ひびきのさと便り



No.28 絶対評価と相対評価  ('02.9.3.)

 長かった学校の夏休みも終わりました。北国では、ずいぶん前に新学期を迎えたというところもあることと思います。
 この4月、学習指導要領の改訂に基づいてカリキュラムが新しくなり、いわゆる「ゆとり教育」の完全実施が始まりました。学校週五日(週休二日)制、総合学習(「総合的な学習の時間」)、授業内容と時数の削減などなど、学校が大きく変わったわけですが、この変化にともなう動揺は、いまになってもほとんど治まる気配がありません。
 今回とり上げます、従来の相対評価から絶対評価へと、教育評価の方法を変更する問題も、大きな波紋を広げています。それを検討する前段として、最近の教育をめぐるほかの動きも、少し見ておきたいと思います。
 たとえば、8月22日付の読売新聞は、日本PTA全国協議会が行ったアンケート調査について、次のような見出しで報じています。

保護者の75% 学力低下不安/教育改革でPTA協調査

 記事では、次のようなデータが紹介されています。

 五日制での子供の様子については地域行事や体験活動への参加の少なさが目立つ一方、読み書き計算など学力低下を心配する声が75%に達した。・・・五日制への評価は「始まったばかりで何とも言えない」が41%と最多で、「戸惑っている」が22%。「安心して働きに出られないなど非常に困っている」が7%で、「とてもよい」は15%。新学習指導要領による学力低下を26%が「かなり心配」、49%が「多少心配」しており、新要領の効果には疑問符がついた。

 そもそも、ゆとり教育が正式に始まる前から、世間は賛否両論で騒然となっており、文部科学省はその渦中にあって右往左往する有り様でした。この記事は最後に、協議会長である赤田英博氏がその点に触れたことを報じています。

 赤田会長は、「文科省は実施する直前から『学びのすすめ』だの宿題だの学力だのと違うことを言いだし、今は『ゆとり』という言葉さえ口にしない。私見だが、こうした軸足のぶれが保護者の不安をあおっている」と話している。

 しかし、文科省がいろいろと「違うことを言い出す」のをやめる気配はなく、ごく最近でも、教科書より進んだ「発展的な学習」の内容(この中では、たとえば新学指導要領で消えた、台形の面積の公式や3けた同士のかけ算が「復活」しています)を発表したり(8月23日付朝日新聞より)、公立の小中学校に「放課後学習相談室」の制度を導入し、教育学部の学生や非常勤講師などを雇って、放課後に個別補習をするという方針を決めたりしています(8月26日付読売新聞より)。教育行政の混乱は、そうとう極まっていると言うべきなのではないでしょうか。

 さて、本題の、相対評価に代わる絶対評価の導入に話を移したいと思います。両者がどう違うのかについては、テレビや新聞などでもしばしば報道されますので、多くの方はとうにご存じで、退屈にお感じかとも思いますが、少しばかり説明を引用させていただきます。

 新学習指導要領に合わせ、小中学校の学力評価が変わる。従来は、学級、学年などの集団内での順位を示す「相対評価」が中心だったが、個々の子が指導要領で定められた学習目標をどれだけ達成したか、という「絶対評価」が基本になる。・・・いちばん大きく変わるのは、通知表や調査書の原本である指導要録。要録の中の「評定」部分は、これまでの相対評価が絶対評価に改められる(高校はすでに変更済み)。また子どもの成長の様子を総合的にとらえるために、「総合所見」欄を新設するなど記述部分を大幅に増やす。
 相対評価は、個々の子どもの良さや学習の進み具合があまり分からず、さらに集団のレベルが全体に高い場合はいくらがんばっても報われない、などのマイナス部分が多かった。子どもの努力や伸び具合をより重く見る絶対評価では、極端な場合、5段階評価なら全員が「5」となることもあり得る。
 (「朝日キーワード2001」p243,アンダーラインは中塚)

 アンダーラインを施した部分について、若干補足をしておきたいと思います。現在、日本の公立小中学校において、学校全体でも、学年、学級の単位でも、ある特定の集団の「レベルが全体に高い場合」ということは、現実的に起きません。通ってくる子どもたちが生活している地域は、それぞれ限定されており(学区を超えて、学校を自由に選択できる制度が導入され始めてはいますが、全国的に一般化しているとは言えない状況です)、しかも、その子どもたちは学力を測る選抜を受けていませんから、学校間、集団間での差は、ほとんど存在しないと考えられるのです。
 さらに、次のようなことも言えます。普通、学力測定のためのテストと言いますのは、たとえば結果が100点満点で表示される場合でしたら、最高点が100点近くになり、最低点が0点近くになって、多くの人が50点近辺に分布するように問題が構成されます(この部分は、『教育における評価の理論』,梶田叡一著,金子書房,1975年から引用しました)。この考え方は、何もテストに限ったことではなく、日常の授業においても基本的に採用されています。つまり、テストでの点数を、学級の人数に置き換えますと、その学級のおよそ半分の子どもが理解でき、ついて来られるような授業をするときに、教師は、もっとも多くの指導内容を、効率的に教えることができるのです。「教育において効率を重視することの功罪」というようなことを言い出しますと、話がどんどん逸れてしまうので、ここでは述べませんが、これまで長い間に渡り、学校教育はこうした考え方にもとづいて行われてきましたし、そのあり方は、いまでも基本的には変わっていません。
 小学校6年生の子どもを集めて、「1+1」の計算とか、「山」や「川」の読み書きなどを教え、そのテストをすれば、理解度や正答率はほぼ100%になるでしょう。絶対評価に基づいて、「5段階評価で全員が5になる」ことを目指すには、このように教育内容のレベルを落とすのがもっとも手っ取り早いのです。
 もう少し付け足しますと、義務教育では(いまのところ)そういうことは行われていないと言えるでしょうが、大学・大学院になりますと、それが現実になってきているのです。すなわち、授業の出席はとらず、試験はせず、レポートは何を書いてもよし、いや、レポートすら書かせず、履修届を出しさえすれば、それだけでもう単位が保証されるという風潮が、決してまれではありません。その結果、できようができまいが、懸命に勉強しようがサボろうが、どの学生の成績表にも、「優」が行列を作ることになります。その大学教官は、優秀な学生を多く育てた、すばらしい先生だ、というわけです。しかし、そんな学生が、社会に大量に送り出されて、仕事をするようになったら、どうなってしまうのでしょうか。いやいや、「どうなってしまうのでしょうか」どころではなく、すでにそれが現実化しているのです。ですから、いま、新卒の学生を採用する企業側は、大学の成績を判定基準に使わなくなりつつあります。うっかり「優」の行列などを信じようものなら、入社させたあとに、大損害を被ることになりかねません。そのかわり、人事担当者が重視するようになったのは、学生の、予備校時代の成績です。浪人を経験していなくても、かつて受験生であれば、少なくとも数回は大手予備校による模擬試験などを受けているのが普通ですから(自発的に受けに行かない場合でも、高校が受けさせます)、それらの成績も使えます。そこには、成績や順位などが、きわめて厳密に現れています。熾烈な競争を勝ち残るために、企業が欲しいのは、そういう、シビアなデータなのです。
 つまり、評価のあり方は、教育の方法や内容、さらには教師の姿勢にも、非常に大きな影響を与えることがわかります。

 さて、ここで専門書も見てみますと、たとえばいま手元に、『教育評価法総説』(橋本重治著,金子書房,1959年)という、やや古い本を持ってきましたが、その中の「評価・解釈の仕方」という箇所には、次のように書かれています(ちなみに、著者の橋本氏は、当時、東京教育大学の教授であり、日本の教育評価の分野では、草分け的存在で、かつ第一人者でした)。

 評価とか解釈とかいうことは、そのものがどんな意味でも他と関係しないで、完全孤立の存在であっては成り立つものではない(実はこのことは、評価の「相対性」「絶対性」ということを考える際、とても重要な点です)解釈には他との比較が必要である。その比較の基準や対象をどこにおくかということで、次のようないくつかの評価の仕方が可能になる。

 これに続いて、この本では3つ(2つではありません)の評価方法が解説されています。

(1)相対的評価
 相対的評価とは、学級の他の生徒や、全県あるいは全国の同学年の成績を基準に、それと比べて相対的にみる評価方法である。この方法をとれば、たとえば知能その他の点から見てその個人としてはもはや成功であると解釈できる場合でも、他の生徒と比べて劣っておれば2とか1とか、あるいは可とか不可とかの評点・評語で評価されることになる。・・・
(2)個人内差異による評価
 この評価の立場は、・・・その個人または集団自体の中で、個人内差異をみることによって解釈する方法である。Aなる生徒はAとし、Bなる生徒はBとして、他人と関係なしに本人内だけで絶対的に、個性的に評価するのである。上にも述べたように、評価や解釈は何らかの他の規準や対象と比較関連させ、それに照してみることはまぬかれないのであるが、この評価の場合は、その比較対象を他の個人や集団に求めることをやめて、その個人または集団自体の属性に求めるのである。・・・この方法は、他と比較しないで、その個人や集団独自の立場で絶対的に評価するのであるから、これも一種の絶対的評価であることには相違ないが、次に述べる絶対的評価とはっきり区別するために、こちらは今日「個人内差異による評価」とか、「個人内偏差の概念での評価」とか呼ばれることが多い。・・・
(3)絶対的評価
 第三の評価の仕方に、カリキュラムの要求とか教師の要求とか、あるいは社会の要求とか文化の要求とかいわれるものを規準として、生徒または集団の成績をそれに照して評価する方法が考えられる。普通、この方法を絶対的評価と呼ぶ。・・・具体例でいえば、100点満点法で採点して、60点以上を合格とか、40点以下は不合格とか決めるのは一種のこの立場である。・・・こういう立場での絶対解釈では、たとえば、およそ80点以上とった生徒は、仮りにそれがクラスの大半を占めていたとしても、ぜんぶ成功したと解釈しても差支えないことになる。逆に60点とか50点以下の者は、いかにそれが多数であっても、みな失敗したと断定してもよいことになる。・・・


 これらを見ますと、いま現在問題になっている相対評価は、そのまま(1)に当てはまりますが、一方、絶対評価はここでの(2)と(3)の、両方に当たるようです。
 また、この本には、次のようなことも書かれています。

 現在、意識的にあるいは無意識的に行われている評価の仕方としては、以上3つがもっとも重要なものである。そして、・・・どれも独自の長所を持つが、反面また独特の弱点も持っている。簡単に、どの方法がよくてどの方法が悪いと決めつけられるものではない。ただ場合々々によって、この場合はこの方法がよく、あの場合にはあの方法がよいということはあろう。しかし、一般的には安易にその優劣は言えない。
 しかしながら、何といっても評価では信頼性とか客観性ということが重要である。そういう視点からすれば、他の欠点があるにもかかわらず、相対的評価は大きな長所をもっているといわなければならない。他の2つの方法も適宜併用することによって、その短所を補うこともできよう。


 40年ほど前、教育現場向けの専門書には以上のような内容が書かれていたことを参考にしていただきつつ、これから検討してまいりますことをお読みくださればと思います。

 さて、今回の評価方法の変更がもっとも直接的に影響するのは、高校入試です。8月19日付の読売新聞は「わかりにくい絶対評価/受験控え不安」という見出しで、保護者の声を中心にした記事を掲載しています。少し、引用させていただきます。

 絶対評価をめぐっては、(中学校が)高校側に提出する内申書を、絶対評価に切り替えるか、相対評価のままとするか、都道府県で対応が分かれている。文部科学省は、「絶対評価」が望ましいという立場だ。
 (中3の長女をもつ)柳瀬さんの住む大阪府では、高校側に提出する内申書も当面、「相対評価」のまま。通知表も「相対評価」の表記だった。柳瀬さん宅には、学校から絶対評価について報じた複数の新聞記事のコピーが配られてきただけで説明会などはない。「本当は絶対評価がいいと思う。でも学校としてどう子どもを育てるのか、保護者に説明する場が設けられなかった。本当に信頼できる評価方法なのでしょうか」と話す。

 絶対評価と相対評価の問題については、専門的な立場からの発言もさかんに報じられています。その中で、今回とり上げたいと思いますのは、8月13日付読売新聞の「論陣・論客」欄に載りました、酒井ひろし氏(「ひろし」はさんずいに幸、東京私立中高協会会長)と尾木直樹氏(教育評論家)の意見です。酒井氏は、新しく導入された絶対評価に批判的な立場、尾木氏は逆に賛成の立場から、考えを述べています。
 まず、酒井氏の意見を引用させていただきます。酒井氏は、聞き手の「協会は絶対評価の導入を批判しているが、何が問題か」という問いに対し、「絶対評価が、1つの評価方法として悪いとは言っていない」と断った上で、次のように述べています。

教師ごとのばらつき不安
 評価する教師が同じなら問題はないが、個性を持つ教師に違いがあるのは当たり前。それでは生徒の本当の力がわからないのではと心配している。・・・自分の到達度を知る絶対評価だけでは本当の力がどれくらいあるかは分からない。絶対評価のほかに教科別の相対評価を示すことも可能ではないか。・・・「関心・意欲」「思考・判断」など観点別に評価するといっても、先生によって基準が違うのでは不安が残る。・・・国は・・・慎重に導入すべきだ。十府県プラスアルファの自治体が、来春の公立高校入試の調査書で相対評価を続けるといっている。みんな納得していればこうはならない。導入の仕方に問題があった。・・・年度末・・・は当然、考え直すべきだろう。


 東京私立中高協会では、絶対評価導入への対抗措置として、高校入試の選抜に統一テストを導入する方針と伝えられています。この点については、酒井氏は次のように述べます。

 絶対評価への戸惑いが大きくて、何か基準を作るべきだという意見が多かった。・・・テストに賛成という人は、絶対評価ではどれくらい教科の力がついたかわからない、全体のなかでの力がわからないと思っている。生徒や中学校長からも実現してくれという声が来ている。現場は本当に困っている。・・・東京都の私立学校だけで実施する必要はないし、本当は都か国で取り組んでくれればいいと思っている。東京以外からも、一緒に取り組みたいというところもある。首都圏の近隣県に一緒に実施しようと持ちかけている。センター試験の中学・高校版があってしかるべきだ。

 次に、絶対評価導入に賛成の立場からの、尾木氏の意見です。まず最初に、東京私立中高協会が考えている統一テストについての、尾木氏の見解を引用させていただきます。

 公立の学校ですら混乱があるのに、私立で理解できているとは思えない。中学は子供の振り分けのために教育を行っているわけではない。そもそも15歳で高校入試を実施する国は日本と韓国くらい。高校入試なんてやめればいい。協会の本音は、少子化で経営が厳しくなるなか優秀な生徒を確保したいという焦りだろう。・・・
 子供にとっては到達のレベルが分かる到達度評価でいい。相対評価で学力が高いとされたエリートが、官僚不祥事などで人間的力、生きる力がなえていることを見せつけている。推薦入学というなら、中学の教師が「生徒会活動や掃除も熱心だ」と推したらそれで採ればいい。独自の教育理念がある私立なら、統一でなく各自でテストをやればいい。


 かなり強硬な、といいますか、もっと言えば情緒的な反発のように読み取れますが、みなさんはどのようにお感じでしょうか。
 さて、尾木氏の意見を、冒頭に戻って何カ所か引用させていただきます。 

「他者との比較」の文化一掃
 (聞き手)絶対評価導入をどう考える。
 戦後の懸案として、待ちこがれていた。相対評価は、学力でなく順位を示すものだ。かつて勤めた私立高校は絶対評価だった。「ここまで到達してほしい」という基準を作り、成績をつけると、「到達した子がいなかった」とショックを受ける。・・・でも、そんなジレンマは公立校では一度もなかった。試験が何点でも上位7%に自動的に5がつく。一覧表を作って5段階に割り振るだけだから、15分で終わる。・・・
(聞き手)絶対評価は「甘えを生む」といった批判もある。
 学力の低下を心配するのは、一流大卒の研究者や企業幹部ら。序列のなかで勝ち上がった人達は絶対評価が許せないようだ。だが、「甘え」など生まれようがない。国立教育政策研究所が絶対評価の指標を作っており、「この学年はこの科目でここまで到達したら評価はこう」という目安を細かく示している。それを参考に学校や教師が評価のものさしを工夫すればいい。ただ、1学期が終わり通知票を見せてもらったが、温度差がある。もっと評価の内訳を細かく出せばいい。英語ならいろいろな項目のうち発音が悪かったと示せば、「英会話を習おう」とか生徒側で対応ができる。
(聞き手)絶対評価の懸念は。
 教え方が下手だったとみられたくない教師が、保身のため5を多くつけることはありうる。教師同士がチェックし合うべきだ。他者と比較する学校文化がなくなれば、引きこもりや不登校も減るだろう。定着するかは、保護者が学校運営にどう参加するかだ。親と教師が共同で授業を作る「開かれた学校」になれば、バカなことが行われない風土ができる。
(アンダーラインは中塚)

 尾木氏の意見には、きわめて問題と思われる箇所がいくつか見られます。これをそれから検討していきますが、もちろん、尾木氏個人を「やっつける」ことが目的なのではなく、そうした考え方が、現在、日本に広く存在しているであろうということの問題を、みなさんにも考えていただきたいと思うのです。
 それから、尾木氏の意見を批判的に検討するといいましても、酒井氏の意見に同意して、絶対評価反対、統一テスト導入賛成の論陣を張ろうというのでもありません。教育の目的は、教育基本法第1条に掲げられていますように、「人格の完成」にあります。それは、評価方法がいわゆる相対とか絶対という次元をはるかに超越した高みにある境地なのです。その高みが何たるかを見つめようともしないまま、評価方法がどうだとかこうだとか言ってみましても、それは実のところ、きわめてナンセンスなことに過ぎません。私の言いたいことの核心はそこにありますが、直接そのことに触れるのは後の方に回したいと思います。

 まず、もっとも根本的な点を確認しておきたいと思います。そもそも「相対」とは何か、「絶対」とは何か、ということです。いまさら、と感じられる方もいらっしゃると思いますが、それぞれの言葉の意味を、辞書で見直してみます(広辞苑)。

そう‐たい【相対】
 @向きあっていること。向かいあうこと。
 A相互に関係を有すること。対立すること。
 B〔哲〕(the relative) 他に対して在るもの。他との関係において在るもの。一定の関係、一定の状況においてだけ妥当するもの   。自己同一性をもたないもの。相対者。  ⇔絶対。

ぜっ‐たい【絶対】
 @他に並ぶもののないこと。他との比較・対立を絶していること。一切他から制限・拘束されないこと。「―の地位を保つ」「―の真  理」
 A決して。断じて。どんなことがあっても必ず。「―間違いはない」「―に許さない」「―安静」
 B〔哲〕(the absolute の訳語) (→)絶対者に同じ。⇔相対。


 哲学用語としての「絶対者」も、合わせて引いておきます。

ぜったい‐しゃ【絶対者】
 〔哲〕絶対的なもの。宇宙の根底として無条件・無制約・純粋・完全で、自ら独立に存在する唯一の最高存在。形而上学的にはお    おむね神の観念と同一。無制約者。


 さて、視点をもう一度、教育における評価に戻したいと思いますが、相対評価と絶対評価との、いちばんの違いは、他人との(集団内での)比較をするかどうか、というところです。比較をするのが相対評価、しないのが絶対評価です。
 ただ、ここで大きな問題となってくるのが、絶対評価は本当に「絶対」なのか、ということです。どういうことかと申しますと、絶対評価をする際にも、当然、個々の子どもにおける達成度というものが想定されています。言い方を反対にすれば、それに照らすのが絶対評価といわれるわけです。ですから、その子の成績は、その子の達成度との相対的関係で決まります。ラインに達していれば(ラインを超えていれば)いい成績がつきますし、達していなければ悪い成績がつきます。
 実際、学校現場では、1人ひとりの子どもについての、微に入り細にわたった評価基準はないと思います。それを作るのは気が遠くなるほど煩雑な作業で、そのような時間はないと思いますし、子どもはかなりの速さで成長し、変化しますから、その状況にきちんと適応できる基準を作ろうとすれば、何日かごとに見直しをしなければならず、現実的に不可能なことです。学年段階に応じて、たとえば小学4年生の算数であれば四捨五入ができるとか、学校、学年、学級としてのおおまかな目標があって、それを実態に合うように多少アレンジして使っているのが実状です。つまり、どこまで行っても、到達基準に子どもを合わせるわけで、その逆ではありません。
 尾木氏はこの点について、評価の内訳を細かくすればよいと言います。英語ならば、発音、読解、作文、暗唱、会話・・・と、できるだけ多くの評価項目をあげれば、生徒は各自で自分の苦手とするところを重点的に勉強できる、というわけです。しかし、こうした場合でも、あくまで生徒は評価の指し示すところに従って、その結果に応じて、何をおもに勉強するかを決めることになります。つまり、自分ができているのかできていないのか、あるいはこれからどんな勉強をするべきなのか、等のことは、到達基準との相対的関係によって決まるわけです。これは、他人との比較がない、というだけであり、別に絶対的な評価なわけではありません。「絶対」とは、他からの制約を受けないことなのですから、到達目標に照らしてどうか、という判断基準が入ってきたとき、すでに評価は相対的になっているのです。
 先ほど参考にしました『教育評価法総説』にも、「評価とか解釈とかいうことは、そのものがどんな意味でも他と関係しないで、完全孤立の存在であっては成り立つものではない」とありました。しかし、本当の意味での「絶対」とは、まさに「他と関係しないで、完全孤立の存在」であることを指すわけです。厳密に言いますと、いまの教育体制のなかでは、「絶対評価」なるものは存在しないのです。それをあえて言うなら、「相対的絶対評価」とでもしなければ、表現のしようがないのではないでしょうか。

 今いわれている、いわゆる絶対評価についてもう少し考えてみますと、次のようなことも言えます。
 絶対評価を、本当に、とことんまで突き詰めるならば、学習指導要領の規定など関係なく、子ども1人ひとりに密着した到達基準に達しているかどうかが、判断を左右します。また、世間の常識や観念なども、いっさい関係なし、としなければなりません。そうしますと、たとえば、6歳で微分方程式が解ける子どもがいたとしても、一般的な考え方からすれば、それはかなり尋常ではないことだと思いますが、絶対評価で考えたときには、「その子のレベルからすれば、そんなことはできて当たり前」とも言えるわけで、特別すぐれているわけでも何でもない、ということになります。反対に、小学校レベルの分数の計算ができない大学生がいても、その学生の能力からすれば、そんな「むずかしい」ことはできないのが当たり前で、とくに学力が劣っているとは言えない、ということにもなります。できようができまいが、何であろうと子どもにとってはそれが「当たり前」で「普通」なのであり、こうなりますと、いっさいの評価がまったくナンセンス、ということになるのです。
 また、何度か触れていますように、絶対評価では、他者との比較ではないということがもっとも大きなポイントになっています。成績が、あくまでも到達基準との相対的関係によって決まるものであっても、それは1人ひとりの子どもにおけるものであり、その個別性を守っている限りは「絶対」という言葉を使ってもいい、という考え方なのだろうと思います。
 しかし、少し考えてみれば分かることですが、ここでものさしとして用いられる到達基準が、すでに相対性をまぬがれるものではありません。多少の幅はあるにせよ、小学1年生には小1なりの、中学1年生には中1なりの基準があり、それは、全国の小1、中1が示す学力の、最大公約数に近いものであるはずです。そして、それと照らし合わせて、できているかいないかを判断するのですから、それはもはや、他者との比較に他なりません。学級や学年の友だちと比べていないから、他者との比較ではない、というとしたら、それはまったくのごまかしであると言えます。この点で問題が出ないようにしようとするなら、上で書きましたように、小1で微分方程式が解けても、あるいは大学生で分数の計算ができなくても、その子にとっては当たり前、というかたちの基準にするしかありません。それは、教育評価というものが成り立たないことを意味します。
 このように、いま話題になっている絶対評価では、いったい何が「絶対」なのかが、まったく不明なままである、と言えるのです。

 絶対とは、「他との比較・対立を絶していること。一切他から制限・拘束されないこと」を意味しますが、これは、ごく普通に生きている人間にはあり得ないことです。この世に、自分自身の「生まれたい」という意志のもとに生まれてきた人は、だれ1人としていません。誰しも、本人の意思とはまったく無関係に、放り出されるように生まれてきたのです。この、生まれについての制限・拘束から逃れている人はいないという点を考えただけでも、あらゆる人は相対的存在であることがわかります。生まれることと反対の、死ぬことに関しましても、精神を病んでいる人は別としまして、おおかたの人はいつまでも生きていたい、死にたくはないと考えていることと思います。しかし、いくらそう思っても、だんだん歳をとっていくことは避けられず、だれに対しても、死は否応なしに訪れてくるのです。死という、終局的で、直接的な制限・拘束を逃れられる人は、1人もいません。この点でも、人間が相対的存在であることは明らかです。
 このように考えますと、現実世界を生きている人間にとって、「絶対」などというのは、まったく無縁のできごと、あるいは絵に描いた餅ということになってしまうかも知れません。「絶対」とは何なのか、自分自身の生き方に直接関係あることとして、真正面から向きあって考える機会など、ほとんどない、ということです。「絶対」なんて、知ろうと思わないし、別に知りたくなんかない、というのが、おおかたの人の率直な思いなのではないでしょうか。
 ですから、たとえば絶対評価といいましても、別に絶対でも何でもない考え方でありながら、単に「相対」と対(つい)になっている言葉として「絶対」を使うだけになっています。その結果、絶対評価か相対評価か、といくら言い合ってみても、ほとんど無意味な「議論のための議論」に終わっていることが多いと思うのです。
 現実の世界で、「絶対」があり得ないこと、といいますのは、それが、哲学や思想、そして宗教の世界でのことである、と言い換えてもいいと思います。このように書きますと、ここでまたもや、哲学、思想、宗教は、実際に生きることからはまったく遊離した、単なる絵空事であると誤解されてしまうおそれがあります。決してそうなのではなく、絶対というのは、たとえば物質的に目に見えるかたちでは示すことはできませんが、「心境」「精神的境地」としてあるものであり、人間はそこに近づいていくことができる、ということなのです。
 自己・他己双対理論は、その絶対の境地を、心理的メカニズムとして明らかにした、哲学的心理学理論です。人間の精神は、自分自身に閉じた「自己」と、他者(社会)に開かれた「他己」という、二重性を帯びており、自己と他己は矛盾的な関係にあります。つまり、自己が大きくなれば他己が小さくなってしまいますし、その反対も起こるということです。自己か他己のどちらかに傾きすぎてバランスを保てなくなると、精神的に不健康になってしまい、それがさらに進むと、精神病を発病してしまうことがあります。人間は、つねに(意識的に、あるいは無意識のうちにでも)自己と他己のバランスをとり、また両者がバラバラにならないように統合を繰り返しながら、日々の生活を送っていると考えられるのです。

 人間は誰しも、生まれてすぐの時には、自己と他己が未分化で統合されています。それはどういう状態なのか、赤ちゃんの様子を思い浮かべていただきたいのですが、誰に対しても完全に心を開き、無条件の、積極的な関心を向けています。相手を選り好みせず、差別もしません。自分の都合やはからいで、相手を利用したり、取り引きしたりすることもありません。おなかが空いたり、おしめが濡れて気持ち悪かったりすると、泣いて訴えることはありますが、その欲求が満たされればすぐに機嫌が直り、わがままは言わないのです。世話をされずに放っておかれてしまうと、哀れにもだんだん弱って、ついには死んでしまいます。自分の生に執着せず、誰も恨まず、死を嘆くこともなく、静かに命を終えます。これが、自己と他己が統合された境地なのです。
 人間は成長の過程で、必ず自己と他己の分化が進みますから、生後まもない赤ちゃんのような自他統合の境地は、間もなく失われてしまいます。そして多くの場合、自己ばかりが肥大して、他己が枯れてしまうことが起きます。自分に意識が集中し、自分を優先して他人をないがしろにし、自分が得をするように、自分の好きなように、したいようにと振る舞うのです。いま、世界中の人々がそうなりつつあります。その傾向はとくに先進国であらわで(途上国でも皆がそうしたがっていますが、先進国に富をしぼり取られ、したくてもできない状況にあります)、その中でも日本は最先端をいっています。このことは、折にふれて申し上げているとおりです。
 このように、いま多くの人々は、自他のバランスが自己肥大(他己萎縮)の方に傾いています。自分の親をはじめとして、人生で出会うのはほぼ例外なく同じような人々ですから、それが人間のあり方としてはごく当たり前と思い込み、疑問を抱くことはまずありません。しかし、それが当たり前と思ってしまったら、もうすでに、傲慢さに安住していることになるのです。
 人間は、「自分自身を知ることを目指して、より善く生きようとする存在」であり、かつ、「法を目指して、より善く社会的であろうとする存在」です(なお、ここでの「法」は、単に「法律」をあらわすだけにとどまらず、天下の道理や人のふみ行うべき道、さらには仏教で言われる法、超越や絶対他者も含みます)。この2つの、人間としての生きる目的(基本命題)を忘れたところには、人間らしい人生はないのです。
 この、生きる基本命題に完全に到達することを、仏教では解脱といいます。解脱の境地では、自己と他己が再び完全に統合されて、いっさいの執着が捨てられ、あらゆる人とこころを開いて接することができます。そしてこの境地を、教育基本法の言葉では、人格の完成というのです。
 人格の完成という、絶対の境地に達した人は、先ほどの広辞苑の説明にありましたように、まさしく、他に並ぶものがなく、他との比較・対立を絶していて、一切他から制限・拘束されません。ただし、これは、きわめて個人的な精神的体験(自内証)でのことであり、前にも触れたとおり、その境地を、姿かたちや言動で見せることはできないのです。ですから、この世の、解脱していない圧倒的多数の人には、ある人が解脱しているかどうか、決して判断することはできません。そこでは、「信じる」以外にないのです。それは、たいへんにむずかしいことでもあります。

 生きる基本命題に基づいて評価ということを考えますと、そこには2つの結果しかありません。すなわち、「自分自身を知ることを目指して、より善く生きようとする存在」であり、「法を目指して、より善く社会的であろうとする存在」であることを、完璧に体現できたかどうか、言い換えれば、解脱の境地、人格完成の高みに到達できたかできていないか、ということです。これは、絶対的な基準であり、決して動くことはありません。
 この他のあらゆる評価基準は、どれもすべて相対的です。学校の勉強で言うなら、1けた同士のたし算ひき算ができれば、2けた同士に進みます。それができたら次は繰り上がり、繰り下がりで、その次は筆算で、そのまた次はかけ算九九で・・・、と、目標と評価基準は、年齢や発達段階などに応じて、つねに動いていくのです。また、ノーベル賞として評価されるような研究業績でも、それから先にいくらでも発展していく余地があるわけです。
 しかし、「人格の完成」は、まさしく最終的な到達点です。本当の絶対評価といいますのは、この境地に達しているかいないかということにほかならないのです。教育基本法は、第1条に教育の目標として、この「人格の完成」を掲げています。そうであれば、人格が完成するとは何がどうなることなのか、完成した人格とはどのような状態を言うのかが、当然わかっていなければなりません。
 ここまで申し上げてきたことから明らかなように、人格の完成を論じようとすれば、哲学、思想、宗教と呼べるような視点に立つ必要があります。しかし日本は、終戦後半世紀以上にわたって、それらの、人間が生きていく上でもっとも大切なものを捨て去ってきました。ですから、教育基本法を作ったものの(制定に携わった人々には高い理想があったと思いますが)、その真の意味がほとんどの人には理解できず、その結果、教育に大混乱が生じ、今回の評価方法をめぐる問題もその中から生まれてきたと言えるのです。

 さて、いまひとつ、別の視点から尾木氏の意見を考えてみたいと思います。それは、記事の見出しにもありますように、絶対評価の導入によって、学校から「他者と比較する文化」が一掃される、そうすれば、引きこもりや不登校など、現代日本が抱えている大きな問題が解決されていく、と述べていることです。
 繰り返しになりますが、いま学校で行われている教育評価は、それが相対と呼ばれていようと絶対と呼ばれていようと、すべてが他人との比較そのものです。ただ、その比較を、身近な子ども同士で直接おこなうか、全国平均や発達段階に即した到達目標などに照らして間接的に行うか、その違いでしかありません。他人との比較を超えた絶対評価とは、人格の完成、すなわち解脱の境地に達しているか否かの評価以外にはないのです。
 尾木氏をはじめとする多くの人々が、どうしてここまで他人と比較されることにこだわり、そうされることをいやがるのでしょうか。それは、自己・他己双対理論から考えますと、大多数の現代日本人が、自己をきわめて肥大させてその中に閉じこもり、かつ、他己を萎縮させてしまっているためであると言えます。
 人間は自己に閉じ、他者に心を開けなくなると、他者のことが、自分を脅かす者、自分に敵対する者として感じられるようになってしまいます。そして、そのストレスから逃れるために、ますます強く自分に執着します。自己の情動(こころの動き)には、欲求、情緒、気分などがありますが、その中の、欲求を満たすのが、心理的ストレス解消法としてはもっとも手っ取り早いものです。
 基本的な欲求には、食欲(物欲、金銭欲などを含む)、性欲(生命の延長や、子孫の繁栄についての欲求も含む)、優越欲の3つがあります。優越欲を満たすには、自分が強い力をもって相手に勝たなければなりませんが、それが不可能だったり、欲求は高いのに、実際の行動を起こす気がなかったりした場合には、たとえばスポーツの試合でひいきの選手やチームが勝つところを見たり、パソコンのゲームの中で敵をやっつけたりして、代理的な満足を得ようとすることなどがあります。こういう傾向は、いまの子どもたちや若者の間に、かなりの勢いでひろがっていると見てよいと思います。
 欲求は、満たせば満たすほど、さらなる渇きをもたらします。優越欲の場合なら、勝つことに執着すればするほど、もっと大差をつけたい、もっとカッコよく勝ちたい、もっとコテンパンに相手を叩きのめしたい、とエスカレートします。当然、負けを認めること、勝ちを譲ることには耐えられません。勝負には、勝ちもあれば負けもあるのが当たり前なのですが、自分には勝つことしかない、というこだわりから逃れられなくなってしまうのです。こうなりますと、実際に他者と比較されることには我慢できなくなります。それでも優越欲だけは高ければ、ますます自分だけの世界に閉じこもって、その空想の中で必ず勝てるゲームに没入し、自分を慰めるくらいしかありません。引きこもりや不登校の子どもや若者の多くが、いま、こうなってしまっているのではないでしょうか。
 このように見てきますと、尾木氏が期待しています、他者との比較が一掃されることで、引きこもりや不登校などの問題が解決されるということは、まったく転倒した考え方であることが分かります。他者との比較は、現在すでにかなり失われてきています。他人が、世間が、社会がどうだろうと知ったこっちゃない、自分には関係ない、ということです。そして、その弊害があちらこちらに現れているのです。小さいうちから学校で、「人はどうだろうと関係ないんですよ」と教え込むようなことばかりするのでは、ますます自己に閉じた、社会性のない、傲慢な子どもを大量生産するだけです。必然的に、事態はますます悪化していきます。
 この点についてもう少し付け加えますと、評価をする際、他人や社会とは比較をせず、各個人の内部のみに比較の対象を求めようとする傾向が強まったのは(比較を欠いた評価や解釈が成り立たないということは、橋本氏が『教育評価法総説』で説明しているとおりです)、日本社会で個人化(自己・他己双対理論の言葉でいうなら、自己化)が急激に進んだことのあらわれです。そしてこのことは、民主主義が徹底されてきた結果でもあるわけです。「他人はどうだろうと関係ない、自分は自分、個人は個人」というのが、民主主義の基本原理です。そこでは、文化の創造者も、政治的リーダーも、あるいは卑劣な詐欺師も非道な殺人犯も、それぞれ個人としては「とうとい」のであり、そこに優劣や正邪の区別をつけることはできません。そうなりますと、他者をあざむいたり踏み台にしたりしても、その方が結果的に得になるのでしたら、そしてみんながそういうことを日常的にしているのでしたら、それを「悪いこと」として糾弾することは、だんだんできなくなってしまいます。必然的に世の中からは法がすたれていき、社会は崩壊、滅亡へと進むことになります。個々人を「絶対」的に評価することと、他者への無関心が生じることとは、きわめて近い、危険な関係にあると言えるわけです。

 いま、子どもたちに教えなければならないのは、人間は誰しも相対的な存在であって、相互に限定し合っていますが、それと同時に、支え合って生きているということ、あらゆる人が「生かされて生きている」ということです。しかしこれは、どんなに子ども向けのやさしい言葉を工夫してみても、頭でわからせようとして出来ることではありません。そんな取り組みは、むしろ百害あって一利なしです。教育する大人自身が、人間の相対性やみずからの限界を骨身にしみてわかろうと努力し、その上で、子どもとこころを通わせ合って(情動を共有して)、自然に伝わっていくものでしかありません。
 それが出来るためには、相対な人間を超えた、絶対な境地があることを信じ、そこに到達し得た人の言うことを守って、心を磨く修行に励む以外にはないのです。つまり、信仰を取り戻すことが、いまの日本にとって、根本的で緊急なことなのです。 



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