で学界の重鎮であるポール・サミュエルソン氏など、国内外の超大物がずらりと名を連ねています。
 そのうちの1人が、東亜大学学長で劇作家の、山崎正和氏です。山崎氏が担当した7月29日の「地球を読む」は、次のような見出しになっていました。

「日本的カッコよさ」/超民族性こそ身上/非伝統文化 世界へ進出/「芝居心」で応援/ひそかな攻勢/次は言葉で説明

 工藤氏の「根弱草」同様、キーワードになっている、山崎氏によって示された「日本的カッコよさ」とは何なのでしょうか。どうしても長くなってしまうのですが、できるだけ切りつめて本文を引用させていただきます。

 民族主義の克服という点で、ひょっとすると日本は歴史上初めて、世界の頂点に近づきつつあるのかもしれない。そう思わせる現象の一つは、2002年のサッカー・ワールドカップで見せた日本人の態度であった。・・・
 ・・・それを遠くから見た人は、むしろ日本民族主義の高揚を感じ取ったかもしれない。だがよく見れば、・・・国民の気分が民族主義と無縁だった・・・。ワールドカップ大会の歴史を振り返って、これはかなり珍しいことではなかっただろうか。
 この国民心理の背景として、・・・このスポーツがどんな集団主義より、個人主義の象徴として映っていた。・・・民族や国家単位の結束はいわば芝居の約束事であり、観客は承知のうえで「愛国ごっこ」を面白がって演じていたと考えられる。・・・こういうスポーツがいま日本人の心を魅了し、国民をあげて民族主義のパロディーを演じさせた、という事実の意味は大きい。
 たとえばこの初夏、雑誌「フォーリン・ポリシー」に載った挑戦的な論文は、この非民族主義的な日本の傾向に将来の希望を見ているからである。「日本の国民総クール(カッコよさ)」という表題も奇抜だが、ダグラス・マッグレイ氏のこの論文は、内容も従来の日本論の固定観念を破っている。
 筆者(マッグレイ氏)は、昨今の日本の経済的衰退と政治的混迷・・・が、この国の現状のすべてではないと強調する。ひそかに攻勢を示しているのは文化であって、ポップ音楽・・・アニメから料理に及ぶ、「日本的なカッコよさ」の息吹である。かつて政治的に無力だった冷戦期に、「日本的経営」が経済の勝利をもたらしたように、いま経済の低迷のもとで文化が気を吐いている。・・・総じて日本の文化的影響力は、いま経済大国時代をはるかに上回っていると、筆者は見るのである。 


 一息入れていただき、続いて山崎氏による結論に入ります。

 重要なことは、この新しい日本の魅力が伝統に直結せず、民族文化の特性とは無関係だという点だろう。・・・このコスモポリタニズムは独特であって、フランスの愛国主義と対蹠(たいしょ)的であるだけでなく、かねて普遍性を誇るアメリカ文化と比べても極端である。後者にはアメリカの価値観、独自の資本主義と個人主義の思想が透けて見えるが、「日本的カッコよさ」には何の主張も感じられない。そこには流動する国の矛盾した価値観を反映して、多様な魅力がただ雑然と集められている。
 ・・・この超民族性が「売らんかな」の商業主義の現れではなく、広範な日本人の身についた感性だとすれば、それはそれで立派な国民的特性であるといえるのではなかろうか。そして、それがどうやら本物であるらしいということを、今回のワールドカップ大会はみごとに証明したように見えるのである。
 ・・・今後、日本が必要とするのは自己を説明する批評的な言葉だろう。日本的特性を主張するのではなく、たんに雑然と見える「日本的カッコよさ」を解説し、それ自体が固有の価値観であることを世界に向けて説得する、論理的で普遍的な言葉が求められるのである。


 いっさいの主張のなさ、雑然と、ただ集められた「魅力」、こうしたものが「日本的カッコよさ」であり、その文化的影響力は世界に広まりつつあるというのが、ダグラス・マッグレイ氏の論文を引いて山崎氏が述べていることです。そして、それは世界に先がけた、人類史上初めての「民族主義の克服」、「超民族性」、「独特なコスモポリタニズム」であり、「それはそれで立派な国民的特性である」と、山崎氏は主張します。さらに、今後は、その「立派な国民的特性」を世界に広める「論理的で普遍的な言葉が求められる」と、言うわけです。
 工藤氏は、自身の語った「根弱草」(本当は根無草と言うべきですが)としての日本人の姿を、少しばかりためらいながら、「案外に、21世紀の愛国主義の国際モデルの提示になったのかも知れない」と、プラスの評価を与えようとしています。これが山崎氏に至りますと、「それはそれで立派な国民性といえる」と、ほぼ完全に、称賛や自慢のもとになっているのです。
 日本人がサッカーの応援で見せた姿や、日本の現代文化は伝統から遊離していることなどを、「カッコよさ」という言葉でくくるのは、どうぞご自由に、と言いたいと思いますが、なぜ日本がこのような現状に至っているのか、そのことは人間(精神としての人間)にとってどのような意味をもつのか、さらにそのことがこれまでの社会にどのような根本的影響を与えてきたのか、今後の世界にどのような影響を与えていくと考えられるのか、等々について、的確な洞察を欠いているという点では、失礼ながら山崎氏もマッグレイ氏も、書いていることがあまりにお粗末であると言わざるを得ません。

 「何の主張もない」と言いますのは、精神的なよりどころ、バックボーンを失っているということです。そこに、享楽的な文化をたくさん寄せ集め、積み上げてみたところで、そんなものの集合体は「カス」のようなものに過ぎません。人間としての生き方にまったく貢献しないどころか、かえって堕落の風潮を広めるだけという点で、「文化」の名に値しないものであると言うべきです。先ほども述べましたように、それは、自己を肥大させ、他己を萎縮させてしまった人間が、それゆえに生じる根源的不安から逃れるために、自己の情動(とくに欲望)を満足させようと、次から次に食い散らかすものだからです。
 欲望は、どれほど満たしたと思っても、次の瞬間からはもう渇きが始まっています。しかも、とりあえず満たせば満たすほど、その次からはもっと大きく、強い刺激がなければがまんできなくなります。
 以前、「こころのとも」で紹介し(平成13年〈第12巻〉9月号)、この「ひびきのさとだより」でも取り上げましたが、アメリカの「The Atlantic」という雑誌は、日本がバブル経済に浮かれていた時期の1989年、日本にどう対処すべきかを論じた記事を載せました。そこで指摘されていた日本の姿は、次のようなものです。

 「日本には原理(プリンシプル)がない」
 「日本人は、抽象的原理に対する興味を欠いている」
 「日本人にあるのは、お金の政治学(マネー・ポリティックス)である」
 「日本人は、他の世界の人々との情緒的なつながりを欠いている」
 「普遍的原理が日本では弱い」
 「世界のどんな人たちの生活も、同様に従っているような原理・原則に、日本人は従っていない」

 これらの指摘がきわめて的確であったことは、「こころのとも」でくわしく論じましたので、ご参照いただければ幸いです。この頃すでにあらわだったこのような傾向は、記事の掲載から十年以上がたったいま、ますます強まっています。その顕著な現れの1つに、今回のW杯における日本人の姿があったのです。
 「どの国のチームもわけへだてなく応援したのだから、日本人は世界中の人々と情緒的につながっているではないか」と言う人があるかもしれません。しかし、自分の優越欲を代理的に満足させるために、良さそうに思えるチームはどこだろうと手当たり次第に応援したに過ぎないのであって、つまり、お祭り騒ぎのオカズとして利用しただけのことです。その国の人々と、情緒的につながっていたようなケースは、もしあったとしても非常にまれだろうと思います。応援できるならどこでもいい、という考え方は、逆から見るなら、どこの国やチームにもほとんど関心はなく、関心があるのは「自分が」熱狂できるかどうかだけであり、意識がきわめて強く自己に向いている、ということです。

 山崎氏は、今回問題とした「日本的カッコよさ」と、フランスやアメリカの精神文化との間に、きわめて大きな隔たりがあることを述べています。それは、欧米において、いまでもキリスト教思想がとても大きな影響力をおよぼしている一方、日本にはそのような宗教や思想が、まったく欠けていることから生じる、決定的な違いです。
 欧米のキリスト教思想も、民主主義制度がますます強大になるにつれて、徐々に弱体化する傾向が見られます。かつては、強固な信仰心と、民主主義(または資本主義、個人主義、自由主義など)とのバランスがあり、そのことが、急激な社会の発展を支えてきました。今日、そのバランスは、さまざまなほころびを見せ始めています。しかし、それでもなお、信仰に基づく伝統的な規範意識や風習が、社会のすみずみに浸透していることは、日本と比べようもありません。これはつまり、神への信仰心によって、多くの人の他己が支えられており、精神が安定しているということなのです。

 W杯においてあらわになった、世界中の人々をびっくりさせた日本人の振る舞いは、極端に進んだ精神の自己化が原因です。自己と他己のバランスが(程度の差はあるにせよ)保たれている人々から見れば、自己に大きく傾いた人間(=日本人)のすることなすことが、理解を超えた、奇異なものに映るのは、当たり前と言えば当たり前のことです。みんなが、共通のルールや約束ごと、規範にのっとって行動している中で、1人だけ自分勝手で突飛なことをしていれば、目立つに決まっています。
 そういう突飛さを真似したがる人もいるわけですが、普通の社会では、そんなことは許されません。最初の方で紹介したドイツの週刊誌、シュピーゲルの記事は、そのことを指摘しているのですが、当の日本人に、そのことが理解できていません。「俺たちのカッコよさがわからないのお? 古いなあ」などと言っているのです。
 山崎氏は結論部分で、「たんに雑然と見える『日本的カッコよさ』を解説し、それ自体が固有の価値観であることを世界に向けて説得する、論理的で普遍的な言葉が求められる」
と述べています。しかしこれは、まったく論理が転倒しており、主張にも提言にもなり得ていません。
 と言いますのは、山崎氏自身、記事の中で、「日本的カッコよさ」には何の主張も感じられない、と書いています。つまり、そこには、そもそも何の論理性もないということです。また、「The Atlantic 」の言葉を借りれば、大多数の日本人は普遍的な原理をもっていません。「日本的カッコよさ」とは、その中で、まさしく根無草のようにフワフワと、雑然とただよう、刹那的ではかないものに過ぎないのです。
 付け加えますと、普遍性や、人々の間の共通性とは、精神の他己の働きに他なりません。社会に開かれ、社会とつながる他己が、普遍的な価値を成り立たせることができるのです。ですから、日本に普遍的な原理が存在していないとは、ほとんどの日本人が他己を失ったことであるわけです。
 普遍性がなく、論理性もないことこそが、「日本的カッコよさ」の特徴です。そこには、「自分が好きならばいい」「自分がおもしろければいい」「自分が得すればいい」「自分さえよければいい」という、自己追求、自己肥大の原理しかありません。それを、どれほど言葉で飾り立てようとも、決して普遍性や論理性をもたせることなど、できないのです。
 逆に言えば、日本人は他己を失ってしまったために、普遍性や論理性がなく、何の主張もない「日本的カッコよさ」しか持ち得ない、ということです。普遍性がないからいまのような状態になっているのに、言葉によってそのことに普遍性をもたせることなど、そもそもできるはずがありません。せいぜい、詭弁(きべん)を弄(ろう)し、ウソやごまかしで塗り固めるだけに終わるのは、おのずと明らかです。
 山崎氏自身、「日本的カッコよさ」を解説する論理的で普遍的な言葉など、もっておらず、したがってそのことは、記事のどこにも書かれていません。筋の通らない内容を、言いっぱなしで終わっているのでは、無責任と批判されても仕方ないのではないでしょうか。

 「日本的カッコよさ」をもてはやす風潮が世界中に広まりつつあることは、マッグレイ氏の論文からも確かなようです。それは、日本がさきがけとなっている自己肥大と他己萎縮が、世界に影響を及ぼしつつあるということです。この点では、日本こそが世界のトップランナーなのです。
 自己肥大と他己萎縮のために、多くの日本人は、よりいっそう自己への執着を強め、「人の心を感じるこころ」を麻痺させています。そのため、他者の喜びや悲しみに無関心になったり、社会における自分のあり方がわからなくなったりしています。その結果として生じているのが、児童虐待、引きこもり、援助交際などなど、世界で日本にしか見られない精神病理的な現象なのです。また、日本の子どもや若者は、世界でいちばん親や教師の言うことを聞きません。人生の目的をただ楽しく遊び暮らすことと考え、より善い自分を目指したり、社会に貢献したりする気持ちなどさらさらないという青少年の多さも、世界一です。
 「日本的カッコよさ」は、こうした人心の荒廃を広めるものでもあるのです。「日本的カッコよさ」をよしとする人々が、「超民族性」、「民族主義の克服」等々の詭弁を弄して、退廃の文化をますます輸出するようになれば、それはすなわち大量の毒を世界中にまき散らすことに等しいと言えます。つまり、日本は情報公害の汚染源だということです。現に、お隣の韓国では、近年、援助交際が社会問題化していると聞きます。あの厳格な儒教社会で知られる韓国において、そうしたことが起きるのです。これが、日本の悪影響であることは、おそらく間違いないでしょう。児童虐待や引きこもりが、外国で普通に見られるようになっていく危険性も、決して低くないと思います。
 自己肥大の毒は、強力に人々を誘惑します。その「中毒症状」がどれほどのものかは、すでに日本人が身をもって示している通りですが、一度そこにはまりこんだら、抜け出すのは容易ではありません。そしてまた、民主主義の世の中では、みんなが「いい」と言えば、それが善いことになってしまいます。絶対的な基準は失われ、ただ、多数の人々の利益と選好だけによって、あらゆることが判断されますので、いつでも偽が真に、悪が善に変わり得るのです。児童虐待も、引きこもりも、援助交際も、「みんながやってるんだから、それでいい」「そうなるのも当たり前だ」「むしろそれこそいいことなのだ」ということになります。日本はいまや、ほとんどこの状態に陥っています。それが世界に広まっていくおそれがあるということです。
 たとえばドイツのシュピーゲル誌がこうした風潮に警鐘を鳴らしたのに対し、現に朝日新聞は、まるで鼻先でせせら笑うような反応しか示していません。同様に、他己の大切さを訴えるような声が上がっても、それより「自己肥大こそが素晴らしいのだ」と主張する、山崎氏が書いたような意見の方が、いまの世の中では人気を集めてしまうのです。

 日本を先頭にして、世界中が他己を失い、自己肥大に大きく傾いていることは明らかです。これはつまり、人類の多くが、本来の人間性を喪失し、動物並み、いや、動物以下のレベルに成り下がってしまったことです。そして、日本の識者の大半は、それを批判し、正そうと努力するどころか、自分たちを正当化し、かつ流れに迎合して、誤った、危険な傾向を助長すらしているのです。情けないことと言わねばなりません。 
 この事態を克服するためには、人々の根本的な意識の変革が必要です。山崎氏は、「言葉」に頼り、「日本的カッコよさ」(それはもはや「いいかげんさ」とか「ちゃらんぽらんさ」などと言い換えるべきだと思いますが)を世界に広めれば、何かいいことがあるように述べていますが、そんな傲慢なことではかえって事態を悪化させるだけです。
 自己肥大、他己萎縮のトップランナーになってしまった日本だからこそ、しなければならないことがあるのです。それは、日本人が自分たちの本当の姿に気づき、世界最悪の社会崩壊に苦しんでいる当事者として、その現実を世界に訴え、そこから脱却する道を、身をもって示すことです。それができるためには、人間を超えた力を信じ、その力に従順に生きていこうとする信仰心を、取り戻さなければならないのです。



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